輪舞曲(ロンド)

―前編―

written by さくら様












爽やかな春の風を全身に受け、マヤは息を弾ませながら緑豊かな公園地帯をジョギングしていた。
朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、青々と茂った木々と壮麗な外観の建物、澄み渡った青空を見ながら、白亜の建物に向かって走る。
老若男女を問わず、また肌の色も関係なく、自分と同じようにジョギングしている人やウォーキングする人、犬を散歩させている人、芝生の上でゆっくりと寛いでいる人など、それぞれが思い思いに今を過ごしている。
いつものマヤのジョギングコースとは景色も雰囲気も全く違うが、異邦人であるマヤをも温かく迎え入れてくれていた。

荘厳なイタリアン・ルネッサンスの建築様式をしたホテルに似つかわしくないジョギング姿のマヤにも、ホテルのスタッフは笑顔で「Good morning」と声を掛けてくれる。
マヤにしてみれば、知っている単語であっても英語というだけで全身に緊張が走り、戸惑いながら「おはようございます」と日本語で返すのが精一杯だった。
玄関前のロータリーに植えられた色取り取りの花々が春を知らせ、右手には桜の花が咲き綻んでいる。
ラフィエット公園を抜け、ホワイトハウスを左手に見ながら南側にあるエスプリ広場をぐるりと半周して、緑におおわれたモールのほぼ中央に位置するワシントン記念塔へ向かう。
少し高台になった場所で空に向かって力強く聳え立つ白亜のオベリスクは、青空に映え、雄大さを醸し出していた。
東に国会議事堂を、西にリンカーン記念館を眺めることができ、北には今通り過ぎてきたホワイトハウスを正面に見ることが出来る。
端正な容貌をしたワシントン記念塔を仰ぎ見ながら、この地がアメリカの首都であることを強く感じると同時に、この地のどこかにいるであろう真澄へと想いを馳せるマヤだった。

マヤは紅天女の海外公演のため、ここアメリカ・ワシントンDCを訪れていた。
日米首脳会談のためアメリカ大統領が訪日した昨年の梅の季節、それはちょうど紅天女の定期公演が行われていた時期だった。
紅天女を観劇した首相が興奮しながら熱く芝居を語ったのに大変興味を持った大統領だったが、スケジュール的に観劇することは叶わず、アメリカでの公演を希望して帰路についた。
その後、日米の両政府から正式な海外公演の打診があり、もともと海外での公演を視野に入れ始めていた大都芸能社は今回の申し出を快く受け入れ、アメリカでの公演時期の検討をしていた。
毎年梅の季節に行われる定期公演は外すことはできず、また紅天女の性質上、夏や秋に行うことは黒沼が頑として譲らなかった。
当初はブロードウェイでの公演を考えていたが、アメリカ公演を熱望した大統領のスケジュールに合わせ、ワシントンDCエンターテイメントの殿堂といわれるケネディ芸術センターのオペラ・ハウスでの公演が決まった。
ワシントンDCは、日本から贈られた3200本もの桜が春を彩り、3月末から桜祭りが行われることもあって、4月上旬の公演に向けて全てが調整されていった。

アメリカ公演は3日間。
時差による体調調整を考慮し、公演の1週間前にワシントン入りしたマヤは、時差ボケに悩まされることもなく過ごしていたが、ここに来て4日目だというのに豪華すぎる室内に未だ慣れることができないでいた。
ホワイトハウスから1ブロック、ラフィエット公園に面した由緒あるホテルのペントハウスは、庶民派のマヤにとってこれまで生きてきた世界とは全く違う異空間だ。
マヤが滞在しているペントハウスとまではいかないにしても、やはりスウィートルームを用意された黒沼は、眠れないといって疲れた顔を見せ、それとは対照的に、こんな部屋滅多に泊まれないよね、と御上りさん気分で上機嫌な桜小路がいる。
マヤはそんな二人を見て、自分と同じだと安心するとともに、こんな部屋でも臆することなく、まるで自分の家にいるように寛いで過ごせるであろうかの人を想った。

24時間のメイドサービスが受けられると言われても、英語の話せないマヤにとってそれは必要のないサービスであって、いや、必要がないわけではなかったが、マヤにしてみれば英語云々以前に何をお願いすればいいのかさえわからなかったし、サービスの受け方すら戸惑うばかりだ。
真澄ならば…そう思わずにはいられない。
人を使うことに慣れている真澄なら、メイドのサービスも当たり前のように悠然と受け、たとえ室内にメイドがいても全く動じることなく自分のペースを保つことができるだろう。
短期間とはいえ自分の住まう場所を快適にする術を持ってるだろうし、何よりこんな豪華な部屋であっても少しも不自然ではない。
VIPが宿泊し、政府高官の会談もしばしば行われるようなこのホテルは、自分のような一般庶民が滞在する場所ではなく、真澄のように洗礼された人間こそが似合うのだ。
そう思い至ると、アメリカまで来ながら真澄のことを考えている自分に自嘲し、いつまでも同じところに立ち止まり、前へと動けない自分が情けなくも感じた。












試演を1か月後に控え、誰もいなくなったキッズスタジオ内で、マヤは一人、見えない出口を探して必死にもがいていた。

阿古夜の台詞も動きも全て頭に入っているのに、心だけが阿古夜になれない。
阿古夜の台詞を口にすれば、真澄への想いに切なくなり、いとしいお前さま、と心で語れば、真澄の姿が脳裏に浮かび、身動きが取れなくなる。
桜小路演じる一真を相手にしながら、その実、一真の中に真澄を求め、誰を見ているんだ!と黒沼に怒鳴られることも数回どころではなかった。

梅の谷で感じた、真澄との魂の触れ合いは、マヤの、真澄への恋心が見せた幻でしかなく、現実の真澄には美しい婚約者がいて自分の入る隙間などこれっぽっちもない。
真澄の魂の片割れはあの美しい人だと、何度も自分に言い聞かせてみるが、それでも真澄を想う気持ちを止めることはできず、考えれば考えるほど、真澄を求めてしまう自分がいた。
好きなら一つになりたいと願う気持ちはマヤにもわかる。
だが、愛される喜びを、一つになる幸せをマヤは知らない。
何も望まず、何の見返りも求めず、ただ只管に愛を捧げる阿古夜と、真澄に愛されたいと心の奥底から望んでしまうマヤ。
生身の女としての欲求が、阿古夜になることを邪魔していた。

表面上の恋が実らなくても決して諦めるなと、魂の片割れならば自分と同じ想いでいると、そう月影は言っていたが、それは魂の片割れ同士だからであって、自分には当てはまらない。
勇気を出して真澄を訪ねてみれば、見たこともないような優しい笑顔を婚約者に向ける真澄がいたし、紅天女の台詞に線を引いた台本を渡したがそれも無視された。
返事がないということが返事なのだとわかってはいるが、それでも忘れることができず、恋しさだけが募っていく。
何を見ても何を聞いても、何をしていても、マヤの心は真澄への想いに支配されていた。

母を犠牲にしてまで選んだ女優としての道。
誰のためでもない、自分自身のために紅天女をこの手に掴みたいとマヤは思うが、今のままでは到底無理だとわかっている。
紫のバラの人として真澄から贈られた打掛を見て涙し、阿古夜になろうとすれば真澄への想いに動けなくなる。

鏡に映る自分の姿はまるっきりの子供で、真澄に似合うはずもないことはマヤが一番よくわかっていた。
真澄の隣に似合う人は、真澄と同じ上流社会の中で生きるあの美しい人に他ならないとマヤは思う。
気品と上品さを兼ね備え、シルクのロングドレスを優雅に着こなす、高価な宝石の似合う人こそが真澄に似合うのであって、自分のような平凡な人間ではない。
何故分相応の人を好きにならなかったのかと自分を責めてみたりもする。
もっと普通の、穏やかな恋もあるはずなのに、そうすればこんなに苦しまずにすんだのに、決して手の届かない人に恋をした自分は滑稽かもしれない。

紫のバラの人としてマヤを支え励まし続けるの真澄と、大都芸能社長としてあくまでもマヤの敵役を演じる真澄。
紫のバラの人として紅天女の打掛を贈ってくれた真澄と、紫のバラを投げつけ罵倒した真澄。
そのどちらも真澄には違いないのに、そのどちらが本当の真澄なのか、真実がどこにあるのかマヤにはわからない。
だが真実を確かめることも、紫のバラの人ではない真澄自身に想いを伝える勇気もない。
いっそのこと全てを真澄にぶつけてしまいたいと思ったりもするが、否定されることが、拒否されることが怖くて、真澄との繋がりを永遠に失ってしまいそうで怖気がマヤを襲う。
だからといって、真澄への想いを捨て去ることもできず、結局は堂々巡りなのだ。
そして今日もまた、答えが見つからないまま日付を越えてしまった。

マヤは深く長い溜息を吐くと、よろよろと立ち上がり、稽古場を後にした。





外に出て、ひんやりとした空気に触れたマヤは軽く身震いをした。
夜空を見上げても、街の明かりに消されて、あの梅の谷で見たような満天の星を見ることは出来ない。
この空には本物の星が溢れんばかりに輝いているはずなのに、イルミネーションがその姿をかき消してしまっている。
虚像が真実を隠す世界は、そのまま真澄の姿だ。
真澄が紫のバラの人だとわかった時、真澄の言動の裏に潜む優しさに気がついた。
紫のバラの人として支えてくれたのと同じ優しさがそこにあった。
だが、今は何も見えない。
何が虚像で何が真実なのか、真澄が頑なにその正体を隠す訳も何もかもがマヤには見えなかった。

そうやって真澄に囚われたまま歩いていれば、黒くて四角い大きな箱がマヤの前に聳え立っていた。
意識していないのに、今日も心が愛しい人のもとへと自分を運んでしまう。
真澄にとって迷惑な想いでしかないとしても、魂が真澄を求めて止まない。
会いたい――そう思うのに、会う理由がない。
…そう、会う理由がなく、そして、理由がなければ会うことも叶わぬ相手なのだ。
大都に所属しているわけでもなく、何の接点も持たないマヤにとって真澄は遠すぎる。
どんなに恋焦がれていても、自分ができることといえば、こうして大都の前を偶然を装って通ることぐらいで、最上階の部屋の明かりの向こうにいる人を想うことぐらいだった。

昔のように何も考えず、勢いだけで社長室のドアの向こうに飛び込めばいいのかもしれない。
しかし、「何しに来た」と冷やかな顔で言われたら、と思うと怖くてそれすらもできない。
たまたま近くを通ったから寄っただけだと、何食わぬ顔で言えればいいのだが、そんな器用な真似ができるはずもない。
大体、偶然でも何でもなくここにいることは必然で、真澄に会いたいからここにいるのに、会えば、天邪鬼な自分はきっと喧嘩を吹っ掛け、後悔するに決まっている。
舞台の上でのどんなハプニングも潜り抜ける度胸はあるのに、真澄に会いに行く勇気だけがない。
そのくせ、真澄が恋しくてこうして毎日大都の前を通る自分は、なんと矛盾しているのか、と呆れてしまう。

「速水さん…」

その名を口にしてみれば、その瞬間から愛が溢れ出す。
いとしくて、いとしくて、涙が出るくらいいとしくて、でも切なさと苦しさも同時に込み上げる。
紫のバラの人だと気づかなければ、好きにならなければ、いっそのこと出会わなければよかったとさえ思う。
そう思いながらも、今のマヤにとって真澄のいない世界は考えられない。
出逢ったことも好きになったことも逃れられない運命だと思えるのに、その愛を手に入れることはできない。
それもまた運命なのだろうか。
こうして遠くから真澄を愛しむことだけが、自分に与えられた愛の形なのだろうか。
一人ぼっちの愛がそこにあった。

マヤは真澄の存在を確かめるように、四角い建物の最上階へとその視線を向けたが、そこは吸い込まれそうな闇夜が広がっているだけで、その部屋の住人がすでにそこにないことを示していた。

「ふふ、ばかみたい…」

いくら多忙だとはいえ、深夜を過ぎたこんな時間に真澄がいるはずもなく、マヤは力なく笑うと、漸くその場から離れようと歩き始めた。

「マヤ?」

突然背後から聞こえてきた声に、マヤはビクッと全身を震わせた。
聞き覚えのある、というか、聞き間違えるはずもないその声をマヤは信じられない思いで聞き、だがそれは真澄を想うあまりの幻聴のような気さえした。
マヤはその声の主を確かめるべくゆっくりと振り返ると、そこには半信半疑な目をした真澄がいた。
マヤの目には真澄の姿が確かに映っているのだが、先程見上げた最上階の明かりは消えており、いるはずもない人がいるということが理解できない。
思考を働かせようとしても、全ての回路がストップしてしまい、目に映ったものが脳に届いているのかどうかさえわからない。
ただぽかんと口を半開きにし、呆けることしかできないマヤだった。

真澄は真澄で、今自分の目の前にいるのがマヤ本人で、決して目の錯覚やマヤを欲するあまりに見た幻覚なんかではないと思いながら、それでもどこか信じられないでいた。
マヤのために何かをしたくて紅梅の打掛を贈ったが、それを見たマヤは泣き崩れたという。
暴漢に襲われたときも、「あなたを愛しています。どんなことがあっても…」というマヤの言葉を聞いたような気がしたが、それは己の心が聞かせた幻聴で、あの子が自分に恋などするはずがないと自分に言い聞かせた。
マヤのハンカチを見て、あの場にマヤがいたのかも知れないと疑念が湧いたが、それを確かめる術もなく日々は流れた。
紅天女の台詞に線が引かれた台本を何度も何度も読み直しては、もしかしたら、と思うが、それは紫のバラの人に向けられた恋心であって、真澄本人に向けられたものではないと、紫のバラの幻影に嫉妬すら覚えた。
何をしていても心はいつもマヤを求めているのに、マヤの心を傷つけてしまいそうで真実を語ることができず、紫のバラの影に徹するしかなかった。

1か月後に試演を控えながら、マヤは紅天女の演技ができずにいると聞いている。
台詞も動きもすべて頭に入っているが、阿古夜の恋を演じることができないと。
それは紫のバラの人への恋心ゆえとも聞いている。
この手でマヤを紅天女へと向かわせたいのに、速水真澄としてできることなど限られている。
それどころか、マヤは差し出したこの手を振り払うかもしれないと思うと、身動きが出来なくなった。
紫のバラの人ならばマヤを支えることができるだろうが、その本人である真澄はマヤを助けるどころか傷つけ、さらに追い込んでしまうかもしれない。
紫のバラが今ほど重く真澄の上に圧し掛かってこようとは、真澄自身思いもよらなかった。

ただ一つの真実に目を伏せ、偽りの仮面を被って生きようと覚悟はしたものの、試演が近づくとともに生きる屍と化す自分がいる。
過密なスケジュールを組み、何もかも忘れるべく仕事に没頭するが、心の空洞を埋めることはできず、なおもマヤを求めてしまう。
マヤが訪ねてくることなどありはしないのに、社長室のドアの向こうのざわめきに、心逸らす自分を情けなくも思った。
仕事に逃げても時間は確実に時を刻み、否応なく1日が終わりを迎える。
それはマヤから遠く離される日が刻一刻と近づいていることを意味していた。

普段は地下駐車場から自分の車に乗って帰路につくのだが、たまたま煙草を切らしたので、近くのコンビニに立ち寄り戻ってくれば、求めて止まない最愛の女と同じ後姿を持つ女が社の玄関前で空を見上げていた。
初めは他人の空似だと思ったが、その華奢な背中はマヤそのもので、だがそれでも信じられず、確かめるように恐る恐る声を掛けた。
背中を大きく震わせてゆっくりと振り向いた女はマヤ本人で、黒目勝ちの大きな瞳を更に大きくして真澄の顔をただただ見つめていた。

あれほど求め続けたマヤが目の前にいる。
それは真澄にとって夢のような出来事で、できるならばこのままどこかに攫って逃げたいと、籠の中の鳥のようにその羽をもぎ取り自分だけのものにしたいと、激しい激情が真澄を襲う。
暫く見ない間に、マヤはまた美しくなった。
白い肌も黒い瞳も、艶やかな黒漆の髪も、顎にかけての輪郭もすっと伸びた首筋も、細すぎる線も少女とは違う曲線もすべて、真澄の心を捉えて離さない。

だが、あまりに無防備なその姿に、真澄は少しずつイラつき始めた。
法治国家とはいえ、事件や事故が後を絶たない昨今、決して安全とはいえないのだ。
それなのに、日付もとうに過ぎたこんな時間にプラプラと一人歩きをし、剰え夜空をぼうっと見上げているとは。
心配を通り越して怒りが込み上げてきた。

「こんなところで何をしてるんだ、きみは!!」

放っておけばいいのかもしれない。
マヤにかかわれば、真澄は冷静ではいられず、自分を見失ってとんでもないことを口走ってしまうかもしれない。
だが、少しでもマヤを近くに感じたいと思う真澄は、知らぬ振りをすることもできないでいた。

「来い。」

そう言って真澄は、マヤの細い二の腕を掴むと歩き出し、強引ともいえる強さでマヤを引っ張った。
足が縺れ、転びそうになりながら、真澄に引き摺られるようにして連れて行かれた場所は、大都芸能の地下駐車場だった。
外の空気とは異質な空気に包まれた空洞に真澄の靴音が響き渡り、忙しない足音がそれに重なる。
ガランとした空間の中にその存在を誇示するように停まっている黒い車の前で真澄の足が止まり、助手席のドアを開けると、

「送っていこう。」

と、マヤを促した。

乱暴に腕を引っ張られ、強く握られた痛みにマヤの意識が戻った時、沸々と怒りが込み上げてきた。
何故真澄は自分にかまうのだろう。
肝心なことは隠したままで、マヤの気持ちに何一つ答えず黙ったままなのに、今は送っていこうとする。
真澄の中途半端な優しさがマヤを傷つけているとは思っていない真澄に、何だか腹が立った。
好きでもない女に優しくすることがどんなに罪深いことか、真澄は全然わかっていない。
今も腕を掴んでいる真澄の手の温もりがその箇所から全身に流れ込み、マヤの胸を熱くすることなど、真澄はこれっぽちも思ってはいないだろう。
突き放したのなら突き放したままでいればいいのに、こうして真澄の優しさに触れてしまうと真澄への愛に心が疼く。
真澄のすること全てに一喜一憂し、身動きが取れなくなる。
それなのに……

真澄の手を振り払うと、マヤはスカートの裾をぎゅっと握りながら言った。

「…いて…。ほっといて下さい!」

キッと顔を上げ、真澄を睨みつけながら感情のままをぶつけた。

「あたしがどこで何をしようと、速水さんには関係ないじゃないですかっ!」

関係ない――その言葉が真澄の心に深く突き刺さる。
マヤのいう通り、自分とマヤを繋ぐものは何もなく、何らかのかかわりを持つこと自体不自然なのだ。
だが、“関係ない”の一言で済ませられるほど、真澄はマヤに対して冷静ではいられなかった。
だからと言って、きみが心配なんだと素直に口にすることができない真澄は、

「紅天女候補のきみに何かあっては困るからな。」

と、マヤ本人ではなく、あくまでも紅天女候補であるマヤを気にかける。
長年に亘って染み付いた癖というか、被り続けた仮面は簡単には外せない。

「紅天女候補だから…だから、心配してくれるんですか?」

「他にどんな答えがお望みだ?」

よくもまあ、そんなことが言えるものだと、真澄は自分自身に苦笑する。
真実を何一つ語ることなどできやしないくせに、“大都芸能の速水真澄”としての言葉は、考えることなくポンポンと口をついて出てくる。
しかも的確にマヤを拒否しながら。

「は、速水さんに送ってもらわなくたって、一人で帰れます!」

「こんな時間では電車も動いていないし、タクシーも拾えないだろうが。」

「歩いて帰ります!!」

「人の好意は素直に受け取るもんだよ?チビちゃん。それとも俺の運転では不安か?」

「あ、いえ…」

「心配するな。安全運転を心掛けよう。」

真澄に近づくなと心が警報を鳴らしているのに、その一方で真澄の傍にいたいと思うマヤがいた。
こんな風に真澄と過ごせる時間は二度と手に入らないような気がする。
真澄が自分を女優としてしか見ていないことはずっと前からわかっていたことで、どんなに好きでもそれは叶わぬ望みなのだ。
近づかなければ傷つくことも苦しむこともないと思っていても、それでも少しでも真澄の近くにいたいと思ってしまう。
進むことも後戻りすることもできないマヤは動くことができない。

「乗るんだ。」

半ば強制的な口調で言うと、真澄はマヤの体を助手席に押し込み、ドアを閉めると運転席側へ回り込んだ。
そして己の体を運転席のシートに滑り込ませると、キーを差し込む。
静かな空間を爆音が引き裂き、赤いテールランプが残像を残して闇夜に消えた。














「普通のデートがしてみたい。」

マヤの言葉を受けて、これまで休日も返上して仕事をしてきた真澄は、マヤと“普通のデート”をしていた。

あの深夜の出会いの日から、マヤと真澄の奇妙な関係が始まった。
真澄にアパートまで送ってもらう車の中で交わした会話はほとんどなかったはずなのに、マヤはとんでもないことを口にしていた。
それに気がついて、慌てて取り繕う前に、真澄はあっけなく承諾した。

『恋人になって』

マヤの口から零れたそれは、マヤ自身、信じられない言葉だった。

紅天女の恋がわからなくて、真澄への想いが強すぎて途方に暮れていたのは事実だ。
叶わぬ望みと知りながら真澄を求める心は日増しに大きくなっていき、気がつけばマヤのすべてを真澄への愛が支配していた。
真澄を好きな自分がいる、それだけでいいんだと言い聞かせても、真澄が誰を好きでも真澄を愛する心に変わりはないと思ってみても、心の奥底では真澄に愛されたがっている自分がいることも知っていた。
真澄を好きでいることも苦しくて、かといって忘れることなどできるはずもなく、報われぬ恋に涙した。

あの時、俺にできることはないか?と聞かれ、何も考えられなくなった。
望みはただ一つ。
“紅天女”という口実が、マヤの真澄への愛を隠してくれる。
“紅天女”という幻が、マヤに仮面を被らせる。
現実から目を背けさせてくれる。

そうして、心を置き去りにしたまま、期限つきの恋人になった。






翌日、マヤは真澄から携帯電話を渡され、すべてのやり取りがその携帯電話を通して行われた。

食事に誘ってくれるのはもちろん、稽古で帰りが遅くなりそうな時は迎えにも来きたりした。
少し時間ができたと言って、出先から連絡を寄越し、二人でお茶したしことも何度かある。
時間が取れないから来てほしいと言われて社長室に出向いたこともあり、大都の人間でもないのに真澄の部屋を訪れることに抵抗を感じていたが、それでも“紅天女候補”という肩書きがマヤを護ってくれた。
出張や会議で会えない日も当然あるのだが、そんな日は必ず電話がある。
顔を見ない日はあっても、24時間以上声を聞かないことはなかった。

恋人みたい……

そんな風に思う。
それが偽りのものだということはちゃんと理解しているつもりでも、“紅天女のため”と思わなければ錯覚してしまいそうになる。
終わりの日がくることを常に意識していなければ、自分を見失いそうになってしまう。
そして、紅天女のために愛してもいない女の機嫌を取っているのだと自分に言い聞かせなければ、心の均衡を保てなかった。

試演を1週間後に控えた日曜日、稽古を休んでいいはずはないのだが、マヤが黒沼に休みがほしいと申し出ると、苦虫を潰したような顔をしながら、仕方ないなと丸1日の休みをくれた。
マヤの紅天女の演技の変化から、黒沼は気づいているのかもしれないが、それでも何も言わず黙って見守ってくれていた。
ただ、「深入りするなよ」と言った黒沼の顔が忘れられない。

デートの定番は映画だろうという真澄だったが、遊園地に決まってるじゃないと口を尖らせて抗議するマヤに敵うはずもなく、横浜へと向かった。
首都高の横羽線を走れば、前方にちょっと変わった格好をした日本一の超高層ビルがマヤの目に飛び込み、その向こうに大きな観覧車が見えてきた。

ランドマークタワー内の地下駐車場に車を止め、よこはまコスモワールドへと向かう。
開園時間をまだ15分ほどしか過ぎていなかったが、日曜日とあって、家族連れやカップルの姿の多く見られた。

園内のファーストフードで簡単な食事を済ませると、マヤは目ぼしい乗り物を見つけては真澄の腕を引っ張りながら走った。
丸太風のライドに乗り、急流の中での落下体験にマヤはキャーキャーとはしゃぎ、舞い上がる水しぶきを全身に浴びた。
悠然と構えて隣に乗っていると思っていた真澄の顔は真っ青で、真澄の弱点を発見したと喜ぶマヤがいた。
仕返しとばかりに、後ずさりして嫌がるマヤを無理矢理お化け屋敷に連れて行き、映像や音響、照明などが生み出す恐怖にマヤが叫び声をあげると、面白そうに大笑いする真澄だった。
優雅に廻る木馬に跨った真澄を見て、マヤはケラケラとお腹を抱えて笑い、レーザーバトルにムキになる真澄を、子供みたい、と窘めた。
そして、15分の空中散歩はマヤにとって至福の時だった。
誰にも邪魔されることなく、箱の中で真澄と二人きり。
それは少しの切なさと息苦しさをも含んでいたが、二人だけの世界がそこに広がっていた。

「こっちにおいで。」

そう言われて、マヤは遠慮がちに真澄の隣にその身を置いたが、恥ずかしさのあまり、真澄の顔を見ることができず、俯いたままだった。
そんなマヤを真澄は愛しそうに目を細めると、躊躇いがちにその腕をマヤの背に回し、やさしく髪を撫でた。
それだけで涙が零れそうになるのをマヤは必死の思いで耐えていた。
勘違いしそうになる真澄のやさしさ。
これはお芝居で、真澄にとっては何でもないことだと言い聞かせてみるが、そう思うには真澄を好きになりすぎていた。

このまま時が止まってしまえばいい。
地上に戻った瞬間に魔法は解けてしまう。
すべてが夢と消え失せる。
しかし、夢は夢でしかないということはマヤにもわかっていた。

一通り遊び終えた二人は、ランドマークタワーの69階にある展望フロアへと向かい、そこで雄大なパノラマを楽しんだ。
先程遊んだよこはまコスモワールドを眼下に見下ろし、まるで異空間にいるかのような不思議な感覚を体験する。
マヤは時が経つのも忘れ、その景色を見つめていた。

穢れなきその横顔を真澄は美しいと思った。
凛とした、何者も犯すことのできない聖域がそこにある。
自分のような人間が近づくことを赦さない、そして決して手に入れることのできない至高の花。
ほんの少し手を伸ばせばマヤに触れることができるのに、ほんの少しの勇気があればマヤを抱きしめることができるのに、マヤの横顔が真澄を突き放す。

――所詮、仮初めに過ぎない……

真澄は、伸ばすことのできない手に拳を作り、自身の感情を握り潰した。

展望フロアの更に上の階にあるスカイラウンジで光の海を見ながら、真澄とマヤはディナーを堪能した。
オードブルに真鯛を使ったハーブマリネのカルパッチョと春人参のクリームスープが出され、新鮮なスズキのポワレに、牛フィレ肉のステーキをフォアグラソースでいただくという、贅沢なメイン料理に舌鼓を打つ。
シーザーサラダが口内に残る濃厚な味を調和し、清涼感を運ぶ。
「失礼」と言って真澄が席を外した直後に運ばれたデザートをマヤは遠慮なく平らげ、戻ってきた真澄はそれを見ると、笑いを堪えながら自分の皿もマヤに差し出した。

食事も終わり、そろそろ送っていかなければ、そう思うのに離れがたい想いが真澄の中に溢れる。
それを口にすることもできず、マヤが何かを言ってくれることを期待しながら、それでも自分からは口にすることができない。
先程まで他愛ない会話をしていたはずなのに、少しずつ会話が途切れていく。
もっと一緒にいたい気持ちだけが心を占めているのに、一緒にいてはいけないと理性が制する。

マヤと二人きりになるということがどれほど危険なことか、真澄はわかっていた。
何かのきっかけで、そう、例えばマヤがほんの少しでも動いただけで、抑えがきかなくなる危険を孕んでいる。
マヤさえも壊してしまいたいほどの衝動に駆られる。
狂ってる…そう思わずにはいられないほど、マヤを愛している自分がいる。

“恋人になって”と言われたあの日から、真澄は身動きが取れなくなった。
紅天女の演技のためだとわかっていても、愚かな夢を見てしまう。
マヤの自分を見る目、はにかむ仕種、仄かに漂う甘い香り、潤んだ瞳。
そのすべてが、真実、自分に向けられていると錯覚してしまう。
手に入れることなど、それこそ1%の可能性もないのに、奪い去ってしまいたいたくなる。

マヤに愛されることはないと知りながら、マヤの愛が欲しくてじたばたともがき苦しんでいる自分が滑稽すぎる。
いっそのこと、徹底的に嫌われたなら諦めがつくのかもしれない。
いや、そうではない。
もうすでに、嫌われているのだ。
何度も“大嫌い”という言葉を浴び、その度に深く傷つく自分がいる。
それが例えマヤのためを思って動き、これでいいんだと自分に言い聞かせても。

それでも愛は止まらない。
抑えれば抑えるほど、なお一層深まる愛がそこにある。
マヤをも押し潰してしまいそうなほどの激しい恋情が、冷淡な仮面の下で燻り続けている。

真澄を嫌っているはずのマヤ。
真澄の愛を知らないマヤ。
そして、恋人の振りをしてくれと真澄に言ったマヤ。

マヤの真意がどこにあるのかわからない真澄は、拒絶の言葉を覚悟しながら静かに告げた。

「さっき部屋を取った。」

それは最初で最後の賭けだった。






室内に足を踏み入れたマヤは、入口付近から離れることなく真澄を見ていた。
着ていた上着を無造作にカウンターチェアに投げ出すと、真澄はフゥーと溜息を吐いてソファに深々と腰を下ろした。
微動だにしないマヤを横目で見ると、

「どうした?こっちに来て寛げばいいだろう。」

と何でもないことのように言った。

マヤにしてみれば、真澄についてきたはいいが、それは一大決心で、もちろん真澄と何があるというわけでもなく、それでも心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。

「こ…の…部屋は…?」

やっと出た言葉は否定でも肯定でもない、ただの疑問。
だが、真澄はマヤの質問に答えることなく、ソファから立ち上がりゆっくりとマヤへと近づき、目の前でその足を止めた。
得もいえぬ恐怖に襲われ、マヤの中で大きく警鐘が鳴り響いているのに、真澄の視線から逃れることができない。
琥珀色の瞳に囚われ、目を逸らすことができない。
煙草とコロンの混じった、噎せ返るほどの真澄の薫りがマヤを襲い、呼吸さえもままならない。
真澄を前にして立っているのもやっとだった。

「マヤ…」

やさしい音色をした声と頬に触れた冷やかな真澄の手に、マヤは全身をビクッと震わせ目を硬く瞑った。
真澄の手が添えられた部分だけがひどく熱い。
心臓の鼓動がやけに大きく鳴り響き、触れた部分から真澄に伝わってしまうのではないかと怖くなる。

マヤはゆっくりとその大きな瞳を開いた。

「何故逃げない。」

これまで聞いたことがないような、苦痛に歪められた音を持った言葉がマヤに投げられた。

「嫌いな男にこうして触れられているのに、何故逃げない。」

真澄の瞳を見つめたままマヤが答える。

「あ…たしは、速水さんのこ…恋人…なんでしょ?だったら…逃げるは…ず…ない…。紅天女を掴むまでは…逃げない…」

マヤの言葉は鋭い剣となり、真澄の心臓の奥深くまで突き刺した。
ドクドクと血が流れ出す。

「…大した役者根性だな。」

「え?」

「紅天女のためなら、男が誘えばついてくるってことか。例えそれが嫌いな男だったとしても。」

「ち…ちがっ…」

「だが少し無防備すぎやしないか?」

誘ったのは自分だ。
「帰る」と言われることも覚悟の上だった。
なのに、マヤはのこのことついてきた。
ただ紅天女のためだけに。

壊れてしまう、壊してしまう、だがもう止めることはできない。

「来い。」

真澄は細すぎる腕を掴むと、有無を言わさず部屋の奥へとマヤを引っ張っていき、広すぎるベッドの上にマヤの体を投げ出した。
弾みでマヤの体が跳ねる。

「きみは何もわかってない。」

真澄の瞳が深い苦しみの色を携えている。

「男についてくるということは、こういうことだ。」

ギシッとベッドが軋む音に、マヤの瞳が怯えた。

「あ…たしを…抱…くの…?」

「覚悟の上だろう?」

真澄はマヤの頬に手を添えるととそのまま輪郭をなぞり、首筋へと手を滑らせる。
マヤは小刻みに震えながら何かに耐えるようにギュッと目を瞑り、唇を真一文字に硬く結ぶ。
その表情は恋人へ向けるそれではない。
マヤの全身が自分を拒絶している。
それがマヤの、自分への答え。
恋人ごっこの結末。
だが、すべてはマヤが悪いのだ。
恋に自分を見失っている男に、例え嘘でも恋人になってほしいと言ったマヤが。

真澄はマヤの顎に手をかけると、頑なに結ばれた唇に己のそれを重ねた。

重ねた唇からマヤの怯えが真澄に伝わる。
強張らせた体が真澄を拒否する。
閉ざされた心が真澄を突き放す。
愛して止まない乙女は自分を受け入れはしない、決して。
紅天女だけが二人を繋いでいるのに、紅天女が真澄を制す。

――お前を愛してはいない。すべては演技のため――

紅天女を掴むためなら、嫌いな男にもその体を投げ出すというのか!?
そして、たった一つの真実の愛をこの手で壊そうというのか、俺は…

激しい憤りと空漠たる不安が真澄の中で渦巻く。
真澄はマヤから離れると、

「冗談だ。」

と言って、自虐的な笑みを携えたまま真澄は背を向けた。






もうすぐ結婚してしまう人。
それがどんな罪深いことかも、マヤなりに理解しているつもりだ。
真澄をも巻き込んでしまい、苦しめてしまうかもしれない。
しかし、マヤにとってそれは捨て身の覚悟であり、たった一つの真実の愛だった。

どんなに否定しても真澄を求める心は誤魔化せない。
綺麗ごとなんかじゃなく、一夜限りでかまわない、偽りでもいい、真澄に愛された、その事実だけがあればそれでよかった。
自分の中に真澄の愛を刻み付けたかった。
だが、それすらも赦さず、真澄はマヤを拒絶した。

深い哀しみがマヤを襲う。

「な…んで…?なんで速水さんはそんなに冷静でいられるの?あた…あたしが、どんな思いでいるかも知らないでしょう?恋人になって…もちろん嘘だけど、でもあたしは真剣だった。…速水さんには本物の恋人がいて、あたしは偽りでしかなくて…」

言葉を詰らせながら、それでも必死に言葉を繋いでいく。

「なんであたしに触れてはくれないの?紫織さんがいるから?あたしなんて興味もない?じゃあ、何であたしをこんなところに連れてきたの?どんどんその気になっていくあたしを見て楽しんでた?抱く気もないくせにからかわないで!!」

マヤの瞳が怒りと哀しみに滲んだ。
そして同じ瞳の色をした真澄がそこにいた。

「では聞くが、きみは何でのこのこついてきたんだ?怯えるほど俺を否定しているのに…抱かれる気などないくせに何でついてきた!!」

「抱かれたかったからよ!」

間髪入れずに叫んだマヤの言葉に、真澄の眼が見開かれた。

「あたしは速水さんに抱かれたいと思ったからついて来たの。嘘でも偽りでも、愛されたいと心が叫んでるからついて来たのよ!」

マヤの心が悲鳴を上げていた。

「速水さんには紫織さんがいるのはわかってる。そんなこと嫌というほどわかってる。速水さんにとっては迷惑以外の何物でもなくて、あたしなんかに興味なんてないのはわかってるけど、それでも速水さんに愛されたいと望んでいるあたしがいるの。」

「マ…ヤ…」

「あたしは速水さんが好き。どうしようもないくらい好きなの。阿古夜の台詞を口にすれば速水さんの姿が浮かんできて動けなくなる。一真に愛されている阿古夜の気持ちがあたしにはわからない。速水さんに愛されていないあたしは阿古夜になれない!」

マヤの告白に真澄の心が固まった。

「どんなに打ち消しても速水さんを好きな気持ちは止められない。心が、魂が速水さんを求めてるの。速水さんしかいらない!!…あたしを好きになって、なんて言わない。速水さんへの愛だけで生きていけるように想い出がほしいの。」

真澄の端正な顔が激しく歪められた。

「お願い、一度でいいの。抱いて。」

実際、真澄はマヤを抱くつもりがなかったわけではない。
偽りの恋人としてマヤと過ごしながら、どんどんマヤへとのめり込んでいく自分がいた。
マヤを自分だけのものにしたいという欲求は日々大きくなり、マヤをも壊してしまいそうな激情は止まることを知らない。
一度抱いてしまえば、マヤを手放すことなどできなくなり、決して抜け出すことの出来ない泥濘にマヤを引きずり込んでしまう。
そこに真実の愛があったとしても、それは人倫にはずれる行為であることに違いはなく、そんな所にマヤを置きたくない。
マヤが自分を嫌っていたままだったなら、己の感情のまま無理矢理にでも抱いたかもしれないが、マヤの想いを知った今、マヤを抱くことはできない。
愛する女を、偽りの中で抱くことなどできない。
愛し合っていたとしても。

真澄はマヤの瞳から視線を逸らし、目を伏せたまま黙っていた。

「速水さんっ!!」

「…できない。きみを抱くことは俺にはできない。」

「なんで?紫織さんがいるから?」

「彼女は…関係ない。」

「じゃあなんで?男の人は愛してなくても女の人を抱けるって聞いたことがあるもの。なら、あたしのことも抱けるでしょう?」

「抱けない。」

「どうして?こんなに頼んでるのに?」

「頼まれてもだ。」

「いくじなし!!」

真澄は全ての感情を仮面の下に追いやり、本心を隠したままマヤに背を向けた。

「まだ話は終わってない!!」

「話すことなど何もない。俺はきみを抱かない。それでこの話は終わりだ。」

「勝手に終わらせないで!」

「抱いてくれと言われたことに対して、俺は抱かないと答えた。それ以上話すことなど何もないだろうが!」

「じゃあ何でここに連れてきたのよ!何で恋人役なんて引き受けたのよ!だったら初めから引き受けなきゃよかったじゃない。」

「きみが紅天女になれないと言ったんだろうが。」

「紅天女、紅天女って…そんなに紅天女が大事なの?」

「それ以外に何がある?」

「だったら、その紅天女のために、あたしを抱くことくらいどうってことないじゃない!」

「無茶苦茶な理論だな。」

「速水さんなら仕事のために愛してもいない女を抱くことくらいできるでしょう?」

「抱け、抱け、って、まるで盛りのついた猫だな。」

真澄の言葉にマヤの顔がカァーッと赤く染まった。

「きみの言う通り、愛してもいない女を抱くことなど俺には簡単なことだ。愛していなければ…な。」

真澄は鼻先であしらうようにフッと皮肉な笑みをこぼした。

「だが、俺はきみを抱かない。絶対に、だ。」

真澄の完全な拒絶の言葉に、マヤの心が凍りついた。

「…だったら…だったら、中途半端にやさしくなんかしないで!あたしにかまわないで!あたしを嫌いだって言って!!」

マヤの心が血の涙を流していた。

「言ってよ!!」

真澄は何とか均衡を保ってはいたが、何かのきっかけがあれば簡単に崩れてしまうほどそれは危うい。
そしてその均衡は、マヤの言葉によって全く違う方向へと崩れた。
重たい沈黙に押し潰されそうになりながら、真澄がゆっくりと口を開いた。

「きみがキライだ。」

真澄が放った言葉は、真澄すら予想もしなかった言葉だった。











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