バラ色の唇

前編

written by サキさま










まだ入梅前だというのに、雨の混じったはっきりとしない天気が続き、半袖を着ていても
いつの間にかじっとりと肌がべたつくような湿度を感じる日が続いている。
それでも、夜の帳が下りる頃には、アスファルトから上がる熱気もおさまり、多少は
過ごしやすくなるのだが、相変わらずどよんとした、やる気のない空気が辺りを包み、
これから始まる梅雨・・・暑く寝苦しい日々を思うと、気が滅入る。


大都芸能ビルの最上階、社長室の灯りは、まだ煌々としている。
今年に入って、早い時間に消灯することの多かった灯りだが、ここのところ連日で、
遅くまで明るい光を放っていた。

ほどよく冷房の効いた社長室では、その部屋の主である速水真澄が、書類片手に
PCのディスプレイを見つめていた。

そろそろ21時をまわる−−−いつもであれば退社している時間だ。

次の仕事に取り掛かろうと、その段取りを考えていると、ノックと共に秘書の水城が
部屋に入ってきて、ソファーのテーブルに不織紙の風呂敷に包まれた重さのある箱を
置いた。

「真澄さま、お弁当こちらに置いておきますわね。胡兆の松花堂弁当ですわ。
 お茶もお淹れいたしましょうか?」

速水は見ていた書類から顔を上げた。

「ああ、気を遣わせてすまないな、水城くん。」

水城は湯冷ましにお湯をとると、少し大きめの湯飲み茶碗に熱いお茶を淹れる。
そして、湯気の立つ茶碗をソファーの前のテーブルに静かに置いた。

「真澄さま、わたくしはこれで失礼いたしますけど、あまり無理をなさいませんように。
 ・・・・・・・・・撮影に入ってからまだ一週間ではありませんか?
 今からこれでは、先が思いやられますわよ。」

速水はその秘書の余計な一言に苦笑いしながらも、

「やれやれ、秘書殿はなんでもお見通しなんだな。」

と、書類を揃えて決裁済みのボックスに放り込んだ。




彼の大切な恋人は、今、映画の撮影で日本を離れている。
撮影予定期間は、一ヶ月間。

まだ離れてから一週間しか経っていないというのに、彼女のいない家に一人帰るのが
寂しく、億劫で、毎日遅くまで仕事ばかりしていた。
当然、食生活も乱れがちで、ともすればアルコールと軽いつまみだけで夕飯を済ませて
しまう彼を水城は気遣い、今日のように遅くなった日は近くの店から食事をとったり、
お弁当などの用意をしていてくれた。

”それではお先に・・・”と辞する水城を見送りながら、速水はデスクを立ち上がると、
ソファーに座り、リモコンを手に取りテレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせた。
水城の淹れてくれた熱いお茶をすすりながら、彼の本日の夕食である松花堂弁当を開ける。

お弁当の升の中には、型で抜いた白飯と、甘鯛の味噌焼き、うまき卵、里芋の煮しめ、
・・・・・先週作ってくれた里芋と野菜の煮しめはうまかったな。
オフで時間があったからと言って、”見て見て、ちゃぁんと里芋も自分でむいたし、
人参の面取りまでしたの、ありがたく食べてね ”と彼女が笑い、その味もなかなかの
ものだった。その前の休日に一緒に作った肉じゃがは、彼女が砂糖を入れ過ぎてしまい、
思いのほか早く焦げがついてしまって、食べられる部分だけ盛り付けてみると量が半分
になっていて、彼女が泣きそうな顔をするから、、、

・・・・いかんいかん、また考えている。これだからいけないのだ。
考えても居たたまれなくなるだけだというのに。

速水はテレビのボリュームを上げると、ニュースの内容に無理やり自分を集中させた。


大都芸能の鬼社長ともあろう彼が、恋人の不在が寂しくて、
仕事の合間にため息ばかりついている−−−

二年前の彼なら考えられなかったことだが、現在の彼にとっては、いかに孤独感を
紛らわすかが最大の切実な問題であり、彼女なしであと3週間をいかに過ごすかが、
大いなる課題だった。
彼自身も、情けない・・とも言える自分の弱さに驚いていたが、だからといって、
対処法を思いつけるほどの冷静な心の余裕は、実はなかった。

まさに、心にぽっかりと穴が開いて、喪失感にさいなまれるくらい、彼女の存在は
彼にとって、なくてはならない大切なものになっていた。

















物心ついた時分から、彼には常に二層の思考回路を持つ癖がついていた。

彼の母がまだ生きていた頃それは単層だったが、母が亡くなり、義理の父親に対する
復讐を心に誓った年頃から、自身の本当の心や壊れてしまいそうな繊細な感情は奥底に
しまい、その上に二層目の心を置くようになった。
何にも包まれない本心を外に晒すのはあまりに危険で、一人で生きていかねばならなかった
多感な少年にとって、それはとても恐ろしいことだった。

二層目の心は、徹底した帝王学を仕込まれた彼にとって誠に都合のよいもので、
冷淡で計算高く野心を持っても、二層目の心だから、本心は痛まずに済む。
様々な経験を積み、二層目の心は鋼のような強靭さを持つまでになった。
彼には外敵が多かったから、その心にはますます磨きがかかった。
誰もかれもが二層目の彼の心にはたらきかけ、その奥の心の存在を忘れそうになる
くらい、堅牢な鉄壁が出来上がった。


ところがある日、その鉄壁をいとも自由にすり抜けて、彼の奥の魂に直接触れる存在が
現れた。触れるだけでは飽き足らず、あまつさえその二層構造が壊れてしまうほど
激しく揺さぶり、鉄壁の秩序を内側から乱してしまった。
外敵を防ぐ方法は心得ていたものの、内部告発のような内側からの氾濫には慣れておらず、
彼は柄にもなく取り乱した。

崩れてしまえばまだ良かったのだ。

鉄壁が内側から崩壊すれば彼には悩む暇もなかっただろう。
ところが、自分を守るために頑丈にしすぎた壁は内側からも崩れず、
逆に彼を壁の内側に閉じ込める結果となった。
彼は前にも後ろにも進めず、どうすることもできずに−−−ただ呆然とした。

あの頃の自分を思うと、速水は今でも面映い気持ちになる。
もちろんそれは、様々なことを乗り越え、過去の出来事として捉えることができる
今だから照れくさい気持ちになれるのだ。当時は真剣そのものだった。

結局、のっぴきならぬ状態から彼を救ったのは、彼の心を乱したその張本人だった。
その張本人は、前にも後ろにも進めない彼を、空から上にふわりと持ち上げて
助け出してくれた。
物事が三次元であったことを突然思い出し、そして彼はとても新鮮な気分を味わった。



彼女と初めて想いを確かめ合ったあの日のことを、速水は忘れることができない。
今でも、狼狽とも言ってもいいほどに驚いた自身の心の動揺と、抱きしめた彼女の
髪の毛から漂う甘い香りの記憶とともに、レンズの焦点がくっきりと重なるように
鮮やかに思い出すことができる。

もともと愛を告白するつもりなど毛頭なかった。

彼の組み立てた思考の中では、それは到底赦されることではなかったし、
本より切って捨て、自分では腹を決めたつもりであった。

ただ、彼女が紅天女の後継者として選ばれたときは、長年の一ファンとして
”よくやった ”と褒めてやりたかったし、女優として一人前になった彼女を、
匿名で援助する意味も必要も無くなったと感じていた。
彼女が意外にもあっさりと大都と専属契約を交わしたことが引き金にはなったが、
これからは、仕事上のパートナーとして彼女を守っていくことができると確信し、また、
自身の気持ちにケリをつけてしまいたい思惑もあり、紫のバラの正体を明かすことを
彼は決心した。

ところが、理屈も状況も全て彼が望む通りに整っている中で、
紫のバラを持って彼女を訪ねた彼には、思いがけない展開が待ち受けていた。
”本当によくやったな ”とバラを差し出すと、驚いたことに、
彼の胸の中に彼女が飛び込んできたのだ。

冷静な彼の思考は、憧れの足ながおじさんに抱きついただけのこと、と
処理しかかったが、彼女が震える声で、
「速水さんのことが好き・・・・・思っているだけなら許してもらえますか?」
と呟いた瞬間から、彼の世界は逆転してしまった。

驚愕・・・狼狽・・・自分が運命に弄ばれている感覚・・・・・・・

気がつくと、彼女を息が詰まるほどに強く抱きしめていた。



覚悟を決めてしまった彼の行動は迅速だった。

全知を集束させるかのように、自分でも信じられないようなパワーを持って、
彼は全ての障壁を克服していった。そして、二人ともよく耐えた。
彼女の名前を表に出さぬように事を運ぶため、しばらくは会えなかったが、
互いに対する想いの強さで持ち堪えることができた。
彼女も速水のはたらきに負けまいと、その年の賞取りレースを総なめにし、
女優としての地位を高めていった。

二人の辛い状況は、彼の元婚約者が結婚したあたりから少しずつ変わり始めた。
すでに想いを通い合わせてから1年近くが経とうとしていたが、その頃には、彼の周りを
取り巻く環境もだいぶ落ち着いてきており、二人で会う時間が増えていった。

最初は、女優のマンションに通うことはさすがに憚られるからと、彼女が速水の
マンションに通っていたが、そのうち、彼の部屋には彼女の荷物が増え、
いちいち帰るのが億劫になり、気づくと半同棲状態になっていた。
もちろん、まだ公にはできずにいたが、近しい人間の間では、二人の仲は
公然の秘密であった。
そして、ほとんど一緒に暮らし始めてから、また1年が経とうとしている。





彼女との生活は、彼の中に、これまでに経験したことのない新しい発見の連続と、
心の潤いと平穏と充足感をもたらしていた。
1年暮らしていても、1日として同じ日がないように思えるほど毎日が新しく、
月日を経るごとにますます愛が深まってゆくように感じていた。


彼女にはおおよそ同年代の女性が持つであろう物欲というものが薄く、彼の部屋に
持ち込んでいる荷物も最初は極端に少なかった。
それでも、仕事上必要な衣装やらアクセサリー、靴、バック、生活上必要な様々な
雑貨などは自然に増える一方で、彼女はとても物持ちが良くそれらを大事に扱った。

ただし、これまで彼女が生きてきた生活環境では、そのようにたくさんの物に囲まれて
暮らした経験がなく、とにかく整理整頓能力というものが彼女には欠けていた。
出かける間際になって、家の鍵がない、財布が見当たらない、時計がない、イヤリングが
ない、こないだかぶった帽子がない、いつものジャケットをどこにしまったのか忘れたと
言って、そこら辺を探しまくるのは日常茶飯事で、部屋の中は彼女が整理しきれない物で
雑然とし始めた。

決して潔癖症ではないが、あまりに荒れた部屋の様子に見かねた速水が、ある日、
物を効率的かつ体系的に整理する術を彼女に伝授した。
二人の住まいの鍵は玄関の壁のフックにかけてそれ以外の場所には放置しない。
財布や時計、アクセサリは居間のある場所に収納ケースを置いて、帰ってきたら必ず
そこに戻す。自分のバックに入れるときは、バックの中でも入れる場所を決めて、
そこ以外には入れない。洋服はTPOに分けてクローゼットに場所を定め、面倒でも必ず
そこに戻す。帽子はクローゼットの決められた場所以外には置きっぱなしにしない、
などなど・・・・・

初めのうちはついその辺に何でも置きっぱなしにしてしまう彼女を、速水が口うるさく
たしなめ、それでもだいぶ自覚がついてきたようだった。そのうち、自分から、
これは取り出しやすいように手の届くこの棚にしまっておく等・・・自分でも整理を
心がけるようになり、部屋が散らかることも少なくなった。

しかし、しばらくすると、今度はどの棚にしまったのか思い出せないようで、
仕事中の彼の携帯電話に、かなり遠慮がちな−−−しかし、出かける時間が迫っている
のか焦った様子で、”あれはどこにしまってあったっけ?・・・”と、消え入りそうな
申し訳なさそうな声で聞いてくるのだった。

芝居の台本ならば一度か二度読めば一言一句違えずに覚えてしまえるほどの記憶力を
持っているくせに、なぜ物の場所一つ覚えられないのか? 
長い台本を覚えるほうがよほど不可能である彼にとっては最大の疑問であったが、
決してふざけている訳でも甘えている訳でもなく、努力しても本当に覚えられない
らしいことがわかり、そのうち説教するもの馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。

最近は、おそらく忘れてしまうだろうと思われるイレギュラーな場所に、何気なく
彼女が物を置くと、”こんな場所に置くと後できっと忘れるぞ”と一言だけ添える
程度に留めている。
そういった彼の忠告を、彼女は非常に素直に聞き入れるので、
まあ、台本を覚えられないよりはマシだろうからそれだけでも良しとしよう・・・と、
諦めるような気持ちで、受け入れている。




料理洗濯掃除のいわゆる家事全般は、同居人との生活を続けてきた彼女なりに、一通り
困らない程度にはこなしていた。
ただし器用さはない。むしろ速水のほうが上手に器用にこなす。

掃除や洗濯の一部は、通いの家政婦がやってくれるので問題はなかった。ただ、
いくらやってくれるからと言って、寝乱れたシーツや下着の洗濯までやってもらうのは
気が引けるからと彼女は気を遣い、仕事が早く終わった日などに、まとめて自分で洗濯を
するようになった。
その意外な気遣いをちょっと誇らしく思いながらも、彼も気づいた時に自分で洗濯機を
セットする癖がついた。
女の下着を洗濯ネットに入れて”優しく手洗いコース”をセットする自分を、
誰が想像するだろうか。
しかし、これが日常生活というものである。



半年ほど前から、互いに早く帰れる日は予定を合わせて、また、仕方のない仕事が入って
いる時でも、なるべく早く帰宅して夕食を共にするように心がけている。
以前は習慣的に深夜まで会社に居ることの多かった彼だが、今は遅くとも21時、
だいたい20時前、彼女がオフの日は、終業時間ぴったりの18時には会社を出るように
なった。お蔭で、以前に比べて仕事の効率が格段に上がったようにさえ思える。

一緒に暮らし始めた最初の頃は、スケジュールなどどうせ合わないのだからと、
互いにそれまでの生活スタイルを崩すことはなかったのだが、それではすれ違いが大きく
なるばかりで、せっかく一緒に暮らしているというのに、寝に帰る場所がたまたま同じな
だけという状態になり、寂しさが増すばかりだった。

自身も一流の演出家や脚本家、プロデューサーから、ひっきりなしにオファーがくる
多忙な女優であるくせに、速水の方が格段に”忙しい人”だと思い込んでいる彼女は、
寂しそうな顔は見せても言葉に出すようなことはしなかった。
しかし、先に参ってしまったのは速水のほうで、好きで一緒にいるとはいっても、
それまで他人だった者同士が生活を共にするということには、譲り合い協力しつつ
努力する必要があるのだと、強く実感した。


料理は、その日早く帰れる方が材料を買って帰り、作ることになっている。
家で食事をする習慣がついているので、以前はすぐに腐らせてしまうからと言って
買えなかった牛乳や卵や野菜などの生ものも冷蔵庫に常備されるようになり、
調味料やスパイス類も種類が増えてきた。マンションの近くに、輸入食材なども豊富に
扱っている24時間営業のスーパーがあり、二人の食卓を潤すことに一役買っている。
もちろん時間がないときは、出来合いの惣菜で済ませることもあるが、
料理のレパートリーは確実に増えている。

彼女の基本は、ご飯とお味噌汁に焼き魚とおひたし、酢の物に簡単な野菜の煮物とか、
昔ながらのおかずがほとんどであまり凝ったものは作らない。
彼女はもっと本格的なものを作りたいと思っているようだが、彼にとっては懐かしくなる
家庭料理ばかりで、例えおかずが焼き魚だけでも充分嬉しかった。
平日は彼女が作ることが多いが、休日は彼が腕をふるうことが多い。
まだ関係が公になっていないので、二人で連れ立って食事に行くことが難しい事情も
あるが、キッチンの中でああだこうだと大騒ぎしながら二人で料理をつくるのが
意外に楽しく、最近は休日を家で過ごすことが多くなっていた。
お蔭で彼のマンションの立派なシステムキッチンは、余すところなくその役割を
果たしていた。



彼女と暮らし始めて一番嬉しかったこと−−−それは、
自分の帰りを待っていてくれる存在がいること。そして、
帰りを心待ちにする存在がいること。

どんなに疲れて帰っても、玄関まで「おかえりなさい!」と走り寄ってくる愛しい笑顔を
見ると、大袈裟ではなく生きていて良かった、とさえ思う。また、
彼女の帰りを迎える時は、帰ってきてくれてありがとう、と感謝の気持ちさえ湧く。
自分という人間を、愛情を持って気に掛けていてくれる、常に欲していてくれる存在がいる
ことが、どれほど幸せなことか。−−−しかもそれは無償という愛のかたちで。


帰宅後は、その日の他愛ない出来事から事件まで、様々なことを報告しあう習慣が
ついている。
まだ、互いの領域にどれくらい踏み込んだらよいのか見当もつかず、手探りするような
毎日を送っていた頃、表情をコロコロと変えてよくしゃべるはずの彼女が、
二人で寛いでいても比較的無口だった。

緊張しているのか? 遠慮しているのか? それともこれが11歳の年の差の違和感なのか?

元来真面目な彼は真剣に悩んでしまったが、ある日彼女が、出先で起きたちょっとした
事件を、珍しく多弁にしゃべり続けていたので、もっとたくさん話が聞きたいと彼が言うと、
「あたしの話・・・子供っぽいでしょ・・・?」と恥ずかしそうに彼女が答えた。
それで、なるほどと彼は思い当たった。
年下の自分の話など、彼にとってはつまらないものだと思い込んでいたようだった。

誤解を解いて、毎日話を聞きだすうちに、そのうち彼女は自分からその日のどんな小さな
出来事でも話すようになっていった。
彼女の話はつまらないどころか、目の付け所が突拍子もなくおかしく、お腹の皮がよじれる
くらい笑ってしまうことも多かった。それに、女優らしさを発揮して、臨場感溢れる状況
説明を身振り手振りで繰り広げることもあり、今ではすっかり帰宅後の彼の楽しみの一つと
なっている。

また、彼女は聞き上手でもあり、速水の話にも熱心に耳を傾けてくれる。
たまに、彼女にはかけ離れた世界である経営や経済の話などもするが、それに対する
彼女のコメントは直感的で、ある意味秀逸だった。
経済界の重鎮の言葉も彼女の手にかかるとメッタ斬りである。
新聞を読む習慣のない彼女に、速水は政治の動きや経済の流れ、社会情勢などを
時折分かり易く話して聞かせた。女優といえども、社会常識くらいは必要である。
最近では政治のニュースの内容も把握できるようになっているようだ。



彼女には、物事の本質を瞬時で見極めてしまう天性の勘というものがある。
もちろん、それが役者としての天賦の才能に繋がっているのだが、彼女はその才能の全て
に気付ききれていない。
あるいは一生気付くことはないのかもしれないが・・・

理由は説明できないがきっとこれが答えだと思う、という言い方を彼女はよくする。
天才数学者が、難解な数式を見ただけで答えをイメージできるがその過程を説明できない、
というのとよく似ている。
理由や過程にあたる部分を、順序立てて理論的に組み立てることが苦手な彼女に、
速水が手を貸してやることも多い。

例えば、ある芝居のこの場面ではこういう動きと表情で演技するのがいいと思う理由を、
一緒に謎解きをするように考えを進め、理論の裏付けをするのだ。
思わぬ方向に理論が展開し、想像し得なかった意外な理由につきあたることもあり、
速水にとっては楽しい時間でもあったし、彼女が芝居への理解を深める有効な足がかり
にもなっていた。

また、その天性の勘は人物評価にもおよび、これは外では決して言えないのだが、
速水は新規の取引相手の写真を彼女に見せ、どういう印象を受けるか伺いをたてることも
しばしばあった。
「いい人そうだけど、ちょっと翳がありそう・・・」など、その程度の感想しか彼女は
言わないのだが、これが意外に的確に見極めていることが多かった。
彼女が仕事上親しく付き合う相手と、多少距離を置いて付き合う相手の見極めも、
速水の目から見ても至極適切であり、その人を見る目を速水は信用していた。


決して恵まれていたとはいえない環境で育った彼女には、人の世の成り立ちを斜に構えて
見てしまうような瞬間も経験もたくさんあったはずなのに、その心はいつもまっすぐで
素直で穢れがない。
彼女が身を置く世界には、敵意、悪意、裏切り、陰謀、嫉妬、憎悪、怨恨、侮辱、そんな
闇の感情が日常的に渦を巻いて跋扈している。しかし、彼女はそれらにぶち当たっても、
染まることなく、自分を見失うことのない強さを内に秘めている。心が強いのだ。

時折驚きと憧憬さえ抱かせるその強く清らかな心に、彼はいつも触れていたいと思うし、
その心を悪意を持って利用したり揶揄嘲弄する輩からは、何が何でも守ってやりたいと
思う。それが自分の一生の務めであると思う。



しかし、そのような彼女でも、天才であるが故の危うさも同時に持ち合わせている。

平穏な生活も、ひとたび芝居の稽古が始まってしまうと、途端に波乱の日々が訪れる。
稽古期間、そして公演中は、難しい芝居であればあるほど役に入り込んでしまって、
現実と虚構の区別が曖昧になり、素の北島マヤの人格を失ってしまったかのように、
言動さえおかしくなることもある。

台本を読み出すと電話の音も耳に入らず、速水が帰宅して横に座っていても、口の中で
ぶつぶつと呟きながら全く気づかないこともある。夜中に突然起きだして倒れるまで
台詞の練習をしていたり、普段の会話の口調や声色まで別人のようになってしまう
こともある。もちろん芝居以外の生活全般のことには一切無頓着である。

まだ一緒に暮らし始めたばかりの頃は驚いた。

役に追い詰められて気が狂れたのではないかと思うほどだった。別の人格を背負うその
重たさに、彼女自身が壊れてしまうのではないかと危ぶんだ。
しかし、速水が事務所の社長として稽古の陣中見舞いに訪れると、驚くような切り替えを
見せて、全く普通の応対をする。
二人きりの時は、相手が自分だから甘えているのだ・・・そう気づいてからは、
その期間は、彼女をサポートすることに彼は徹した。

まず、ほとんど忘れると言っていい食事については、稽古場に栄養のある食事を毎食
届けさせ、家に居るときはとにかくきちんと食べさせる。
食事中に役の世界にトリップしてしまっても、気にせず最後まで食べさせる。
風呂に入ることを忘れていれば風呂にも入れる。
台本を読みながら寝てしまえば、一緒に歯を磨いてベットに寝かしつける。
風邪をひきそうだったら、薬を飲ませて早く眠らせる。
寒い日なら一枚多く着せて送り出す。
昔一緒に暮らしていた同居人の青木麗の苦労がしのばれるようだった。

ある日、夜中に肌寒さを感じて速水が目を覚ますと、風邪をひきそうだからと言って
早く寝かしつけたはずの彼女の姿がベッドにない。
窓が開いているような冷たい風が寝室に流れてきて厭な予感がし、あわてて起きだして
リビングルームへ行くと、全開になったバルコニーの窓の前に、役になりきって妖しい気配を
纏わりつかせながら台詞をつぶやき続ける彼女が立っていた。

冬の凍るように冷たい雨と荒れた風が室内に容赦なく吹き込み、立っている彼女の
寝着の肩が、雨に濡れて透けているのを目にした途端、速水の中で、それまで
”役作りの為だから”と我慢していたものがぷつりと切れ、
気付くと大声で怒鳴り散らしながら、素早く窓を閉め、彼女の両肩を乱暴につかんでいた。
”この馬鹿っ!!何をしてるんだきみは! 風邪をひいて体調を崩しているから心配している
のに、どうしてきみはそうやって無茶ばかりするんだ!どうして自分の体を気遣わないんだ!
何度言えばわかるんだ!・・・・”

肩を強く掴まれてビクリとして初めて速水の存在に気付いた彼女は、怒鳴られるうちに、
何が起きたのか把握できないという表情から少しずつ瞳の色が戻りはじめ、
ようやく彼女の役の世界から現実に戻ってくると、速水の目を見つめたまま
無言で涙腺から涙をとめどなく溢れさせた。
速水は移りゆく彼女の表情の変化をみとめると、怒鳴るのをやめてしまった。

彼女には、意識の外で溢れ出てしまう彼女の役の世界を拒絶することができない。
生きることと演じることが表裏一体で切り離すことが不可能な彼女にとって、
役の世界を否定することは自らの否定につながる。
周囲に迷惑を掛けると分かってはいても、その無意識の衝動は、
自分ではどうすることもできない。
そんな彼女の心情を思うと、あまりに痛々しくかわいそうで、
呆然と涙を流し続ける彼女を、速水は腕の中に強く抱きしめた。

自分が理解してやれなくて、誰が彼女を守れるというのだ。

いよいよ本番が近くなると、彼女は完全な集中状態に入るので、
時には速水のことさえ目に入っていないような面持ちで出かける日もある。
本番が近いのだから仕方ない、と割り切りながらも、最初のうちは、
彼女を芝居に丸ごと取られてしまった様な寂しい心持だった。

しかし、そこから生み出される素晴らしい舞台もさることながら、
舞台が楽日を迎え、全てが終わると、
彼女は真っ先に速水の胸に何もかも預けるように飛び込んで、戻ってくるのだ。
この瞬間が彼にとってはたまらなく嬉しかった。

「あたしには速水さんがいないとお芝居ができない。
 どっちが大切かは比べられないけど、速水さんがいないと全然頑張れない・・・
 速水さんはあたしの唯一の心の支えなの・・・」

惚れた弱み・・・そう言ってしまえばそれまでなのだが、漆黒の潤んだ瞳に
見つめられ告げられると、それまでの苦労や寂しさはどこかへ吹き飛び、
何もかも許す気になる。

そして、その愛くるしいバラ色の唇に・・・静かに口づけをおとすのだ。



彼女の唇は、まるでバラ色の唇のようだと速水は思う。
初々しくて濡れたような艶と瑞々しさを持ったその小さなバラ色の唇。
何ものにも穢されない無垢と気高さを併せ持った貴い唇。
ところが触れてしまうと、その棘から毒が体中を回り、彼の神経を侵し始める。

甘い香りのするしなやかな黒髪、柔らかい耳たぶ、仰け反る白い喉元、
仄暗い灯りに陰影をつくる鎖骨と、壊れそうなほどに華奢な肩、
肉付きの薄い小さな背中と対照的に手に重さを感じるほど豊かな弾力のある乳房、
そしてうすいバラ色のその先端、細くて流れるような腰のライン、
透けるような白さの太腿とすらりと伸びる脚、細くて締まった足首、
心地よい身体の重み・・・・・その全てを自分のものにしてしまいたくて、
自分と同化させたくて、一つ一つの細胞にまで己を注ぎ込もうとして、
いつも彼女をくたくたにさせてしまう。

寛ぎの時間、会話を楽しんだり本を読んだりテレビを見ている時でさえ、少しでも
離れていたくない気持ちから、彼女の髪や手や肩に触れられる距離−−彼女の匂いや
体温を感じられる距離で過ごしている。それは主に速水の希望からであるが・・・
抱き寄せると、彼に甘えるようにもたれかかる彼女の身体の重みがいとおしく、
そのバラ色の唇に深く口づけて、彼女の瞳をある種の熱を持ってのぞきこむと、
彼女が恥じらいを持って睫を伏せる・・・・それが二人の合図だ。

初めて彼女を抱いたとき、彼女は未知の世界に怯えているようにも見え、肌を撫でる
だけでも震えて速水にしがみつき、全てを彼に任せるように目を閉じた受身の状態だった。
しかし今は、彼とのこの営みをすでに消化して自分のものにしている。
普段の彼女からは想像し難いような放埓さも彼の前では垣間見せる。ただ、
大抵はその一心に快楽を貪るような嬌態に刺激され、抑制の効かなくなった速水が、
彼女をぐったりさせてしまうのだが・・・・・・




速水は食べ終わった松花堂弁当の蓋を閉じ、煙草を取り出して火を点けると、
ソファーに身を投げ出すようにして、宙に紫煙をふぅーっと吐き出した。

あと約三週間、愛しい恋人なしで自分はやっていけるのだろうか・・・・?

と、大袈裟に考えて、すぐに苦笑いを浮かべる。
整然として生活感も何もないがらんとした以前の自分の部屋に比べれば、彼女の持ち物が
所狭しと置いてある、食器や生活用品がペアで2つ並んだ部屋に帰るのは悪くないと思う。

しかし、肝心の本人が不在となると、使われることのない位置の動かないマグカップも
歯ブラシも、寂しさを余計際立たせてしまうような気がした。
早く帰っても、”あのね、今日ね・・・”と花が開いたような瑞々しい笑顔で話し掛けて
くる存在がいないと、することもなくつまらないし、時間があると無駄に彼女のことを
思い出してしまい、一人身がしみる。
以前の彼なら、一人になれる時間を努力して捻出し、自分を取り戻す唯一の貴重な時間
として大切にしていたはずなのに、今は一人では間が持たない。
煙草と酒の量が増えるだけだ。

他人と一緒に眠ることが煩わしいことにしか思えなかった自分が、今では彼女なしでは
なかなか寝付けない。この季節でも妙に寒々しく、落ち着かなくて眠りが浅い。
一人では広すぎるように感じるベッドの糊の利いたシーツの冷たさにも打ちのめされる。
寝相の悪い彼女に掛布団を蹴飛ばされて、肌寒さから夜中に目が覚めるほうが
まだましなのだ。−−−彼女を抱き寄せて温まればよいのだから。

朝、目覚めると可愛い寝息をたてて眠っている天衣無縫のあどけない寝顔が見られないのも、
ことのほか寂しいものだった。いつの間にかそれは習慣になっていて、ベッドで一人目覚める
と、寝室の空間が非情に無機質なものに感じられ、朝からやる気が起きない。
朝からため息しか出ない。

一人で生きていくことを寂しいと思ったことはなかったはずなのに、
今では生活のパターンにも彼の心の中にも彼女は何よりも大切な要素として隅々まで
しっかりと組み込まれており、いつのまにか、彼女が帰ってくるまであと○日・・・・と
指折り数えている自分がいる。

「すっかり禁断症状だな・・・重症だ・・・俺はきみなしではいられないようだ。」

そう口に出してみる。
他人に聞かれるのは恥ずかしい台詞だが、彼女になら言える。
たしか明日は電話をくれると言っていた。その時言ってやろう。

きっとからかわれたと思って、
「やだ・・もう・・・何言ってるんですか・・・恥ずかしいでしょ!」と
可愛い唇を尖がらせるだろう。

実は切実な思いであることも知らずに・・・・・


速水は煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がってもう一仕事するためにデスクに向かった。















その女と速水が初めて会ったのは、彼女が滞在しているホテルの
スウィートルームの一室だった。


その頃大都芸能では、イギリスのある大物ロック歌手の大規模な来日コンサートイベント
を企画しており、彼女はその歌手の日本での代理人であった。
先方もこの企画に大いに興味を示していたが、神経質で我侭なことで有名なその歌手は、
来日にあたって様々な難しい条件を提示してきた。
また、交渉は最終決裁権を持つ人物と直接行ないたいという先方の意向があったため、
大都としては何としてでも契約を取りたい思惑もあり、速水が直接出向いて交渉すること
になった。

速水は、代理人が日本人女性であることを、事前に聞いて知っていた。
水城によると、なかなかのやり手らしい。

女性との交渉術の第一歩として、速水はその日、少し明るい色の、清潔感を強調する
ストライプのシャツと、それによく映える、女性好みのパステル系の−−−ただし
派手すぎない程度の暖色系の明るい色のタイを締め、初夏の陽気に相応しい爽やかな色の
スーツに身を包み、昼間から濃厚すぎないオーデトワレを軽く手首に擦り込んで、
交渉へと臨んだ。


水城と向かったスウィートの一室に待っていたその女は、すらりとした幾分細めの美人で、
髪の毛をアップにした顔の輪郭からは、知的な雰囲気が漂っている。
シンプルで大胆なデザインの白いスーツに身を包んでおり、
胸には小さなバラのコサージュを留めていた。


速水はにこやかに歩み寄り、名刺を差し出して自己紹介をすると、相手は同じく名刺を
差し出し、「初めまして、私、代理人の黒木繭子と申します。こちらこそ社長に直接お目に
かかれて光栄です。」と言って、少し不思議そうな目つきで速水を見た。

その彼女の眼差しに、速水が少し首を傾げる風にして視線を送ると、
黒木繭子は言い訳するように少し微笑み、
「あ、いえ・・・社長がいらっしゃるとお聞きしておりましたので、てっきりもう少し
 年配の方がお見えになるのかとばかり思っていたものですから・・・失礼しました。」
と頭を軽く下げた。

速水も軽く微笑み返し、その後も挨拶を交わしながら交渉相手の様子を観察していたが、
何か心に小さなひっかかりを覚えていた。 

どこかで会ったことがある?

シチュエーションは思い出せないが、見覚えのある顔だ。
初めて聞く名前だが、この雰囲気は以前にも経験した感覚がある。どこだったろうか・・・・

考えるよりも先に口が動いていた。

「失礼ですが・・・以前、どこかでお会いしましたか?」

そう言ってしまってから、仕事の相手に対して、まるで女を口説く常套句のような台詞を
口にしてしまったことを彼は後悔した。

黒木繭子は笑いながら、

「いいえ・・・社長のような方に一度でもお会いしたら忘れることはないと思いますわ。」

と、速水に意味ありげな視線を送った。

仕事の席では相応しからぬやり取りに、速水の横に控えていた秘書の水城の片方の眉が
ピクリとして少し上がった。
それに気付いた速水は、あわてて仕事の話に戻した。




スウィートルームの重厚なテーブルに向かい合わせに座り、水城が用意してきた、
すでにまとまっている書類をもとに、彼らは打ち合わせを進めた。

互いに条項に目を通しながら、黒木繭子が注釈を付ける。
すらすらと淀みなく話を進めるその口調は、できる女の印象が強く、隙が無い。
若く見積もっても三十半ば、その落ち着き具合から見ても、おそらく四十近い年齢だろう。
交渉相手は女性であるから、男である自分が喉元から下をじろじろ見つめるのは、
失礼になりかねない。相手の目を中心にしてその周囲に視線を置きながら彼はうなずく。


しかし、気づくと、彼女が言葉を繰り出しているその唇に、吸い寄せられるようにして
視線が集中する。はっと気づき、また相手の額当たりに視線を戻す。しかし、
話し込んでいるうちに、無意識のうちに自然とその唇を見つめてしまっている自分がいる。

速水ははたと気づいた。
そうか・・・そうなんだ、似ているんだ・・・・だから、初めて会った気がしなかったのだ。

彼女の背格好はマヤより幾分大きめだが、華奢な肩の線や、すらりと伸びた脚の形が、
マヤによく似ていた。

そして、極めつけは、その、バラ色に濡れる、唇。

そのグロスを塗っただけの唇は初々しく、熟れたような艶と瑞々しさを保っており、
小さめの形の良い唇は、速水にとっては見覚えのある形だった。


マヤに似ている・・・・懐かしいバラ色の唇−−−


触れればぷるると弾力を持って押し返してくる瑞々しい唇。

濡れたような透明な艶と、極淡くオレンジがかった泡立つようなうすいピンク色の唇。

唇を寄せると、とたんに脱力したように融和して境界線が曖昧になる唇・・・・・



ラグジュアリーな雰囲気の広い部屋の壁や天井に反響する声が、
急に目の前の現実の声となり、速水は我に返った。

自分は不審な目の動きをしていなかったかと急に不安になり、あわてて女二人をちらと見た。
二人とも書類に目を落としていて、気づかれてはいないようだった。


速水は気を取り直し、つとめてその唇を見ないようにして、交渉を進めた。
しかし、意識は避けようとしているのに、彼女が口を開くたびに誘引剤でも振りまかれる
ように、彼の目線は彼女のバラ色の唇を追ってしまう。
”いい加減にしろ”と心の中で自分を咎めるが、彼の目は彼の意思を見事に裏切って、
いつの間にか惹きつけられるように、その視線が彼女の唇に落ち着いていた。

多少似ているだけではないか・・・本物じゃない。マヤの唇じゃない。


そのうち、水面下の攻防に疲れた彼の目は、話の隙間を狙って、唇を盗み見ることを覚えた。

・・・・盗み見るなんて人聞きの悪い・・・ただ、自然に視界に入っただけだ。


小一時間ほどの交渉の間全てはそんな感じで進み、終わる頃には、速水の頭の中には
その唇の印象がしっかりと刻み付けられていた。

その日の打ち合わせでは保留事項が一つあったため、それぞれ持ち帰り、
改めて一週間後に正式に契約する運びとなった。
「それでは一週間後にまたお会いいたしましょう。」と言って、
黒木繭子はその唇を緩ませて微笑み、速水と水城は暇を告げて、部屋を辞した。


帰りの車の中で、速水は無意識に先ほどの女の唇を反芻している自分にふと気づき、
”何を馬鹿なことを考えているんだ ”と胸の内で自らを嘲笑したが、反面、
一週間後にまたあの唇にお目にかかれるのは悪くない、と思っていた。

愛する本物のバラ色の唇には、まだ当分会えないのだ。
このくらいの密やかな楽しみに、ばちは当たらないだろう・・・そう彼は思った。






一週間後、速水は再び水城と共に、黒木繭子のスウィートルームを訪れていた。
その日の彼女は、若草色の鮮やかなスーツを身に着けていた。
唇は相変わらずグロスだけのバラ色に輝き、スーツの色によく映えていた。
心なしか、前回会った時よりも化粧が薄くなっており、その分唇のバラ色が目立つ。

今回は黒木繭子の他に、先方には事務担当の男性が一人同席しており、契約の書類上の
やり取りはその男性と水城が行ったので、書類の準備が整うまでの間、速水と彼女は
外の景色が一望できる大きな窓の前で、互いにとりとめもない世間話をしていた。

彼女はイギリスの大学を出た後、今の事務所で働き始め、今はロンドンにある仕事場の
近くに住んでいるらしかった。
仕事を離れた話題という気軽さもあり、互いに打ち解けてしゃべっている間は、
速水はそのバラ色の唇を存分に目で味わうことができた。

気のせいか、彼女も自らの唇の美しさを知っていて、あたかも速水に見せつけるかのように、
唇の表情が前回よりも豊かになっているような気がする。


誘うバラ色の唇に目が惹きつけられる・・・・・・


見つめるだけでは飽き足らず、その熟れた唇に触れたい−−−口づけるのではなく、
あくまでも手で感触を確かめてみたい、という欲求を自らの中に認め、
あわてて心の中で、”おい、仕事の相手だぞ ”と自らに釘を刺す。

しかし、その困った欲求は膨らむばかりで、彼女の唇の表情はますます豊かに迫ってきて、
手が触れられる距離まで近づくたびに、唇から視線を逸らそうとする理性と、
意思に逆らって勝手に唇を追いかける目と、手を伸ばしそうになる衝動の抑制と、
洒落た会話と、動揺を隠す努力と・・・・・・・


「お待たせいたしました。準備が整いましたので、どうぞこちらへ。」

水城の声に救われ、彼女を促して書類の置かれたテーブルに場所を移しながら、
速水は心の中でほとんど苦笑いをしていた。
黒木繭子に異性としての魅力を感じているわけではなく、彼を捉えて離さないのは、
その唇なのだ。しかも、彼の恋人の唇に似ているという理由だけで。

本物に会えないからといって、禁断症状もここまでくると、相当なものだ。


契約は無事に交わされ、黒木繭子は三日後に契約書を携えてロンドンに帰ると言い、
速水は胸をなで下ろした。彼女に心を奪われるようなことは有り得ないにしろ、
バラ色の唇に動揺させられるのは、もうこりごりだった。
速水はいささか疲れを感じながらも丁重に最後の挨拶を交わし、
水城と共にそのスウィートルームを後にした。















契約が取り交わされてから二日後の土曜日の夕方、会社で残務整理をしていた速水の
携帯電話に、どこから番号を聞いたのか黒木繭子から電話が入った。
とっさに契約で何か問題があったのかと思い、心配になり訊ねると、
「最後に一つだけお会いして確認したいことがあるのです。」と彼女が言う。

その日はあいにく水城は出社しておらず、果たして今から水城に連絡が取れるだろうか、
と考えていると、彼女は、
「いいえ、速水社長だけで結構です。今からお出でになれますか?」と早口で聞いてきた。

確か彼女がロンドンに帰るのは明日のはずだ。
せっかくの契約がふいになっても困るので、今からお伺いしますと、速水は手短に答えて
電話を切り、休日出勤のためカジュアルなジャケットを着てきたことを後悔するが、
とにかく急いで表に出てタクシーを拾い、黒木繭子の滞在するホテルに向かった。



ホテルに着く頃には日もとっぷりと暮れて、タクシーを降りたロビーはシャンデリアが
まばゆく輝き、夜会服を身にまとった婦人などをちらほらと見かけることができた。


いつものスウィートルームの呼び鈴を押すと、ドアが開き、速水は部屋に迎え入れられた。

今日の黒木繭子はそれまでの2回の打ち合わせの時とは全く違う、カジュアルで普段着の
ような印象だった。
薄いブルーのリネンのブラウスにさらさらした生地の白のロングスカート。
清楚だが胸元が深く開いて、小さなダイヤが周りを飾る真珠の細いネックレスのかかった
鎖骨が見え隠れする。いつもアップにしていた髪の毛は下ろしてあり、ゆるいウェーブの
毛先は軽く巻いている。
ごく薄化粧であり、そして唇だけは、いつもの通りの初々しいバラ色だった。


繭子は速水を部屋に招き入れると、彼の格好を一瞥して、「ラフなスタイルだと
速水社長も年相応に見えるのですね。」と柔らかく微笑み、ソファーを勧めた。
速水はカジュアルな格好で来てしまった失礼を詫びたが、彼女は気にしていないという風に
小さなバーカウンターに歩み寄ると、クリスタルグラスを二つ取り出しながら、
「シャンパーニュをお飲みになります?」と、彼に向かって話しかけた。
仕事のシーンで酒を勧めることに多少疑問を抱きながらも、時間も時間であるし、
これが彼女のやり方なのかもしれないと思い、速水は、”では遠慮なく・・・”と
申し出を受け入れた。


スウィートルームの大きな窓に映るきらびやかな夜景を背にして、暖色のぼんやりした
優しい灯りの満ちる部屋の中、ソファーのサイドテーブルにはカサブランカの白く潔い
大輪の花が飾られており、テーブルを挟み速水と対面してソファーに座る黒木繭子の姿に
彩を添えていた。


しばらくは、グラスに映るシャンパンの泡を眺めながら、互いに寛いだ雰囲気でとりとめの
ない話をしていたが、繭子はいっこうに仕事に話題を移そうとせず、また、速水がそれと
なく仕事の話への伏線を張って促しているのに、わざと無視しているようにも思え、
速水はそのうち様子がおかしいと勘繰り始めた。

繭子の格好や打ち解けた表情を見ると、明らかにプライベートのモードであるし、
先ほどの電話でも仕事だとは一言も言っていなかった。


もしかすると、これは、個人的な誘いだったのか?


そうであれば、女の部屋に一人でのこのこやってきた自分は、かなり間抜けだ。
彼女をよく見ると、頬が少し上気したようにうっすらとピンク色に染まっており、
実は速水が来る前から酒が入っており、その言葉の浮き加減からも多少酔っていることが
わかると、彼は部屋に来てしまったことをますます後悔した。



おかしな事にならぬうちに早めに退散しようたほうがよいだろう。
−−−但し、契約相手に気を悪くされても困る。

そう考えた速水は、話の頃合を見て、場を仕切りなおすように表情を少し引き締め、
しかし笑顔は絶やさずに、ソファーに背筋を伸ばして座りなおし、

「ところで黒木さん、明日はロンドンにお戻りですね。
 契約で改めて確認したい点が、何かありましたか?」

と黒木繭子の目を見据えた。


彼女は少し目を見開き、くすりと小さく口許で笑うと、

「ええ、一つだけ確認したいことが・・・」

と言いながらソファーを立ち上がり、テーブルの端を廻りこんで、
速水の座っている長ソファーの彼の右隣−−−彼と膝が触れ合いそうなくらいの位置に、
ゆるやかに座った。


仕事が取り持つ間柄の男女としては明らかに近すぎるその距離に、

「黒木さん?」

と、速水が一瞬警戒した視線を送ったが、
彼女はそれを無視したまま、女らしい仕草で髪の毛をかき上げると同時に、
彼に身体を寄せるようにして右脚を組んだ。

−−−その途端に、スカートに入っているスリットがわれて、
   その白くすらりとした美脚が太股まで露わになった。

瞬間、その脚に目を奪われた速水が身を退ける間もなく、
彼女はそのまま速水にしなだれかかり、磨かれた爪の光る右手で速水の頬をとらえると、
首を傾けて、速水の唇を奪った。


繭子の首筋から香る、ゲランの夜間飛行の香りがふわりと彼の鼻をかすめる。


バラ色の唇の感触−−−? いや、知らない唇だ・・・他人の唇・・・・・




ふと我に返った速水は、慌てて繭子の両肩を強くつかんで素早く唇を引き離した。
彼女の大胆な行動に、柄にもなく動揺を隠せない自分がいた。

「何を・・・馬鹿なことを・・・・・」



繭子は彼の急な動作に少し驚いた様子を見せたが、すぐに悪戯っ子のような目つきになって、

「あなたが・・・・あんまり私の唇を見つめるからいけないんだわ。」

と、甘えたようにその唇を軽く寄せて尖がらせた。


過去二回の打ち合わせの間、彼女の唇を熱心に盗み見ていたことに気づかれていた・・・・・
彼は再びひどく動揺したが、とにかくこの場を立ち去るべきだと頭の中で警鐘が鳴る。



ともすれば彼にしなだれかかろうとする繭子の細い肩を押さえるようにして、
速水はすぐにソファーから立ち上がると、冷静さを装い、それでも大事な仕事相手の
彼女を傷つけない程度に、優しく諭すように言った。

「あなたは少し酔っているようだ。
 今日はお会いしなかったことにしましょう。いいですね?」


繭子は正面を向いてソファーに手をついて座りなおし、速水とは目を合わせずに、
少し拗ねたような、怒ったふりをするようにして言った。

「いやだと言ったら?」

明らかに、引き留めようとして甘えている口調だ。

これは逆セクハラではないのか。
もちろん、契約を盾にとって関係を迫るような、そこまで公私混同する人間ではないことは
想像できるが、油断はならないし、何とか丸くおさめなくてはならない。

彼女は少し酔っているし、プライベートで誘われているのだ。
仕事の二文字を出すのは得策ではないだろう・・・あくまでも個人的な男女のやり取り
として終息させる・・・・・
そう考えて、速水は作戦を変更することにした。



甘く微笑みながら繭子の横顔に視線を向け、速水はソファーの肘掛にあたる部分に浅く
腰掛けると、内緒話をするように小声で、

「私は意外と真面目な男でしてね。愛しい彼女を裏切るわけにはいかないのですよ。」

と優しくたたみかけた。


繭子は彼に向き直り、意外だという少し驚きの混じった声で首を傾げた。

「付き合っている彼女がいらっしゃるの?」


こういう類の質問を他人から受けた場合、肯定したことは今まで一度もなかったが、
今否定すれば、部屋から退散することは叶わなくなる危険がある。

速水はつとめて軽く受け流す。
「ええ、いますよ。」

「女優さん? それともタレント? 歌手?」


女優?、の声に反応しかかった彼だったが、”ええ、まあ・・・・”と言葉尻を濁すと、
「とにかく、今日はもうお暇しますよ。」
と腰を上げかかった。



ところが繭子は速水を解放してはくれなかった。

ふたたび脚を組んで、その美脚を惜しげもなく晒しながら、唇を尖がらせ
甘えるようにして、速水を妖しく責める。

「女を期待させておいて、一人にするつもり? ずるいわ。
 私の唇を舐めるように見つめていたのは、あなたなのに。」

舐めるように・・・自分はそんなに熱心に彼女の唇を見つめていたのだろうか・・・と、
その大胆な言葉の響きに心の奥底で動揺しながらも、
しかし、つとめて冷静に、優しく言いくるめるように速水は続けた。

「黒木さん、あなたのような立場の方と何かあってはまずいのですよ。
 あなただって聡明な方だ。わかっていただけるでしょう?」


しかし、繭子は駄々っ子のように身振り手振りを加えて言い放った。

「今日はプライベート。仕事は関係ないわ。」

その台詞に間髪入れずに速水は言葉を継ぐ。

「プライベートであれば、ますますまずい・・・
 お願いだから、私を裏切り者にさせないでください。」



そうやって、彼は腰を上げて帰りの動作につなげようとするのだが、
繭子はそんな彼の所作にはお構いなしに、ソファーの上に身を乗り出して、
引き留めようと誘いをかけてきた。
しどけなく半開きになった潤いのある唇は、彼にとっては目の毒だった。

「あなたにだってその気があったのでしょう? だからここにいらしたんだわ。
 結婚していらっしゃるわけじゃないし、彼女に義理立てしなくちゃならない
 特別な理由でも・・・何かおありになるの?」


その唇の妖しい動きは相変わらず彼の心を乱しはするが、先ほどの口づけで
それが他人の唇であることを、彼は知っている。

唇に魅入られてしまったのは事実だが、彼女とどうにかなりたいと思って
今日ここに来たわけではない。
初めて正当な言い訳を見つけたようで、速水は少し胸をなで下ろした。

「今日はそんなつもりで来たのではありません。
 私はあいにくと不器用な男なんですよ。一度に二人の女性は相手にできません。」



すると繭子は、さらに距離を詰めてお願いするような口調で、
速水の瞳をのぞきこんだ。


「今夜だけと言っても?」


形の良い、白さの浮き立つ太股を晒して、深いカットの胸元には豊かな胸が影をつくり、
女の匂いを強烈にアピールしながら、艶のある熟れた唇で、
都合のいい関係を迫る甘いささやき・・・・・


これに勝てる男はそうざらにはいないだろうと思うと、
なぜか唇だけは見るのを止められなかった自分が滑稽に思え、
「誘惑しないで下さい・・・」と言いつつ、速水の口からは思わず苦笑いがもれた。

笑ってしまってから、あわてて言い訳する。
「いや、失礼・・・気を悪くされたら謝ります。あなたのことを笑っているのじゃない。」

「正直に言うと、あなたの言う通り、僕はあなたの唇を見るのを止められなかった・・・・
 似ていたのですよ。あなたの唇は僕の恋人の唇に、実に良く似ている・・・危うく
 誘惑されてしまうところでした。」

そう言って、口の端を歪めて困ったような笑顔を浮かべる彼を見て、
繭子は短くため息をつくと、ソファーに座りなおし、

「私の負けね。」

と肩をすくめた。



それから、切り替えの早い彼女は、気を取り直したように立ち上がり、
空になっていた二人のグラスにシャンパンを注ぐと、
「お帰りになる前に、今回のイベントの成功を祈って、最後に乾杯だけ宜しいかしら?」
と微笑みながら、速水に一つ手渡した。
彼も立ち上がって笑顔でグラスを受け取ると、二人でグラスを鳴らして乾杯した。

グラスは余韻の長い透明な響きを放ち、速水はシャンパンを一気に飲み干すと、
グラスを静かにテーブルに置き、彼女のほうに向き直った。

「明日は御見送りはできませんが、どうぞお気をつけて・・・」


速水の言葉を受け、黒木繭子はすでに有能な代理人の顔で、にっこりと微笑んだ。

「ありがとうございます。速水社長もお元気で。」

そうして、速水は軽く会釈すると、スウィートルームを後にした。

















<後編へつづく>


注)後編は隠しページです






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