Chapter 5


7月初旬の、小雨の降る朝。
マヤは、地下鉄のとある駅に来ていた。

1週間ほど前に亜弓に学校見学の仲介を頼んだところ、ほどなく亜弓から連絡が来た。
亜弓の先輩である成瀬の紹介で、成瀬が勤める中高一貫教育のミッションスクール
『清蘭学園』をまる一日見学できることになったのである。

昨晩電話をしてきた真澄に見学の話をしたところ、結構驚いていたのが
マヤには意外であった。
「すごいな、清蘭学園か。」
「速水さん、そんなにすごいところなの?亜弓さんの先輩がいるんで紹介してもらったの。」
「清蘭学園は、日本屈指の格式を誇るカトリック校で、進学実績も良好な『お嬢様学校』だ。
皇室のある妃殿下も昔通われ、元華族や財界関係者、官僚や医師の子女が数多く在学している。」
「すごいところなのね……なんだかおじけづいちゃうわ。」
「見学だけだからそのままの姿を判ればいいんだ、気負うことはないさ、マヤ。
 それに八重はかなりのお嬢様だろう?当時の同志社女子も日本屈指の女学校と
言われたのだから、この位のところを見た方がいい。」
「うん、わかったわ、速水さん。」

真澄の的確なアドバイスに得心するマヤ。
少々気まずい別れ方だったあの日以降も、日頃と変らず、何度も電話をくれている。
ただ、八重の役作りが煮詰まっているマヤを気遣ってか、母の話は出ることはなかった。

“お嬢様学校って、どんな学校なのかしら? 
みんな同じ靴やカバンで、髪型も長いと全員三つ編みおさげだったりして?”
女子高は未知の世界。しかも真澄によれば、カトリック校は全体的に校則も厳しいという。
少々不安を覚えつつ、駅の側から続くレンガ塀沿いを数分歩くと、学園の正門が現れた。

入り口の受付で氏名とアポイントを告げると、ほどなく2人の女性が姿を見せた。
「おはようございます。北島マヤさんでいらっしゃいますか。」
一人はマヤと同世代、もう一人は40代後半位。二人は、とてもよく似ている。
恐らくこの二人が成瀬先生母娘なんだわ、とマヤは思った。

「はい、北島と申します。はじめまして。成瀬先生でいらっしゃいますか?」
「ええ、私が成瀬和子で古文の教師をしております。こちらが娘の直子、美術を担当しております。」
和子は優美で上品、直子は明朗快活な感じで、どちらも人柄の良さが感じられる。

「直子先生、和子先生、今日は姫川亜弓さんの紹介でお邪魔しました。
 見学の件準備くださって有難うございます。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ!北島さんのことは直子が存じてまして、演劇をされていると伺いました。
私どもは授業がありましてご一緒できず申し訳ありませんが、
今日はシスター…セシリア安田が一日、北島さんの御案内をして下さいます。
 演技の御参考になれば幸いです。どうぞごゆっくりなさってくださいね。」

そう言うと、二人はマヤを1階応接室まで連れて行った。
よく見れば、1階廊下の床は大理石である。
名門校というのはこんな所まで贅沢なのかと、内心マヤは驚いていた。

「すみません先生、床はこれ、大理石なのですか?」
「ええ、1階だけ大理石を敷いています。他の階はタイルですけど。
 当校は御来客がありますでしょう?1階は外靴で歩けますが、ピンヒールを履いた場合など
タイルでは床を傷つけてしまいます。傷でデコボコでは安全面も心配で床も持たないので、
こうなってます。この床は丁寧に磨いて、もう60年以上使い続けているのですよ。」
「えっ?60年もですか?」
「ええ。タイルを10回変えると思えば値段もそう変りません。
 何よりも生徒達が、床を大事に磨いてきた先輩方からその気持ちを引き継ぎます。
昔の先輩とか未来の後輩のことを彼女たちは当然知りませんが、
見えない存在に思いを致す、という心のもちようを大事にしたいと思っています。」
「そういうことで、大理石を敷いていたんですね。
… …すみません、『お嬢様校』なのでゴージャスだからかなと思ってしまいました。」
「お嬢様と呼ばれますと恐縮してしまいますが…ゴージャスということは無く、むしろ質素で
堅実な子が多いように思います。ぜひ生徒たちの様子もご覧になってみてくださいね。」。

応接室に入ると、シスター(Sr.)セシリア安田が待っていた。

“話しやすそうな人だわ……良かったぁ……”
シスターといえば剃髪していて厳格そうなイメージがあったマヤだが、
目の前の安田は、ベールの下に髪の毛もあって、メガネをかけた丸顔の優しそうな中年女性だった。

「はじめまして。清蘭学園へようこそ、北島さん。私が今日案内致しますSr.セシリアです。
日本の苗字は安田なので、セシリアでも安田でも、呼びやすい方でお呼びください。」
「Sr.セシリア、はじめまして。北島マヤです。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。どうぞおよろしくね。北島さんは、成瀬直子先生のお知り合いだそうですね。
 直子先生よりお若そうですから、聖華学園大の学生さんでいらっしゃるのかしら?」
「いえ、今は学生ではなくて演劇をやっています。」

「まあ、では北島さんは女優でいらっしゃるのね。見学が演技の御参考になれば幸いですわ。
当学園は清蘭女学校として開校以来約100年になる、カトリックの女子中高一貫校です。
それ程変った教育内容ではありませんが、良き人間…良き社会人…良き母をめざして
カトリックの教えに沿った教育をしています。
教育理念は、宗教的な話が関係しますので、またお昼か午後の宗教の時間の後で
あらためてお話させていただきます。」

Sr.セシリアの説明では、授業は比較的特色のあるものを案内するという。
午前中には体育、英語、家庭科の授業風景を見学。昼食後、宗教の時間は生徒と共に受講、
その後1時間説明があり、最後に放課後の掃除風景を見学してお開き、の予定であった。

「北島さん、お昼ですが、当学園には学食や購買部での軽食販売はございませんの。
 職員は仕出し弁当、生徒はパンを頼んでます。
こちらで持たせていただきますので、ご一緒に頼まれません?」
「有難うございます、すみません、Sr.セシリア。じゃあ、パンにします。」
マヤも食事は持参していないので、Sr.セシリアの申し出に甘え、パンを頼むことにした。

「では北島さん、パンメニューです。メモ用紙に、お名前とお好きなものをお書きになって。
 生徒の分も同じように、メモを張った袋にパンを入れて、各クラス毎に届けられます。」
と、Sr.セシリアが出したメニューに、マヤは再度驚いてしまう。

「『ブランジェ浅野屋 清蘭学園様 メニュー』?
 Sr.セシリア、これって…もしかしてあの旧軽井沢のパン屋の浅野屋さんですか? 」
「ええ、そうですわ。よくご存知ですね、北島さん。」

グルメ大好きな割には美味しい店にそれ程詳しくないマヤ。
浅野屋を知っていたのは、以前真澄と白樺高原の別荘に行く途中で
軽井沢に立ち寄った際、美味しいからと真澄が連れて行ってくれたからだ。
特に、量り売りのフルーツライとメランジェは、マヤのお気に入りだった。
もちっとした食感にフルーツのほのかな甘さのバランスが素晴らしく、垂涎ものだった記憶がある。

“袋の菓子パンじゃなくて、こんなすごいお店のパンが学校で毎日頼めるなんて!
 成瀬先生はゴージャスじゃないって言ってたけど、十分ゴージャスじゃない!!”
こんな豪華な環境で、八重の献身の心なんてホントに培われるのかしら・・・、
と訝りつつも、マヤは大好きなメランジェにバケットサンド、それにボンジュールを頼んだ。

「では北島さん、参りましょうか。最初は体育になります。」
時刻は午前10時、2時限の授業中である。

Sr.セシリアについてゆくマヤであったが、どうも体育館とは逆の方向に歩いているようだ。
「あの、Sr.セシリア。雨降ってますけど、体育館は行かないのですか?」
「ええ。当学園は週2〜3時間体育があり、内1時間はダンスです。体育室で行います。」
「ダンス〜ぅ??」
「ええ。さあ、こちらからどうぞ。」

Sr.セシリアが開けた扉の先には、片壁面が鏡張り、床面は板張のダンススタジオがあった。
フロアでは、ダンス担当の教師が、男女役に分かれて組んでいる生徒達に次々と指示を出す。
「はい、スクエアーで、スロー・クイック・クイック! 重心は上、膝の力を抜いて!
 女性はお腹男性に付けて! エビみたいに反ってはいけませんよ!
ステップの方向はLOD、LODで進んでください!!」

…・何を言っているのやら、マヤにはさっぱり判らない。
目の前の生徒達は組んだ姿勢のまま、ワルツのステップで、反時計回りにフロアを回っていった。

あっけにとられたマヤの様子に気づいたのか、Sr.セシリアが話しかけてきた。
「北島さん、このような授業は初めてですか?」
「ええ、体育と社交ダンスがイメージできずにびっくりしました。
生徒さんも難しそうなのに、よくこんなステップ踏んで回れるなぁ、と思いまして。」
「珍しいかもしれませんが、卒業生の皆さん、社会に出ると意外にダンスに誘われるそうです。
男性に誘われて、できないと断ったり全くステップが判らないとマナーに反する上、
本人も恥ずかしい思いをして可哀想です。それで高校生のダンスは社交ダンスにしておりますの。
もっとも週1時間なので、ブルースとワルツの基本しかできませんけれど。」
「そうなんですか……」

マヤは昔、『奇跡の人』で助演女優賞を得たアカデミー芸術祭のパーティーで、
真澄からダンスに誘われたことを思い出した。
“そういえばあたし、ダンス下手で、速水さんに抱きついちゃったんだわ……。
 16歳になったところだったし、ちょうどこの生徒さんと同い歳だったのね。“

社交ダンスに仰天したのに始まって、
その後も清蘭学園の授業はマヤにとって驚きの連続だった。

体育の次は、英語の授業だった。
マヤが見たこともない長文を、生徒たちがサッサと訳す。
しかも教師は日本人なのに授業のやり取りは全部英語。何を言ってるのやら、全くお手上げである。
「英語は中学で週7時間、高校で週6時間です。
中学3年のみフランス語も週2時間必修で、高校入学時にフランス語も選択できます。
北島さんと同じように、演劇や音楽の道に進んだり、留学する生徒も毎年何人かおります。
本場ですので、フランス語ができると便利なんです。」
勉強嫌いのマヤにはぞっとする話である。
“亜弓さんが聞いたら喜びそうだけど、あたしは嫌だわ……”

英語の次は、家庭科。
学期末が近いため、中学3年生が調理実習のテストをしているという。
「焼き魚ですか?」
丸のアジを見つけたマヤがSr.セシリアに聞くと、班毎に『アジのフライ定食』を作るという。
しかもアジは、内臓処理して3枚下ろし、フライ揚げまでを一人一匹分作らないといけない。
フライさえ殆ど作ったことのないマヤには、3枚下ろしなど拷問に等しかった。
“なんで中学生なのに、こんな難しいの作ってるの〜?!”


お昼になり応接室に戻ると、
Sr.セシリアが注文していたパンに合わせて、紅茶を淹れてくれた。

「北島さん、こちらどうぞ召し上がってくださいね。私もご一緒に注文しましたの。
当学園は生徒も食前のお祈りを致します。お聞き頂けますかしら?」
「はい、お願いします。」
そう言うと、Sr.セシリアは十字をきって手を組み、お祈りを始めた。
『父と子と聖霊の御名によって、アーメン。
 主よ、この食事を祝福してください。
 体の糧が心の糧となりますように。
 今日食べものを欠く人々にも、必要な糧をお与えください。アーメン。』

二人して美味しいパンをほおばりながら、マヤは、Sr.セシリアからお祈りの説明を受けた。
「お祈りの言葉は決まった形はないので、当学園で決めています。
 今、世界の4分の3の方が、日々の食事に困ってると言われています。
 何気なくでも生徒が毎日唱えることで、常にそうした方への思いをもち、
更に同情だけでなく、いずれは糧を与えるべく行動する勇気を、という意味を込めています。」
「あたし、お祈りの言葉って元々全部決まってるのかと思ってました。」
「ええ、私も昔、入信する前はそう思いましたわ。
ただ、信仰は本来自由なものです。
言葉という形を予め全て定めてしまうと、お祈りの内容も固定してしまうでしょう?
祈るという形が大事なのではなく、形の先にある見えないものに対して、
何を思うか何ができるか、というところが重要だと思っております。」

見えないものに対して何ができるか。
八重も学生の頃、食事をしながらそんなことを考えたのかとマヤが考えていると、
Sr.セシリアが、授業見学の感想を聞いてきた。

「ところで北島さん、授業はいかがでしたかしら?」
「はい、とても難しい内容でびっくりしました。生徒の皆さん、一生懸命頑張ってますね。」
実際、内容以上に、生徒達が難しい授業についてきてることに、マヤは驚いていた。

「北島さん、生徒をほめてくださって有難いですわ。
真面目に取り組まないとついて行けなくなる内容も多いですが、
私どもが人間として社会や家庭で将来有益な教育をと日々考えていること、
生徒たちも理解してくれているのではないかと思います。」

“ここの生徒達、真面目だしそんな派手な感じではないわ。
 校舎も大理石以外は、施設は充実してるけど、シンプルな作りで趣味はいいし……。“
そう思って、マヤは生徒達のことを尋ねてみる。

「Sr.セシリア、生徒さん結構しっかりして地味な感じですけど、
校則が細かくあるのですか?」
「いえ、当学園には制服以外、校則での定めは殆どありませんの。
 社会規範を守り当学園の品位を落とさない、という指示だけです。
 出席日数や最低限の学業に影響しなければ、報告はしてもらいますがバイトもできます。
 靴と靴下は、黒白で色指定ありますが銘柄は自由です。鞄は全く自由です。
髪形も規則はありません。パーマも明確に禁止していません。」
「え、こちらみたいな伝統校でも、パーマOKなんですか?」
パーマまで許容範囲とは、マヤにはかなり意外な話だった。

「ええ。天然パーマで寝癖が取れない子がセットを楽にしようとゆるくかけたり、
ストレートパーマをする例もありますでしょう?
パーマイコール悪、ではなくて、自分で自覚し社会や他人が見て品位に外れていないか、
ということが大事なのです。まぁ、あまりに品位がないと判断しましたら、注意しますが。」

ここまで話を聞いて、マヤにもある程度、清蘭学園の教育というものが見えてきた。
この学校の規律の少なさや授業レベル、生徒の態度を見る限り、
今成績が良いとか見栄え重視とかではなく、将来自分のすることがどう影響するか、
どう貢献できるか、という部分の教育をしているようだ。
“たしかに、大事なのは形じゃなくて、形にできないところなのかもしれないわ…”

話をするうち、時刻は12時50分になっていた。
「北島さん、当学園は週1時間宗教の時間があります。午後はそちらの見学です。
カトリック校独自かもしれませんね? 成績評価はしないのですが。」
「Sr.セシリア、聖書を読むのですか?」
「いいえ、普段はキリスト教の影響を受け行動をした人物の話をします。
ただ、ここだけは伝えたい、或いは学校で説明しないと判りにくいテーマだけ、
年に何回かは聖書の話をします。」
「あたし、聞いててわかるでしょうか?」
「学生向けに簡易にお話しますので、多分大丈夫ですわ。
 でもわからなかったら、その場でも終わったあとでも遠慮なくお聞きになってくださいね。」
「はい、有難うございます。」

はたして、Sr.セシリアの話通り、この日の『宗教』は聖書の話だった。
何でも、イエスキリストが山上で弟子に説教をした時の『地の塩、世の光』の話だそうだ。

『あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である』(マタイによる福音、第5章13〜16節)

マヤにはかなり難しいテーマだ。
“?土に塩の成分含まれてたっけ?世の中の光でいろってこと?”
ただ、教師が生徒向けにかんたんに話をしたので、何とか話の趣旨は理解したようだ。
少ない(?)マヤの頭で理解した限りでは、こういう事らしかった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
塩は食べ物に味をつけ、防腐剤の役割をする。
光はあたたかさやエネルギーをもたらす。
塩も光も、その存在なくては人間は生きてゆけない。
そして、私たち人間はこういった塩であり光でありうる存在である。

大事なのは、『塩や光となるべき』というのではなく、
生まれながらにして『私達が、塩や光の役割を果たすものとして存在する』ということである。
塩が塩味を失くしてしまったり、光を蜀台でなく棚の下においてしまったりすることは、
無意味なこと、即ち人が人としての本質を失うことと同じようなものだ。

そして更に大事なのは、『地の塩であり世の光である』というのは
道徳的に立派な行いをして人から必要とされ、尊敬され、それを誇りに思うことでは、けしてない。
自分の行いで他人を感化させようとするのは、自分の栄光や誉れをもとめることに他ならない。
自分の心のなかに、よすがとなる誇りや豊かさを築くのではなく、
ただ神の恵みとあわれみにすがる気持ちだけを持つことであるし、そうする人が幸いである。。

『地の塩、世の光』として生きる、というのは
日々の歩みの中で、神様の恵みを自覚しその恵みに支えられて、
心の貧しいもの、悲しむもの、柔和なもの、義に飢えるもの、憐み深いもの、心の清いもの、
平和を実現するもの、義に迫害されるもの、として生きることである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

授業後。
難しいいい回しで、頭がパンク状態のマヤ。
早速応接室に戻り、Sr.セシリアに自分が聞いた授業の趣旨を確認する。

「Sr.セシリア、今聞いた話の内容って、これで合ってますか?」
「ええ、北島さん。その通りですよ。」
「これって、今生きてるこの世で欲をもつな、神にすがれという意味ですか?」
「概ねそういう意味です。……ただ、もうちょっと別のニュアンスがあるかしら。」
「ええと、神にすがるというから……
今の環境の恵みを知り、目に見えないものを信じるってことですか?」
「ええ、北島さん。そうした意味も、あると思います。」

何だか、お昼に聞いた清蘭学園の教育方針に近いようだ。
それに、レゼー神父の唱えていた聖書の言葉『空の空なるかな、みな空なり。神を愛し
これにつかえるのほかみな空なり』にも、意味は似ているように感じられる。

“八重が神父のことばを理解できたのは、
やっぱりこんな感じの言葉を学生のころに聞いていたからなんだわ、きっと・・・“

言葉自体はマヤの限界ギリギリの難しさであったが、
八重の心の軌跡が少しずつ形を顕わにしているようで、マヤは嬉しくなる。

ただ、マヤは元来素直なタイプだ。
言い換えれば、明確な目標にはまい進するし、眼前のものは結構疑わず何でも信じてしまう。
見えるものには目を向けず、見えないものこそ信じるという考えは、マヤには少々難しかった。

「Sr.セシリア、目に見える支えを求めたらまずいんでしょうか?
 神のように、目に見えないものを信じるって結構大変そうに思えるんですけど…。」
「そうですね……。これはちょっと補足してご説明しますね、北島さん。
見えないもの〜神もその一つです〜を信じることについて、
聖書ではこんな風にキリスト教の教義の一部が、語られているのです。
『見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。』
『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは
過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』(コリントの信徒への手紙)  」

“え、これって…・キリスト教の教義なの?!!”
Sr.セシリアの説明に、ひどく驚いてしまうマヤ。

これらの聖書の言葉、
まさに紅天女の、『阿古夜と一真の恋』の心ばえそのままではないか。
愛ゆえに、梅の木の精としての自分の体を一真に切らせてもいいと思う阿古夜。
仏を彫るのに、たとえ死して目に見える肉体が滅びようとも恋は終わらないと言い切る一真。

“同じだわ!宗教も国も全然違うのに、その根底は同じなんだわ。
今見えないもの、それは永遠のもの、それを支えとする気持ちこそが、『愛』……”
“見えてきた、八重の気持ち。
八重自身がどん底を見たからこそ、いったんはカラになっちゃったからこそ、
神父や患者の語り合い励ましあう姿を見て、
病院の現状を超えたところに、誰にも侵されることのない彼らの幸せ、希望が
確かに存在するのを見出したんだわ。
病院に身をうずめようと思うに至った八重の気持ち、見えてきたわ……”

「あ、あの…Sr.セシリア。見えないもの、永遠なるものに心をすがる、というのは、
 もしかして、愛も、そうなんですか?」
おずおずと言葉をつむいだ、いかにも自信無さげなマヤの問いかけに、
セシリア安田はニッコリと笑顔を返した。
「よく御理解くださいましたね、北島さん。その通りです。
 欲や願望によらず、今の己を受け入れ、ただひたすらに相手の、もしくは対象に心を委ねる。
 信仰も、愛も、希望も、その根底に流れるものは同じなのです。
 そう思えば、皆さんの心のどこかにある要素なので、そう難しくはないのですよ。」

さらにSr.セシリアは話を続けた。
「ただ、では具体的にどういう人生を送ることがこうした心の持ち方の顕れかというと、
 まだ若く経験も少ない生徒達には、今ひとつわからないですよね。
 それで、宗教の時間には具体的な人物の紹介をしているのです。
 マザーテレサや北原玲子、瓜生岩子、井深八重、森本春子、といった方の話をしています。」

「 !!! 」
マヤはびっくりして、言葉も出なかった。
清蘭学園で、まさか井深八重の話を授業でしていたとは!!
八重の気持ちが入ってきた、という先ほどの思いと、
そして確かにこうした教育と八重の心のルーツがリンクしていた、という思いで
マヤは声にも出せない位、心が動いてゆくのを感じた。







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