Chapter 6


数日後。
TVスペシャル撮影のクランク…インが、いよいよ明日に迫っていた。

前半の約1週間は、八重が患者として入院しその後看護婦をしていた『神山復生病院』で
ロケが行われる。『神山復生病院』は現在も総合病院として診療を続けており、
八重がいた当時の建物の一部が『神山復生記念館』として保存されていた。
ロケはその建物と病院の敷地を使う。当然主役であるマヤはロケの期間中、
病院のある静岡県御殿場市に滞在する予定であった。

マヤはマンションの目の前にあるポストに、手紙を2通投函した。
“は〜ぁ、慣れない敬語で書くのって大変だったわ……”
ロケ前に何としても送ろうと、
Sr.セシリア安田と成瀬母娘宛に、先日の見学の礼状を書いていたのである。

マヤは先日の清蘭学園の様子を思い返し、ため息をついた。
“すごかったわ……こんな学校があるなんて。”

宗教の時間と説明の後、最後に掃除風景を見たのだが、
その掃除がまた、マヤの想像をはるかに超えていた。
何と毎日、教室とトイレの掃除に1時間かけていたのである。
教室は毎日ガラス拭きに床のワックスがけ、トイレは雑巾を一人2枚使い、
洗剤で洗い流した床と便器を、雑巾ごしに手でバンバン叩きながら水気を取ってゆく。

「高校生あたりになると、中にはサボろうとする子も出てくるので困りますわ」
とSr.セシリアは苦笑しつつも、
掃除を懸命にすると無心になれるし、自分で掃除すれば、掃除当番への思いやりや
きれいに使う責任感が生まれるので創立以来力を入れている、と誇らしげに言っていた。
掃除や片づけ、整理整頓の類がかなり苦手のマヤには、耳の痛い言葉だった。

掃除の際の強烈なオレンジワックスの香りを思いかえしながら、
自室のフロアに戻り、部屋の中に入る。
真澄がしばらく来ていない自分の部屋は、小物が散乱し、散らかっていた。
正直マヤ自身はもともと、演技の練習のときなどは散らかってもおかまいなしだ。
それに、以前の白百合荘以来、多少は散らかっている位の方が
“人が住んでる”という感覚で落ち着ける。

そんなマヤも、真澄と交際を始めてからは、定期的に掃除片づけを続けている。
真澄から日頃片付けるよう言われていることもあるが、
やっぱり、比較的きれい好きな真澄に気持ちよく過ごしてほしいから。

“あたしにしては、よく続いてるわ掃除……やっぱり、愛があるから?
 でもホント、愛って、何なんだろう……”

マヤは身に付けていたネックレスを外し、布でふいて丁寧に箱に納めた。
明日のロケに持っていくのである。
アメジストとダイヤをあしらった上品なプラチナネックレスは勿論、真澄から贈られたものだ。

“もしこのネックレスが速水さんからもらったものでなければ、
その辺の宝石店のケースに並んでる、その他大勢の宝飾品と同じよね。“

マヤは、しげしげとネックレスを眺めながら、真澄のことを思った。
ネックレスは愛情の証だが、ネックレス自体イコール愛情、ではない。
大事にしてるのはネックレスに込められた真澄の心。
あくまでネックレスは真澄が用いた、目に見えない気持ちを形にする媒介である。
“あたしが、彼から愛を感じるのは、どんなこと?”

紫のバラ。
学資や劇場改修など、自分を援助するために彼が費やしてきた、莫大な費用と手間。
バラに添えられた、メッセージカードのあたたかい言葉。
姫川邸でかつてきいた、どこか寂しげな、トロイメライの旋律。
ネックレスなどのすてきな贈り物。
笑顔、すねた顔、からかういたずらっぽい顔、真剣な顔、少し怒った顔。
少し低い、澄み切った声。
丁々発止でつづく、気取りのない会話。
自分がすごく疲れてるときに、ざっと作ってくれる美味しい料理。
ときどき社長としての彼に言われる、厳しくも的を得た忠告。
手に足に肩に腰に唇に、自分の躰のあらゆる場所に触れる、彼の体温と体の感触。
自分の一挙一動を見守るまなざし。

“要は、あることなすこと、全部に愛を感じてるんだわ”。
愛を信じるのに、人はなんと多くの感覚を駆使し、物を使い、表現し、行動に起こしているのか。
信仰とて同じだ。言葉で祈り、仏を作り、賛美歌を歌い、神父と語り、世の中に尽くす。

“見えないものって、見えないだけに諸刃の剣なんだ……”

見えないだけに、頼りになる強靭なものにもなるし、
逆に一歩表現や行動を違えてしまえば、一瞬の内に溝が生じて崩れ落ちる脆いものにも、なる。

自分も真澄への愛に悩んでいた頃、紅天女の演技も本当にボロボロだった。
今にして思えば、真澄も自分もあれ程互いに追い詰められる前に、
それこそ社務所やクルーズの時に、言葉で、仕草で、素直に相手に伝えれば良かった。
まあ当時は客観的になる余裕もなかったし、
時間が経った今だからこそ気づく事で、省みる余裕も生まれるのだが。

“勇気を出して演技で伝えて良かった。手遅れにならなくて良かった。”
ネックレスを収めた箱にそっとキスをして、ロケ用の鞄に収める。

でも、それ程までに大好きな真澄とも先日の朝、多少気まずい状態で別れたままだ、
そう思うと、マヤは何ともいえない類の寂しさを感じた。
別に真澄とケンカ別れした訳でもない。
いってらっしゃいのキスもしたし、その後だってしょっちゅう電話をくれる。
しばらく会えていないのも、真澄の出張やマヤのロケ&撮影が重なっただけで
マヤの撮影終了後にすぐ来るといってくれている。
二人の仲に、心配事はないはずだ。
“なのに、気が曇るのは、あたしがちゃんと速水さんの質問に答えなかったからだわ。”

愛を信じるのには、支えあい、見つめあい、語りあい、触れあい……といった
あらゆる感覚でもって互いにやりとりし、“○○しあう”のがどれほど大事か。

先日の清蘭学園でも、そして今しがたも痛感したばかりなのに、
こと母の件に関しては何にも話していない。
自分が率直に心情を真澄に明かしていないし、真澄は負い目と遠慮から話を避けている。

“やっぱり、話をしなきゃ、何もしないで考え込んでても、だめだわ。”
真澄だって、何の考えもなく母を害するつもりだったとは、到底思えない。
夢の中の母の誤解だって、自分が真澄の気持ちを聞いて納得すれば、消えるかもしれない。
ロケから帰ったら、真澄にちゃんと話をしよう、とマヤは思った。


真澄のことを思っていたマヤは、ふと別の用事を思い出した。
真澄から、協会理事長などの日程希望を源造に電話連絡するよう、頼まれていたのだ。
月影の3回忌の件の日程希望確認依頼に2週間以内で返事する予定が、まだ連絡していない。
ロケ先からでは、まともな時間に電話できるか判らなかった。
「いけない、源造さんに電話するの忘れてたわ。かけなきゃ。」

“pipopapopipopapo,Trrrr,Trrrrrrrr,……”

「はい、小林です。」
幸い在宅していたようで、源造がすぐ電話に出た。
「もしもし、こんばんは。北島マヤです。源造さんですか?」
「ああマヤさん、源造です。撮影お忙しそうですが、体調いかがですか?」
「ええ、あたしは相変わらず元気です!源造さんあたしが撮影あるって知ってました?」
源造は自分が舞台以外の仕事を入れたことを知っているのだろうか、と
少々訝しく思うマヤ。

「ああ、そうですね。マヤさんもお電話下さったのはこの件だと思いますが、
 奥様の3回忌の日程確認について、協会分のFAXを大都芸能の速水さんから頂いたんです。
 近況として、亜弓さんが一時帰国されマヤさんはTVドラマ撮影、と聞きました。」
「なんだ、速水さん先に連絡してたんですね。」
「協会分だけ先に頂きました。理事長は、間違いがあるといけませんので。
つきかげや姫川さんの御予定はまだみたいです。マヤさん、御存知ですか?」

「あ、あたし麗や亜弓さんに聞いてきました。
麗たちつきかげと一角獣は、命日と前後2週間どの日もOKって言ってました。
大都芸能からは、命日があたし達の公演期間末なので命日休演日にして東京で行うか、
千秋楽直後、命日から1週間位後に梅の里で行うか、どちらでも構わないとの事でした。
 亜弓さんはハミルさんと一緒で、ぜひ梅の里でお参りしたいと。
 歌子さんも出席、ただ監督はヨーロッパ撮影が重なって難しいそうです。」
「マヤさん、有難うございます。理事長も、亜弓さんとマヤさんの体調さえ大丈夫なら、
3回忌ならば梅の里で法要した方が良い、との御意見でしたのでその方向で考えます。」
「有難う源造さん、よろしくお願いしますね。」
「ええマヤさん、わかりました。
ところで何度も恐縮ですが、マヤさんは、お母様の法要はどうされますか?」
「法要ですよね……・するのが嫌な訳では全然ないんですけど、
でも、家出して母さん捨てたあたしが法要って母さんどうなのかな、とか。
しかも今あたし大都にいますし気持ち的に色々あって。迷ってます。」

マヤは紅天女上演権譲受の際、月影が亡くなる間際に、月影と源造に会っていた。
当時は真澄と交際していなかったが、紫のバラの人とのいきさつも併せて、大都所属を報告している。
恐らくは月影も源造も、交際の事実はさておき、マヤの真澄への気持ちは感づいている筈だ。

「マヤさん、お母さんの件はマヤさんの責任ではないと思うのですが……。
御病気も家出から何年も後で、マヤさん御存知なかったのですし。あの……」
ふと、源造の言葉が止まった。
何か言いかけてやめた、そんな感じがマヤにはした。
「源造さん、どうしたんですか?何か?」
「マヤさん、源造から申し上げるのもいかがかと思うのですが、少々お伝えしたいことが…。」
「え、何かしら?」
“源造さんが、今更あたしに言いにくいことなんてあったかしら?
吊り橋焼いたくらいしか、源造さん別に問題もなかったと思うけど……。なんだろ?“

「実は、マヤさんのお母さんの事なのです。」
「かあさんの?源造さん、何かあったの?」
いきなり母の事と言われて驚いたマヤは、丁寧語もどこかにふっとんでしまう。
「ええ……昔、家出したマヤさんを捜してお母さんが『劇団つきかげ』にいらしたでしょう?」
「ええ。」

覚えている。紛れもなく、マヤが生きている母の声を聞いた最後の日だった。
マヤをかばう月影に、ヤカンごと熱湯をあびせかけた母。
もうおまえなんか自分の子じゃない、といって走り去った母。

悲しかった…演劇の夢が母にも理解されない事で。演劇ゆえに母を捨てたとの負い目で。
あの日のことは、何年経っても、昨日のことのように思い返された。

「実はマヤさん、あれから1週間くらい後のことでしたか、
マヤさんのお母さんから月影先生とマヤさん宛に、手紙と小包が届いたのです。」
「ええっ?それって本当なんですか、源造さん?!」
そんな話は全くの初耳、晴天の霹靂で、マヤは思わず大声を上げてしまう。
そんなの見てないわ、とも一瞬思ったが、芸に厳しい月影のことだ、
多分自分に見せずにしまったか処分したのだろう、とすぐに思い至った。

「はい…・源造も先生宛でしたので手紙の詳細は拝見してません。
ですが、手紙を読まれた奥様が、『今あの子に必要なのは過去との断絶』と言われました。
それから、…・マヤさん申し訳ない、手紙と小包は奥様の指示で処分してしまったのですが、
捨てられた手紙の切れ端の残りがあったのを読んだところ、
『娘をよろしく』『あの子のやりたいことを許してやろうと…』と書いてあったのです。
察するに、マヤさんの演劇をしたいという希望を許して、先生に託したのではないかと。
どうかマヤさん、奥様もマヤさんの演劇への気持ちを察しての行動、悪く思わないで下さい。」
「あ……そんな…そんな……」
「マヤさん………………」
「あ、源造さんごめんなさい、ベソかいちゃって。
 先生のことは、家出の事や当時の母さんの態度からすれば当然の対応と思ってますし、
 感謝こそすれ全然悪い気持ちとかないです。
そのお陰でここまで頑張れた、本当に先生のお陰です。
 ただ、ずっと長い間、母さんの望まないことをして母さん捨てた、と思ってたので。
 なんて言えばいいかわからなくて、胸がいっぱいになってしまって……。」

長い間、母の反対も聞かずに演劇に傾倒した自分は、親の意思に背いた親不孝者と思っていた。
それなのに母は、自分の家出を、演劇を許し理解してくれていたというのか。
幼いころからきつく自分にあたってきた母、春の自分に対する親子の愛情を、
マヤは今になって初めて痛いほどに感じた。
当然、月影だってヤカン事件の直後でもあったし、マヤの演劇に良かれと思って処分したのだろう。
それはそれで、家出した自分と母の様子を思えば、当然の対応だろうと思える。

母も月影も、自分の最大の夢を理解してくれた、という事には変りない。
母の愛に応えられなかったという悔悟の念と、母への感謝が、同時に胸の中から満ち溢れる。

「マヤさん、源造には詳しいことは判りませんが、
 奥様もお母さん同様に、マヤさんのことを愛されていました。
 マヤさんが昔、芸能界で有名になった後に追放された時も、つきかげの面々がマヤさんの
態度が傲慢だ人が変ったと疑う中で、奥様はマヤさんの事を信じぬいておられたのです。
 
 月影先生にしても、マヤさんのお母さんにしてもそうですが、
マヤさんの生きがいで最大の長所である演劇のことを何より理解し、応援し、
マヤさんをいつも信じておられる、
マヤさんによかれと思ってあらゆる行動を起こしている、
そうした方々こそマヤさんを本当に愛しておられる方なのではないかと思います。
マヤさんも、その方々の思いをただ受け止めれば、それでよいのではないでしょうか。」

朴訥とした言い方ではあったが
源造の言葉は、一語一語と、乾いた砂に染みわたる水のようだった。
そして何より、源造の語ることばそのままに接してくれる人物が実はもう一人いるのだ、
と自然に思えたことに、胸が一杯になった。

自分を大事に思ってくれていると源造が語る母と月影は、もうこの世にはいない。
しかし、もう一人のその人物は何より有難いことに、今、共に生きている。
『芸能社社長。仕事の鬼。冷血漢。イヤミ虫。でも、最愛の人。紫のバラの人…』
数多くの人間が行きかうこの世の中にあって、
速水真澄、という人間に出会えた事が二つに無い自分への恵みなのだ、とマヤは切に思う。
マヤの胸中を、『たましいの片割れ』という月影の言葉が、去来した……。

「源造さん、話聞けて、本当に良かったです。ありがと…。本当に、ありがとう……。」
「いいえ。源造は昔あったことをお伝えしただけです。
 ただマヤさんが、ずっとお母さんの事を気にされて御自分を責められているようで、
 先日のお電話の際も法要を控えると話されたのが気になったものですから……。 」
「法要…・してみようかな…考えてみます。母さんに今の事もお礼言わなきゃ。
 でも供物とかは母さんも恐縮しちゃうし、気を使わないでくださいね。」
「そうですか?マヤさんにお任せしますが、お手伝いとか供物とか、何かありましたら
遠慮しないで御連絡ください。撮影も、大変でしょうが頑張ってください。」
「ええ、がんばります。それじゃまた、源造さんおやすみなさい。」
「マヤさんも、おやすみなさい。失礼します」。

受話器を置いたとたん、
あとからあとから、どうしようもない位に、涙が頬を伝って落ちてゆく。
悲しいわけではない、苦しいわけでもない、
色々な気持ちがないまぜになって込み上げる今の感情をどう表現すればよいのか。
ただただ、気持ちの持って行き場が無かった。

“母さん………”
母の生前に、ささやかな事でも何かしてあげたかった、と思う。
母は自分を理解してくれていた、しかし自分が今それを知ったところで母亡き今、
目に見える形で母にできることはもはや、無い。それはとても悔しく空しい事であった。

でも、母が彼岸へと旅立ちもはや肉体を現世に留めていないこの状況にあっても、
自分の母への思いは生前と変らず、いや生前にも増して感謝の念を増している。
例え母がもはや自分を褒めることも語りかけることも無い、
何の見返りがないにしても、やはりマヤはこの自分の気持ちを母に伝えたかった。
「母さんの7回忌、しよう。」


翌日は梅雨明けも近く、早くも真夏を思わせる晴天となった。
TVの撮影クルーとともに、マヤは昼前には御殿場市の『神山復生病院』に到着した。

天候の良さに、八重の心情に迫るマヤの素晴らしい演技も相まって、
初日分の撮影は予定よりも早く、まだ日の高い夕刻前に終了した。

「マヤちゃん、八重の墓がこの病院のそばにあるんですって。行ってみませんか?」
ディレクターの女性がマヤに声を掛けてきた。
「え〜、本当ですか?ぜひお参りしたいです。」
「よし、じゃあ撮影の報告とTVの成功を願って、墓参りに行くか!!」
監督の一声で、マヤを含むロケメンバーのうち5〜6名が、車で数分で八重の墓の入り口に到着した。
病院の敷地のそばなので歩いて行けない距離でもないのだが、
入院当初の八重の扮装をしているマヤが袴姿であったので、車を使ったのである。

「マヤちゃん、これもってもらっていいかしら?」
かのディレクターが小さい花束をマヤに渡す。
彼女はといえば、墓石を掃除するのに使う柄杓、それからバケツに水を入れて持っていた。

墓へ向かう狭い小道を二人並んで歩いていると、ふと、足元に冷たいものを感じた。
「あれっ!!マヤちゃん、袴濡れてる!!」
見ると、袴が左側のひざ下からびしょぬれになっている。
足元の地面も、水がこぼれて一部が抜かるんできていた。
「なんで〜っ!!」
メンバー一同は一瞬あっけにとられたものの、よく見ればマヤの左にいたディレクターの持つ
バケツの側面にひびが入り、入れたはずの水が1/3程度は漏れ出してしまっていた。
「キャー、マヤちゃん、ごめんなさいっ!!」

彼女がタオルハンカチで慌ててマヤの袴を拭いている間に、
別の男性スタッフが猛ダッシュで水汲み場に走り、バケツの内側に
大きめのビニール袋を被せてその中に水を入れなおし、持ってきた。
「え〜大丈夫ですよ!ただの水だし今日は晴れですからすぐ乾いちゃいますって」
「ホンとごめんなさいね、マヤちゃん」
主役の衣装をびしょぬれにしてしまったディレクターが平身低頭で詫びていたのを、
横から監督が口をはさんだ。

「しかし、墓に着く前にすぐ北島さんが気づいてくれて良かったじゃないか。
 トラブルがないに越したことはないが、トラブルは早く気づいて対応すればいいんだ。」
「監督……」
メンバーは皆立ち止まり、監督に視線を向ける。

「気づかなければ墓につくころには掃除に使うはずの水は空っぽになってしまってたし、
 何より水をこぼしながら我々がずっと歩いたら、折角きれいにした小道も台無しだ。
 気づいたときにすぐバケツに袋をかけて対応したから、この程度で済んだしな。」

しごく当たり前の様に聞こえる監督の言葉が、今のマヤには何故か説得力をもって響いた。
“そうだ……何でも、この小道とバケツの水と同じなんだわ。
 確かに起きてしまった物事…濡れて抜かるんだ袴や道はこれで仕方ない。
けれど、ヒビが入って水が漏れ続けるような悪影響をこの先の道に与えないためには、
気づいたところで修理する…ふさぐという作業が必要なのね。“

「監督……」
「どうした、北島さん?」
「きっと八重の人生も、バケツと水の関係と同じなんですよね……?」
ポツリとつぶやくような、マヤの問いかけに監督も静かに答えた。
「ああ…。八重はきっと、気持ちの強い女性なんだろうね。
 『らい病院』に入れられて、過去も未来も空っぽになってしまったが、
彼女は見えない信仰に全てを委ねるのみならず、
自分に残る余力を自分には見えないものの幸せのために、転嫁して注いでいったんだ。
目の前の自分のコップにさえ水が無いのに、自分のコップを満たす前に、他人の喉を潤し
他人の飢えをしのぐための水を生涯かけてさがすなんてそうそうできることじゃない。」

「監督。あたしも、八重みたいに強くなりたいです。」
「そうかな? 私からみれば、北島さんだって十分強い女性だが。
 演劇界入り、一旦演劇界から離れ再復帰した経緯など、君の話は、私の耳にも入っている。
女優の中には有名になると演技に手抜きをしたり能力を過信する者も多いが、君は全く違う。
より良い演技の為に観客の為に損得抜きで体当たりし、見るものを幸せにしている。
八重の看護とはちがうが、君の生き方だって十分彼女に繋がるものがあるじゃないか。」
「監督にほめて頂くと、まだ若造のひよっ子なのに恥ずかしいです……。
 でもあたし、全然そんなすごいヒトじゃないんです。演劇以外ではボロばっかりだし、
こぼれた水を防ぐ手立てを何にもできずにおろおろしてるんです。」

監督の言葉を静かに聞いていたマヤは、自嘲気味に、呟いた。
“八重に比べて、あたしったらなんでこんなに弱いんだろ……”

こぼれおちた水は、すなわち母、春の命だ。
もう二度と元に戻すことができないのは事実だし、拘るなといっても無理な話だ。
しかし水をこぼしてしまった原因を考え、二度とこぼれないよう手立てをし、
残った水〜当事者である自分と真澄の人生〜を生かす努力はできる筈だ。
なのに自分は、自分が悪い真澄が話してくれないとばっかり思っていた。

誰だって間違いはある。気づかぬ内にバケツにヒビを入れてしまうことだってある。
どこを間違えたのか、間違いをどうフォローしたか、相手が語れないなら自分が聞けばいい。
自分が手を伸ばさなくては、何も変らない。

確かに真澄は、何故かはわからないが、母への対応ではあきらかに間違いを犯した。
しかしマヤから許されてない、憎まれていると長い間苦しみ、その為に
自らの気持ちすら封印せざるを得なかった真澄の気持ちを思うと、マヤは言葉もなかった。
自分だって母への連絡や捜索を怠った点では、間違いを犯したのは同様なのだ。
“少なくとも母さんの話は、速水さんが下手に話したら言い訳になってしまうし、
 彼からではなく、あたしから話さなきゃいけなかった……。“

「北島さん、演劇以外で何があったかはわからないが、今からでも全く遅くは無いよ。
 今気づいたんなら、今から水を防げばいいじゃないか。」
監督の言葉に、また真澄のことを考えていたマヤは、はたと我に帰った。
「はい、監督。そうですよね、今からやればいいんですよね…。有難うございます!!」

「さ、マヤちゃん、監督、着きましたよ。こちらが八重のお墓です。」
男性スタッフが、声をかけてきた。
早速、件のディレクターがバケツの水で墓標を掃除し、マヤが墓前に花を手向ける。
「八重さん、お疲れ様です。
 大事なことを色々気づかせてくれて、本当にありがとう。
 きっと良い作品に仕上げます。見守っていてくださいね。」
監督やマヤをはじめ一同、墓標を見つめ、手を合わせてお祈りをした。

ふと見れば、墓標には文字が書いてあった。
『一粒の麦』
ディレクターが、補足の言葉を繋いだ。
「これ、八重が好きだった聖書の言葉だそうです。
『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。』」

八重はまさに、自分の死んだ後の遠い先の実りのみを、一途に信じていたのだ。
マヤには、この短い文字は、まさに八重の信念の強さ…深さを映す鏡のごとく思えた。
………知らぬ間に、マヤの頬から涙がひとしずく、こぼれ落ちた。







Index/Next


SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO