愛するということ

written by さくらさま&紫苑










劇場アテネ座。
劇団つきかげぷらす一角獣新春公演『いつの日か虹の彼方へ』初日。
カーテンコールの幕が降りた。
「救急車!早く!」
堀田が鋭く叫んだ。
水無月さやかは舞台袖まで笑顔を崩さなかったが袖に下がった瞬間その場に昏倒した。
「さやか!しっかり!」
昏倒したその蒼白な顔の右半分だけ汗が滲んでいた。
麗がさやかの小柄な身体を横抱きに抱き上げ楽屋の大部屋まで運んだ。
マヤは何も知らず初日を観劇し、楽屋を訪問してその騒ぎを目の当たりにした。
舞台衣装のまま団員達はソファに寝かせられたさやかを取り巻いていた。
「麗?どうしたの?さやかがどうかしたの?」
花束を抱えたまま、マヤは茫然と楽屋口に立ち尽くした。
「マヤ?ああ…。」
麗がマヤを楽屋に招き入れた。
「熱がすごいんだよ、さやか。昨日から。吐くやらなんやら…。」
「それで初日に出たの?」
「舞台人だからね…。」
それきり言葉を濁した麗に、あえてマヤも何も問わなかった。
マヤも重々承知している。
役者は親の死に目にも遭えないという因果な職業である、と。




救急で都立大病院に搬送され、さやかの受けた診断は急性の食中毒だった。
3日も休めば舞台には復帰できるだろうとの医師の指示でさやかはそのまま入院措置となった。
「3日か…。」
病院ロビーで堀田が天を仰いだ。
マヤもさやかを案じて団員達とともに都立大病院に赴いていた。
まずは重篤な疾病では無かったことに一安心はしたものの、さて、舞台をどうするか。
公演は半月の予定である。
「ねえ、マヤ。今確かマヤ、オフだったわよね?」
泰子がマヤを振り返った。
「え?あ、うん。」
唐突に問われて、マヤは咄嗟に肯んじた。
「団長、マヤに代役、頼んだら?ねえ?どう、マヤ?」
泰子に問われて堀田がマヤを見やる。
「紅天女女優にか?そうそうおいそれとは行かないだろう、マヤ?」
今のマヤと真澄との仲は未だ厳然たる秘密の仲である。
真澄が容易に所属外部の舞台出演を許すともマヤには思えなかったが、
マヤには真澄に対しては、女、としての甘えがある。
自分の頼みならば、真澄も聞いてくれるのではないだろうか。
頼むにしても今ちょうど真澄は出張中であり、今すぐの連絡の取りようも無い。
この3日くらいなら…。
それにつきかげと一角獣の芝居は大都のプロデュースだし…。
暫し逡巡したが、マヤは真澄に対しては真澄の女として甘えることにし、
旧友たちへの友情を選択した。
「あたし、舞台稽古にも出てないし、歌稽古も出てないけど、それでいいの?」
「おっ。やってくれるか、マヤ?」
困惑しきっていた堀田の表情が和らいだ。
「立ち位置は今日の初日通りだよ。
 歌は歌詞の暗誦に切り換えればいい、そこだけ音を止めるから。」
「わかった。」
ワッ、と、マヤを取り巻いた団員達が湧いた。
「誰か。マヤに台本を。」
「オッケー。はい、マヤ。台本。」
二ノ宮恵子が公演2時間半の台本をマヤに手渡した。
「マヤ、明日は2回公演で楽屋入りは11時半ね。」
「マヤがやってくれるんなら、鬼に金棒よね。」
「マヤと共演か。久しぶりだな。」
やんやと賑やかに団員達に取り巻かれ、マヤもすっかり乗り気になっていた。
「そこのかたがた、お静かに。」
病院の受付に窘められ、一行は肩を竦めて病院ロビーを後にした。
「じゃ、あたし今夜台詞やるね。」
寒空の垂れ込める新宿の街を歩きながら、マヤは大事そうに台本を胸に抱えた。
「マヤなら今日の初日を観たなら台本なんて要らないだろう?」
麗が軽口を叩いた。
「そんなこと…。」
マヤは含羞んで瞼を伏せたが、頬はほんのりと上気していた。

(つきかげのみんなとのお芝居なんて、何年ぶりかな、楽しみだわ。)

その夜。マヤは自宅のマンションで夜更けまで熱心に台本を読み耽った。



大都芸能制作、つきかげぷらす一角獣新春公演『いつの日か虹の彼方へ』。
主人公はさやかの演じる16歳のヒロイン・玲奈。
ヒロインは幼児期に虐待を受けた経験をトラウマとしており、
ある夜、眠りに落ちた夢の中で、『不思議の国のアリス』のように
様々な登場人物達と出会い、別れ、夢の国を経巡ることで
トラウマを克服し、夢の中で出会った恋人と現実の日に再会する、
そして舞台は大団円のフィナーレへ続く、
といった、新春に相応しい華やかなファンタジーであった。
名曲『虹の彼方へ』をアレンジした音楽が随所に使用されており、
この歌唱ならばマヤにも歌いこなせそうな気がした。
が、マヤは慎重を期して、歌唱は堀田の指示通り日本語歌詞の暗誦に切り換えた。



翌日から3日間、アテネ座のロビーには水無月さやか休演、代役北島マヤ、
の告知が出た。
観客で賑わうロビーでは『紅天女』女優北島マヤの急遽出演に居合わせた来場者たちは俄に色めき立った。



舞台開演。2幕15場の緞帳が上がる。
団員達によるプロローグのあと、マヤの出番である。
メイクを終えて衣装をつければ、マヤはすでにヒロインに完全に同化していた。
軽やかな足どりでマヤは舞台に臨んだ。
ヒロインの見る夢の中。
マヤ扮するヒロインは団員達との呼吸も絶妙に、舞台はテンポ良く進む。
『この道は右へ行けばいいのかしら?それとも左?』
『お嬢さん。あんたが行きたいと思う道が、あんたの行くべき道だよ。』
ピンスポットが、ヒロインの行く道を照らし出した。
『この道?こんどは誰が待っているというの?』
舞台装置はヒロインの夢の中を象徴的に転換された。
着々とマヤを中心に団員達の集中も良く、舞台は進みやがてクライマックス。
『虹の彼方 どこか高いところに
 子守唄で聴いた国があるの
 虹の彼方 空は青くて
 たいせつな夢が かなえられる国
 星に願いをかけ 目ざめたら雲の上
 悩みは解けて レモンのしずくになる
 煙突の天辺よりまだ高いところに
 わたしはいるの
 虹の彼方 青い鳥達が飛んでいる
 青い鳥が 虹を越えてゆけるなら
 どうしてわたしには それができないのでしょう?
 いいえ、きっとわたしにはできる
 いつかこの虹を越えてあなたのところへ…』
玲瓏たるマヤの暗誦が客席に響いた。
ラストシーン、夢から目覚めたヒロインは恋人と出会い、将来を約束する。
『手をとりあって このまま行こう 愛する人よ
 静かな宵に 光を灯し 愛しき教えを抱き。』
華やかなフィナーレで出演者達の笑顔も輝かしかった。
やがて終幕。緞帳が下りてみれば客席からは大喝采であった。
「マヤ、よくやった!成功だぞ、この舞台。」
舞台袖、堀田がマヤに駆け寄った。
「カーテンコールだ。みんな、行くぞ。」
つきかげと一角獣の面々の中央に並び、マヤの笑顔も弾けた。

3日間のマヤの代役は成功裡に終えられた。






「カ〜〜ット!OKで〜す。」
「お疲れ様でしたぁ〜。」
あちこちでお疲れ様の挨拶を掛け合う声が聞こえる。
スタジオ内の緊張が一気に解かれ、素早く次のセットへと変えられていく。
今日のマヤの収録はこれで終わり。
春の特番で放映される2夜連続ドラマのスタジオ収録を終えたマヤに、マネージャーが控えめに声をかけた。
「マヤちゃん、何かやった?」
「え?」
「収録が終わったら大都に来てって、さっき水城さんから連絡があった...」
「何で?」
「さあ。でも水城さん、何かすっごい疲れてた。」
マヤには思い当たる節はなかった。
確かに今日の夜は真澄と食事をする約束をしている。
明日からロケで東京を離れるため、真澄と過ごす貴重な夜だった。
しかし約束までまだ時間はあったし、真澄がマヤのマンションに迎えにくることになっていた。

(あたし、何かやったかな...?)

マヤは首を捻りながらも急いで着替えると、テレビ局を後にし大都へと向かった。




マヤを大都へ送り届け、受付から水城に連絡するとマネージャーは帰って行った。
マヤはエレベーターに乗り込み最上階のボタンを押す。
不安な気持ちを抱えたまま、エレベーターはあっという間に目的の階に到着した。
エレベーターを降り、行き慣れた廊下を進んでいく。
マヤは何となく違和感を感じた。
何が、と説明できないが空気が違う。

(やっぱりあたし何かしたかも...)

廊下を歩く足の運びが重くなりまさに止まろうとした時、廊下の奥から近づく人影が見えた。
「マヤちゃんっ!」
「水城さん。」
水城の顔をみてほっとするマヤ。
しかし水城の顔は苦悩を抱えた歪んだ笑顔でマヤを迎えた。
「あ、あの、用ってなんですか?」
マヤは水城に呼ばれた理由を聞いた。
「え?ええ。真澄様がマヤちゃんに聞きたいことがあるって仰って...」
「聞きたいこと?」
マヤは何だろう?という顔をした。
「マヤちゃん、真澄様に何を言われても“すみませんでした”って言うのよ?」
「え?」
水城はマヤを社長室の前まで連れてくると、「入って」と目で促した。




「あの〜、失礼しま〜す。」
ノックをしても中から返事はなく、マヤはドアの僅かな隙間から顔を覗かせた。
真澄は窓の方を向いて煙草を燻らしている。
マヤはおずおずと室内に入り、パタンとドアを閉めた。
ドアの閉まる音は真澄の耳にも届いてるであろうが、一向にこちらを向く気配がない。
マヤには窓の外を見ている真澄の背中が怒っているような気がする。
マヤは動くこともできずドア付近に佇んだまま、真澄が振り向くのを待った。
「そんな所に突っ立ってないで、こっちに来たらどうだ?」
怒気を含んだ声で真澄が言う。
マヤはフラフラと歩き出し、机を挟んで真澄の前に立った。



重たい沈黙が続き、マヤは居た堪れなくなった。
マヤが居心地の悪さに身を持て余していると真澄の口が動いた。
「代役大成功などと言われて満足か!?」
「え?」
真澄はマヤに背を向けたまま言い放った。
「俺に隠れてこそこそと...いったいきみは何を考えてるんだっ!」
真澄はマヤに向き直ると1冊の週刊誌を机の上に投げ出した。
「あっ!」
「これはどういうことだ、マヤ!?」
『北島マヤ・代役大成功』との週刊誌の見出し。
真澄が鋭くマヤを一瞥した。
週刊誌の見出しを見てマヤは咄嗟に口を押さえ、狼狽えた。
出張から戻った真澄に話をしようと思っていたが、話すタイミングがなかった。
すぐに春の特番の収録が始まり、真澄と会える時間がなかなか作れなかったからだ。
そうこうしているうちにすっかり忘れてしまっていた。
「水城くんは知ってたようだが?」
真澄は冷たい表情のままマヤに言葉を投げた。
「そ、それは...」
知らず知らず、マヤの目が泳ぐ。
「俺に知られちゃまずいことでもあるのか?」
「そ、そんなことっ。」
「黙っていればわからないとでも思ったのか?」
真澄の全身が怒りに包まれている。
真澄は持っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「こんな週刊誌の載るような女優じゃないだろう、きみはっ!」
真澄は窓に凭れかかると、呆れ顔で言った。
「きみのマネージャーも水城くんもきみに少し甘すぎるんじゃないのか?」
「....」
「ったく、所属女優が事務所の承諾も得ず、勝手に舞台に立つとはっ。」
マヤには黙って出演を決めたことに対する申し訳なさがあった。
真澄に対して女としての甘えもあった。
しかし、役者としての自分の判断は間違っていないと思う。
真澄とて芸能社の社長、自分の行動を理解してくれると思っていた。
しかも今回の芝居をプロデュースしているのは他でもない真澄だ。
真澄の役に立ちたいと思う気持ちもマヤにはあった。
失敗したならいざしらず、成功を収めたにもかかわらず、何故こうも責められねばならないのか。
褒められこそすれ、嫌味を言われる筋合いはない。
マヤの中で沸々と底知れぬ怒りが込み上げてきた。
「...って、....ったじゃない...」
マヤの両の手はそれぞれ拳をつくり、小刻みに震えている。
「なんだ?言いたいことがあるならはっきり言いたまえっ!」
マヤは顔を挙げ、真澄に食って掛かる。
「だって相談したくても速水さん出張でいなかったじゃないですかっ。それに公演は始まったばかりなんですよ?2週間の公演に全部出るわけじゃないし、自分のオフに何しようと勝手じゃないですかっ!」
「勝手をするにも程があるっ。もっと自分の立場を弁えろっ!」
「立場って...立場って何なんですかっ!?」
「きみは紅天女を演じる女優なんだぞっ!?それがあんな舞台に立つなんて。」
マヤは真澄の言葉に愕然とした。
「あんな、って...あんな舞台、って...」
マヤにとって舞台にあんなもこんなもない。
たとえ1度きりの舞台であっても1か月続く公演であっても、1日たりと同じ舞台はない。
それだけ役者は舞台に賭け、舞台の上で生きているのだ。
真澄の言動は、役者であるマヤを侮辱したも同然だった。
「あんな舞台ってどういう意味ですかっ!?」
「どういう意味もあるまいっ。きみが立つような舞台ではないと言ってるんだ!」
「なっ...!」
真澄はさらに畳み掛けるようにマヤに言った。
「たかが小劇場で成功を収めたからって何になる?」
「何って...」
「情に絆されて勝手に出演を承諾してっ。」
「だからっ、それはっ!」
「友情も結構だが、道理ってもんがあるだろうがっ。」
マヤは大声で真澄に抗議した。
「あたしが今までどれだけつきかげの皆に支えられてきたか、速水さんだって知ってるでしょう!?」
「公私混同をするなと言ってるんだっ。」
「公私混同なんかしてないっ。役者仲間の舞台を守って何が悪いのっ!?」
「それが公私混同だと言ってるんだっ!」
バンッ、と真澄は机の上を叩いた。



マヤは悔しさのあまり言葉がでない。
大きく開かれた瞳に涙をいっぱいに溜め、唇を真一文字に堅く結んでいる。
真澄はマヤから視線を逸らすと、机の上に置かれたシガレットケースから煙草を1本取り出し火を点けた。
ふぅっと溜息とともに紫煙を吐き出すとマヤに向かい直った。
「これからはもっと自重したまえ。」
真澄は吐き捨てるように言うと灰皿に煙草を揉み消した。
マヤはスカートをギュッと握り締めている。
「返事はどうした?」
「...て....い...」
真澄は微かに聞こえたマヤの声に顔を上げた。
「は...なんて...らい...」
「え?」
「速水さんなんて、大っキライっ!!」
「マヤっっ!!」
マヤは大粒の涙を零しながら社長室から走り去った。





−大っ嫌い−

マヤに放たれたそれは、過去何度も傷つき心から血が吹き出すほどの痛みを伴った言葉。
言わせたのは真澄だ。
代役の件も、マヤにしてみれば当然のことをしたまでだと理解できる。
舞台を守った所属女優に対し、本来なら事務所社長として礼を述べるべきところだ。
頭ではわかっている。
しかし今の真澄は感情の方が勝ちすぎていた。

真澄が東京を離れ、マヤのそばにいることができなかったのは事実だ。
だが、出張先のホテルも伝えてあったし、電話やメールだってできるはずだ。
にもかかわらず、マヤは一度も連絡してこなかった。
連絡できなかったというのは単なる言い訳にすぎない。

マヤにとって自分はいったい何なのか、と真澄は思った。
己という存在は演劇仲間にも劣るのか。
真澄は嫉妬していた。
自分よりもマヤの近いところにいる劇団の仲間たちに。
何も言ってくれなかったマヤに。

真澄は絶望的な悲しみと怒りを覚え、混沌とした感情が渦巻いていた。



自分の感情をそのまま真澄にぶつけたマヤは、泣きながら自分のマンションに戻った。
悔しくて情けなくて涙が止まらない。
真澄が事務所社長として勝手をした女優を諌めることは当然のことである。
そのくらいマヤにもわかっている。
マヤが悔しかったのは、役者としての自分を否定されたことだ。
役者にはどんな時でも絶対に譲ることのできない時がある。
観客の期待を裏切ることは役者を捨てること。
舞台に命を賭け、舞台を守ることは役者としての性。
マヤは真澄が芸能社の社長という立場だけでなく、女優の恋人としてもすべてを理解していると思っていた。
しかし現実はマヤの行動を赦さず、剰え舞台を扱き下ろす発言をした。

(もう何も考えられない。)

マヤは電気を消し、ベッドの中に潜り込み、深い悲しみと怒りに打ち拉がれていた。




その日、真澄がマヤを迎えにくることはなかった。




「はい。」
差し出された紙コップから湯気が立ち上る。
マヤはマネージャーからコップを両手で受け取り、ほぅ〜と溜息をついた。
ココアの甘い香りが優しく染み渡り、冷えた体を温めてくれる。
「風邪でも引いた?」
「え?」
「調子、あんまり良くないみたいだから。」
マヤは演技に支障を来たさないよう、感情のコントロールに心掛けていた。
「ううん、平気。」
マヤはズズッとココアを啜る。

ロケのため、ここ釧路にきて5日目を迎えていた。
東京を離れる前日、大っ嫌いといって社長室を飛び出した。
それ以降、真澄と会うどころか声さえ聞いていない。
マヤは撮影の合間や夜ホテルの部屋で何度も携帯電話を確認したが、真澄からの連絡は一切なかった。
電話を掛けようとしたこともあるが、話し始めの言葉が見つからなかった。
それに何故自分から謝るような電話をしなければならないのか。
真澄の行き過ぎた言動を赦せるほどマヤは寛容になれない。
誤るのは真澄の方だとマヤは思う。
結局、ロケ中マヤから真澄に連絡をすることはなかった。




社長室から真澄の罵声が聞こえる。
部下を怒鳴りつけることはいつものことだが、ここ数日真澄は感情的になっていた。
「こんな企画が通ると思ってるのかっ?最初からやり直せっ!」
厳しい表情のまま企画書を叩き返した。

部下が出て行った後、真澄は煙草に火を点けると机に凭れ窓の外を見た。
どんよりと重たい雲が灰色の世界を作り出し、今にも泣き出しそうな模様を見せている。

(フ、今のおれと同じだな。)

売り言葉に買い言葉で言い争ったあの日。
マヤが翌日からロケで東京を離れることも知っていたし、そのためにその夜を一緒に過ごす約束もしていた。
しかし、マヤは大っ嫌いという言葉を残して真澄に背を向けた。
マヤを責めた自分が悪いのか、何も言わないマヤが悪いのか真澄にはわからなかった。
ただこのままの状態で離れることはできない、と真澄は約束の時間にマヤのマンションに行ったが、マヤの部屋の電気は消えていた。
それは真澄自身を拒否しているように思え、マヤを迎えにいくことができなかった。

マヤからの連絡はない。
そして真澄も自分からマヤに連絡することはしていない。
お互い感情的になりすぎて、相手の心が見えなくなっていた。




マヤは渋っていたが、マネージャーに連れられ事務所まで来た。
ロケから戻ったのだから事務所に顔を出すべきだ、と諭されたのだ。

二人でロビー奥のエレベーターに乗り込んだ。
マネージャーは躊躇することなく最上階のボタンを押す。
マヤはこのまま逃げ出したい衝動に駆られた。
喧嘩してから今日までの1週間、一度も真澄と話をしていない。
マヤはどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

チンッ

エレベーターの扉が開き人影が見えた。
扉の向こうには水城と見知らぬ男が立っていた。
「マヤちゃん。」
マヤはエレベーターを降りると男を避けるように水城の裏手に回った。
「それでは副社長、よろしくお願い致します。」
水城は男に向かって深々と頭を下げ、副社長と呼ばれた男はマヤは乗ってきたエレベーターに乗り、階下に降りていった。

エレベーターの扉がしまったのを確認すると、水城は頭を上げマヤに向かい直った。
「マヤちゃん、今日はどうしたの?」
水城の問い掛けにマヤが慌てて取り繕う。
「え、えっと、ロケが終わってさっき東京に着いたんです。それで、戻ったって挨拶に...」
「そう。お帰りなさい。真澄様はいないけど、美味しいチョコがあるから少し休んでいってね。」
水城は笑顔でマヤに言うと、踵を返して廊下を歩き出した。

マヤの脳に水城の言葉がゆっくりと伝わる。

(速水さんがいない?)

マヤは慌てて水城の後を追った。
「あ、あの、水城さん、速水さんがいないって...」
歩いていた水城の足が止まる。
「昨日からシカゴに出張されてるわ。」

(シカゴに出張...?)

マヤの顔色が変わった。
「マヤちゃん?」
水城の呼ぶ声もマヤには聞こえず、ただ手で口を押さえていた。
「いつまで...速水さんはいつ帰ってくるんですか?」
マヤは今にも泣きそうな声を振り絞り、やっとの思いで聞いた。
「10日後よ。」
「10日後...」
マヤは小刻みに震えながら1歩、また1歩と後退していく。
「マヤちゃん?」
水城の何度目かの呼びかけに、マヤは弾かれたように駆け出した。

−聞いてない
−出張なんて聞いてないっ
−シカゴなんて聞いてないっっ

これまでにいっぱい喧嘩もした。
会えない日だってたくさんあった。
それでもこんな辛い想いをしたことはマヤにはなかった。

真澄は一人で日本を発った。
いつ行くともいつ帰るともマヤに告げずに。
マヤは時間が解決してくれると思っていた。
いつものように「おれが悪かった」と優しく微笑んでくれると信じてた。
真澄の温もりを感じることができると安心していた。
真澄に愛されているという想いが強かった。
しかし真澄は自分を赦してくれない。
絶対に...
自分の放った言葉に真澄はどれほど苦しんでいるだろう。
今更ながら真澄の心を裏切り、傷つけたのだとマヤは悟る。
ばかなことを言ったと思っても消せない言葉。
伝えることのできない想い。
マヤの心が叫んでる。

(会いたい。)

マヤには真澄しかいない。
マヤの魂が真澄の魂を欲している。
他の誰でもない真澄を求めている。
「速水さん...」
マヤは零れた言葉を抱きしめ、その場に蹲り泣いた。




真澄は日本を発つ直前、思い切ってマヤに電話をした。
しかし、マヤの携帯電話からは硬質なアナウンスが流れるだけだった。
「くそっ。」
真澄は電源を切ると飛行機に乗り込んだ。

マヤから少しずつ離されていく、そう思うだけで身を切られるような痛みが全身に走る。
いつもマヤから向けられる「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」の二つの言葉。
稽古で遅くなっても、ロケで真澄のそばを離れていても、必ず言ってくれたマヤの思いやり。
今回真澄は自分でそれを断ち切った。

あの後、何度も謝ろうと思った。
だがマヤから何の連絡もなく、未だマヤが怒っていると思うと電話をするのも戸惑われた。
マヤは自分の言動に深く傷ついたに違いない。
泣きながら社長室を飛び出したマヤの姿が鮮明に思い出される。
わなわなと震えながら、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めたマヤ。
泣かせるつもりなどないのに、結局は泣かせてしまう。

マヤの中で常に自分が一番でありたい、と真澄は思う。
だがそう思うことはひどく勝手なのだろう。
マヤにとって芝居をすることは、呼吸をすることと同じくらい自然なこと。
真澄がマヤのそばにいることは、二つの魂が一つになろうとする自然の摂理。
真澄は素直に自分の想いを伝えることのできなかった己を悔いた。

何故「よくやった」と褒めなかったのか。
何故「頑張ったな」と抱きしめなかったのか。

どんなに後悔しても発せられた言葉は決して消えない。

自分自身よくわかっていた。
女優として成長していくマヤと、女として花開くマヤ。
そのどちらも間違いなく自分のものなのに、いつの間にか自分の腕をすり抜けて飛び立って行きそうな不安に襲われる。
自由を求めて大空へ...

自分がマヤを常に欲するように、マヤにも自分を欲してほしい。
男の身勝手かもしれない。
どんな些細なことでも知っておきたい。
マヤのことなら何でも。

それができなかった自分に腹が立った。
マヤのそばにいることができなかった自分を嘆いた。
その苛立ちをマヤにぶつけた。

(最低だな...)

マヤを傷つけた以上に真澄の心は傷ついていた。
愛する者を傷つけた代償はあまりにも大きすぎる。
どんなに離れていてもすぐそばにマヤを感じることができていた。
しかし今はマヤの影さえも見えない。
真澄の心は悲鳴を上げていた。

逢いたい。
逢って抱きしめたい。
その唇に口づけ、俺の想いを伝えたい。

眼下に広がるオレンジ色の光の洪水が真澄を襲う。
「マヤ...」
真澄の口から切なく狂うほどの愛が零れた。



真澄が帰国する2月14日、マヤと真澄はそれぞれの愛をその日に賭けた。






14日かあ…。バレンタインなのよね…。
速水さんが日本に帰国する日。
ちょうどいいかも…。
やっぱり、ごめんなさいって謝って、そして、それから、あたしは…。
速水さん、許してくれるかな…。
ううん、どうしても、速水さんにはちゃんと謝って、ちゃんと仲直りしたい。
あたしには、速水さんしかいない。
あたしには、速水さんだけ。
会いたい、速水さん…。
…そう。そうよ。
速水さんが帰ってきたら、ちゃんとあたしから会いに行かなきゃ。
バレンタインのチョコレートも渡そう。
下手でもいいから、自分の手作りのチョコレート、作って、渡すの。
どうか速水さん、受け取って…。お願いだから…。
そして、笑って。
名前を呼んで。
そうしたらあたしは、あたしは…。

マヤの脳裏に、真澄の柔和な微笑みがふと浮かんだ。慕わしかった。


14日か。帰国する日は。
バレンタインデー、になるか。
ここアメリカの習慣では聖バレンタイン祝日は男性は花束とカードを女性に贈ると聞いた。
そうだな、いいかもしれない、マヤに会うには。
悪かったとマヤに詫びて、昔のように紫のバラとカードを渡そうか。
昔のようにマヤは紫のバラに喜んで、俺の我が侭を笑って無かったことにしてくれるだろうか。
それもまた俺の勝手な唯我独尊か?
…いや。
俺が悪かったと、マヤには心を尽くして許しを乞おう。
つまらぬ意地を張って、悲しませて悪かったと。
マヤ、おまえだけ。
マヤ、おまえこそ、俺の唯一つの生きる証。俺だけの女。
…そうとも。
日本に戻ったら、必ずマヤに会いに行こう。
そして、取り戻す、必ず。あの笑顔を。
この手に、この腕に、取り戻す、必ず。
マヤ、おまえを。
待っていてくれ、それまで。

シカゴの窓の外は雪。窓ガラスの翳りに、真澄を見あげるマヤの明るい瞳が見えた気が、真澄にはした。




あと3日。
あと2日。
そして、今日。2月14日。
指折り数えた日は長かったようでもあり、気づけばあっという間だったような気もする。
成田空港に降り立てば、日本の関東の冬独特の乾燥した真冬の冷気が真澄の頬を刺した。
真澄は水城に帰社の時刻の連絡を入れた。


一方、東京。大都芸能本社秘書室。水城が電話を受けた。
「あら、マヤちゃん。どうしたの、元気がないわね。社長?夕方5時には帰社するそうよ。」
「え?そうね。夜8時なら社長も手が空くでしょうね。あら、構わないわよ。いらっしゃいな。」
マヤからの電話を切ると、これでやっと今回は仲直りかしらと水城は肩をそびやかした。


午後8時過ぎ。真澄の執務室。
真澄のデスクの内線が鳴った。
「速水だ。」
「社長、マヤちゃんがお越しですわよ。」
「ああ。通してくれ。」
受話器を置いた真澄の耳に残る水城の声は、幽かに笑いを含んでいるように真澄には思えた。
構ったことか。何とでも言わば言え。マヤの心を取り戻すことが先決。

控えめに扉がノックされ、水城が社長室にマヤを招き入れた。
「社長、マヤちゃんですわ。今、お飲物をお持ちします。」
「ありがとう。頼む。」

その真澄の声を、マヤはひどく懐かしい声音を聞いた思いで耳にした。
穏やかで涼しげな、張りのある真澄の声。
瞬間、マヤの胸に恋しさが募った。
だが。
マヤの頬は緊張でいくばくか強ばった。茫然と、扉を背にして立ち竦む。

どうしよう、えっと。

何から口にすればいいか。
マヤは迷った。

「あら、マヤちゃん、どうしたの。おかけなさいな。」
水城が真澄にはブルーマウンテンを、マヤにはストレートティを運んできた。
「あ、はい…。」
水城に促され、マヤは俯いて社長室の革張りのソファに歩を進めた。
自分の心臓の音が周囲に響くのではないかとマヤには思えた。
水城が辞して、社長室にやっとふたりきり。

暫し、沈黙が流れた。

マヤの様子を窺う真澄の視線に晒されると、肌が焼けつくような気がマヤにはする。
臆してマヤは瞳を伏せた。

淡いピンクのタートルネックのセーターにマヤの長い髪が揺れた。
真澄も言葉を失った。
マヤの一挙一動を目にすれば駆け寄って抱きしめたい衝動が真澄の胸元に突き上げた。
しかし真澄も躊躇う。
マヤのつややかな長い髪。
少しだけ青ざめた柔らかそうな頬。
小さな赤いくちもと。
華奢な肩。
伏せた睫毛。
膝の上で重ねた掌。
白いスカートから覗くタイツのほっそりとした両の脚。

俺のものだ、俺のもののはずだ、このすべてが。
どうした、速水真澄。何を躊躇う?
マヤ、おまえが愛おしい。心から。
今、俺が為すべきことは、たったひとつのはず…。



ひとつ、大きく息を吸いこむと、真澄は椅子から立った。
次の瞬間ふたりの視線がぴたりと合った。

「あの」「マヤ」

ふたりの呼びかけが重なった。

その刹那真澄が広げた両腕に、マヤはさっと立って飛び込んだ。

「ごめんなさい、速水さん…。」「悪かった、マヤ…。」

互いの謝罪の言葉も重なった。
そして、見つめ合う。
黒目勝ちなマヤの瞳を一瞬閃くような真澄の強い眼差しが射た。
みるみる、マヤの瞳が潤む。
真澄は仄かに笑いかけてやった。

想い合う恋人たちにはそれだけで充分だろう。
マヤは大粒の涙を零しながら真澄の胸に顔をうずめた。
真澄はその腕にマヤをしっかりと抱いてやる。
嗚咽こそ洩らさないがマヤの涙は真澄の胸でとめどがない。

「いくつになった、マヤ?泣くんじゃない。もういいから。俺は判っているから。」
その静かな声は慈しみを湛えて、マヤの高ぶった神経を慰めた。
「泣かないでくれ、マヤ。俺が悪かったよ。」
「あたしの…ほうだって…ごめんなさい…速水さん…。」
途切れる言葉をふりしぼるようにマヤもまた真澄に謝罪する。
「もう言うな。」
真澄はマヤの顎をついと持ち上げ、その長い指でマヤの頬を伝う涙を柔らかく拭ってやった。
そして黙ってマヤを抱く腕に力を込める。
涙に濡れたマヤの睫毛が幽かに震えた。
真澄の力強い抱擁。暖かい広い胸。どれほどかそれらが今のマヤには恋しいことか。
いっさいのわだかまり、いっさいの胸のつかえはいま、マヤから流れ去ってゆく。
マヤのくちびるが密かにわなないたのを合図のように真澄は身を屈めた。
そして静かに接吻した。

真澄のくちびるは熱をもって弾力があり、しっとりとマヤのくちびるを押しつつみ、忍びこむ。

ああ…速水さんのキスだわ…

恋慕う男の抱擁と接吻。これ以上何を望もうか。
そう、もういいのだろう。何もかも。真澄の言うとおり。
このまま真澄の中に溶けこんでしまいたい。
真澄の腕の中でマヤは恋の魔法に酔いしれた。

ふっと熱い息を吹きかけて、真澄はゆっくりとくちびるを離した。そしてマヤの眼を覗く。

―あなたが好き―

語る瞳がそこにあった。
許し、与え、育む。
愛という名の尊厳は、いま、ふたりに階段の一段を昇らせた。
そのように愛は、人を人として高めていくだろう。真実の愛情を実らせる者の間に。

真澄の裡でマヤはこのひととき一際輝きを増して愛おしかった。

うなじを愛撫されて、ぞくりとマヤは戦いた。そしてくちびるから甘い吐息が漏れる。
それは真澄にも蠱惑の誘い。
だが真澄はふと笑うと、マヤからすっと身体を離した。
俄に寒い、と、マヤは感じた。


「部屋まで送ろう。続きはそれからだ。その前にマヤ、これを。」
真澄はデスク横の戸棚を開けると用意していた紫のバラの花束を取り出し、マヤに差し出した。

「あ、紫のバラ…。」
「アメリカではな、今日は男は女性に花を贈る日だそうだ。」
花束にはカードが挟まれていた。マヤは見慣れた懐かしい手書きの文字づらを目で追った。

――時はこうして流れてゆきますが
   ただひとつの真実 それはあなたをずっと愛しているということです
    あなたのファンより――

読み終えて真澄を見あげたマヤの満面の笑みは、愛される女の幸福の光輝にうつくしく輝いた。

「あたしも…。これ。速水さん。」
マヤはソファに置いたバッグの中から、昨夜遅くまでかかって苦労して作ったトリュフの箱を取り出した。
ラッピングもリボンの結びも、マヤは自分で手がけた。

「チョコレートなの。自分で作った。美味しくないかもしれないけど…。」

「そうか。嬉しいよ。ありがとう。これはきみの部屋でいただくとするか。」




その夜。
マヤのマンションの寝室で、ふたりは飽くことなく互いの恋情を求め合い与え合い、
官能のほむらの燃えさかるまま果てしもない快楽を分かち合って、長い熱い愛を営んだ。

セント・バレンタインデー。
ふたりの至福の一夜であった。
















終わり








制作の経緯:
原案(さくら様)→プロット提案(紫苑)→ストーリー構成(さくら様)→分担決定(紫苑)→原稿作成(各自)
タイトル決定(さくら様)

さくら様コメント:
今回、紫苑さんと“コラボ”という貴重な経験をさせていただき、とても勉強になりました。
完成した作品を読むと、作風の違いというのがよくでていて面白いなぁ〜としみじみ。
特に心理描写や表現方法(言葉の使い方)にすごい差が...
それなのに手抜きと自己反省されてる紫苑さん。全力投球されたら私はきっと立ち直れないかも...です。
やはりあなたは私にとって月影先生のような尊敬すべきお方です。
今は作品が完成し、ホッとしています。でも楽しかったぁ〜〜〜。
紫苑さん、この度は本当にありがとうございました。

紫苑より:
コラボ、と申しましても殆どはさくらさんの分担でしたね。私は方向決定しただけです。
さくらさんの妄想力には本当に頭が下がりました。素晴らしいですわ。
私はと言えば別ジャンルにハマッている真っ最中。空いた時間にチョイチョイと…うわ〜スミマセンっっっ。
さくらさんの本作の主眼、悶マスと切ないマヤちゃん、十分お楽しみいただけましたことかと存じます。
さくらさん、今回も誠に誠にありがとうございました。


2006/1/16

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