「マヤ、この先なにがあってもおれを信じてついてきてくれるか?」 あの夢のような一夜が明けて、現実に引き戻されようとする間際、あたしの肩をぐっと引き寄せて、速水さんが投げかけてくれた言葉。 速水さんとあたしとでは住む世界が違いすぎて、速水さんにはあんなに美しい婚約者がいて。そんなことは百も承知で、それでもあたしは速水さんのことが好きで好きでたまらない。そんなあたしの気持ちを見透かしたかのように、速水さんの口から出て来たその言葉は、あたしに勇気をくれた。堅い決意を秘めたその横顔が、逞しくも頼もしくも感じられて、見慣れているはずなのに、ドキドキが止まらなかった。不安がない訳ではないけれど。でも、速水さんを、紫のバラのひとを、信じよう、速水さんなら、信じられる。だって、紫のバラのひとだもの。いつだって、私を支え続けて来てくれた人だもの。 「早く大人になりますから、待っていてください」 桜小路君を置き去りにして追いかけた広い背中。あたしはまだ本当に大事なことは伝えていなかった。速水さんに好きと言われた訳でもない、ましてやキスなどされた訳でもない、でも、あたしにとっては、船上での速水さんの腕に抱きしめられたあの感触だけで充分だった。あたしも速水さんに負けないくらい、あなたのことが好き。そして、早く大人になって、大人の速水さんに釣り合うような女性になりたいと思う気持ちは、本物。速水さんから貰った勇気で、今伝えなければ、と、必死だった。 ******* 船上の朝日の中で、初めてマヤと想いが通じ合ったと確信した。暴漢に襲われた夜以来、何度となく蘇って来たマヤの声、涙や吐息や唇の感触は、煩悶するおれの妄想だと思って来たが、いったいいつの頃からなのか、マヤはおれのことを好きでいてくれたらしい。びっくりしたというよりも、マヤの溢れ出した感情がおれの中に流れ込んで来て、あまりの愛おしさに自分の立場も忘れて、あの小さな体を抱きしめていた。考えてみれば、いつの頃からか、あの子がおれに向ける目から憎しみが消えていたような気がする。水城君もいつぞや、「信号はいつまでも赤ではありません」と言っていた。 しかし、鈍くて卑怯なおれはマヤの気持ちなどに気付く訳もなく、自らの想いを封印しようと、望まぬ見合いをし、婚約までしてしまった。だが、もはや自分の気持ちに嘘をつくことはできない。自分で蒔いた種は自分でケリをつけなくては。 今後の会社の運営に支障を来すことはおおいに考えられるが、死ぬ気で頑張ればきっと会社の方は何とかなるだろう、いや、何とかする、おれは紫織さんとの婚約を白紙に戻そうと誓った。そして、マヤを迎えに行く、と。 気持ちが乗らぬままマヤを桜小路優に託し、紫織さんのもとへ向かったおれのあとを、あの子が追いかけて来た。あろうことか、自らの意思でおれの胸へ飛び込んで来て、「待っていて下さい」と言う。ああ、マヤ、待つに決まっているじゃないか、待っているとも!これまでもお前が大人になるのを待って来た。 お前の気持ちがおれにあると確信できた今は、何も怖いものはない。待っていて欲しいのは、むしろ、おれの方だ。紫織さんとの関係を清算するまでは時間もかかるだろうし、マヤに嫌な思いも、寂しい思いもさせてしまうだろう、だが、おれは必ずお前を迎えに行く。 ******* ここは…?ふと目が覚めると、見慣れない天井が目に入った。横を見やると、滝川が心配そうに私を覗き込んでいた。 「お目覚めになりましたか、紫織様。」 ああ、私は、埠頭で真澄様を待っていた。ワンナイトクルーズを真澄様と過ごせぬまま、悶々と埠頭の車で一夜を明かした。せっかく、真澄様との距離を縮めようと思っていたのに。真澄様の心の中からあの女を消し去ろうと思っていたのに。恥を忍んで私からお誘いした一夜。ああ、真澄様は、私のことをはしたない女だとお思いになるかしら。そんなことも考えながら、まんじりともせず車の中で過ごした。 夜が明けて、太陽も高く昇って来た頃、真澄様の乗ったクルーズ船が戻って来て、私は真澄様に駆け寄ろうとしたその矢先。 あの女、北島マヤが真澄様の後ろからおずおずと歩いて来た。なぜあの女がこの船に?!まさか、あの二人に、昨日、何か、あったのかしら?!嫉妬と不安と憎悪が一気にこみ上げて来て、「真澄様に軽蔑されたら…」という不安など、消し飛んでしまった。 そして。私が手切れ金がわりに滝川に持たせた小切手が、無惨な形で引き裂かれ、真澄様から私の手に返された。言葉こそ丁寧だったけれど、怒りを隠しきれない口調、氷のように冷たい眼差し。初めて見る真澄様の姿。お仕事の間にそのような表情を垣間みたことはあったけれど、私に対しては婚約者として、いつでも穏やかで、温かい視線を送ってくれていた。ところが、今日の真澄様は!!!「失礼、ぼくはこの子を送って行きます」と、私の横を、私などには目もくれずに、スッと通り過ぎてしまった真澄様の態度に、私はとどめを刺されたのだったわ。ああ、何ということ!眠れずに一晩中車中で過ごした私の病弱な体は、ただでさえ立っているだけでもやっとだったのに、とりつくしまもない真澄様のその一言で、限界に達して気を失ってしまったのだったわ。 仕事のためならどんな酷いこともやってのける冷血漢、真澄様のことをそんなふうに言う人が多いと聞いていた。けれど、そんな噂など信じられないくらい、私の前ではとても優しくて紳士的だった真澄様。それが今朝は手のひらを返したかのような、あの態度。仮にも婚約者である私に向かって!鷹宮家の令嬢であるこの私に向かって!そんなにもあんな小娘のことが大切なのですの?! いったいあの船で昨晩、何があったというの?!許せない、北島マヤ!あなたなんかに真澄様をとられてたまるものですか!激しい怒りがこみあげてきた。 「真澄様は?」 滝川に尋ねた。 「紫織様が眠っていらっしゃる間にお見えになりましたけど、日曜日でもお仕事があるとかで、会社の方へ向かわれましたよ。」 「そう…」 すると、救護室のドアをノックする音と同時に、お爺様が姿を現した。 「おお、紫織や、目が覚めたか。気分はどうじゃ?」 「お爺様…だいぶよくなりましたわ。ご心配をおかけしました…」 「いくら真澄くんが婚約者とはいえ、おまえはまだ嫁入り前なのだぞ、もう少 し分別をつけなさい。おまえは体も弱いのだから、真澄くんもそこのところをわきまえておいてもらわなくては困るのう…」 え?ふと滝川を見やるとめくばせを返して来た。 「紫織様は婚約中にロマンチックなデートをされたかったのでございますよ。チケットを手配したのは私でございます。紫織様の喜ぶお顔が見たくて、つい。」 「…まあ、よい。紫織や、ここはあまり体が休まらぬ。今日は家でゆっくり休んだ方がよいぞ。」 こうして私は屋敷へ戻った。 ******* 抱きついてくるマヤを抱きしめて、彼女を待つと約束した後、おれは紫織さんのもとへ向かった。軽い貧血性の目眩とのことだったから、少し休んでいれば大丈夫だろう。顔色のすぐれない、眠っている紫織さんを見ながら、紫織さんのついた嘘と小切手の理由に思いを巡らせた。 釈然としない気持ちを抱えたまま、紫織さんを残しておれは社に戻った。 その日の午後、桜小路優の事故の話が飛び込んで来た。あろうことか、マヤにバイクに乗るのを断られて一人で帰る途中で起こした事故。全治2ヶ月の重傷だという。とても紅天女の試演には間に合わない。だが、マヤの相手役として、腹立たしい事ではあるが、桜小路優以外は考えられないのも事実で、おれは代役をたてずに暫くは様子を見ることにした。 その他にも、この日は立て続けにおれの耳に色々な情報が舞い込んで来た。 水城君と聖から話を聞き、おれは胸騒ぎがした。仕事を少し片付けた後、おれは車を伊豆の別荘に走らせた。 おれの胸騒ぎは的中した。別荘からは、マヤの舞台写真のアルバムは消えていた!別荘に入った事があるのは、おれと聖と紫織さんだけ。紫のバラは大嫌いと言って花を切り落としたという紫織さんのエピソードといい、ズタズタに切り裂かれた舞台写真がマヤに送りつけられたことといい、激しい憎悪が感じられる。まさかとは思ったが、おそらくは紫織さんは、「紫のバラのひと」の正体がおれであると気付き、マヤに嫌がらせをしたのだろう。大切な舞台写真を切り裂いて送りつけるなど、なんと酷い事を!おれはふつふつと心の奥底から沸き上がる怒りに体が震えた。にもかかわらず、あの子は、あの愛しいマヤは、紫のバラのひとを信じていると言ったという。ああ、マヤ、すまない。どんなに心を痛めた事だろう。それでもなお、「信じている」とは!マヤ、今すぐにでもきみの側に飛んで行って抱きしめたい。「紫のバラのひと」はおれであるときみに伝えたい。ああ、マヤ! もはやおれの中では、紫織さんは婚約者でも何者でもなくなっていた。こんな風に紫織さんを追い込んでしまった原因は、おれにある事は確かだが。だが、とはいえ、マヤにこんな仕打ちをする紫織さんが許せなかった。 これから紫織さんとどう向き合うべきかを考えた。紫織さん自身も一筋縄ではいかないだろうが、更には、会社の事、義父の事、孫娘を溺愛している鷹宮翁の事…問題は山積しているが、おれは前へ進むしかない。 海風にあたり、少し頭を冷やして考えているうちに、婚約指輪やウェディングドレスの件が頭に浮かんだ。そういえばこの件に関して、水城君は「裏がありそう」と言っていた。ひょっとしたら…??? ******* 桜小路君の事故。 あたしは耳を疑った。ああ、あの時あたしが、桜小路君に「ひとりで帰って」なんて言わなければ。病室には包帯でぐるぐる巻きにされた桜小路君が痛々しく横たわっていた。面会の間に、一度だけ桜小路君は薄目をあけてあたしの方を見た。けれど、何も言わぬまま、また目を閉じた。帰ってくれ、と体全体から発する拒絶に、あたしはいてもたってもいられず、病室を後にした。 全治二か月の大怪我。一真役がいなくて、紅天女の試演をいったいどうするのだろう。みんなが同じ気持ちでざわめいていた。 事故から数日経った頃、黒沼チームの一真役に代役は立てないこと、紅天女の試演は延期することになったことが伝えられた。あたしは、ほっとしていた。事故以来、桜小路君とは話はしていなかったけれど、でも、あたしにとって、舞台「紅天女」の一真は、桜小路君以外、考えられなかった。稽古を重ねるごとに、阿吽の呼吸というか、そんなものが桜小路君との間にはあった。 でも、だからこそ、ほっとしたと同時に、とても怖くなった。今のままでは二人の演技ができない。桜小路君と向かい合って、話さなきゃ。 あたしは、ただ一人で桜小路君の病室へ向かった。部屋の前で何度か深呼吸をする。コンコン、と扉を叩いて、中へ入った。 「桜小路君」 桜小路君は、あたしの方を見て、何かを言いかけたが、そのまま窓の外へ視線を走らせた。ああ、あの優しい桜小路君が… 「痛みは、どう?」 ああ、こんなことが言いたいんじゃないのに。 それでも返事は返ってこない。 「あ、あの、あたし…」 すると、桜小路君はすっとこちらを向いて、苦しそうな視線をあたしに向けた。 「マヤちゃん。……少し、ひとりにしてくれないか。」 あたしは返す言葉がなかった。でも、これだけは言わなくちゃ。 「あ、あたしのせいで、こんな事故…ごめんなさい…」 「…マヤちゃんのせいじゃないよ、ぼくの不注意なんだ。 とにかく、今は、ひとりで考えさせて欲しいんだ、せっかく来てくれたのに 申し訳ないけど。」 「…うん。じゃ、今日は帰るね。お大事にね。」 ******* マヤちゃんが見舞いに来てくれた。事故の日以来のことだ。なのに、ぼくは、 マヤちゃんと向き合うのが怖くて、そっけなく追い返してしまった。ひとりになって考えたい事があるのも事実だったけれど。 あの日。紫織さんへ小切手を返すと言って出かけた日。誤って乗ってしまったクルーズ船が出港して、帰ってこなかったあの日。あの夜、一体何があったんだろう?なぜ速水さんがあの船に乗っていたんだろう?下船してタクシー乗り場へ降りて来たあの二人の様子は、いつもと違っていて、何だか胸騒ぎがした。マヤちゃんの後を追うんじゃなかった。あんな二人を見たくはなかった。自分の目が信じられなかった。二人が抱き合っているなんて!社長とマヤちゃんは犬猿の仲じゃなかったのか?「イサドラ!」の初日の舞台の後の出来事だって、社長はマヤちゃんに、あんなに大勢の前で狼少女をやらせてさらし者にしたじゃないか。それに、マヤちゃんは「紫のバラのひと」に恋をしているんじゃなかったのか?いったい、何が、どうなってるんだ。 事故で傷を負った体の痛みよりも、心の傷の方が深い。ぼくは、舞台で、マヤちゃんの「魂の片割れ」を演ずることなんて、できるんだろうか?せっかく見舞いに来てくれたマヤちゃんの顔をまともに見ることもできない、こんなぼくが。 「魂の片割れ」……… そういえば、マヤちゃんと速水さんは、以前、全く同じことを言っていた。人は魂の片割れと出会ったら、それまでの自分がいかに孤独だったかということに気付くと思う、と。魂の片割れは、離れていても同じことを考えていると聞いた。………まさか、あの二人が、魂の片割れ?! ******* 病院を出ると、あたしはたくさんのフラッシュに囲まれた。 「紅天女候補の北島マヤさんですね?」 「本日発売の週刊誌に載っている、この記事について、真偽のほどを伺いたいのですが。」 「大都芸能の速水社長とクルーズ船で一緒だったというのは本当ですか?!」 「食事やダンスをしたり、デッキで抱き合っていたという目撃情報もあるのですが?」 「今日は桜小路優君のお見舞いですか?」 !!! 週刊誌?!クルーズ船?!目撃情報?!ああ、やはり、噂になってしまった。 突然のことに呆然とその場に立ち尽くしていると、黒塗りの高級車が滑るように止まり、中から水城さんが出て来た。口さがない記者達をかき分けてあたしのもとへ駆け寄り、 「さ、マヤちゃん、行きましょう。」 「え?」 「この件につきましては、近々正式にコメントをさせて頂きますので、今日はこれで失礼させて頂きます。」 あたしの腕を半ば強引に引っ張るようにして大都の車へ押し込んだ。 「水城さん!」 「マヤちゃん。この件に関しては、社長からも話を聞いたわ。会社もマスコミも騒然、よ。近いうちにちゃんと弁明しなくてはいけないでしょうね。」 「…あ、あの、あたし…」 「大丈夫よ、こんな記事が出た事も、きっと速水社長の計算のうちなのだわ。だって、社長はこの記事を握り潰す事ぐらい、訳ないもの。」 「あ。」 そうなんだ、速水さんならこの記事が出る事を防げたはず。だからこそ、速水さんには、何か考えがあって…信じよう、速水さんの事を。 「今日はこのままスタジオに送って行くわね。桜小路君がいなくてマヤちゃん自身の稽古はなかなかできないと思うけれど…」 「ありがとう、水城さん」 「マヤちゃん、これだけは言っておくわ。社長はどんな時も約束を守るお方よ。だから、何があっても、社長を信じてね。また連絡するわ。」 水城さんは、あたしに意味ありげな視線を送った。 あたしは車を降り、稽古場に入った。 ******* マヤとおれの記事が雑誌に載る前々日、おれは鷹宮との提携が白紙に戻った場合の事態に備えて、以前から打診のあった外資の会社との会合などに追われていた。次のミーティングまでのほんのわずかの時間、社長室に戻って煙草をくゆらせていると、聖が音もなく入って来た。 「真澄様、先日のクルーズの件ですが。」 「ああ、それがどうかしたのか?」 「明後日発売される雑誌に、真澄様とマヤ様に関して、このような記事が載るとの情報が手に入りました。」 聖は大きな茶封筒をデスクに置いた。 「…」 おれは中身をパラパラとあらためた。 「いかがなさいますか。」 想定内の事態ではあった。あんな公衆の面前でマヤと食事をし、ダンスをし、朝日の中で抱き合っていたのだ。マヤは噂になると、気にしていたが、おれはそれどころではなかった。自分やマヤの立場など吹き飛んでしまうほどに。 さて、どうしたものか。こうなることを見越して、この三日間ほど、猛烈な勢いで仕事をこなしてきた。あとは今晩の紫織さんとの食事で話をどう切り出すか、と、鷹宮翁や義父との話を残すのみとなっている。もっとも、これが一番大きなヤマなのだが。雑誌の発売は明後日。何とかなるかもしれない。聖にも真実を話す頃合いだろう。 おれは、聖に船上での出来事をかいつまんで話した。 「真澄様、そうだったのですか。ようやくマヤ様とお気持ちが通じ合われたのですね。おめでとうございます。」 「ああ。」 「紫のバラの件もあかされたのですか。」 「いや、それは、まだだが…」 「マヤ様は紫のバラのひとにたいそう会いたがっておられます。」 「それも分かっている。だが、紫織さんとの婚約を解消するのが先だ。」 「そうですね。…で、先ほどの、雑誌の記事に関してはいかがいたしましょう?」 「おれは、それまでの間に何とか決着をつけるつもりでいる。記事は適当に都合の悪そうなところだけ省いて、そのまま載せてしまえ。」 「了解しました。」 聖は来たときと同じように、音もなく消え去った。 その夜。おれは紫織さんと遅めの夕食をとっていた。窓からは東京湾の夜景が煌めいて見えていた。ロマンチックな夜景と言う人も多いだろう。だが、おれにとってはまやかしの煌めきでしかない。紫織さんとのつきあいそのもののような。紫織さんとは、埠頭で悪夢のような再会を果たして以来だった。気まずい空気が流れていた。 沈黙を破ったのは紫織さんだった。 「真澄様、先日のクルーズは残念でしたわ。」 「…」 「わたくし、とても楽しみにしておりましたのに。」 「紫織さん。貴女があんなはしたないことをする方だとは思っていませんでしたよ。」 「!!!はしたないなんて、そんなことを仰らないで、真澄様!!!」 紫織さんは恥ずかしさに真っ赤になりながらも、すがりつくように叫んだ。 「鷹宮家のご令嬢ともあろう貴女が、いくら婚約しているとはいえ、結婚前にぼくと一晩を過ごすというのは、いかがなものかと思いますが。」 「わたくしは!あなたと絆を深めたかっただけですわ!あなたはわたくしにとても優しくしてくださる。けれど、真澄様のお心はどこか他にあるようで、わたくしは不安で不安でたまらなかったのですわ!」 「だからといって、ぼくが多忙な身なのは貴女もご存知のはずでしょう、前もって何の相談もなく、あんな風に拉致監禁に近い扱いをされるのは非常に困るのですよ。」 「拉致だなんてそんな!わたくしはただ…」 「婚約者だからといって、許される事と、許されない事があるでしょう。」 「許され、ない、事?」 「例の、小切手のことも、そうですよ。」 「あれは!あの北島マヤという子が真澄様への個人的なうらみから、わたくしたちに嫌がらせをしようとつきまとうから…」 「北島マヤが嫌がらせ?あの子はそんな事をする子じゃありませんよ。おそろしく真っ直ぐで単純な子です。」 おれはせせら笑うように言った。 「それに、紫織さん、あなたはぼくにいろいろと嘘をついていますね。」 「嘘、ですって?!」 「ぼくが暴漢に襲われた夜、一晩中ぼくに付き添っていたのは、貴女ではなく、北島マヤだった。貴女はいつもの目眩に襲われて休まれていたと聞いています。」 「!!!」 「それから…貴女の車から、こんなものが出て来たのですよ。」 おれは水城君から渡された、マヤの引き裂かれた舞台写真を紫織さんにつきつけた。案の定、紫織さんは真っ青になってぶるぶる震えだした。 「先日、ぼくは伊豆の別荘に行って確認したんですよ。別荘番にも聞きました。 お祝いのパーティーを開きたいから中を見せて欲しいと嘘をついて別荘にあがりこんだ、と。」 「…」 おれは更に畳み掛けた。 「そして貴女は、ぼくが大切に保管しておいた北島の舞台写真を引き裂いて、彼女に送りつけた!貴女はご自分が、どれほど酷い事をしたのか、分かっているのですか?!」 「…酷いのは真澄様、貴方の方ですわ…」 紫織さんは肩を小刻みに震わせながらすすり泣いた。 「真澄様、あなたのお心は、ずっと以前からあの子にあったのでしょう!あの子と同じ劇団の方から『紫のバラのひと』のことを聞きましたわ。陰でずっとあの子を支えて来た、と。だからだったのですね、わたくしが以前、紫のバラを欲しいと申し上げたときに、とても怖いお顔をなさった…あの時に感じた不安が…的中してしまったのですわ!なぜわたくしとお見合いをなさり、プロポーズまでなされましたの?!こんな、こんな酷い事って…」 「貴女をこのように不安にさせてしまったのは申し訳ないと思っています。ぼくは義父に勧められてこの見合いをしました。大都と鷹通グループが手を結ぶ事で、会社を更に飛躍させる事ができると。仕事のためと割り切ろうと思っていました。貴女とお付き合いをするうちに、北島のことも忘れられるのではないかとも。…だが、ぼくは、もう、自分の気持ちに嘘をつくことはできないのです。」 「真澄様の気持ちって…」 「紫織さん、ぼくは貴女とは結婚できません。貴女を愛する事はできないのです。婚約を解消して下さい。」 「!!!」 紫織さんの大きな黒い目から大粒の涙が溢れ出した。 「嫌ですわ!!!紫織は真澄様をお慕いしております!真澄様のお側を離れる事など、できはしませんわ!」 「紫織さん、貴女は聡明な方だ、貴女を愛せないぼくと結婚したところで、幸せになれない事ぐらい、お分かりになるでしょう?現に、今、貴女は幸せではないはずです。」 「いいえ!いいえ…わたくし、は…幸せ、ですわ…貴方は…あんなにも優しくしてきてくださったのですもの…貴方はわたくしを愛して下さっていたのでしょう?」 「愛さなくてはならないと思ってきました。そして、いつかぼくも貴女を愛せるようになるかもしれないとも。だが、ぼくは自分の気持ちに気付いてしまったのですよ。ぼくが昔から愛しているのは北島マヤであって、とてもその気持ちを誤摩化す事はできないのだと。」 突然、紫織さんの華奢で白い手がおれの頬を弾いた。 「おやめになって!そんな話は聞きたくありませんわ!…あんまりですわ、あまりに酷い…こんな、こんなむごい事って!」 言葉を詰まらせながら、紫織さんは一人、逃げるように店の外へ駆けて行った。 紫織さんは、温室育ちの深窓の令嬢だ。蝶よ花よと、愛情をいっぱいに受けて育って来た彼女は、本来、嘘をついたり、疑心暗鬼になったりする人間ではなかったはずだ。彼女をあんなふうにしてしまったのは全ておれの責任だろう。おれは、罪もない一人の女性を不幸にしたのだと再認識した。だが、このまま紫織さんと愛のない結婚をする事の方が、はるかに彼女を不幸にするだろう。おれはこの先、何があっても、マヤを忘れる事などできないのだから。おれは自分にそう、言い聞かせた。 ******* あの後、いったいどうやって屋敷へ戻って来たのか、記憶にない。私の心は初めて経験する失恋の痛みに悲鳴をあげていた。食べ物も飲み物も喉を通らない。私の「魂の片割れ」だと思って来た真澄様からの、突然の婚約解消の申し出。受け入れられる訳がない。だけれども、その一方で、このまま真澄様と結婚したところで、いつも今抱えている不安を抱えながら過ごさなければならないであろうことも、薄々感じていた。北島マヤ。あの子がまだ13の頃から真澄様はあの子を見守って来たという。加えて、私の嘘や、舞台アルバムの件、小切手の件、ワンナイトクルーズにお誘いした件で、真澄様は私に対して愛情どころか、怒りや嫌悪を感じているようにすら思えた。埠頭での真澄様のあの冷ややかな態度。あれは、おそらく、真澄様が「敵」に向ける態度。真澄様の側を離れる事は身を引き裂かれるような思いだけれど、あのような氷のような目を向け続けられる事は、もっと、耐えられない。ああ、私はどうしたらよいのかしら。 同じ頃、別の部屋で鷹宮翁がその日発売になった雑誌を食い入るように読んでいた。やがて眉間に皺を寄せて滝川を呼んでくるように言いつけた。 「お呼びでございますか。」 「紫織の具合はどうじゃ?」 「一昨日帰られてから、何も召し上がらず、口にするのはほんの少しのお水だけで…床に臥せっていらっしゃいます。もともとお身体が弱くていらっしゃるのに、この二日でげっそりやつれられて…」 「一昨日、真澄君と何かあったのかのう?」 「…お爺様にはまだ仰らないでと、紫織様に言われていたのですが…」 「何じゃ?」 「…婚約を解消して欲しいと言われたと…」 「…そうであったか…」 「驚きになられませんのですか?」 鷹宮翁は手にしていた雑誌を滝川に渡した。 「これは…?」 渡された雑誌の見開きのページには、大都芸能の速水真澄と紅天女候補の女優北島マヤとの逢瀬について、大々的に報じられていた。鷹宮翁は暫くして滝川に尋ねた。 「あの夜、紫織は真澄君と一緒ではなかったのかね?」 「…実は、あの晩、紫織様は埠頭へ向かわれる途中、大渋滞に巻き込まれて、出航時間に間に合わず、あの船には乗られなかったのでございます…いてもたってもいられなかったのでしょう、紫織様は一晩を車中で明かし、埠頭で真澄様をお出迎えされたのです…あのクルーズは紫織さんにとって、夢でございましたし、お屋敷に戻られなかった事を咎められてはお可哀想だと、私が咄嗟に嘘をついてしまいました。申し訳ございません…」 「では、この記事の通り、真澄君は北島マヤとかいう女優と一緒にいたという訳なのじゃな?」 「はい…下船されて来た真澄様の後からその女優がついてきて、それをご覧になった紫織様はショックを受けられて、倒れてしまわれたのでございます。」 「…なんと不実な!真澄君がそんな男であったとは…」 「そして、先日の婚約解消の申し出です、紫織様の嘆きようといったら…」 「速水家との婚約は解消じゃ!大都との業務提携も全て白紙に戻す!」 「お待ちくださいませ!それでは紫織様がお可哀想でございます!」 「いや、あんな男に紫織を任せる事はできん!女優と浮き名を流すような男などに紫織を幸せにする事など、できはしないわ!」 鷹宮翁は立ち上がると、紫織の部屋へ向かった。 「紫織や…入るぞ。」 「お爺様…」 「…おお、おお、紫織や、こんなにやつれて、可哀想に…」 「…どうかなさいましたの?」 「…紫織や…お前の事が心配で、事情を滝川から聞いたぞ…」 「まさか…」 「真澄君から婚約解消を言われたそうじゃな…」 紫織の両目からすうっと涙がこぼれ落ちた。 「お爺様…紫織はどうしたらよいのか分かりませんの…」 「…お前は、真澄君が女優と下船してくるのを見てしまったのじゃな?」 「!!どうして、それを…」 「…そのことが雑誌にスクープされていたのじゃ…」 「!!!そん、な!あれほどの婚約披露パーティーも開いたのに…わたくし、これから一体、どうしたら…」 「婚約を解消するのじゃ、紫織。」 「!!!いま、なんと、おっしゃいましたの、お爺様…」 「お前という婚約者がありながら、女優なんぞと噂になるような男は、鷹宮家にはふさわしくないし、お前を幸せにする事はできまい。」 「でも!紫織は真澄様を愛しているのです!離れる事なんて…」 「紫織や、おまえのことを思って、心を鬼にして言うとるのじゃよ、おまえもどこかで気付いておるのじゃろう、あの男のもとでは幸せにはなれないと…だから、どうしたらよいのか分からないのじゃ。」 「…」 「紫織にはもっとふさわしい男がいる。おまえが、真澄君を愛しているということも、だからこそ辛いということも分かっておるが、わしはあんな男にかわいいおまえを託すことは絶対にできんのじゃ…」 「お爺様…」 紫織は鷹宮翁の膝に泣き崩れた。 その日の午後、鷹宮家からの使者が速水家を訪れ、正式に婚約解消が成立した。婚約解消を切り出したのは真澄本人からであったが、鷹宮家の面子を保つ意味もあり、鷹宮家からの申し出という形になった。同時に大都芸能にも鷹通グループとの業務提携を白紙に戻すとの通達があり、速水家でも大都芸能でもてんやわんやの大騒ぎになった。 ******* 先ほどからひっきりなしに社長室の電話が鳴っている。マスコミからの電話はシャットアウトしているものの、鷹通グループとの提携を白紙に戻すという件に関するものだけで、ゆうに3時間ほどは受話器に向かっていた。加えて、話を煮詰めて来ていた外資との提携も同時進行で進めねばならず、仕事の鬼と噂されるおれでも、さすがに目が回るほど忙しかった。 正直、こんなに簡単に婚約が解消されるとは思ってもみなかった。プライドの高い鷹宮家が幸いしたといえよう。女優と浮き名を流すようなおれのような不実な男など鷹宮家にふさわしくない、かろうじてこのタイミングでの婚約解消であれば、性格の不一致などと理由をつけて、予めこの話が出ていたことにもできる。鷹宮家に傷をつけることなく婚約を解消できるのだ。義父は寝耳に水だろう。今頃はカンカンになって、頭から湯気を出しているに違いない。自分の興した大都芸能の行く末を案じてやきもきしているはずだ。今のこの忙しさよりも、今晩帰宅した後の義父とのやり取りの方が、面倒くさそうだ。 だが、おれは自由の身になったのだ。これでマヤを表から支える事ができる。何よりもおれはそのことが嬉しかった。 その夜、おれは日付が変わってからの帰宅となった。とうに寝ているだろうと思っていた義父は、目を爛々とさせておれを待っていた。 「真澄!紫織さんとの婚約を解消したというのは本当か?!」 「本当も何も、あちらから使いの者が来たと伺っていますが。」 おれはしれっと言った。 「あれだけ乗り気だった鷹宮翁から性格の不一致などということで婚約解消を申し出る訳がない!原因はこれか?!」 義父は例の雑誌を丸めて床に投げつけた。おれは黙ってその雑誌を拾い上げて義父を見つめた。 「ええ、お義父さん。」 「お前は、よくも、ぬけぬけとそんな事を!紫織さんとの結婚が会社にとってどれほどの意味を持っていたのか、分かっていたであろう!」 「会社の事はご心配には及びません。既に策は打ってあります。鷹通と遜色のないほどの外資との話が進んでいますから。」 「何?!…お前は、予めこうなる事を見越して動いていたというのか?!」 「ええ、そうですよ、お義父さん。」 「紫織さんの何が気に入らないのだ?」 「気に入る、気に入らないの問題ではありません。ぼくは彼女を愛することができないのです。」 「お前ほどの立場の人間の結婚に、愛情など必要不可欠なものではない。」 「そうですね、ぼくもそういうつもりでお義父さんに勧められるまま、紫織さんと見合いをし、結婚する覚悟を決めました。ですが、それは間違っているという事に気付いてしまったんですよ、あろうことか、紫織さんがセッティングしたクルーズ船で。」 「まさか、お前は、あの北島マヤのことを本気で?!あの子はお前よりも10歳以上離れているのだぞ?!」」 「それを言い訳に、ぼくは自分の気持ちを封印しようと思ってきました。だが、魂の片割れだと気付いてしまっては、そんな努力は意味をなさないんですよ。 紅天女に恋い焦がれて来たお義父さん、あなたならぼくの気持ちがお分かりのはずです。」 「…因果な話だな。親子で紅天女に魅入られてしまったとは…」 「ええ、本当に。」 本当によく似た親子だとつくづく思った。おれは義父を寝室へ連れて行った。 ******* スクープから数日後。あたしは桜小路君の代わりに稽古の間だけたてられた代役を相手に、黒沼先生の前で亜古夜を演じた。稽古の後も、亜古夜が身体の中から抜けきらないあたしの肩を黒沼先生はポン、と叩いた。 「北島、今までの亜古夜で一番の出来だったぞ!」 「あ、ありがとうございます。」 「人を愛し、愛される喜びや苦悩といったものが、確実に掴めて来ているようだな。」 「あの、あたし、今なら亜古夜の気持ちが手に取るように分かるんです。」 「ほう…やはり、若旦那が北島の魂の片割れだったか。」 「え?!」 「まあ、あんなゴシップ記事は置いといて、だ、あのクルーズ船で北島に何らかの転機があったのは事実だろう?おれはな、若旦那が北島に、『商品』以上の価値を見出しているだろうと思っていたさ。」 「は、はあ…」 「そうだ、ついでにいい知らせだ。若旦那が紫織さんと婚約を解消したそうだ。良かったな。」 「え?!」 「問題は桜小路だが…そう言えば、今朝桜小路から連絡があったんだが、北島に何か伝えたそうな雰囲気だったな。」 「そんな…この前は、一人にしてくれって、言われたんです…」 「まあ、桜小路もその時から色々考えたんだろうよ、良かったら見舞いに行ってやってくれないか。舞台の上では彼が魂の片割れなんだ、このままでは紅天女はおぼつかないぞ。」 「…分かりました…」 速水さんが紫織さんと婚約解消をした!あたしは驚きと嬉しさでどうにかなりそうだった。…でも、喜ぶ前に…あたしも桜小路君にイルカのペンダントを返さなきゃ。ちゃんと向き合って話し合わなくちゃ。そう思ってはいても、病室へ向かうあたしの足取りは重かった。 病室では、桜小路君は上半身を起こして本を読んでいた。 「やあ、マヤちゃん。」 いつもと変わらない、屈託のない口調に、あたしはビックリした。 「桜小路君…」 「この前は、ごめん。ちょっと、色々考えてたら、頭が混乱してきてさ。」 「なにか、あたしに話したい事があるみたい、って聞いてきたんだけど…?」 桜小路君はあたしに向き直って真っ直ぐにあたしを見つめてきた。 「マヤちゃん。きみの魂の片割れは、速水さんだったんだね?」 「え?!どうして…?」 「マヤちゃんがぼくに一人で帰って、ってぼくを残して行った後、ぼくはマヤちゃんを追いかけたんだ。そしたら、そこには速水社長と抱き合っているきみがいて…」 「…」 「ビックリしたよ、何が起こったのかと思った。だって、マヤちゃんは速水さんと会えばいつでも喧嘩していて、苦虫を噛み潰したような顔をしていたから。 てっきり、世間で噂されているように、犬猿の仲だと思ってた。」 「あたしは…」 「でも、この何日か、ずっと考えてたんだ。そうしたら、以前、マヤちゃんと速水さんが同じ事を言っていたのを思い出した。」 「同じ事って?」 「魂の片割れと出会ったとき、ひとはそれまでの自分を孤独だったと思うに違いない、って。マヤちゃん、そう言ったよね、速水さんも全く同じ事を言っていたんだ。」 「え…速水さんもそんなことを?」 「そのことを思い出して、ああ、この二人が魂の片割れだと気付いたんだよ。」 「…あたし、梅の谷で不思議な体験をしたの…川を挟んで速水さんと向かい合っているときに、なんか、こう、魂が抜け出して、お互いに触れ合うような感覚があったの…でも、速水さんには紫織さんという婚約者がいるし、あたしの勘違いだと思ってた。でも、今なら分かるの、やっぱりあの時の感覚は本物だったんだって。」 「でもね、マヤちゃん、一つだけどうにも腑に落ちない事があるんだ。」 「なに?」 「マヤちゃんは、会った事もない『紫のバラのひと』のことが好きだったんじゃないの?」 「…それが…紫のバラのひとは、速水さんだったの。」 「何だって?!…そのことを速水さんから聞いたの?」 「ううん、そうじゃないの、あたしは前から気付いてた。」 「マヤちゃんは…その…、速水さんが『紫のバラのひと』だったから速水さんの事を好きになったの?」 「違うのよ、桜小路君!あたしは確かに紫のバラのひとに会いたくて会いたくてたまらなかった。なんの取り柄もない、ちびでみそっかすなあたしを、初めて舞台に立った時からずっと、何くれと陰から支えてくれた人に、直接お礼が言いたかったの。『忘れられた荒野』が終わったとき、あたしは紫のバラのひとが速水さんだったと気付いて、愕然としたのよ。だって、つきかげのみんなを追い込んだうえに、あたしの母さんを見殺しにした、憎い人だと思ってきたから…でも、よく考えたら、速水さんはあたしのためを思って、今まで憎まれ役をかって出ていたんだってことに気付いたの。顔を合わせばいつも、嫌味で憎たらしい事ばかり言っている速水さんは、仮面を被っているだけで、ほんとうは、あたしのことをいつでも見守って、体を張ってまで庇ってくれるような、温かな人だったのよ。いつだってそうだったのよ、それなのに、あたしはまるで子供で気付かなかった…」 「そうだったのか…納得がいったよ。…ぼくなんか、速水さんにかなうわけがないんだな…昔からマヤちゃんと速水さんとは、そんな深い絆で結ばれていたんだね。」 「…」 「でも、速水さんには、婚約者がいるだろう、マヤちゃんも辛いね。」 「ううん、速水さんは、婚約を解消したんだって。」 「そうなの?!そう、だったのか…」 「ねえ、桜小路君。」 あたしはバッグからイルカのペンダントを取り出した。 「これ、桜小路君に返さなきゃ…あたしは、もう、持っていられないから…」 「ああ…」 桜小路君は寂しそうに頷きながら受け取ってくれた。 「今なら、やっと、マヤちゃんを諦められる気がするよ。今は辛いけど、この怪我が治る頃には、ぼくは一真を演じられるようになると思う。だから、マヤちゃん、舞台は頑張ろうね。」 「うん。ありがとう、桜小路君。一真役は、桜小路君しか考えられないもの。早く治って、稽古場に戻ってきてね。」 桜小路君は昔も今も変わらずに優しい。あたしは、こんなにいい人を傷つけたということに胸がチクチクと痛んだ。でも、今は後ろを振り返る時ではないんだってことも、分かってた。これからは。速水さんにふさわしい大人になること、紅天女を手にすること。 あたしは病院を出た。久しぶりに昼下がりの散歩をしようと寄り道をしたあたしの目に、電光掲示板に映るあの人の顔が飛び込んできた。 ******* 大都芸能本社、記者会見室。 何度となくこういった記者会見の場を持った事はある。これだけ大勢の記者が集まり、多くのフラッシュにたかれる事に、おれは慣れていた。だが、今日の会見はいつもとは訳が違う。外資との業務提携、手始めにアメリカとの映画の合作の発表というのは表向きであって、口さがないマスコミは、紫織さんとの婚約解消やマヤとの関係について、根掘り葉掘り突っ込んでくるだろう。事実、ゴシップ紙の記者も大勢つめかけている。おれはいつも以上に頑丈な鎧を身にまとい、マイクを渡される時を待った。 時は、来た。 「大都芸能の速水真澄です。このたびは、お忙しいところ、お集まり頂きまして、ありがとうございます。 このたび、我が社では世界各国でエンターテイメントを手がけているA社との業務提携が決定いたしました事をご報告させて頂きます。ご存知の方も大勢いらっしゃるとは思いますが、A社といいますのは…」 おれは淡々と説明を続けた。 「このようなA社との業務提携を開始するにあたり、まずは日米合作映画を撮影する事になりました。これは、全世界をまたにかけるスパイもので、総製作費数十億円をかけた豪華な映画になる予定です。大都からも女優、俳優、製作スタッフなどの人材を提供致します。」 おれはここで一息ついた。 「A社からの打診は既にかなり前からありましたが、鷹通との業務提携の話も持ち上がっていたため、決定までに時間がかかり、ここへきてやっとご報告できた次第です。」 フロアからいくつもの手が挙がった。 「N新聞の橘と申します。それでは、貴社と鷹通グループとの業務提携はなくなったという事でしょうか。」 「はい。鷹通との話は白紙に戻させて頂きました。」 「週刊Fの沢野です。失礼ながら、速水社長は鷹宮家のご令嬢である鷹宮紫織さんとの婚約を解消されたと伺っております。鷹通との業務提携が白紙になったのは、これが原因ではないのでしょうか?」 「先ほどもお話申し上げました通り、A社からは随分前よりお話を頂いておりました。その頃、私の見合いの話も出たため、鷹通との提携も浮上しておりましたが、現代のグローバル化の中で、大都としてどうしたら飛躍できるかを探って参りました。結果として、国際化路線を目指す事になったまでのことであり、婚約解消とA社との提携は関係ございません。」 「週刊Gの古田です。婚約解消の原因は、先日発売された、この記事が原因ではないのですか?」 その記者は、例のおれとマヤの記事が載った雑誌を手にして叫んだ。 「性格の不一致だと、鷹宮家から断りの話が入りました。ご存知のように、私は仕事漬けの毎日で、ほとんど紫織さんにかまうこともできないうえ、時々私宛に仕事上のトラブルで脅迫まがいの電話がかかってくる事などに、嫌気がさし、恐れをなしたのではないかと推察します。」 「それでは、婚約解消と、この記事は、関係ないと?」 「この記事が載る以前から婚約解消の動きはありましたので。」 「それでは、速水社長と北島マヤのご関係について伺いたいのですが。」 「北島マヤのことは、以前大都にも所属しておりましたが、類稀な天性の勘をもった素晴らしい女優だと思っております。」 フロアから次々に質問や野次が飛び出した。 「それ以上のご関係は?」 「ずいぶん親密な関係とお見受けしますが?」 「いつからこういったご関係なのですか。」 場は騒然となり、水城君が静止に入ってやっともとの落ち着きを取り戻した。 「北島マヤは目下、紅天女をめぐって、あの姫川亜弓と上演権を競っている女優ですよね、しかも速水社長、あなたは以前から紅天女の上演権を手に入れようとなさってきていると伺っています。このようなタイミングで社長というお立場で一女優と親しく接するというのは、問題があるのではないですか?」 「確かに、私は紅天女をこの手で上演したいと思ってきました。ですが、今は全日本演劇協会預けという形になっておりますので、私には現段階では、上演権をどうすることもできません。」 おれはさらに一呼吸置き、それから一言、一言、噛み締めるように言葉を口にした。 「このようなタイミングで、と、思われる方々もおいででしょうが、たくさんの憶測が飛び交っているようですので、私と北島マヤとの関係について、言及させて頂きます。」 場がシーンと静まった。 「わたくしごとではありますが、私は北島マヤが芸能界入りする以前から、彼女のファンです。芸能会社の社長である以上、一女優のファンであるなどとは決して公言できる立場ではない事は分かっておりましたので、寝耳に水の方も多かろうと思います。今回のクルーズ船にはお互い、たまたま乗り合わせたのですが、もともと古くからの知り合いですし、食事をご一緒させて頂きました。久しぶりという事もあり、ロビーのソファーで一晩中語り合って過ごしました。翌朝には、現在彼女が取り組んでいる紅天女の一場面を、見せて欲しいと私から頼み込みました。一ファンとして申し上げるならば、彼女の演技は非常にリアルで、まるで自分に語りかけられているような感覚を覚え、私は自分の立場を忘れて思わずあのような行動に出てしまった次第です。現段階では彼女の相手役が事故で怪我を負っているなどの理由で紅天女の試演は延期されていますが、おそらく試演がかなった暁には、ここにいらっしゃる大勢の方々も同じような気持ちになるのではないかと思っております。ただ、私のような立場の者が、このような軽はずみな行動をとってしまったことに関しては、この場を借りてお詫び申し上げます。紅天女の上演権の譲渡については、全日本演劇協会が公平に判断されると思います。」 おれはフロアを見渡し、深々と頭を下げた。誰もそれ以上質問を浴びせる者はいなかった。 社長室へ戻り、デスクに腰かけ、ふうっと大きなため息をつき、おれは煙草に火をつけた。やっとこれで一段落がついた。肩の荷が下りて、心地よい脱力感に包まれた。マヤは今頃何をしているだろう?今すぐにでも会いたいが、紅天女の試演が終わるまでは会わない方がよさそうだ。 すると、水城君がコーヒーを持って入ってきた。 「お疲れ様でございました、真澄様。これで、公私ともどもある程度のけじめはつきましたわね。」 「ああ…」 「本当は、今すぐにでもマヤちゃんのところへ行かれたいのではございませんの?」 本当に、この有能な秘書は、何でもお見通しのようだ。 「だが、今はこれ以上マスコミを煽るような真似はしたくない。」 「そう、でございます、ね。」 「それでなんだが、水城君。」 「なんでございましょう?」 「マヤに言付けをお願いできないか?」 「ええ、ええ。ようございますとも!私は、真澄様がこんなにも変わられて、本当に嬉しゅうございます。」 「変わった、とは?」 「真澄様がご自分の気持ちに素直になられて、マヤちゃんをお守りになるお姿が頼もしいのでございますよ。今までの真澄様ときたら、信号が青にかわっているのにも気付かれずに、歯がゆくて仕方ありませんでしたから。」 「水城君は気付いていたのか?」 「一応私も女ですから。真澄様が紫織様とお付き合いを始められた辺りから、私はマヤちゃんの気持ちをハッキリと分かっておりましたわよ。」 「…」 「それで、言付けとは、なんですの?何なら、マヤちゃんの大好きなケーキも添えますか?」 ******* 季節は移ろい、折しも東京でも紅梅が花開く頃となった。 桜小路君の怪我の完治を待ち、亜弓さんの目の手術もうまく行った後で、満を持しての紅天女の試演の日。桜小路君が復帰してからの稽古は、桜小路君の体力を考慮しつつも、二ヶ月のブランクを埋めるべく、それなりにハードな日々が続いた。何より驚いたのは、桜小路君の演技に磨きがかかっていたこと。あの黒沼先生も舌を巻いたほどに。病室で「いまに一真を演じられるようになる」と言っていた桜小路君は、その言葉通り、あたしの演技と息がぴったりで、亜古夜の化身である千年の梅の木を切り倒すシーンなどは息を呑むほどの迫力だった。 クルーズ船を降りてからこの日まで、速水さんとは会っていない。でも、あたしは速水さんを信じることができた。電光掲示板に映る愛しいあの人の口から出てきた記者会見の言葉は、あたしを守ろうとする愛情と誠実さに溢れていた。あの記者会見の後、水城さんがあたしのもとにやってきて伝えてくれた言葉。 「紅天女の試演が終わるまでは会えないが、おれを信じて待っていてくれ。」 この言葉だけで充分だった。 あたしはメイクの終わった、鏡に映るあたしを見た。 あたしは、亜古夜… 「マヤちゃん、そろそろ始まるよ。舞台の方へ…」 ******* 私は、我が儘を言って、この日のチケットを手に入れた。本来ならば、真澄様の隣の席で見ていたはずの舞台。婚約を解消してからも私の心は千々に乱れて眠れぬ日々が続いた。けれど、北島マヤがいったいどんな紅天女を演じるのか、どうしても見てみたかった。姫川亜弓の紅天女は、はっとさせられるほどの美しさで溜め息が出るほどだった。 舞台に憎んでも憎みきれない筈の北島マヤが登場した。普段はどちらかというと地味で目立たない子だと思っていたけれど、そこにいるあの子は、完璧に紅天女になりきって、輝いていた。ここが劇場とは思えない。梅の里に迷い込んだ錯覚に陥り、梅の木の精の息遣い、女神の存在感を肌で感じた。何よりも圧倒されたのは、亜古夜と一真とのやりとり。思わず、真澄様の座っている方を見やった。その時ちょうど、舞台上の北島マヤと真澄様の視線が絡み合うのが分かった。真澄様は何とも穏やかな表情であの子を見つめていた。魂の片割れ同士の巡り会い、触れ合い…私はこの時に悟った。私が真澄様のことを「魂の片割れ」だと思っていた事の愚かさを。あの二人の絆はそんな薄っぺらいものではない。私なんかが割り込む隙なんて全くない。北島マヤは女優としてのスケールもさることながら、一人の女性としても、私なんかがかなう相手ではなかったのだ、と。 私は、舞台が終わり、拍手がさめやらぬ中、一人静かに席を立ち、劇場の出口に向かった。そこへ、滝川が駆け寄ってきた。 「どうしても行かれるのでございますか、紫織様。」 「ええ。私はあの子に負けたのよ。真澄様を忘れるには、これしか考えつかないのよ。」 「そうでございますか。では、お車でお送り致します。」 「いいえ、今から鷹宮紫織は生まれ変わるのです。自分でしっかり地に足をつけて歩いて行きますわ。」 そう言って、私は手を挙げてタクシーを捕まえた。 「成田へ向かって下さい。」 ******* おれはかつて、マヤに「紅天女のリアリティーを感じさせてくれ」と言った。マヤは今日、舞台の上で、見事に、おれのそのリクエストに応えてくれた。劇場は、以前訪れたあの梅の谷と化し、見る者を圧倒した。そこに、自然と一体化した女神が存在した。 可憐な亜古夜の演技は見る者の胸を切なくした。おれは、一真と同化した。まるでおれが直接愛の告白を受けているような錯覚を覚えた。舞台上のマヤと一瞬目が合ったが、その瞬間、あの梅の谷で経験した不思議な感覚…魂が抜け出てマヤと触れ合ったあの感覚がありありと蘇った。 舞台が終わった直後は、観客は皆、自分が観客であることを忘れ、しばし梅の谷での余韻に浸っていた。ふと我に返ると、今度は割れんばかりの拍手が鳴り止まなかった。 おれは満足だった。紅天女の上演権がどちらに渡るのかなどということは最早どうでもよかった。 おれは大きな花束を抱えてマヤの楽屋に向かった。 ******* 鳴り止まぬカーテンコール。幾度となく客席に向かって挨拶をした。あたしの中にはまだ亜古夜が残っていた。途中、速水さんと目が合った。あたしを見つめる目。ずっと前から、変わらずにあたしを見続けてきてくれた、あの優しい目。梅の谷での出来事は錯覚などではなかった。ああ、速水さん。紫のバラのひと。あたしの魂の片割れ。久しぶりに見た速水さんの顔は、ここのところの仕事の疲れか、ややこけたように感じた。誰よりも貴方に見てもらいたかった紅天女。あたしは全てを出し切ったと思う。悔いはなかった。 清々しい気分で楽屋の扉を開けた… その瞬間、むせかえるような、あの懐かしい香りがあたしを包んだ。 「あ!」 あたしは声をあげた。 楽屋の床には一面に紫のバラの花びらが敷き詰められていた。 花びらの絨毯! ふと視線をあげるとそこには速水さんが大きな紫のバラの花束を抱えてあたしを見つめていた! 「速水さん!」 「マヤ、おめでとう。舞台は大成功だな。」 「…」 あたしの目は、紫のバラの花束に釘付けになっていた。 「ああ、これか…今まで怖くて言い出せなかったのだが…紫のバラのひとは、おれだったんだ。」 あたしは脇目もふらずに速水さんに抱きついた。 「あたし、あたし、知ってました!速水さんが紫のバラのひとだってことに!」 「え?!」 「こうやって、速水さんがあたしのもとに紫のバラを持ってきてくれるのを、ずっと、ずっと待っていたんです!」 溢れ出る涙が止まらなかった。 「ずいぶん、遠回りをしたものだったな…暫く会わないうちに、痩せたんじゃないのか?」 あたしは速水さんを見上げた。 「速水さんこそ…」 速水さんの頬に手を伸ばしかけたその時、急に強い力で抱きすくめられた。そして、耳元で囁く甘い声を聞いた。 「これからもずっと、紫のバラを送り続けるよ、マヤ。」 次の瞬間、あたしの唇に彼の温かな唇が重なった。あたしは両腕を彼の首に絡め、目を閉じた。 あたりには紫のバラの香りが立ちこめていた… fin ぷりん様より 例のモノ、できあがりました。 まったくもって、拙い文章ですが、書き始めたら、もう、止まらなくて。 地震を挟んではしまいましたが、実質一週間以内で書きなぐりました。 のっけから長い文章に挑戦するという、何とも無謀なことをしてしまいましたが。 悩んでいるよりも、書き始めた方が、すらすら出てくるわ、出てくるわ。 書いているのが楽しかったので、ま、初めてだし、こんなものでいいかと思うことにしました。 でも、なんというか、しっかりした骨組みができていなくて。 「世の中そんなに甘くないぞ〜!!!」といった面が、多々ありますが、そこはご容赦くださいませ。 紫苑より デビューおめでとうございます、ぷりんさん! 別花2011年4月号以降のお話、軽快に勢いに乗って楽しく書かれたご様子が浮かんできます。 誰もが楽しみにしているマヤちゃんと速水さんのその後をお書き下さり、ありがとうございました! これからも楽しくお話を綴ってゆかれますように、心から応援しています。 ぷりんさんへメッセージをどうぞ → ■ |
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