Chapter 4


翌朝。
真澄が本社に出勤するので、朝は比較的早かった。
二人はパンと目玉焼き、ヨーグルト、コーヒーで簡単な朝食を取る。

「マヤ、あれから眠れたか?
無理して起きずに、もっと寝てなくて良かったのか?」
「大丈夫、速水さん。あれからぐっすり深寝してばっちり元気になったし!
 それに昨日今日と、晴れてるでしょ?梅雨が戻らないうちにジョギングや発声やらなきゃ。」
「おいおい、鍛えるのが大事なのは判るが
無理して外に出て、途中で倒れたらどうするんだ、マヤ。
顔色真っ青で冷や汗かいてあんなにうなされて、まだ数時間しかたってないんだぞ。
雨が降っても、運動なら大都の契約ジムにいくらでも行けるだろ?」

背広に袖を通しながらも、俄に気色ばみ、心配そうに自分をのぞき込む真澄の様子に、
そんなにひどくうなされてたのか、とマヤは思った。
“もしかしてあたし、かあさんのこととか何か声に出しちゃったのかしら?”

「だって、お日様と青い空の下だから気持ちいいんだもん……。
 でも、あたしそんなにうなされてたかなあ……別に、何にも寝言とか言ってないよね?」

マヤの問いかけに真澄は一瞬、息を呑んだ。
夢にまで母が出てきて叫んだとなると、マヤは相当、何か気に病んでいるのだろう。
ここで母のことを言ってよいものか。
しかし、母の件でマヤの中に溜め込まれたもの、マヤの真意を知ろうとしなければ、
二人の間にある種の遠慮や、心の壁は、いつまでも取り払われないだろう。
お互い意識的に母の話を避けるのが、良いことなのか。
第一、この場面でウソを答えること自体、本末転倒というか不自然ではないか。

「マヤ。」
「…速水さん、やっぱりあたし何かヘンなこと言ってた?ゲジゲジとか冷血漢とか…」
「…マヤ。君は、誤解だ……かあさん、と、言っていたぞ。」

“やっぱり…聞かれちゃってたんだわ、速水さんに。どうしよう……”
「ちょ、ちょっと昔かあさんに怒られたコトを思い出して……」
慌ててマヤは答えるが、普段つきなれないウソのためか、
ワントーン上ずった声はひっくり返り、不自然なことこの上ない。

「無理しないでくれ、マヤ。
俺に遠慮して自分の中に無理に押し留めていたら、辛くなるだけだろ?
あの件の原因は、全て俺にある。言えば解決する問題じゃないことも、痛いほどわかる。
だが、それでも何かあれば遠慮せずぶつけてきて欲しい。
君一人に、すべてを負わせたくないんだ。」
慎重に言葉を選びつつ、真澄は背後から、マヤの両肩に手を置いた。
マヤの肩が微かに震えているのが判る。
「ん……本当に何でもないの、速水さん。家出して親不孝だって、怒られちゃっただけ。
 別に誤解じゃないんだけど、あはは。」

「マヤ。」
「……え?」
「なぜこういう状況になってまで、隠そうとする?
夢で、誤解されていたんだろう?お母さんが実際誤解しているかは判らないが、
少なくともマヤ、君は夢でも誤解されて不本意なんじゃないか。
誤解は、話せば何とかなるものではないが、話さないことには何も変わらない。
話してくれないかマヤ、夢のことを。」

真剣に語る声を聞けば、真澄が母の件を気にしてくれていることが否応なしにわかる。
真澄の気持ちが心に染みてゆくかのように、マヤの瞳には、涙が湛えられる。
だが、そうは言っても、夢での母の誤解そのものが即ち真澄との交際の事。
軽はずみに言おうものなら彼がどう思うか、考えるととても口に出すなどできなかった。

「……大丈夫、速水さん。本当にちょっと厳しく怒られちゃったの。あたしドジだし。」

「マヤっ!!これだけ言ってるのに何故君は何も話してくれないんだ!!」

真澄の声に、これだけ怒気がこもるのは珍しい。
マヤの母の件では、極力言い方や態度に気をつけてはいたものの、
当事者であるだけに踏み込めないという焦りが、真澄から平静さを奪っていた。

「だって速水さん、今ちょっと言えば済む話じゃないじゃない!!…」
マヤは涙目で振り返ると、手を伸ばして真澄の頬に触れた。
「…今話せなくても、母さんのことで何があっても、
あたしは速水さんのこと、大好き。お願い、それはわかって。
今は八重になるのに全力投球したいの。また落ち着いたら、話すから…。
ね?もう出かけるのにそんな顔しないで、次会えるまで覚えておくから、笑顔見せて。」

今、これ以上問い詰めてもマヤの気持ちを乱してしまうだけだ、と真澄は思った。
「マヤ……俺の方こそ悪かった、怒鳴ったりして。…行ってくるよ。」
言いながら真澄は微笑んでマヤの頬に手をかけ、静かに、深く、キスをする。
マヤも、ニッコリと笑顔を見せた。
「いってらっしゃい、速水さん。お仕事、頑張ってね!」


真澄が出かけた後、
マヤは早速近隣の公園で、ジョギングと柔軟、発声練習をこなした。
時刻は午前10時30分。今日は特に予定もない。
大き目の樹のたもとにあるベンチに腰掛けて、空を見上げてみる。
真っ青な空から差し込む光が木々の葉へと透けて差し込み、辺りを眩しいほどに輝かせる。
照り輝いた若葉の色ときたら、なんとも言えない、ありのままの美しさにあふれている。

“なんて気持ちいいんだろう……”

昨日行った『多磨全生園』にも広い森があった。
患者たちも、こうして同じように空を見上げているのかしら、とマヤは思う。

どんな国でも、どんなお金持ちでも貧乏でも、健康でも病気でも、大人でも子供でも、
善人でも悪人でも、等しくその光でもって照らしてゆく、太陽と月の光。
“太陽や月って、自然のいとなみって、ほんとうにすごいわ”。

しばし自然の営みに心打たれたマヤは、ふと、八重に思いをはせた。
入院当初の八重には、こうした自然の美しささえ感じられなくなっていたのだという。

『私は今、生きながらの地獄をさまよっているのです。
遠からず自分の肉体が病に蝕まれ崩れることを思えば、歳月の感覚も、
窓の外にある命の営みも私には無縁のもの…。何と、何とむなしいことでしょう。』

八重の言葉には、今しがたマヤが感じていた、かくも素晴らしい生命の息吹の感覚を、
突如として奪われた苦しさに満ちている。
そう思うと、マヤはいたたまれない気持ちになった。

そんな八重は、レゼー神父が患者たちに好んで話した聖書の一節に心惹かれた。
『空の空なるかな、みな空なり。神を愛しこれにつかえるのほかみな空なり』(コレヘト一・二)

『空』は、青空ではない。“クウ”と読み、『何も無い、カラ』という意味。
世の中あらゆるものは皆むなしい、信仰の先にだけ真実がある、という趣旨である。
“でも八重は、広く高い青空を目にしたばかりに余計、現実にむなしさを感じたんじゃ?”

当初、この言葉にむなしさを募らせた八重であったが、次第に好んで口ずさむようになったという。
“たぶん、誤診とわかった時に八重の心境が変わったのは、
病院で聞くこの言葉が、むなしいだけじゃないように思えるように変化したからなんだわ。
彼女がカトリックへの信仰を深めたことも影響してるんだろうけど…。 “

とは思うものの、キリスト教徒でないマヤには、変化の理由がわからない。
以前『ふたりの王女』でアルディス姫をつかむため、何度か教会を訪ねたことはあった。
聖母マリア像は神々しく、アルディス姫が持つが如く、清らかな感覚をマヤにもたらした。
でも今回は、その感覚だけでは、いったんは奈落の底に落ちた八重の心境変化を説明できない。
「う〜ん、困ったなあ……どうしよう? 
いくらなんでもキリスト教を1から10まで勉強する時間ないし……」
「時間ないから、とにかく、他の部分だけでもシナリオ読み込んで早くつかもうっと。」
マヤはそうつぶやき、ベンチから立ち上がった。


マヤはマンションに戻ると、さっとシャワーを浴び、香水を少々付ける。
別に真澄と会う予定はないからつけなくても良いのだが、
今朝は母の件で、何となく気まずい状態のまま別れてしまっている。
少々心細いそんなとき、ペアで同じ香りをまとうと、真澄が側にいてくれるような安心感があった。

時計の時刻は、正午すこし前を指していた。思ったより公園で考え込んでいたようだ。
「早いわ、もう、お昼なのね……」

昼食を作ろうか、散歩に出て軽く食べようか。
そんなことを考えていると、携帯が鳴った。

“Trrrrrrrrr, Trrrrrrrrrr, Trrrrrrrrr……”

急いで電話を取る。
「はい、北島です。」
『あ、マヤさん?お久しぶり、亜弓です。今大丈夫かしら?』
“亜弓さんだ。そういえば速水さん昨日、亜弓さんが一時帰国したと言っていたっけ。”

「え〜っ?亜弓さん、亜弓さんなの?そうだ帰国したんだもんね、今家だから大丈夫!」
『あらマヤさん、私昨日帰国したばかりなのよ、情報が早いわね!』

“しまった!!”
喜ぶあまりに、つい、昨晩真澄から聞いた話をそのまま言ってしまった。

「あの、昨日の夕方夏の企画で大都の本社に行って聞いたの。亜弓さん体調どう?目は?」
……もちろん、大嘘。
“亜弓さんごめんねウソついて、速水さんが家に来たってバレちゃ困るし…”

『ありがとう、私はとても元気よ。目も、リハビリで大分良くなったから舞台にも立てるわ。
マヤさん、秋の企画の件はもう聞いてるんでしょう?』
「うん!もう、すごく楽しみ。亜弓さんのアルディス姫早く見たくて、待ち遠しい!」
『ふふ……私も同じよ、マヤさんのオリゲルドどうなるかしらとドキドキしてるの。
 そうだわ、マヤさん今家ってお話だったけど、今日はオフ?』
「そうなの、夏の企画の撮影は2週間後だから、それまで役作りがてらオフって感じ。」
『まあ、そうなの?
じゃあ、良かったら、これから私の家でアフタヌーンティーご一緒しない?
マヤさんにも随分お会いしてないし、今回は2週間しかいないから、是非。 』
「本当? 押しかけても大丈夫だったら、ぜひ行きたいわ! あたしも用事あったし。」
『それじゃ、今から迎えの車を行かせるわ。30分くらいで着くから。』
「いいの亜弓さん?あたしタクシーとか電車で行くつもりだったんだけど。」
『気にしないで、マヤさん。役作りも大変でしょ?体力温存しなくちゃ。じゃあ、また後で。』
「ありがとう亜弓さん。車、お願いします。後で行くから、それじゃ!」

このまま家で考え込んで、八重の変化を掴める訳でもない。
亜弓と会いたかったし、お腹もすいてきたマヤには、電話は渡りに舟だった。
亜弓さんと話せばきっといい気分転換になるわ、と思いつつ、マヤは外出の支度をした。


一時間後。
マヤを乗せた黒塗りの外車(勿論、姫川家の車である)が姫川邸に滑り込んだ。
亜弓がエントランスで、迎えてくれていた。

「マヤさん、お久しぶりだわ!!」
「お邪魔します!亜弓さんお久し振り〜!会いたかったわ、呼んでくれてありがとう!。」
 華やかなレース使いのブラウスにフレアースカート姿の亜弓は
いつも通り、いや以前にも増して、照り輝くようにあでやかな美しさであった。

「亜弓さん、ホントきれい……前からきれいなのにもっときれい…」
「まあ、マヤさん、それは私のセリフよ!……この2年で貴方、美しくなった。見違えたわ。」
「えっ? あたしなんて全然そんなんじゃ…え?2年?そんなに経った?」
亜弓には、試演後の目の手術の前後に、二度ほど会っている。
たまにメールや電話で話はしていたが、直接会うのは1年半振りの筈だ。
「ええ……。目の見える状態でマヤさんの姿を見るのは、梅の谷で大喧嘩して以来よ。」
「あ……梅の谷……」

紅天女に向かって共に必死に稽古をした日々、
本音をさらして取っ組み合った明け方の光景が、マヤと亜弓、二人の脳裏に鮮やかに蘇る。
亜弓は失明の危機に苛まれ、マヤは真澄との関係に苦しみ、
二人それぞれにもがきながら、試演での紅天女にようやく辿りついた。
勝ち負け云々ではなく、お互いが自己の限りを尽くした日々を思うと、胸が一杯になる。

「亜弓さん、亜弓さん……よかった……目、見えて……本当によかった……」
マヤは思わず、亜弓の背に手を回し、ギュッと抱きしめる。
「ありがとう、マヤさん……。」

亜弓にしてみれば、マヤは紅天女争いで自分が敗れた相手、天賦の才能に嫉妬を覚えた相手。
なのに今、その彼女が本当に心配そうに、嬉しそうに背中に手を回してくれる。
“ああ、友達って、こういうものなのかもしれないわ……。”
亜弓は自分の体の中が、ふんわりと温められるような感じを覚えた。

「さ、ここで立ち話も何だから、こちらにいらしてね、マヤさん。」
「ええ、失礼します!」

通されたのは、以前にも見覚えのある、瀟洒なインテリアのリビングだった。
白いグランドピアノ、素敵な人形や陶磁器などが品良く飾られた姫川邸の一室は、
もうだいぶ前、『ふたりの王女』の稽古帰りに立ち寄った、あのときのままであった。

「あ、こちらにお願いね。」
亜弓が言うと、フィンガーサンドやスコーン、プチケーキが盛られたワゴンに、
芳しい香りの紅茶がポットサービスで運ばれてきた。
「うわ〜とても美味しそうだわ!」
「気に入ってもらえると嬉しいわ、マヤさん。早速いただきましょうよ。」
「ありがとう、いただきます!」

美味しい茶菓子とともに、ひとしきりマヤと亜弓は、近況報告に花を咲かせた。
亜弓は、渡仏後半年程目の治療とリハビリに専念した。
容態の回復に合わせてフランス語専門学校に通いはじめ、
昨秋からは現地の演劇専門学校で、演出…シナリオ関係の勉強を始めているという。

「演出はまだまだひよっこだけど、今度初めて日仏交流フェスタで劇の演出をするの。
 沢山ある市民向けイベントの一つで、短時間だし商業演劇ではないけれど、とても楽しみだわ。」
「え〜亜弓さん、演じるのも大変なのに作るほうまでやっちゃうの?!」

マヤも以前、一つ星学園での一人芝居『女海賊ビアンカ』『通り雨』で演出をしたことがある。
しかしあの規模でさえ工程が煩雑で、お手上げになりそうだった。
自分は職業演出家なんて無理だわ……、とつくづく思ったものだ。

「知らないうちにパパに似ていたみたい。演じるのに役立つし、以前から作る方にも興味があったの。」
「亜弓さんって本当にすごいわ!それに現地のフェスタって…まさかフランス語で演出するの?」
「そうよ、でないと役者達が演出判らないわ。
でも日本人でまだ見習いレベルの私に話が来たのは、日本人旅行客も多く訪れるから
字幕とかで日本語と両方判る人間が演出すると便利だからだと思うの。
折角のチャンスだし、良い作品を作りたいわ。」

“亜弓さん、本当に素敵だわ。目の治療でのブランクさえバネにして、活動を広げるなんて“
常に自分の先にいるライバル、亜弓。
ライバルとして恥ずかしくないよう、自分も頑張らなくてはとマヤは思う。

マヤも、試演後の近況を報告する。
大都芸能所属となったこと、紅天女本公演のこと、地方公演も無事成功したこと、
空いた時間は1本の短期の舞台以外は殆ど基礎訓練に費やしたこと、etc。
月影の葬儀と一周忌の経緯に話が及んだところで、
源造の電話の件を亜弓に伝え、今回の3回忌の日程の希望も亜弓に確認しておいた。

「マヤさん、紅天女本公演、ビデオで見せて頂いたわ。
慈愛に満ちて観客を一真と同化させてて…もう貴方自身の紅天女ね、素晴らしかった。
今年は逃してしまったけれど、来年の公演は必ず直接見るわ。」
「有難う、亜弓さん。演じるたびにまだまだ、奥が深いって思うけど。是非来年は見に来てね!」
「ええ、マヤさん。……マヤさんが活躍してて、私にもとても刺激になるのよ。
『マヤ、あなたはライバルよ!絶対に負けられないわ』って。」
亜弓がいくぶんおちゃらけて言う。
梅の谷のケンカを思い出した二人は、顔を見合わせ、ふき出した。

「それでマヤさん、今年は紅天女や舞台以外に、いよいよTVドラマ復帰ですってね?」
「え、亜弓さん夏の企画の話、もう知ってた?」
「昨日ママから聞いたのよ。美生堂のドラマスペシャルでしょ?
ママが第一弾で、マヤさんが第二弾だと言ってたわ。どう、役作りは順調?」

「うーん、実は……重要なポイントがまだ掴めなくてつまり気味なの…。」
亜弓の前で、役作りで弱音を吐くのは本意ではないが、つい本音を漏らしてしまうマヤ。

「マヤさんがそう言うのって珍しいわね?
普段はマヤさん、細かいところは後付けでも、役の核心はけっこうすぐ感覚掴むじゃない?」
「多分核心掴むので止まるのは、アルディス以来かも……。」
「アルディス!懐かしいわ。確かに、マヤさんも私もかなり苦戦したわね。
 私もオリゲルドは、地下劇場にこもらなかったらダメだったかも。」
「それにしても〜。亜弓さんの提案ときたら、あたしあの時かなりびっくりしたのよ?
 だっていきなり『ねえマヤ、生活を取り替えてみない』でしょ?よく思いついたなって。」
「私も自分で提案しておいて、びっくりしたのよ。
 でもマヤさん、あなたお友達の話をしてくれたじゃない?
あの言葉がなければあんな提案思いつかなかったし、オリゲルド掴めなかったかもしれないわ。」
 マヤさん覚えてる? 『環境が人間を作る』って言ってたの。」

“環境が、人間を、作る……”
そうだ、確かアルディス姫を掴めず、麗に食事がてら相談したら、
環境が人間を作る、アルディスの場合環境(まわり)を理解できないと掴むのは難しいと言われたのだ。

「あああぁぁ〜〜っ!!!そうだ、そうだわっ!」

自分で亜弓に言ったくせに、すっかり忘れていた。マヤは自分の物忘れの良さを悔いた。
“あ〜、あたしって……バカだわ。”

八重だって同じだ。レゼー神父の言葉に対する八重の考え方が変っていったのは、
八重の今までの環境から培われた、八重自身が本来持っている精神性、
つまりレゼーの言葉をレゼー同様に捉えられるような素養が、彼女の根底にあるからだ。
“八重の変化が判らないとかキリスト教知らないとか言って、
八重の性格がどこでどう養われたか、全然環境のことを考えなかったわ!“

「マヤさん、マヤさんったら……どうしたの?」
突如奇声を発したマヤの様子を、訝しげに眺める亜弓。

「あ、亜弓さんごめんなさい……ちょっと、ちょっとまってて。」
マヤは慌てて亜弓を制し、しばし八重の環境に思いを巡らした。

“えっと、お金持ちの井深家のお嬢様で何不自由なく育って、
ミッションの同志社中学女学校出て、長崎の県立女学校で英語教師してたんだよね。
…そうだわ、ミッションスクールの女子高。長崎だってキリスト教が盛んな場所だわ!“

八重が成長過程で影響を受けた環境といったら、井深家か女子高のどっちかしかない。
しかし井深家は金持ちで病気とも神父とも無縁だし、世間と同様八重を隔離している。
“なら、八重を掴むヒントって、ミッションスクールの女子高じゃないかしら?”

マヤは、どうしても普段の女子高の日々を知りたくなった。
だがマヤには、女子高を覗けるような知り合いはいない。
“速水さんに頼む? でも大都の依頼だと、いかにも芸能人が見学って感じ。
TVのためなんてまともなミッションスクールじゃ許可してくれないわ?どうしよう?“

「そうだわ!!あの、亜弓さん。突然ごめんなさい、実はお願いしたいことがあって。」
「何かしら? 役作りで何かあったの?…様子が変だわ。」
「亜弓さん、亜弓さんって誰かミッションスクールの女子高につてのある人とか、
 見学させてくれそうな人で、知り合いいないかしら?
どうしても今の企画の役で環境を理解するのに、普段の女子高の様子が知りたくて…。」

「あらマヤさん、私この間までミッションスクールの学生だったのよ?
聖華学園大学をこの春卒業したの。1,2年でまとめて単位取得していて良かったわ。
4年次はずっとフランスだったでしょう? 今回帰国した目的は卒業の手続きなのよ。」
「えっ?じゃあもしかして聖華学園の見学って……」
「聖華学園なら、もちろん中等科…高等科でも見学は訳ないわ。
 ただ聖華学園はミッションといってもプロテスタントなの、問題ないかしら?」
「亜弓さん、プロテスタントって何?カトリックと違うの?」
マヤはキリスト教の主な宗派に、カトリックやプロテスタントがあるのを知らなかった。

「ええ。ごく簡単に言うと、プロテスタントは信仰があればよいという考え。
カトリックでは信仰プラス、教会やミサなど形を大事にするの。
どちらの宗派になるかで、特に学校の教育方針がだいぶ違ってくるから、
マヤさんの役に出てくるスクールがカトリックなら、そちらを見た方がいいわ。」
「へえ……あたし、全然知らなかった。亜弓さん、ホントに何でも知ってるのね!」
「ふふ、母校が偶然ミッション校だっただけ、キリスト教は良く知らないの。
そうねぇ……。ね、マヤさん。大学で、去年カトリックの女子高に就職した先輩がいるわ。
先輩のお母様も同じ学校の教師だから、聞いてみれば見学位できるかもしれないわ。」

別にライバルのマヤに対してそこまでする筋合いはないのかもしれない。
しかし、先程のマヤの腕の温もりを思い出し、何かしてあげたいと亜弓は思った。

「ホント?。帰国時期短いのに……何だか手間かけさせてごめんなさい。」
「そんなに大変じゃないのよ。見学できるかは判らないけど、聞くのは電話一本だし。
 結果はまた、ご連絡するわ。」
「ありがとう、亜弓さん。」

そんなこんなで、気がつけばあっという間に日が暮れようとしていた。

「今日はお邪魔できて、本当に楽しかった〜! 
おいしいお茶頂いてお願い事までしちゃって。亜弓さん、今日は本当にどうも有難う。」
「私のほうこそ、今日はとても楽しかったわ。マヤさん、忙しいのに来てくださって有難う。」

そろそろ失礼しようとマヤが挨拶をすると、亜弓がつとマヤを呼び止める。

「あ、…そうだわ、マヤさん。一つ聞いていいかしら?」
「何、亜弓さん?」
「今日マヤさん、香水付けてるでしょ?素敵よ。『ランスタン』、良く似合ってるわ……。」
「あ、有難う。これ、『ランスタン』だったっけ?頂きもので…名前忘れちゃって。」
「透明な紫色がかったボトルの香水でしょ?ゲラン社の」
「あ、そうそう。ゲランって書いてあったわ、確か。」
「……ふふっ、マヤさんが美しくなったの、いい人ができたからね。紅天女だけじゃなくて。」
突如、予想外のことを指摘され、うろたえるマヤ。

「えっ、え〜っ?! そ、そんなぁ…そんなこと…。」
「あるんでしょ?顔に書いてあるわよ、マ…ヤ…さ…ん! 
それに、いいこと教えて差し上げるわ。
昨日大都芸能に伺ったら、『ランスタン…ド…ゲラン プールオム』を付けた男性にお会いしたの! 
フランスで大人気の香水だけど、これをペアで使うカップルは日本では少ないのよ。お目が高いわ」

まずい。
絶対にこれは気づかれている、とマヤは思った。
でもどうやって亜弓が気づくのか。
人前でそんな素振りを見せた覚えもないのに、と思いながら、マヤは次の言葉を捜す。

「でも、人気の香水なら俳優さんとか芸能社に来る人なら、何人か付けてるかもしれないし…」
「昨日は、俳優の方とはどなたともお会いしてないわ。
それに目が悪くなった事が怪我の功名、かしら? 『匂い』や『気』の感覚が鋭くなったのよ。
今だから言うけど、貴方達試演後から変だった、非常に思いつめた『気』が充満してたもの。」
「亜弓さん……。もしかして、誰なのか気づいた、とか?」
「ええ。」

真っ赤に火照ったマヤの表情を、泰然と眺めて、亜弓は微笑む。
「相手の方が誰なのかは口にしないことにするわ。
最初はかなり驚いたけど、今までの事よく考えたら不思議だとは全く思わなかった。
 安心なさって、マヤさん。私はこれでも、口は固いほうよ。
 貸し一つってことで! こんどはその方とお二人で、うちに遊びにいらしてね。」
「あ、あの…色々あって、今はあたしから話せなくてごめん、亜弓さん。
それから有難う。借り一つ…見学の件もあるから二つ作っちゃったね、必ず返すわ。」
「見学の方は貸しじゃないわ。
今の話は…やっぱりお二人でいらして、返してね!
その時はハミルにも来てもらうから、4人で遊びましょうよ、マヤさん。またいらしてね。」
「ええ、亜弓さん、それじゃまた!!」







Index/Next


SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO