春の雨

―後編―

written by サキさま










その後、真澄がマヤへかける電話は、結局、一度もつながらなかった。

心配になり、マネージャーを通してそれとなく様子を探ってみたが、
仕事はきちんとこなしているようだった。
次のドラマに向けて準備を始めており、特に変わった様子もない、
と聞き、それでも少し安心した。



一度だけ、会社の廊下で、打ち合わせに来ていたマヤと、
偶然すれ違ったことがある。

目が合うと、マヤは事務所の社長にそつのない挨拶をこなした。
真澄は、周りを気にしながらも、横にマネージャーがおらずマヤ一人だったので、
何か一つでも会話を取りつけようと、話を継ごうとしたが、
マヤは、
「先を急いでいますので、申し訳ありません、社長。」

と微笑みながら真澄を制し、そのまま行ってしまった。

取り付く島もなかった。全く隙を見せなかった。


まるで、あの日の出来事がなかったかのような態度に、真澄は心を痛め、
また、真意を確かめたい一心で、マヤのマンションの近くまで車を走らせたことも
あったが、結局、会いに行くことはできなかった。

今、感情にまかせてマヤに会いに行ったところで、自分には言うべき言葉がないことに、
真澄は気づいていたのだ。
少なくとも、結婚を控えた身である真澄には、先のことなど何も約束できる
はずがなかった。

二人を取り巻く現状を無視して、感情のまま気持ちのままに、”一緒にいよう”と
言ってしまえるほど、真澄は若くはなかったし、軽率でもなかった。

また、不実な関係を強いることなど、誠実な真澄にはできなかった。
何よりも、そんな可哀想な惨めな思いをマヤにさせることは、
彼の心の優しさが許さなかったのだ。

何もできない自分が歯がゆかった。情けなかった。




日も経つと次第に冷静になり、混乱の霧が晴れてくると、気持ちの整理もつき始め、
自身の人生において何が最も大事なのか、何を一番大切にするべきなのかが、
明瞭な輪郭を持ってくっきりと浮かび上がるようになった。

そして、彼は少しずつ決心し始めていた。

自分が今、なにをするべきか−−−



あの日マヤに会うまでは、自分の本心を、心の奥の意識の外に追いやり、
二度と思い出すことがないように、その上に幾重にも尤もらしい事情を積み重ね、
完全に封をしていた。いや、封をしたつもりだった。

しかし、今となってみると、完全に封をしたつもりだった自分が、あまりにも
愚かで、浅はかで、嫌気が差す。
嘘の上塗りを繰り返すように、婚約者に偽りの優しさで接していた自分にも
嫌悪感が走る。


あの頃、自分には心からの愛を追い求めることなど許されない、自分さえ感情を抑えて
いれば、全て障りなく事が運ぶと、まるで自分だけが悲劇の運命の真っ只中に
身を置いているかのように考えていた。

なぜそうも自虐的な考え方ができたものか。

人が愛を求めるのは全く自然なことであって、自分だけがそれを許されない、
特別な存在のように考えていたことが、恥ずかしい。
ある意味、ただの馬鹿な自惚れだ。

第一、政略結婚で後ろ盾を固めるという考えがあまりにも古臭く、企業の経営者と
しての自分の無能を晒しているようで恥ずかしい。

血縁関係だけで企業が存続できるのなら、経営者などいらない。

これでは、自分に相応しい相手を義父に選んでもらったようなもので、一人の男として
全く恥ずかしい限りだ。
自らの気持ちを誤魔化す手段のように、心ならずも婚約者を利用したようなかたちに
なってしまい、紫織さんにも本当に申し訳のないことをしてしまった。


そもそも、結婚というものを、あまりに軽く考えすぎていた。

何よりも大切なものを互いに一生守り合う、尊い誓いであるべきなのに、
自分は全く不遜であった。

何よりも大切なもの−−−そんなものは、初めからわかっていたことじゃないか。

なぜ、真摯に、自分の気持ちを見つめようとしなかったのかが悔やまれる。
マヤの事だけには臆病にならざるを得なかった、というのはただのいい訳だ。
ここまで企業や多くの人々を巻き込んで、愚かしい方向へともろとも突き進んで
しまったのは、すべて自分の愚劣さに原因がある。

危うく自分を見失うところだった。
勇気を持って、今こそ軌道修正をするべきなのだ。

美しく淑やかな婚約者の笑顔、業務提携の解消に伴う会社の損失、業界での影響、
鷹宮の出方、義父の反応・・・・・そんなものが重くのしかかる。
自分の至らなさが招いた事態とはいえ、あまりの困難と枷の多さに、正直、
実現可能なのかと疑念も湧く。

しかし、自分は、もう、その愛を、知ってしまった・・・・・・・・・・

何が自分にとって最もかけがえのない存在であるかは、あまりにも明白だ。


あの日以来、自分を拒絶し、受け入れようとしないマヤの行動に、心は痛む。
しかし、自分以上に、悲しい決断を一人胸のうちに下したマヤのことを考えると、
自惚れた言い方かもしれないが、申し訳なさでいっぱいになる。


あの日、自分が犯した愚行を赦し、受け入れてくれたマヤの気持ちには
偽りがなかったと、今でも信じることができる。

自分の腕の中で、全てを信じ、安心しきったように何もかも任せてくれたマヤ。

自分の胸にその小さな頬を寄せて「愛しています・・・」とつぶやいたマヤ。

マヤを愛することだけに夢中だった自分。

あの愛の時間を信じずして、他にどれほどの真実があるというのだろう。
今度こそ、この真実の愛をマヤと一緒に育みたい・・・・・
そのためだったら、自分はどんな困難に見舞われてもかまわない・・・・・



おおよそ感情に振り回されることのない、冷徹な仕事人間の自分が、
たった一人の女性を手に入れるために、なりふり構わず突き進む。

相手に再び受け入れてもらえるかどうかもわからないのに。

しかし、拒絶されたとしても、気持ちを伝える言葉を口にすることさえ
憚られる今の状況よりも、ずっとましだ。


−−−お前は溺れてしまったのか? 自分自身に、からかい半分に訊ねる。

しかし、答えは決まっている。−−−そうだ、すっかり溺れてしまったのだ。


自分でも失笑を禁じえないほど、馬鹿馬鹿しいほどに一途な自分がおかしかった。

そうだ、溺れて何が悪い。
心乱れるほど、激しい気持ちで人を愛して、何が悪い。

そう開き直るほどに真澄の心は晴れ渡り、決心が明快になっていく。


マヤを愛する気持ちは、もう止められないのだ。


今こそ、決心するべきだ−−−













仕事で移動中の車の中で、マヤは熱心に台本に目を通していた。

これから東京郊外の住宅地でドラマのロケがある。
夜のシーンを撮るから、おそらく終了は深夜、下手をすれば明け方になるだろう。

あの監督さん、ダメだしキツイから・・・たぶん明け方かな・・・・・
そんなことを考えながらも、また台本に集中する。

最近の彼女は、以前にも増して、仕事に意欲的だった。

今撮影中のドラマの監督は、細かなこだわりのある人物で、ダメ出しも多く、
その撮影も深夜にわたってしまうことが多かった。

しかし、文句一つ言わず、むしろ積極的に貪欲に役柄をつきつめようとするその姿を、
彼女のマネージャーは、頼もしく思う反面、少し頑張りすぎではないかと思っていた。
仕事の合間や移動中でも、暇を惜しむように台本や資料を読みあさり、少し息抜き
させようと飲みに連れ出しても、彼女の頭の中は、仕事でいっぱいのようだった。



バックの中で携帯電話が、規則的な震動を繰り返す。


しかし、彼女は電話に出ずにそのままやり過ごすと、コールが切れたところで
携帯を取り出し、最近見慣れたその番号を見て、電源を切った。
いっそ、番号を変えてしまおうかしら・・・・・



真澄と最後の夜を過ごしてから、1週間が経っていた。

きっとこれでよかったんだ、と、マヤは思う。

真澄に愛された夜のことを思い出すと、胸が締めつけられるような
苦しい想いでいっぱいなる。
真澄の優しい眼差しを頭に思い浮かべるだけでも、切なくなって
気持ちがくじけそうになる。


しかし、あの人は、もうすぐ結婚するのだ。
あの人に相応しい、それ相応の身分を持った女性と結婚するのだ。

自分には手の届かない存在・・・・自分の身の丈には過ぎた存在・・・・
そんなものをいつまでも追い求めたところで、空しい現実が待っているだけだ。

自分のようなちっぽけな存在には致し方ない、世の中の道理というものがある。
女優の北島マヤは、その道理を飛び越えて架空の世界で生きることもできる。
しかし、現実には−−−無理だ。

この現実をひっくり返すような、そんな大それたことは、自分にはできない。
そんな大胆なことができるのは、お芝居の世界の中だけのこと。


もともと、決心していたことなのだ。
決心して、あの日、あの場所へ、行った。
ただ、少し切なく甘苦い思い出がおまけについた、それだけのこと。
自分の身の程は、自分が一番よく知っているつもりだ。




マヤは、車の窓の近くで手をかざして、右手の薬指にはめているリングを
いろいろな角度に動かしながら、その輝きを確かめた。

大丈夫、綺麗に光ってる・・・・・


思いもかけない展開になったが、結局、マヤの心の中の、
紫のバラのアルバムのページは、閉じることができた。

目的は完遂されたのだ。


きっと、お守りが効いたんだ・・・・・そう思って少し笑った途端、まなじりから
静かに涙が一雫、流れ落ちた。−−−そして、また、一雫。

止まらない涙に、マヤは周囲を気にして、あわててハンカチをあてた。



−−−まだ若い彼女には、わからなかった。
   現実として捉えることができなかった。

何よりも大切だと思える真心からの愛というものが、どれほどの大きな力を
持っているか、どんな難事でも流れを変えることができるほどの、偉大な力を
持っているかが・・・・・












二人の事件がおきてから、半月ほど経ったころ、
真澄は、マヤが過労で倒れたとの報告を受けていた。

入院したのは都内を遠く離れた東京郊外の病院だった。

撮影中に倒れて、そのまま近くの病院に入院したらしい。
疲労が重なり倒れただけで、大事には至らず、5日くらい入院すれば
回復するだろうということだった。


あれから半月・・・・・

真澄は、確実に動き出していた。

もちろん、まだ水面下で秘密裏に動き始めた初期の段階であり、
世間には何も公表されていない。
それに、マヤに具体的な話ができる段階でもなかった。

しかし、倒れたとなると、真澄は居ても立ってもいられず、
報告を受けた三日後、午後からマヤが入院している病院を訪れた。




首都高速から中央道に入って少し行ったところにあるその病院は、
まだ自然の面影の残る、閑静な新興住宅街の中にあった。

入院病棟の受付を訪ね、部屋番号を確かめて3階の内科病棟に行く。

エレベーターを降りたところで、そわそわと落ち着かない
マヤのマネージャーと鉢合わせた。

マネージャーは真澄の姿を見た途端にドキリとした表情を見せたが、
観念したように早々と口を開いた。
「社長・・・申し訳ありません。マヤちゃん、いなくなっちゃったんです。」

病院の中はくまなく探したというマネージャーの話から、おそらく外に行った
のだろうと目星をつけ、マネージャーと手分けをして探すことになった。




真澄は病院の外に出ると、その病院と通りをはさんで向かい側に位置する、
大きな公園を探すことにした。

広い敷地面積を有しているその公園は、入り口で案内図を見ると、
大きく4つのブロックに分かれていた。
真澄はその位置関係を頭に入れると、最短で周れるコースを素早く
頭にイメージして走り出した。



公園の並木道に植えられた桜は、もうその盛りを過ぎてほとんど散っており、
アスファルトの上には薄紅の花びらが一面に広がっていた。

緑の芝生が青々しいブロックでは、犬を散歩させたり、ジョギングをする
のんびりとした人々がぽつりぽつりと見えていた。



−−−空は花曇り。

何となくはっきりせず煮え切らない、春独特の、曖昧な空の色だ。


今日の午後に真澄が病院を訪ねることは、マネージャーを通してマヤに
伝わっていたはずだった。
自分と顔を会わせることを避けていなくなったのかもしれない、と思うと、
胸が痛み、歩みが鈍るが、病人を放っておくわけにはいかない。


公園の半分を探し回ったところで、だんだんと雲行きがあやしくなってきた。
真澄は、傘を持ってこなかったことを後悔したが、もう引き返すにも遅すぎる。

そして、ほとんど回り終える頃には、予想通りぽつりぽつりと雨が降り出した。

とたんに、昼の公園には、皆どこに帰っていったのだろうと不思議になるくらい、
ほとんど人影がなくなった。

真澄は、回った中で一番目の届きにくかった、鬱蒼と木々が茂った地区に
踵を返して、もう一度歩き始めた。











もうかれこれ一時間以上探している。

雨はさほどひどくならず、それでも髪をしっとり濡らすほどには降っている。

さすがに走り続けることはできず、足早に歩いていると、鬱蒼とした木々の中で、
そこだけ円形状に木が生えていない、天が抜けたような広い場所が遠くに見えた。


何となく予感がする。

重なり合う木々の枝で日の光が届かないため薄暗く、苔の生えた湿った土と、
樹木の新芽の独特な匂いが充満するその森を抜けて、その円空の場所に歩いて行く。

視界が、突然、はっきりしない明るさを持って、開ける。


−−−果たして、その広い円のちょうど真ん中あたりに、マヤがいた。





まだ遠くに小さく見えるマヤは、
花曇りの空から、まるで天気雨のように注ぐ霧雨のシャワーの中、脱力したように
放心したように天を仰ぎ、じっと立ちつくしたまま、全身にそれを浴びていた。


はっきりしない明るさを帯びた灰色の空のもとに、遠くに見える木々も
薄い霧にけぶり、雨で絵の具が流れてしまったかのように境目の曖昧な、
くすんだ緑色に見える。

マヤの白っぽいワンピース姿は、周りの曖昧な風景に溶け込み、
まるで彩度の低い、抽象画のようだった。


薄いベールに包まれたような、そのぼんやりとした一枚の絵は
あまりに儚げで、愁いをおびており、消えてしまいそうな、
そんな漠然とした不安を、真澄の心の中にかき立てた。


−−−どこかに行ってしまわないでくれ・・・・・


吸い込まれるようにして、真澄はゆっくりとマヤに近づいた。




しかし、近くまで来ると、何時間そうしていたのか、
すでにマヤは全身びしょ濡れだった。

体を壊していることを思い出すと、急に腹立たしくなり、
真澄はマヤに向かって走り寄り、やっと追いついたところで腕を強くつかむと、

「こんなところで何をしてるんだ! このばか娘っ!」

と思わず声を大きくして、自分の方を向かせた。




−−−しかし、放心したかと思われたマヤのその目には、理性が光っていた。


真澄を寄せ付けない・・・・・決然とした目の光。


明確な意思を持ったその眼差しを見て、真澄は、マヤが瞬時の思いつきで、
ここでこうしているわけではないことを悟った。



マヤは、真澄の姿に驚きもせず、ふわりと微笑んだ。

「邪魔しないで下さい。あたし、雨で全部流してるんです。

 速水さんの事も何もかも。

 この雨なら、きっとすぐに流せます。

 桜もきっと、この雨ですべて散ってしまうでしょ?

 そうしたら、綺麗に流れて、お終いになります。」


そう言うと、
腕をつかんでいる真澄の手を柔らかくほどくようにして、少し離れた場所に歩き、
再び天を仰ぐように目を閉じて顔を上げ、真澄に背を向けて立ちつくした。




−−−静かな雨に打たれて、気持ちがいい・・・マヤは恍惚の表情を浮かべる。



前髪からしずくがたれ、顔の鼻筋を雨がじっとりと伝う。
全てを洗い流すように、頬を雨が洗い、顎からしずくがぽとりと落ちる。

太陽を閉じ込めたような、むせかえるような、春の青草の匂い。

野を渡る風も、今は凪いで、
動かない生温かい空気が、じんわりと纏わりつく。

聞こえるのは、霧のような春の雨が、服に滲みこむ音だけ・・・・・・・・





真澄は、マヤがだらりと下げた手の指の先から、雨の雫が落ちるのを、
黙って見つめていた。




そのままじっとしていると、
自身もその曖昧な風景に溶け込んでしまいそうな気がした。



その後姿に、まるで独り言のようにつぶやく。

「君は・・・・全てなかったことにして、流してしまうというのか・・・・・」







「・・・・・もう忘れました。」 後姿のまま、応える。





忘れることなんて、美しくもなんともない。

忘れてしまったら、生きている意味を失ってしまうものだってある。

その記憶を失ってしまったら、生きてはゆけないものだってある−−−




真澄は、マヤの後姿に投げかけるように口を開いた。

「マヤ・・・・・やっぱり、君は何も分かっていない・・・・・

 そんな風にして、忘れられるとでも思っているのか?・・・・

 終わりにすることなんて、できると思っているのか?・・・・・・・・」









後姿が、沈黙の後に、小さく呟く。

「・・・・・・・・・はい。」










苦しげな表情で、やっと声が出る。

「あの日のことも、なかったことにしてしまうというのか・・・・・・」










マヤのその瞳に動揺が走る。

「あたしの中では・・・・もう、終わりました。」












掠れる声で、真澄が聞く。

「・・・・もう・・・・・愛していないというのか・・・・・・・・」













マヤは、しばらく、後姿のままで黙っていた。


そして−−−頭をゆっくりと大きく動かして、うなずいた。





その肯定の動作に、真澄の全身に引き裂くような痛みが走った。



マヤは、その肩を小さく震わせたかと思うと、

鬱蒼とした森に向けて、ゆっくりと歩き出した。







・・・マヤの後ろ姿が、どんどん小さくなる・・・・・


その曖昧で不鮮明な春の雨のたたずまいの中に、儚く消えてしまう・・・・・・







気がつくと、真澄は大きく踏み出して、心が引きちぎれるような痛みに耐えながら、
マヤを後ろから思いきり強くかき抱いていた。

マヤの濡れた髪の毛に額を押し付けるようにして、
その一点に想いを集中させるかのように、苦しげに喉から掠れる声が漏れる。

「お願いだ・・・・・どこかへ・・・行ってしまわないでくれ・・・・・・・」



真澄にかき抱かれたその体をゆるく振り払うようにして、
両肩を震わせて、歩く先を一心に見つめたまま、
マヤの声が、揺れた。

「離してください・・・・・お願い・・・・・・」



今、離してしまったら−−−もう永遠に失うかもしれない。

「離すことなんて・・・できない・・・・・・・

 思い出になんて、したくない・・・・・・

 諦めることなんて・・・できないんだ・・・・・・」




肩を震わせていたマヤの涙腺に光るものが、頬を伝っている雨と一緒に、
ひとしずく、こぼれおちた。

「あたしは・・・もうお終いにしたんです・・・・速水さんのことは・・・・

 ・・・・・もう忘れました・・・・」


そう言って、マヤは真澄の腕の振りほどくようにして、前に歩こうとした。



真澄の心が絶望の叫びを上げていた。


こんなに愛しているのに・・・・なぜ・・・伝わらないんだ・・・・・・



胸が押しつぶされそうな苦痛に耐えながら、真澄は、マヤの頭越しに、
ほとんど絞り出すような声になっていた。

「俺にはできない。・・・・・・

 俺には、君を忘れることなんて、できない。・・・・・・

 終わりにすることなんて、できない。・・・・・・

 君を失ったら・・・生きてはゆけない・・・・・・・・

 きっと・・・・心が・・・・死ぬまで君を求める。・・・・・・・

 マヤ・・・愛している・・・・愛しているんだ・・・君だけを愛しているんだ。

 君を愛する心だけが、俺の真実なんだ・・・・・」


マヤは口をきつく結んだまま、歩く先の一点をじっと見つめたままだった。
叫び出しそうな衝動の代わりに、両の瞳から涙がとめどなく流れていた。


「マヤ、あの日、君を抱いたのは、酔っていたからじゃない。気紛れなんかじゃない。

 ・・・・・愛しているから、抱いた。・・・・・・

 愛しているんだマヤ。 本当に、本当に、心から愛しているんだ。

 君より大切なものなんて、ないんだ、マヤ。

 ほかのものは全て失ったって、かまわない。もう何もいらない。

 君だけがいれば、それでいいんだ。

 俺には、君しかいないんだ。君以外、考えられないんだ。君しか愛せないんだ。

 何度でも言う。マヤ、愛している。・・愛している。・・愛している。・・・・・・」


真澄は、もうほとんど縋るような思いで、
心の奥底から溢れる気持ち−−−彼に残された唯一の気持ちを
いつまでもいつまでも伝え続けた。








雨音が強くなった。


そのままの格好で、二人は雨粒を全身に受けていた。

髪の先からも指の先からも間断なく雨水がしたたる。










そのうち−−−

マヤの手が、ゆっくりと動いて・・・・・真澄の手に重ねられた。


それが合図のように、真澄はマヤを自分の方に向かせると、
思いのたけを全てこめて、全身でマヤを強く強く抱きしめた。
マヤも真澄の背中にすがりつくようにして抱かれた。


雨の中、時間が止まって、背景に吸い込まれてしまうくらい自然に、
そのまま二人は無言で抱擁し合った・・・・・・・・









雨粒が目にしみる感覚を覚えて、真澄は体を離すと、
スーツの上着を脱いでマヤの頭から覆うようにかけ、冷えている肩を手のひらで
覆うようにして抱き「とにかく戻ろう。」と、マヤの歩調に合わせて歩き出した。


「速水さん・・・・さっきは、ごめんなさい。」

少しのぞきこむように、真澄はマヤの顔を見た。
マヤが立ち止まる。

−−−その声が震えている。

「あたし・・・・・どうしたらいいか分からないの・・・・・
 どうしたら速水さんの負担にならないで、好きでいられるのか・・・・・
 わからない・・・」


途端に真澄は、先ほどまで、自分が、”愛している”というその気持ちだけ、
それだけを、無我夢中でマヤに伝えていたことに気づき、驚いた。

マヤが気に病んでいるのは、結婚前の自分のその立場だったというのに。
先の見えない不実な関係に、その小さな胸を痛めているというのに。

自分がすでに、新しい展開へと動き出している事を、先に話せばよかったのだ。
まったく我を忘れていた。

真澄は、たまらなくなり、再びマヤを腕の中にすっぽりと抱きとめた。


誠実な彼の目は、その愛しい瞳におごそかな誓いをたてる。

「マヤ、すまなかった。
 俺は・・・・マヤ以外の人とは・・・・結婚しない。
 マヤ以外の人と、愛を誓うことは・・・・決してない。
 君だけを・・・・一生・・・・愛する。」

「待っていてくれないか・・・・・勝手なことを言っているのは分かってる。
 でも約束する。 必ず君を迎えにいく。 必ず・・・・・」


その言葉だけでも生きていける−−−

これが自分の身の丈に合った愛なのかは、わからない。

でも、愛する人に愛される悦び・・・・
そして、愛していると心から伝えられることの悦び・・・・

これは、どんなものにも換えられない、何ものにも動かし難い
真実であると感じていた。

マヤは、嬉しさでどうしようもないくらい涙が溢れ、真澄の目を見ながら、
何度も何度もうなずいた。



真澄は、その愛しい唇に口づけようと身をかがめたが、
雨を含んだ髪の毛が邪魔になり、落ちてきた雫が目に入った。

それを払おうと、前髪を片手で後ろに全てかき上げる。

「速水さん。」
「ん?」



「・・・オールバックも似合います・・・・すてき・・・・」

「・・・・ばか。」


真澄はありったけの愛情を込めて、マヤを優しく束縛すると、
永遠の愛の誓いをこめて、深く深くマヤに口づけた。




















<終わり>









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