輪舞曲(ロンド)

―後編―

written by さくら様










書類に目を通しながらも、心ここにあらずといった感じで過ごす真澄の耳に聞こえてきたドアの向こうのざわめきに、真澄は暫し感慨に耽った。

いつも騒ぎの中心人物は、鬼と呼ばれる大都芸能の社長にも食って掛かるほどの怖いもの知らずの小さな少女だ。
先約があろうが何だろうが、そんなことはお構いなしに、バンッと勢いよくドアを開け、大きな瞳をさらに大きくしながらズカズカとこの部屋へ入ってくる。
元気な豆台風は、その表情をくるくると変えながら言いたいことだけを言って「失礼しましたっ!」と出て行く。
真澄にとって、唯一心安らぐ時間だった。

だが、それは遠い昔の記憶で、そんなことが今起きようはずもないことを真澄は知っている。
もしかしたら、あの時が一番幸せだったのかもしれない。
自分を縛るものは何一つなく、マヤへの愛さえ自覚してなかったあの頃が。
どうしてこんなに遠くにきてしまったのか、いつから自分とマヤとの距離がこんなに離れてしまったのか、真澄にはもう考えることもできない。

できるならば、あの幸せだった頃に戻ってすべてをやり直したい。
いや、最初の出会いから始めたい。
そうすれば、少しは器用に愛せるだろう。
そう思って、真澄は何とはなしに自嘲気味な笑みをこぼした。
時間など戻せるはずもないものを、運命を変えることなどできやしないものを、何を今更…
夢は終わり、続きなどないことも承知の上だ。
それは自分が終わらせた。
自分でマヤに告げた。
『きみがキライだ』と。

真澄は深い溜息を一つ吐いた。

バタンッ、と荒々しくドアが開かれ、その向こうから姿を現したのは黒沼だった。

「これはこれは、黒沼先生。試演も間近に迫っているというのに、今日はどうされたんですか?」

思っても見なかった来客に、真澄の眉が寄り、

――マヤに何かあったのか?

と、言い知れぬ不安が真澄の中に過ぎるが、そんなことをおくびにも出さずに対応する自分は、やはり大都の速水真澄でしかなかった。

「あんたに話がある。」

試演を間近に控え、紅天女の演出家が自分を訪れるなどありえない。
一歩間違えれば、根回しのために訪れたと受け取られても仕方がない状況だ。
もちろん、黒沼がそんなことをするはずもないことは真澄が一番よくわかっているが、そういう危険も含んでいるのは事実だ。
そしてそれを覚悟の上で、ここに来たということもわかっていた。

真澄はデスクの上のインターホンを押し、

「俺だ。次の会議を欠席する。すべて副社長に一任する旨を伝えてくれ。それから暫くはこの部屋に誰も入れるな。電話も一切取り次ぐな。」

と、部屋の向こうにいる水城へと伝えた。
そうして、黒沼をソファへ座るように促すと、自身も対面するようにソファに腰掛けた。

「これで時間は確保できました。といっても、予定の会議をキャンセルしただけなので、1時間しかありませんが。」

「十分だ。すまんな。」

勢いで来てしまったものの、相手にも都合ってものがあるのは仕方ないことで、少々バツの悪くなった黒沼は、頭を掻きながら言葉を繋いだ。

「俺は社交辞令なんか知らないんでね。単刀直入に言わせてもらおう。北島に何をした?」

「何…とは?」

黒沼の言葉に真澄はその表情を強張らせたが、それはほんの一瞬で、次の瞬間にはやはり“大都芸能の社長”の顔に戻っていた。

「ここ一ヶ月ほど、あいつの調子は良くなっていった。それまでのあいつの演技が嘘のように…な。だが、それはガラスのように脆い心と隣り合わせであったことも確かだ。」

真澄の体に緊張が走る。

「若旦那よ、あんた、北島のことをどう思ってんだ?」

「どうって…彼女は大切な紅天女候補で、それ以下でもそれ以上でもありませんよ。」

黒沼は呆れたように深い溜息を一つ吐いた。

「俺が聞いてるのは、あんたの本心だ。」

「僕の本心?」

「ああ。あんたが北島のことを気にかけてるのは知ってる。喧嘩を吹っ掛けるのも、何もかも北島のためを思ってのことだってこともな。」

「ただの喧嘩ですよ。その結果がたまたまいい方向に向かっただけのことです。」

「結果も考えず動くようなあんたじゃないだろう。俺は演出家だ。これでも人を見る目は持ってると自負してる。」

黒沼は肺の中の空気を全部逃がすように、僅かに唸りながら鼻から息を吐いた。

「まあいい。話を変えよう。あいつは恋をしている。それを引き摺ってるから阿古夜になれない。」

真澄の顔が僅かに歪んだ。

「…泣くんだよ。阿古夜の台詞を口にした途端、阿古夜の仮面が剥れてあいつはボロボロ泣き出すんだ。」

黒沼は苦虫を潰したような顔をして真澄を見た。

「稽古を休んだ次の日、真っ赤に泣き腫らした目をしたあいつは演技ができなかった。阿古夜になれない。一真に恋する阿古夜の心があいつにはわからないんだ。」

重たい沈黙が室内に立ち込める。
時計の秒針だけがやけにはっきりと真澄の耳につき、息苦しささえ感じる。
金縛りにでもあったかのように身動きが取れず、漸く発した言葉はひどく怯えていた。

「…僕に…どうしろと…?」

「わからん。」

正直なところ、どうすればいいのか、真澄にどうして欲しいのか、黒沼自身にもさっぱりわからなかった。
結婚を間近に控えた男がマヤの想いを受け入れるはずもなく、当然マヤの片恋でしかないのはわかってる。
マヤもそれをわかってるからこそ、どうにもならない恋を持て余し、もがき苦しんでいるのだと黒沼は知っている。
叶わぬ相手への恋を昇華しきれてないから、阿古夜の心がわからないのだ。
恋とは何ぞや、と口でいくら説明しても、マヤの心がそれを受け入れない。
表面上の恋に囚われ、愛されたいと望んでる“素”の北島マヤがそれを否定しているのだ。
例え表面上の恋が結ばれることはなくとも、そこに真実の恋が存在しているのは事実で、それを阿古夜の心に重ねることができればいいのだが、今のマヤは感情が勝ちすぎて自分の恋を見つめることができないでいる。
マヤが阿古夜になれるかどうかの鍵は、目の前にいる男が持っている。
黒沼はそう確信していた。

「なぁ、若旦那よ。あいつを助けてやって欲しい。」

黒沼はテーブルに両手をついて、頭を下げた。
それは、紅天女のためだけでなく、心からマヤを救って欲しいと思っている黒沼の心だった。

「何かのきっかけさえあれば、あいつは阿古夜になれる。あいつの中の阿古夜が動き出すんだ。そのきっかけを与えて欲しい。」

「…僕にそれができると…?」

「あんたしかできないんだ。」

黒沼の断定的な口調が真澄の心を揺るがす。
顔を上げた黒沼の真っ直ぐな眼が、真澄の心を透かして見ていた。

「…失敗するかもしれませんよ?もしかしたら、今以上に悪い結果を生むかもしれませんよ?それでも…?」

「なるようにしかならないと俺は思ってる。だが、俺はあんたを信じてる。北島の紅天女を見たいと誰よりも思ってるだろうあんたを。」

舞台の上は役者の世界で、演出家といえど、一度舞台に上がってしまえばどうすることもできない。
真澄がどう動くのか、マヤがどう受け止めるのか、それは黒沼にも予想がつかず試演の棄権ということも視野に入れておかねばならないかもしれない。
ただ、真澄を、マヤを信じるしかなかった。

真澄は、大きく息を吐きながらソファに深く凭れ、額に手をやり天上を仰ぎ見た。
真澄の方こそ、どうにもならない恋に苦しみ、自棄になっていく自分を持て余していた。
あの日、マヤの想いを知ったあの日、心の底からマヤを欲していたのは自分の方だ。
愛している、と、ずっとマヤだけを愛してきたと、本心を晒してマヤを手に入れることもできたが、自分を取り巻く状況がそれを許さない。
マヤを忘れるために自分の心を殺して決めた婚約とはいえ、すでに自分は違う女性を選んでしまったのだ。
真実愛し合っていたとしても、今更どうなるものでもない。
一度マヤを手に入れてしまえば二度と放すことはできず、どこまでも堕ちていくしかないのだ。
愛しているのに、何にも変えがたいほど愛しているのに、この手でマヤを幸せにすることができない。
誰よりもマヤの幸せを願っている自分が、マヤを愛憎渦巻く世界へと引きずり込んでしまう。

『きみがキライだ』

言いながら、真澄の心から血が吹き出していた。
ああでも言わなければ、真澄は自分を抑えることができなかった。
その言葉がマヤを傷つけ苦しめることになると知っていながら、マヤを守るためにはそうするしか他になかった。
あの後部屋を飛び出したマヤの姿を見て、どれほど後悔してみても、一度放たれた言葉は消えることもなく事実としてそこに存在する。
自分の心を裏切って発した言葉が、真澄を抜け出すことのできない迷宮へと誘ったというのに。

抱えきれないほどの愛に押し潰されそうな真澄がいた。

そんな真澄を見ながら、黒沼は慎重に言葉を繋いだ。

「あんた、わざと北島を突き放しただろう。」

真澄の眉が僅かにピクッと動いた。

「まぁ、これは俺の憶測だが、あんた、北島を好きなんじゃないのか?」

「な…にを…」

「あんたはもうすぐ結婚する。どんな事情があるのか俺にはわからん。だが、結婚するという現実があんたにはある。」

“結婚”というニ文字が真澄を雁字搦めに縛り付け、この世の闇へと引きずり込む。
最も愛する女性がありながら見合いをし、それも真澄にとっては仕事の一つでしかなかったはずなのに、いつからかそこに愛憎が生まれ、気がついた時には抜け出せなくなった。
真実は一つしかないのに、その真実から目を逸らし、剰えその真実を拒絶した。

「誰も傷つけず、円満に…なんて思ってるのかもしれんが、あんた自身が深い傷を負ってる。そしてあんたはすでに北島を傷つけてるんだ。あんた自身の手で…な。」

黒沼の言葉が容赦なく真澄の心を締め付ける。

「あんたの望みは何だ?本当に欲しいものは何だ?」

――俺の望み…?欲しい…もの?

「人生はな、誰のためでもない、自分のために生きるもんだと俺は思ってる。」

――俺の人生…

苦渋に満ちた表情を抱えたまま押し黙っている真澄を黒沼は黙って見ていた。
自分にできることはここまでだ。
結局は当人同士の問題で、真澄がどう動くかが最大の鍵なのだ。
後はあんた次第だ、若旦那…と心の中ですべてを真澄に託した。

よっこらしょ、と言いながら黒沼は腰を上げ、

「悪かったな、時間取らせて」

と言って社長室を後にした。

一人残された真澄は、黒沼に問われたことをもう一度自分の中で問うていた。

――俺の望みは何だ?俺の欲しいものは何だ?

そんなことは考える前から、いや考えなくても答えは一つしかない。
望みも、欲しいものも、マヤしかない。
マヤさえいれば何もいらない。
会社も、速水の名もすべて。
この手に残るのがマヤでさえあればそれでいい。
どんなに打ち消しても、マヤを求める心は止めることができず、自分を見失うほどの愛が向かっている先はマヤだった。
誰よりもマヤの幸せを願っている。
願ってる?
違うっ!願っているのではない。この手で幸せにしてやりたいのだ、マヤを!!
だが、望んでどうなる?欲してどうなる?
現実がそれを赦さないではないか。
自分一人が犠牲になればいいことで、それですべてが収まるはずだった。
結婚してしまう自分はマヤを幸せにすることはできないのだから、と、何度も自分に言い聞かせてきた。
だがそれは、逃げているだけでただの口実でしかない。
マヤを泣かせたくないと、傷つけたくないと思いながら、結局は泣かせ、傷つけてるのだ。
真実愛した女なのに。

『人生はな、誰のためでもない、自分のために生きるもんだ』

黒沼の言葉が真澄の頭の中で何度も響く。

一度しかない人生。一度きりの人生。
誰のためでもない、自分の人生。

その人生を価値あるものとして生きようとしていない今の自分。
今まで、嫌というほど後悔してきた己の人生。
これからも後悔しながら生きていくことを決めた愚かな自分。
そして、マヤへの愛を抱えたまま生きていく偽りの人生。
逃れられない現実が横たわっている。

本当に?
本当に逃れられないのか?
逃れようと、この状況を打破しようと俺はしたのか?

在るがままの現実を受け入れているだけで、自分では何もしていない。
心を押し殺して臨む結婚を不幸だと知りながら、自分から幸せを掴む努力など何もしていないではないか。
マヤの愛に苦しみ、マヤをも苦しめながら、不幸のどん底に足を踏み入れたままもがくだけで、未来を手にすることを諦めてしまってるだけではないか。
誰が作ったわけでもない、己が作り出した柵に囚われ、抜け出せない闇にその身を置いたのは紛れもない自分自身だ。

俺の望みはマヤだ。
そのためなら、すべてを捨てることもできる。
ならば、捨てればいいだけではないか。
己を賭けてマヤへの愛に生きることこそ、与えられた己の運命、歩むべき人生だ。

――マヤ。お前を愛してる。お前だけが俺のすべて…

真澄は、自分の愛を見つめ、真実の愛に生きる覚悟を決めた。












「やめ―い!!」

乾いた大きなパァーンッという音とともに響いた黒沼の怒声に、その場にいた全員の動きが一瞬にして止まり、次いでその視線が舞台上のマヤへと注がれた。

“またあの子よ”
“まったく、どうなってるんだ?”
“恋の演技ができない紅天女なんて…”
“あーあ、終わりだな”
“最近調子良かったのに、どうしちゃったの?”
“姫川亜弓に決まりだな、こりゃあ”

実しやかに囁かれる悪意をも含んだ言葉を受けながらも、マヤにはどうすることもできない。
これまで何があっても庇い続けていた桜小路でさえ、マヤに気づかれないように軽く溜息を吐く。
試演を3日後に控えた今、最終調整に入っていてもおかしくない時期であるはずなのに、マヤは阿古夜の仮面を被れないでいた。
天地を統べり、自然界を支配する神としての紅天女にはなれるが、一真を前にした途端、その仮面は脆くも剥がれ落ち、素の北島マヤへと戻ってしまう。
紅天女と阿古夜と北島マヤ…この三つのバランスを保てない。
真澄を好きな自分が阿古夜を否定する。
原因は、誰よりも自分が一番よくわかっている。
わかっているが、どうしても阿古夜になれない。
そんなことを今日一日中繰り返し、マヤの精神はギリギリのところまで追い詰められていた。

思いつめたその表情から、演技ができないとか、阿古夜になれないとかそんな生易しいものではないことは、黒沼にもわかる。
だからと言って何ができるのだろう、と、黒沼自身重たい頭を抱えざるを得ない。
恋愛談義をして説得することが必要なのではないのだが、このまま黙って見過ごすこともできない。
黒沼は大きな溜息を吐くと、

「北島、俺に付き合えや。」

と、マヤを稽古場から連れ出した。






赤い暖簾をくぐった静かな店内の中、胡坐をかいてコップに注がれた酒を一口グイッと喉の奥に流し込む黒沼と、正座し俯いたままのマヤがいた。
黒沼が何故自分を連れ出したのかマヤにもわかってはいるが、だからと言って何かを口にすることもできない。
演技のできない女優を黒沼自身持て余しているに違いないのに、何も言わない黒沼を前にして、マヤは居た堪れない気持ちで一杯だった。

俯いたままポツリポツリとマヤの口からその想いが語られた。

「きみがキライだって言われたのに、それでもあの人を好きなままのあたしがいるんです。」

“キライだ”とはっきり言われたのに、それでも真澄を好きな自分がいる。
否定の言葉を投げつけられたのに、それでも真澄を求めてしまう心が哀しい。
何故こんなに真澄を好きなのかわからない。
拒絶されてもなお好きだと思ってしまう自分はどこまでも愚かで、真澄の言葉を理解しているのに感情がついていかない。

マヤは心のどこかで望んでた。
真澄が自分を好きでいることを。
紫のバラは真澄の真実の心だと。
だが、それはただの幻想にすぎず、夢を見たがった愚かな虚像でしかない。
本当の真澄はキライだと言い、冷たい視線を容赦なく浴びせることのできる人。
離れたら近づく、近づいたら突き放す。
何がホントで、何が嘘かわからない。

「もう…どうしたらいいのかわからない…」

両手に顔を埋めその隙間から溢れる涙を見ながら、黒沼は静かに言った。

「なぁ、北島。あいつに愛されたいって思うお前の気持ちはわからないでもない。だが、あいつを好きなだけじゃだめなのか?あいつのことが好きで好きで、どうしていいのかわからないほど好きなお前がいるだけじゃだめなのか?」

マヤの肩が僅かに震えた。

「阿古夜を演るのは今のお前さんには辛いことかもしれなが、その想いは阿古夜の想いじゃないのか?」

「え?」

「阿古夜はその身を切られる…愛してる男にな。梅の木の化身である阿古夜は、木を切られればその命を落とすんだ。それでも、愛する男のために自分の命すら捧げる覚悟ができてるんだ。」

黒沼はコップに残っていた酒を一気に煽ると、マヤに向かって言い放った。

「北島。お前にその覚悟があるのか?あいつのためにその命を捧げることができるのか?あいつがお前を受け入れなかったとしても、その想いを貫く覚悟はあるのか?それともそんな覚悟もないくらい薄っぺらな想いなのか?」

「そ、そんなことないっ。あたしはっ!」

「北島、自分の恋を見つめろ。自分の心を見つめてみろ。お前の望みは何だ?」

――あたしの…望み…?

マヤの望みは、真澄だ。
真澄に愛されたいと、心が、魂が望んでる。
それ以上でもそれ以下でもない。
何も考えることができないくらい、真澄を欲している自分がいるのをマヤはどうすることもできない。
頭では理解している、真澄が結婚してしまうということを。
自分ではなく、真澄に相応しい美しい女性を選んだという事実を。
だが、マヤの心がそれを否定する。
何故自分ではないのか…と。
何故愛したのに、愛されないのかと。
愛したのに…愛したのに…?

マヤの心の隅の方で何かがチクリと痛み出す。
それはだんだんと深いところまで届き、やがて全身が痺れるほどの痛みを生み出した。

――愛したから愛されたい…?愛した見返りが欲しいの?

『あいつを好きなだけじゃだめなのか?』

黒沼の言葉が心に沁み込み、ゆっくりと全身に広がっていく。
それがやがて出口の見えない暗闇に一筋の光を灯した。

――ああ…

マヤの中で何かが息づく。
真澄への愛をはっきりと自覚したあの嵐の夜、望みはただ真実を告げられることだった。
“俺が紫のバラの人だ”と。
そうすれば迷うことなく真澄の胸に飛び込んでいけると思っていた。
それだけでよかったはずだった。
それがいつの間にか紅天女の、阿古夜の恋に自分の恋を重ね始め、気がついた時には自分の魂の片割れを探し求めた。
真澄を求めてた。

真澄を愛する心だけがあればいいのに、女として愛されることを望んだ。
求めるだけで、自分は何もしていない。
真澄を愛しているのに、真澄しか愛せないのに、その真澄に自分は何も与えていない。
いつも与えてもらうばかりで、支えてもらうばかりで、自分から真澄に何かを与えることも、真澄のために何かをすることもしていない。
我儘で幼稚な愛を押し付けるだけで、真澄を理解しようとはしていなかった。
“舞台の上のきみを見るのが好きだ”と言った真澄の言葉を何故忘れていたのか。
あの言葉こそ、真澄の真実なのに。

自分には舞台がある。
そして、舞台の上で光輝くことこそ、夢に向かって歩く背中を後押ししてくれていた真澄への、無限の力を与えてくれていた真澄への自分ができるたった一つのこと。
紅天女になることが、自分の、そして真澄の夢。
一人の女として愛されることはなくても、女優としての自分が真澄にとっての最高の存在(ひと)であればそれでいい。

マヤはもうすでに乾いてしまった涙を拭いながら、真っ直ぐな瞳を黒沼に向けた。
そしてその瞳から迷いの色は消えていた。













控室で着々と準備が進められていく中、マヤは静かな時を過ごしていた。
舞台化粧を施され、鬘を被り、真澄から贈られた打掛に袖を通す。
鏡に映る姿は、正しく天女のそれある。
試演を目前に控え、あと30分もすれば、舞台袖へ向かわなければならないというこの時でさえ、不安がないわけではなかった。

真澄を愛する心だけがあればいいと気づいて、阿古夜の心もわかった。
だが、マヤの中で何かが燻り続けていた。
真澄を求めてはいない、それは本当だ。
心も凪いでいる。
でも、阿古夜が今になってもまだ顔を出してはくれない。
阿古夜の存在を確かに感じているのに、マヤの中の奥深くに眠ったままで起きだしてはくれない。
何かが足りないのに、何が足りないのかマヤにもわからなかった。

マヤはもう一度鏡に映る自分の姿を見ながら、心を紅天女に同化させようと静かに目を閉じた。

トントン

ドアを叩く控えめな音がマヤの耳に届いた。

「はい。」

その返事とほぼ同じくらいのタイミングでゆっくりとドアが開かれ、ドアの向こうから一人の長身の男が入ってきた。
瞬時にマヤの顔が強張る。
一番会いたくて、一番会いたくない人。
一番好きで、一番嫌いな人がマヤの前にその姿を見せた。

「な…何しに…来たんですか?」

「何しにとは、随分なご挨拶だな。」

「あ…あたしに用はないはずでしょう?」

真澄は片方の眉を寄せ、苦虫を潰したような顔をしてクスリと笑いながら、用があるから来たに決まってるだろう?とマヤに言った。

「キライな女の顔を見に来るほど、暇じゃないでしょう。あ…あたしを動揺させようと思って来たの?動揺して舞台が失敗することを望んでる?その方が、亜弓さんが上演権を手に入れた方が大都には都合がいいんでしたもんね。」

こんなことが言いたい訳ではないのに、口から出てくる言葉は真澄を詰り、それは止まることを知らない。
真澄の顔を見て動揺したのは事実で、そんなことを真澄に知られたくなくて、真澄を責めながらも好きだという想いが溢れてくるほど真澄のことが好きな自分がいる。
そして、好きだという想いを隠すために悪態を吐く自分がいる。

「でもおあいにく様。あたしは動揺なんかしない。速水さんの思い通りにはさせない。ちゃんと紅天女を演じてみせる。キライと言ったあなたを見返してやるんだから!」

どこまでも天邪鬼な自分に嫌気が差しながらも、次から次へと出てくる言葉は確実に真澄を非難していた。
そうでもしないと自分を保っていることができないマヤだった。

「あたしはもうあなたに愛されたいとは思わない。あなたが誰を好きでも、誰と結婚しようとそんなの関係ない。」

――それでもあたしはあなたが好き…あなたを愛する心があればそれでいい……

それを告げることもなく、マヤは言葉を飲み込んだ。

マヤの言葉に真澄は心臓を抉られるほどの痛みを覚えた。
愛する女を傷つけた代償はあまりにも大きく、拒絶の言葉を浴びせた自分が、今、マヤから拒絶の言葉を投げつけられている。
マヤの必死な愛を否定したのは自分の方なのに、マヤが真澄を否定する。
それでも真澄は後戻りはしない。
マヤを愛していくことを己の人生と決めた。
何も怖くない。
たとえ、マヤがすでに自分を切り捨てていたとしても。

真澄はゆっくりと、しかし確実にマヤへとその足を運んだ。

「ち…近づかないで…」

真澄の歩みと共に後ずさりするマヤ。

「こ…ない…で…」

マヤの心からの懇願。

「お願い…あ…あたしを苦しめないで…」

二人の距離がもうほとんどないに等しいところまで近づいた真澄は、その長い両手をマヤへと伸ばし、マヤを包んだ。

いきなり抱きしめられたマヤは、今自分の身に何が起こってるのかわからないほど動揺した。
だがそれはほんの一瞬で、真澄の腕の中に自分が閉じ込められていることに気づくと、沸々と怒りと哀しみが湧いてきた。
どうしてこの男は自分を放っておいてはくれず、どうしてこの男は自分を惑わすのだろう。
そしてどうして自分はこの男に翻弄されるのだろう。
真澄の温もりが、真澄のやさしさがじわじわとマヤの中に入り込み、漸く凪いだ心に荒波が押し寄せる。
眠っていた真澄への恋情が暴れ出し、息もできないほどの切なさがマヤの中を満たす。

「あ…あたしに構わないで…キライならやさしくしないでっ。こんなやさしさ欲しくないっ!!」

腕の中で暴れるマヤを無視したまま、真澄はマヤの背に回した腕に力を込めてマヤの顔を自分の胸に埋めるように抱きしめた。

トクン、トクンという規則正しい音だけがマヤの耳に聞こえてきた。
何も考えることができなくなるほどのやさしい音が。

腕の中で静かになったマヤに、真澄は言葉を紡いだ。

「聞こえるか?俺の鼓動が。」

マヤは返事をすることもできず、黙ったまま真澄の音を感じていた。

「俺の魂をきみに預けよう。」

マヤの体が僅かに震えた。

「忘れるな。俺の魂はきみとともにあり、きみとともに生きている。」

力強い、だがやさしい真澄の鼓動がマヤの中へ広がり、やがてマヤのそれと重なり一つになった。
真澄の言葉が沁み込み、感情は昂ぶっているのに心が凪いでいく。

「きみの紅天女を見ている。」

魂の片割れとか、そんなことはわからない。
だが、マヤの魂は真澄の魂を求め、真澄の魂がマヤの魂に寄り添っているのがわかる。
二つの魂が一つになった瞬間、マヤの中の紅天女が目覚め、息づいた。













試演を終えた後、マヤは真澄の姿を必死に探したが、見つけることができなかった。
大都芸能を訪ねることも考えたが、それは何だか違うような気がして、結局自分から行動を起こすことができないでいた。
後継者発表の席で会えると高を括っていたのに、その場にいるべきはずの人は最後まで姿を現さなかった。
聖に連絡を取ることも厭わないと思っていた矢先、水城から契約の話があり、意を決して真澄の待つ社長室に足を踏み入れれば、そこにはいつもいるはずの真澄の姿はなく、代わりに真澄よりもっと年上の、見たこともない男性が、ずっと以前からいたかのような顔をしてマヤを受け入れた。
疑問と不安が頓挫する中でマヤは言葉を見失い、マヤの感情は行き場のないまま形式的な契約だけが黙々と進められた。
契約に際していろんな条件を提示され、そのすべてがマヤにとっては破格の待遇で、北島マヤという女優を大切に扱ってくれいてることはわかるが、何故真澄ではなくこの男なのかがマヤにはわからない。
すでに印字された、“大都芸能代表取締役社長”と書かれたその横に、何の抵抗もないまま自分の名前を書き込み捺印を押す男の姿を、マヤはどこか遠いところで見ていた。
思わず声を上げそうになったマヤは、慌てて口に手を押さえてその声を飲み込んだ。
もちろん、それを、社長と名乗る男の後ろに控えていた水城が見逃すはずもなく、契約が終了した後呼び止められ、1階のラウンジに連れて行かれた。

その中で知らされた真澄のアメリカ転勤。
詳しいことは言えない、と言いながら、試演の3日後に副社長であった今の社長に引継ぎをし、紅天女の後継者発表の日には機上の人となったと教えてくれた。
そして、カリフォルニアにある大都運輸のロス支社にその身を置いているということも教えてくれた。

マヤは虚無感に襲われた。
試演の直前、真澄はその魂を預けると言った。
真澄の魂はマヤとともにあり、マヤとともに生きていると言った。
その真澄が何も言わず、そしてマヤに何も言わせないままアメリカへと旅立った。

離れると近づく、近づいたら突き放し、手を伸ばすと振り払われる、残酷なまでに。

心の平穏が保てない。
何も求めず、ただ真澄の幸せを願い、真澄への愛だけがあればいいと何度も自分に言い聞かせてきたのに、それを簡単に崩し、乱し、再び出口の見えない迷路へと誘っていく。
そしてそれをした人は、自分の前から忽然と姿を消した。
真澄の言った言葉の意味がわからない、魂を預けると言った真澄の真意がわからない。
考えてもわかるはずがないのに、それでも心が必死に答えを探している。
そうして、また真澄に囚われたまま身動きができなくなった。

その数か月後、あらゆるメディアが真澄の婚約破棄を報じた。






あれから2年。
今年の2月に行われた紅天女の定期公演も何とか演り終えた。
『年々凄みを増し、進化し続ける紅天女』などと騒がれているが、当のマヤ本人は、その精神を削っての舞台だった。
真澄の言葉通り、舞台の上で紅天女になった時、そこに真澄の魂が寄り添っているのを感じる。
会場内を隈なく探してもその姿を見つけることはできないのに、何故か真澄に包まれている安堵感がマヤの中に生まれた。
舞台が進み、すべてが一体となった時、その中に在るのは真澄だった。
静まり返った静寂の中で聞こえるのは、規則正しい、そしてやさしい音を持った真澄の鼓動だけだった。
舞台の上では確かに真澄を感じることができるのに、舞台を終えた途端、それを感じることはできず、消えてしまった魂はどこを探しても見つけることが、感じることができない。
舞台の上でこの上ない至福の時を過ごしながら、現実は何一つ変わらず、ポツンと取り残される心。
それが繰り返される日々の中で、マヤの心が悲鳴を上げ、精神はボロボロになっていった。

真澄の、“俺の魂はきみとともにあり、きみとともに生きている”と言った言葉がマヤを縛る。
預けられた魂がマヤに重く圧し掛かる。
忘れたいのに忘れられない。
そして預けた真澄は何一つ告げることのないまま、マヤの魂を持ち去った。
確かな約束などどこにも存在はしていないのに、真澄が来ることを待っている自分がいる。
2年という月日が流れ、真澄が自分の元へ来ることなどないと、それはやはりただの思い込みでしかないのだと、真澄を好きな自分が見てる勝手な夢だと思っていても、心が真澄を待つことを止めない。
心が真澄を待つことを諦めてはくれない。
真澄はすでに魂を預けたことなど忘れているかもしれないのに。
自分のことなど、わすれているかもしれないのに。

どこまでも澄み切った青い空の下、マヤは天を仰ぐようにゴロンと寝そべった。
空へと真っ直ぐに聳える白亜の建物に手を伸ばしながら、しかし手の届くことのない荘厳な姿を黙って見上げていた。
行き交う人々の、英語のような、あるいは英語とは全く違う響きを耳にしながら、静かに目を閉じた。

「…フフフ…ばかみたい…」

顔を隠すように腕を額に乗せ、自嘲気味な笑いが自然と漏れた。
そして自身を嘲笑う言葉とともに閉じられた瞳から一筋の涙が零れた。






どれくらいそうしていたのだろう、そよそよと吹く風がマヤの頬をやさしく撫でていく。
何時頃かな、そろそろ帰らなくちゃ、と思い始めたマヤの耳に、聞き慣れた言葉が飛び込んできた。

――日本語?

この見知らぬ土地で、自分にもわかる言葉が存在していることがマヤの心を温め、意識を自然とそちらへ向けた。
そこには観光客らしいカップルが、仲睦まじく寄り添いながら笑い合っていた。

“桜、綺麗だったね”
“酒が飲めないのが痛いな”
“もう!”
“でも驚いたなぁ、こんなところで社長に会うなんて…”
“ふふ、ビビってんの!”
“当たり前だろ。大都の鬼社長だぜ?ロスにいるんじゃなかったのかよ…”

――え?

マヤの中がざわめきだす。
心臓がすぐそこにあるのではないかと思うほど、大きく激しく鳴り出した。

――大都の鬼社長…ロス…

聞こえてきた言葉を反復した途端、その言葉はマヤの中を熱く駆け巡った。
聞き間違いかもしれない。
真澄を想う心が聞かせた幻聴かもしれない。
大都の今の社長が出張か何かで来ていて、その言葉が真澄を指しているのではないのかもしれない。
真澄であるはずがない。
こんなところにいるはずがない。
もしそれが本当に真澄なら、何故会いに来てくれないのか。
紅天女のアメリカ公演のことは、ロスにいる真澄にも伝わっているはずなのに、それなのに姿を見せないのは、やはりもう自分のことなど忘れ去られているのかもしれない。
紅天女が大都のものになった今、その女優などすでに興味も消え失せたのかもしれない。
会わないのは会いたくないからで、それは会う理由などないからで、会う必要もないから会わないのかもしれない。
“北島マヤ”という存在は、真澄にとってすでに過去の産物でしかないのかもしれない。

追いかければ逃げる。
近づけばまた突き放される。
繰り返される過去と進まない現実。
でも…

どんどん大きく強く脈打つ鼓動と、真澄を求め続けて彷徨っていた心がマヤを駆り立てた。

「あ、あのっ!!」

頭ではなく、体ではなく、心がマヤを動かした。






白亜の建物を背に南へ下り、タイダル・ベイスンへと走る。
逸る心を赤信号が足止めし、いてもたってもいられないほどの焦りと苛立ちが生じる。
真澄に会ったのはもう2時間も前のことだと言っていた。
ワシントンには商談で来ただけで、飛行機の搭乗時間までの暇つぶしだと言っていた。
会いないかもしれない。
会える確立などほとんどないに等しいこの状況で、それでもマヤを走らせるものは、真澄への想いだけだった。

青々とした緑の木々の向こうに見える桜色。
キラキラと光る水面に映る青い空。
咲き誇る桜並木を歩く人々の合間を縫うように走り、白亜の殿堂へと向かう。

アテネのパルテノン神殿を思わせるようなジェファーソン記念館の前で真澄に会ったと言われた。
『生命・自由の尊重、幸福の追求』と刻まれた壁面を飽くことなく見つめていたと言っていた。
マヤは行き交う人々の顔を確認しながら真澄を探した。

ジェファーソン記念館の前の、チェリーフェスティバルのために設けられた特設ステージで繰り広げられるライブを観る人々。
階段に腰掛け、一緒に歌う人、リズムを取る人、踊り出す人、違う肌を持ち異なる言葉が飛び交う中で、それでもそこに真澄の姿を見つけることができない。
大理石の階段を駆け上り、狭い館内を隈なく見渡してみても、探し求めている人はいない。

マヤは再び階段を降りると、今来た方向とは逆の、池の西側へと向かった。
満開の桜を愛でながらゆったりとした時間を過ごす人々の間を切り裂くように、しかし注意しながら通り過ぎていく。
似たような背中を見つける度にドキドキと心臓が高鳴り、次の瞬間には焦燥感に駆られた。

いるはずがない。
あれから何時間も過ぎているはずで、もうすでに飛行機でこの地を離れてしまっているかもしれない。
それでもマヤは真澄を探すことを諦められないでいた。
振り払われても、突き放されても、待っている未来が拒絶だとしても、真澄を探さないではいられない。
今諦めたら永遠に真澄と会えないような気がする。
今度こそ本当に真澄を失ってしまうかもしれない気がする。
急く心を抱えながら、マヤは真澄の姿を求めた。






膝を抱え、その膝小僧に額を付けながら蹲るようにひんやりとした大理石の階段に力なく腰掛けながら、マヤは目の前で繰り広げられているライブに耳を傾けていた。

上野の不忍池の4倍はあろうかというほどの大きな池を一周し、またこの白亜の殿堂に戻ってきた。
必死になって追い求めた人の姿を見つけることもできず、春の陽射しが燦燦と降り注ぐ中で、マヤは涙の雨を降らせていた。

会えない人。
会ってはいけない人。
会うことのできない人。

日本を離れたこんな遠い地に来てまですれ違う心。
重ならない想い。
繋がらない時間。

涙に暮れるマヤの耳に聞き覚えのある、ずっと昔に聞いたことがある歌が流れ込んだ。
誰が歌っていたのか、その歌手さえも思い出せないほどの古い記憶だが、母が好きだった歌。
あの時、母は『“上を向いて歩く”のは“涙”がこぼれないようにするからだよ』と教えてくれた。

――母さん…

マヤの瞳からまた一つ涙が零れた。

歩いていかなくちゃならない。
女優として生きていくと決めた自分は、この足で歩いていかなければならない。
この先の未来に真澄と重なり合う人生がなかったとしても、自分は真澄にとって最高の女優として在り続けたい。
“北島マヤ”を忘れ去られても、“女優の北島マヤ”を忘れられないように。

マヤは澄み渡った空を仰ぎ、上を向いて歩き出した。

青い空を隠してしまうほどの桜の花たちがマヤをやさしく包む。
異国の地にあってもその美しい姿で人々を魅了する桜の花々。
風に揺れ、緩やかな時間の流れのなかで舞い踊る桜色の花びら。

ふと鼻を掠める淡い香りに心奪われた時、行き交う人とドンッと軽く肩がぶつかり、「スッ、スミマセンっ」と慌てて頭を下げた。
上見てたら歩けないじゃない、と恥ずかしさを誤魔化すように自分に言ってみる。
池に落ちたら大変だよね、などと自分に言いながら、マヤがその視線を正面に戻した瞬間、時が止まった。

過ぎ去る人々の奥に見つけた幻。
探し続けた幻影。

心臓が止まるほどの衝撃にマヤは立ち止まり、呆然と立ち尽く。
2年前と変わらない、余裕を持った表情を携え、微笑をその中に浮かばせて真っ直ぐに近づく視線。
金縛りにあったかのように動けないマヤへと、その距離を縮める人。

桜が見せた幻想かもしれない。
惑う心の夢かもしれない。
夢の続きは哀しみへの入口かもしれない。

それでも目の前で微笑む真澄がいるという現実が確かにあった。

あれほど会いたいと願い、涙に濡れ眠れぬ夜を幾日も過ごし、心から求めていた人を前にしたマヤが発した言葉は、

「な…何が可笑しいんですか!?」

だった。

真澄は苦笑しながら、

「会った早々の挨拶がそれか?」

と淡々と言う。

「ボーっと桜なんか見てるからぶつかるんだ。」

「ボっ、ボーっとなんかしてないっ!!」

クスクスと笑う真澄の顔からやさしさが溢れている。

「元気だったか?」

低い張りのあるバリトンの声がマヤに絡みつく。
やさしい響きでもってマヤを包む。

会いたかった人。
会いたくて、会いたくて、ずっと探し続けた人がマヤの目の前に立っている。
言いたいことがあるのに、たくさんあるのに言葉が繋げない。
嬉しくて、幸せで、切なくて、悔しくて、いろんな感情が綯い交ぜになって、マヤは押し潰されそうなほどの眩暈を覚えた。
そしてそれは堰を切ったように流れ出した。

「あ…あんな言葉を…あんな…一方的な言葉を残して…あ…あたしが今までどんな思いでいたかも知らないで…か…勝手に魂なんか預けちゃって…魂なくなったら死んじゃうじゃないっ!」

静かに目を閉じ、穏やかな微笑を携えたまま「そうだな」と真澄が答える。

「あ…預かったあたしは身動きできなくて…は…速水さんの言葉に縛られたままで…どこにも行き場がなくて、苦しんで…。こ…恋人だってできなかったんだから!」

「それは残念だったな。」

「黙っていなくなって…アメリカなんて遠くに行っちゃって…2…2年も知らん振りで…」

「すまない。」

「速水さんこそ、あたしの魂持って行っちゃったままじゃないっ!!」

「じゃあ、きみの魂を返さないとな。」

「か、返さないでよっ!!」

「困ったな。魂がないと死んでしまうんだろ?」

「そ、それは言葉のアヤってもんで…もう、どうして人の言葉尻を取るの!?」

クスッと笑いながら、真澄はその大きな手でマヤの両の頬を包んだ。
愛しさを滲ませて。

「『死ねば、恋が終わるとは思わぬ』…一真の言葉だな。俺は生きているがマヤと離れたこの2年間、心は死んだも同然だった。」

「え?」

「どんなに離れていてもきみを求め、きみの声が聞きたくて、きみの顔が見たくて、きみに触れたくて、きみを乞うる心は日毎に強くなっていった。」

「なら、どうしてっ!!」

「きみに相応しい男になりたかった。虹の中を歩いていくきみを支え、守るだけの力が欲しかった。」

「あたしは守られたいわけじゃないっ!」

「マヤ…。」

「あたしは速水さん自身を好きになったの。名前とか肩書きとかそんなの関係ないっ。相応しいって何?何が基準なの?誰が決めるの?あたしには速水さんしかいないの。それじゃだめなのっ!?」

そう、それだけでいいんだ。
そのことに気がつくまで、何と長く無駄な日々を過ごしてきたのだろう。
すべてを捨ててマヤを愛する覚悟はとうの昔にできていたはずなのに、愛を伝えることに怯えた。

「捨てて…名前も過去も…あ…あたしだけのものになって…」

「いいのか?マヤ…。きみを傷つけ、苦しませてきたこんな俺でも。」

「速水さんがいいの。」

マヤはコクンと頷くと、細く華奢な体を真澄に預けた。

「あなたはもうひとりのあたし…あたしはもうひとりのあなた…」

漆黒の瞳が琥珀色の瞳を捉える。
漆黒の瞳が琥珀色の瞳に囚われる。
そこにあるのは揺るぐことのない真実の愛。

「マヤ。おまえを愛するこの身だけが俺の真実だ。」






どちらともなく重ねられた唇から愛が流れ込む。
長く苦しかった恋が終わりを告げ、新たな恋が動き出す。
はらはらと舞い散る花びらの中で……







Fin







前編へ……








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