春の雨

―前編―

written by サキさま










桜があんまり綺麗だからといって、
花のついた一本のその枝を折って愛でてはいけない。

なぜなら、
桜は、地中から力強い生命の源を携えて張り出すその太い幹から始まって、
形よく触手を伸ばす堂々とした枝ぶりと、
儚げに身を震わせて、可憐に咲き誇る花房がたわわについた全体を見て、
美しいと愛でることができるから。

一本の枝の花だけでは、桜を見たことにはならない。
全部を見て、全部を味わって、きっと桜の美しさは全て堪能できる。

今は4月。世の人々がこぞって桜の美しさを愛でる時期−−−



毎年3月の梅の時期に行なわれることになった紅天女の公演が、
数日前に千秋楽を迎えた。

すこしほっとして、大都の所属女優でもある北島マヤは、その日、自宅近くの
桜並木のある通りをぶらぶらと散歩していた。


春の日差しが柔らかく照りつける昼時の通りは、お昼のお弁当を買いに来たOLさんや、
友達同士で楽しそうにおしゃべりしながら歩く女の子や、仕事で先を急ぐビジネススーツ
の男の人や、子供を連れたお母さんや、いろんな人が歩いている。

その頭の上を、まだ咲き始めたばかりの薄紅の桜が、
その豊かなふくらみを持ったつぼみとともに、街の風景に色を添える。


誰と約束しているわけでもなく、誰に見せるわけでもないのに、
マヤは珍しくお洒落をしていた。
春色の軽やかな帽子をかぶり、ちょっと華奢なミュールに足を入れて、
懇意にしているスタイリストさんから譲ってもらったお気に入りの
ワンピースに身を包み、ヒールを鳴らして歩く。

まだ小さく可憐な桜の花がいとおしく、春の香りを含んだふわふわした風も心地よく、
マヤの気分は浮き立っていた。

途中、通りに面したオープンカフェで、道行く楽しげな人々を眺めながら、
簡単なランチをとる。
良い薫りのする熱いカフェ・ラ・テを飲みながら、しばらく次の舞台の資料
である文庫本を読んでいたが、ちょっと飽きてしまったから、と立ち上がり、
久しぶりに洋服でも買っちゃおうかな・・・・と、自分を甘やかして、
また通りを歩き始めた。


仕事は順調だった。

紅天女の後継者となり、大都に所属してからというもの、
いつか一度はやってみたかったと思うようなオファーがひっきりなしに入り、
その中で好きなものを選択するという幸運な状況に恵まれた。

若い女優としては決して格の低くないその待遇に、「あたしなんか・・・」と、
途惑いを隠せない時期もあったが、紅天女の大舞台を成功させたことも
女優としての自信へつながり、最近では周囲に期待される女優としての振る舞いを
そつなくこなしていた。
もちろん、謙虚な態度は変わらず、それが業界では好印象を与えていたが、
当人は意識してそう振舞っているわけでもなく、その世界における女優としての
自分の位置づけ、地位というものに全く無頓着だった。
ただ、好きな芝居が存分にできるというだけで、マヤは幸せだった。


−−−お芝居ができればそれだけでいい。それ以上、絶対に望まない。

それは、マヤが紅天女の上演権を勝ちとった時に、自分に課した掟。

欲望なんて、際限がない。
自分の身の丈に合った幸せを望むべき。
過ぎる望みを抱えたところで、苦しいだけ。

あたしは、絶対に、それ以上望まない・・・・・




弾んだ足取りで、通りに並ぶお店のウィンドウを眺めながら、今日のショッピングの
算段をあれやこれやと想像して楽しんでいたが、
ふと視界に入った、ある服飾ブランドのビルの1階の大きな窓に飾られるそれを見て、
マヤは突然、足がすくんだように立ち尽くした。

道行く雑踏の音も、花の香りも、鼻をくすぐる風も、もう届かない。


−−−それは、ショート丈の真っ白なウェディングドレスだった。

手元にピンで留められたブーケからもわかる。

胸元にあしらわれた精細で優雅な曲線を描くレースを見つめていると、
自分の心臓に打ち込まれたくさびが、周りを圧迫しながら徐々に深く深く
食い込んでいく感覚にめまいを覚える。


あの人は、6月に結婚する。

華やかで豪奢な結婚式。誓いの厳かなキス。祝福の渦の中を腕を取り合う二人。

幸せの白い鳩が青い大空へ舞い飛ぶ。ブーケが投げられる・・・・・・


気がつくと、マヤは心臓の辺りを押さえながら、ふらつく足取りで
通りをただただ歩いていた。
もう桜は目に入らなかった。


理性では分かっているつもりだった。
自分とは違う次元で事が運んでいる。そこに自分が入り込むことは不可能だと。
一方的な想いに囚われて苦しむことなど、ナンセンスだと。


そこへ届けられた紫のバラ・・・・・

紅天女の楽日に贈られてきたそれは、突然、次元を飛び越えて、縮めてはいけない距離を
大胆に裁断して、自分の目の前に突きつけられた。

過去も未来も記憶が錯綜し、気が狂いそうだった。叫び出したかった。


−−−−もうこんなことはして欲しくない・・・・・

諦めるしか能のない自分にとって、それは心からの切実な叫びだった。

記憶をむざむざとほどいてしまうような糸口は、全て断ち切りたい。
もう何もかも、全て終わりにしたい。

他に望むことなど−−−何もない。


過去の鮮やかな記憶を再び手繰り寄せることなど、もうなかった。
全ては、アルバムに丁寧に整理され、押入れの奥深くにしまうつもりだ。
再び手に取ることは、もう有り得ない。
フォトスタンドに飾られることもない。
紫のバラの、色褪せたセピア色の思い出として、永遠に封印されるだろう。




いつも眺めるだけでため息をついて通り過ぎるジュエリーショップ。
マヤは少しばかりの勇気を持って、その洒落たドアを押して入った。

上品な店員に促されるまま、マヤは一つ一つののリングを丁寧に見て回った。
その中でも、ひときわ美しく光るそれは、
芯の強い堅固な意思が潜んでいるかのように決然としたイメージを体現していた。

マヤにとって決して安くない買い物だったが、初めてクレジットカードを使って
サインを終えると、たまたま小さくできていて、サイズ直しの必要がなかったそれを
右手の薬指にそっとはめた・・・・・宝石の種類や値段はどうでもよかった。


女優であることが、生きていると同義語のようにしか思っていないマヤは、
自分は人に自慢できるような、自信を持てるようなものは、
何も持っていないと感じていた。
それでも平気だった。
しかし、今だけは、何もない自分を大きく飾りたてるような、
自身を粉飾して隠しおおせるような、何かが欲しかった。


ジュエリーショップからの帰り道、
右手の指輪を、指先でそっと撫ぜながらマヤは思った。

このリングは−−−あたしのお守り。




家に帰って、一息つくと、携帯電話からある番号へ電話をかける。

相手につながるまでの間、携帯を耳に押しあてながら、マヤは、自分の右手を
照明にかざして、いろいろな角度にまわしながら、買ったばかりのリングの
石の輝きを確かめた。

そして、つながった相手に、すらすらと用件を伝えた。

「聖さん・・・・速水さんのプライベートマンションの住所、教えてください。」


長い沈黙の後、相手は二、三言、何か言ったようだったが、マヤはペンを動かして
住所を書き取ると、「ありがとうございます。」と丁寧に礼を言って電話を切った。



自分の中のアルバムの整理は終わっている。
後は、今までの多大なる支援に対する謝意を伝え、アルバムのページを閉じて
鍵をかけるだけだ。

紫のバラはもういらない。もう必要がない。

これで終わりにする。
そして、これでやっと開放される・・・・・


クッションに寝転がりながら、マヤは飽くことなく、リングのその光沢と
光の屈折を見つめていた。
決心してしまうと、早く実行に移したくて、心が逸るようでさえある。

愛する人との決別−−−速水真澄との決別を・・・・・


このお守りがあるから大丈夫・・・・意味もなくそう思ってマヤは安心した。






炎には、人を昂揚させる何かがある。

電気が作り出す人口的なオレンジ色の暖かい光ではだめだ。

何でもないテーブルに炎を灯しただけで、突然、
空気は異質なものに変わる。

求めてやまない、憧れのようなものを映しながら、
炎は、人の静かな興奮を揺り起こす・・・・・


ほの暗いバーの片隅で、灯されたキャンドルの小さな炎が、美しくカットされた
クリスタルのように多面的な輝きをみせる球体の氷に、ぼやっと映る。

琥珀色の液体が、炎に照らされて、明るくあめ色に光る。

指で氷を回してやると、万華鏡のようにそれは様々なシーンを生み出す。
映りこんだ光が美しく気に入ったシーンがあると、その角度を再現しようと、
再び指で氷を回す・・・・・・

ロックグラスをずっと見つめながら、しばらくそんな風に氷を回していて、
ふと、何をやっているんだと、真澄は口の端に寂しい笑みを浮かべた。

そして、その美しいシーンごと琥珀色の液体を喉元へ流し込んだ。


平日の深夜のバーは人も少なく、大型のクラシックなスピーカーから
低く静かに流れるBGMにあわせたかのように、客は皆、低い声で
ぼそぼそと会話をしていた。


飲み干したグラスに映る、濁った目の自分の顔を見て、
”結婚式を控えた男の顔ではないな”と、真澄は思う。

当初、昨年の11月に予定されていた結婚式は、婚約者の祖父である
鷹通グループの会長の入院のため、6月に延期されていた。
予定が延びたからといって、何が変わるわけでもあるまい。
そう思っていた。


真澄は新しいコニャックを、今度はストレートでオーダーした。
口径の広い、香りを楽しむそのグラスを手のひらで暖めながら舐める。

今日はすでにこれで何杯目なのかさえ、記憶が定かではなかった。
度数の高いコニャックは、かなりの速度で真澄の体内に滲み渡り、
すでにその思考と神経を侵していた。



数日前、紅天女の公演が千秋楽を迎えた。
特に考えもなく、久しぶりにバラを手配し、楽日の公演も観た。
そして、終わってから、”観るのではなかった・・・”と激しく後悔した。

あれは毒だった−−−

妖しく薄笑いする天女にいいように引きずり込まれ、
危うく底のない深淵に足を滑らせるところだった。

艶めいたその瞳に魅入られそうになり、あちら側の世界から
己を引き戻そうと、小さく荒い息遣いをしていた自分。
うっかりとそそのかされて、迷界に堕ちるような恐怖を感じた。

本当に、観るのではなかった・・・・・



北島マヤには、大都との専属契約の時以外、会うこともなかった。
思い出しても意味のない無駄なことだから、思い出さなかった。
感傷に浸る自分に虫唾が走り、無理やり斬って捨てた。
恋だの愛だのといっても、所詮、手前勝手な幻想にすぎない。
そんなものを相手に押し付けたところで、何の意味を成すというのだ。
だから、もう思い出すこともなかった。


それが、数日前にたった一度観た舞台で、
その毒にあてられてしまったかのように、逃げ場のない苦しみに襲われた。
冷静になろうともがくほど、心のあちらこちらで、もろいガラスが砕け散り、
血にまみれた瓦礫が積み上がっていく恐怖に慄然としていた。

自分に残された唯一最後の選択は、”忘れること” それだけだった。
だから、心が悲鳴を上げて血を噴き出していても、その選択に忠実に、
それこそ血の滲むような努力で、この境地まで辿り着いたのだ。


それが、たった一度の天女の妖しい笑みで、いとも簡単に足元を掬われ、
まるで弄ばれるように元の感情の修羅場へまっさかさまに堕ちて行く。


−−−いったい・・・俺が何をしたって言うんだ。

俺はすっかり忘れたいだけなのに、なんだってこんなに
苦しめられなければならないんだ。
なぜ、こんなに追い詰められなければならないんだ。
いつまでこんな馬鹿げた思いをしなくてはならないんだ。


やり場のない苛立ちが極限に達し、持っていたグラスの酒を一気にあおり、
カウンターに乱暴にグラスを叩きつける。

懐から煙草を取り出し、火をつける。
しかし、すでに泥酔と言ってもいい状態では、紫煙は酔いを増長させるだけで、
味など、もうわからなかった。


しばらく数杯あおったが、これ以上飲めば足腰が立たなくなるとそれでも
理性が判断し、酔いが回る頭を押さえるようにして、店を出て、通りで車をひろった。






タクシーを降りて、マンションのエントランスへふらふらと向かう。

霧のような春の冷たい雨−−−

冷え切った心の隙間にさえ滲み込むように降る雨は、じっとりと髪を濡らし、
酒臭い息を吐くと、白く見えそうなくらい、気温が下がっている。


ぼんやりと明るいエントランスのドア近くに小柄な人影が見える。


−−−こんな深夜に、女が一人?



目を合わせないように足早に通り過ぎようとして、女が声をかける。


「速水さん。」



振り向く必要など、ない。
唯一、愛してやまない女、その人の声なのだから。

−−−そして、今一番、会うことが恐ろしい、その人でもあった。




「なぜ、ここがわかった。」


おぼろな照明の下で、沈黙が凍りつく−−−



「・・・・・・聖さんに聞きました。」


全身の筋肉に鋭い緊張が走る。


近くで人の声がする。

「とにかく、中へ入れ。」
そう促して、二人はエレベーターで真澄の部屋へ向かった。








マンションの最上階にある部屋。
その重厚なドアを開けると、整然とした直線のモノトーンな家具、
使われた形跡のない綺麗なキッチン、生活感のない、虚ろな空間が広がっていた。

真澄は部屋に入ると、上着を脱ぎ捨て、ネクタイを取った。

初めて入るその空間に、マヤは遠慮がちに窓辺に行き、
レースのカーテンの隙間から、バルコニーの外をのぞき見た。

深更の景色は春の雨にけぶり、街の灯にうっすらと照らされる空は、
くすんだ蒼のおもむきを帯びていた。


−−−深夜2時・・・・・無音の空間に妖しげな囁きの幻聴を覚える・・・



後ろでソファーに深く身を沈みこませる音がして、その声が床と天井に反響した。


「なぜ、ここに来た。」


その静かな言葉には、激しい感情を隠した怒気が含まれていた。

マヤは振り向いて真澄の目を直視した。

薄暗い間接照明に仄見える、憮然とした表情のその目は、
少し、いや、かなりアルコールが入っているのか、瞳が濁って見える。
怒りのせいかもしれない。
仕事上の厳しい目とは違う、感情に由縁する怒気を映している。


ここに来た理由−−−それは目の前にいる人物が、紫のバラの人だからだ。
紫のバラの人に、謝意を伝えに来たのだ。
それ以上の理由は、ない。

「聖さんは悪くありません。あたしが無理言って教えてもらいました。
 あたしずっと前から、紫のバラを贈ってくださっているのは速水さんだって
 知ってました・・・・・」

マヤの言葉を遮るようにして、真澄は苛立ちを隠さず声を荒げた。

「だから、なぜここに来たのか、用向きを聞いてるんだ。」



マヤの表情を直視した瞬間から、どうしようもない苛立ちとやるせなさと
怒りと動揺とそんなものが、一番分かりやすい”怒り”という感情に
収斂されるのを、真澄は止められなかった。

紫のバラの正体をマヤが知ってしまった事実など、今の彼には、
ほんの些細な事柄にすぎない。

ただ、目の前にいる、狂おしく愛を感じている女への気持ちとは裏腹に、真澄は、
マヤの首を締めつけてやりたいほどの憎々しさを感じていた。

『いったい俺が何をしたって言うんだ・・・・・』

過ぎたアルコールの毒が、彼の思考を混濁させる−−−




真澄の苛立った棘のある声に、マヤは一瞬びくりとしていた。

しかし、こんなことで怯んではいられない。
今日ここに来た目的は、完遂しなければならないのだ。


マヤは、右手の薬指にはめられたリングをそっと指で撫ぜると、
舞台に立った、女優の完璧な微笑を浮かべ、
一呼吸置いて、すらすらと、流れるように、
彼女にとっては儀式であるその最後の台詞を、淀みなく伝え始めた。

「速水さん、いえ、紫のバラの人。
 あたしが今日まで、女優としてここまでこれたのは、全てあなたのお蔭です。
 子供の頃は気づきませんでしたが、あなたはいつも、私に手を差し伸べて下さい
 ました。いつも影から支えて下さいました。どんなに有難かったかしれません。
 ・・・・本当に今までありがとうございました。
 これからは、女優のお仕事を一生懸命頑張って、少しずつでも私がお返し
 できれば、と思っています。

 それと、紫のバラ、今まで本当にありがとうございました。
 私は、このあいだのバラが最後のバラだと思っています。

 どうか、もうお気遣いなさらないで下さい。
 そして、どうぞ紫織さんと末永くお幸せにお過ごしになって下さい。

 速水さん・・・・・今まで本当にありがとうございました。」

そして、女優の立ち姿で真澄に向かって深々と頭を下げた。

それは、儀式としては、美しく完璧なものであり、
惜しみなく支援を贈った一ファンに対しては、
そつのない、正しい最後の挨拶だった。



−−−このあいだのバラが最後のバラ
−−−紫織さんと末永くお幸せに

二つの台詞が真澄の頭にリフレインする。

それは、追い詰められた彼を絶望の淵へ突き落とすには充分な台詞だった。

彼に残された最後の真実 −−バラを贈って真心を伝えること−−
その道も、今、断たれた。

一番愛する女から、他所の女と幸せに暮らせと、引導を渡された。

しかも、目の前の女は、それを空々しく言ってのけた。

−−−女優としての完璧な息遣いで。



「言いたいことは、それだけか。」


「・・・・・・・・はい。」



決別の儀式は終わりだった。−−−マヤにとっては。

真澄にとっては−−−そんな儀式など何の意味も持たなかった。


薄暗い光の中で、相手の輪郭がぼやけていくような錯覚とは裏腹に、
酔いに混濁した意識の中で、殺意にも似た、
憎悪の感情が次第に大きく明瞭になっていくのを感じる。


−−−この女は、俺のことをあれだけ苦しめておきながら、
   ご丁寧に最後のとどめまで刺しに来た。
   しかも・・・胡散臭い、鼻につくような完璧な女優の仮面を被って。


真澄はぞっとするような低い声になる。

「君は・・・・・俺が紫のバラを贈っていたと知っていて、俺の結婚を
 祝福すると言うのか・・・・・・・」



マヤは、聞いたことのないその声にビクりとして身を硬くする。

見えない地雷を、踏む予感はあっても−−−手探りする。

「・・・・紫のバラと、結婚は・・・関係ないじゃないですか・・・・?」


マヤの言葉が白々しく響く。

−−−この女は何も分かってない。俺の苦しみなど、露程も分かってない。

真澄はますます尊大な口ぶりになる。

「君は・・・俺がどんな気持ちでバラを贈っていたか、考えた事がないのか?
 俺がどんな気持ちで君を支えようとしていたのか、考えた事がないのか?・・・」



話の行く先が見えない。
手探りしていた方向が、まるで見当違いだったのか。

「・・・・・ファンとして、支援してくださいました・・・・」



−−−何て脳天気な・・・。この女は本当に何も分かっていないのか。

真澄は眉間に皺を寄せ、言葉に軽蔑が混じる。

「君は・・・ただのファンがここまで支援するとでも思っていたのか?」



マヤの表情がこわばった。
その可能性を考えたこともあるが、それだけは本当だと思いたくなかった。
しかし、ここでうやむやにするべきではない。後へは引けない。

覚悟を決めて口にする。

「・・・・・未来の紅天女への、投資ですか?」

「バカか、君は!!」

真澄は思わず怒鳴った。
自ら正体を隠していたとは言え、唯一の真実の気持ちが全く理解されておらず、
あまつさえ投資などと言われて、真澄の怒りは一気に大きなものになっていった。
勝手すぎる怒りだと頭の隅では判っていても、混濁した意識の中では
どうすることもできなかった。

「そんな確実性のないものに、何年もかけて投資なんかするか!」


先の見えない、意図が見えないやり取りに、マヤもだいぶ腹が立ち始めていた。

こんな会話は意味がない−−−

そう思うと、マヤは話を終わりにしようと、苛立ちを抑えながらも、
冷静に説明するように言った。

「あたしは、純粋にファンとして支援してくださった紫のバラの人に、
 最後のお礼が言いたかっただけです。
 今も大都では本当によくしていただいてます。
 これ以上望むものはありません。
 ですから、さらに影から支援していただくのは心苦しいので、最後にしようと
 思って、お礼を言いに来ただけです。

 それに、所属事務所の社長のご結婚を祝福するのは、常識で考えて当然です。
 紫織さんはとても美しい方ですし、速水さんとはとてもお似合いだと心から
 思っていますから、お幸せになっていただきたい、と言っただけです。」

そして、思わず付け加える。
「あたし、何か怒鳴られるようなこと、言いましたか?」



煮えくり返るような思いに、真澄は思わず膝に手を強く打ちつけた。
顔を歪めて、マヤを穴の開きそうなほど深く睨みつける。

「君は、何も分かっていない・・・・・・・・」

そして突然、感情を爆発させるように怒鳴った。

「何も分かっちゃいない!!」


その勢いに気おされ、マヤは一瞬すくんだように表情がこわばった。

−−−よく分かっているから、今日、ここへ来たのだ。

かたわれの魂を気が狂いそうなくらい想ってみても無駄だと分かりすぎて、
どうしようもないから、ここへ来たのだ。
諦めるしか、決別するしか方法がないと分かって、ここへ来たのだ。
この人は、いったい自分が、好きで好きでどうしようもない溢れる気持ちを、
どんなに大変な思いで押さえてここまで決心して、こんなまねをしているのか、
分かっているとでも言うのか?
あたしの気持ちが少しでも分かっている、とでも言うのか?

「いったい・・・・何が・・・・・・・」

怒りと悔しさが混乱し、昨日まで自身に言い聞かせていた言葉が、
胸からどっと一気に溢れ出た。

「何が分かってないんですかっ!! 何で怒鳴られなきゃいけないんですかっ?
 速水さんの魂のかたわれは紫織さんです!!
 求めてやまない魂が一緒になるのは当然でしょ! 祝福するのは当然でしょ!」



真澄はその言葉に凍りつく−−−

触れてはならない彼の逆鱗を艶めく指先で撫でてしまった。


体中の血が逆流する−−−

真澄は、凄みのある乱れた眼差しでマヤを凝視したかと思うと、
震える声で、

「君は・・・・・本当に何も分かっていない!」

そう言って突然立ち上がってマヤに近づくなり、その両腕を強くつかんで
狂ったように激しく揺さぶりながら、激情した声で叫んだ。

「おれの魂のかたわれはお前だ!!求めてやまない魂はお前だ!! お前なんだよ!!」




張り詰めた緊張と、そして沈黙。

驚愕と恐怖が入り混じり、睨みつけるように大きく目を見開いたマヤの目線と、
真澄の憎しみに燃えたような目線が、激しくぶつかりあった。



−−−どこかで、何かがはじけ飛ぶような音がした。

張り詰めていたバランスは臨界点に達し、音を立てて一気に崩壊した。


「俺が分からせてやる。」

気狂いじみた愛憎の激流にのまれ、真澄はマヤを乱暴に抱き寄せると、
その唇を貪るようにして奪った。
そして、そのまま床に押し倒すと、唇をふさいだまま、
マヤを組み敷いて、ボタンを引き裂くようにして衣服を取り去った。
マヤの首筋に噛みつくようにして真澄の唇が吸い付く・・・・


魂のかたわれはお前だ−−−あり得ない−−−真澄の言葉。

マヤは愕然とし、その感情に囚われたままだった。
今、自分が身体を拘束されている相手が誰であるかも混乱するほど、
今、自分が唇を激しく吸われ、体中をその舌が這う状況が意味するものも、
何もかも他人の絵空事のようにしか感じられなかった。


本能の赴くままの、無言の時間が過ぎる。


しばらくして、マヤの目に、真澄の手によって大きく開かれようとしている
自分自身の足の白さが、飛び込む−−−

・・・・・意識が少しずつ戻る・・・・

途端に、その現実に恐怖感を覚え、真澄から逃れようとマヤは必死で抵抗した。
「速水さん・・・いや・・・やめて・・・・」
身を激しくよじりながら抗議するも、聞こえていないのではないか、と疑うほど、
真澄は無反応だった。
マヤは、真澄の両肩に手をつっぱらせるようにして体をひねりながら、足を閉じようと
懸命にもがいた。しかし、真澄の頑丈な体の重みがマヤを押し付けていて、
思うように手足が動かせない。

空しく抵抗するうちに、自分でも気づかない間に涙が溢れて止まらなくなり、
いつの間にか、声を出して激しく嗚咽していた。

嗚咽にまかせて真澄の肩辺りを拳でめちゃくちゃに叩きながら、声の限りに叫ぶ。

「はやみさん・・・いや!・・・・・こんなの、いやっ!・・・いやぁっ!!・」





マヤの大声に、真澄は弾かれたように顔を上げ、
マヤの涙でぐちゃぐちゃになった顔を見た途端、目の前が真っ暗になった。

そのままの体勢でしばらく呆然としていたが、あわててマヤの足を閉じ、
すぐに傍らにあった服を、マヤの裸体にかけて覆った。

マヤは床に横たわったまま、俯いて震えながら嗚咽に耐えている。



ようやく理性を取り戻した彼の目に映った光景。
あまりに、むごい光景。


−−−俺は・・・・何という取り返しのつかないことを・・・・・・・



少女の頃から何よりも大切に想い、大事にしてきたその人を自ら穢す。
己の欲望の赴くまま、獣のオスのような本能に醜く流されて・・・

卑劣すぎる・・・・醜悪だ・・・・・獣以下だ・・・・・

こんな大罪は・・・・・・絶対に許されることではない・・・・・・・

「・・・・マヤ・・・・すまない・・・・・・・・」

真澄は、蒼ざめた表情で放心したように、床に手をついて座り込んだ−−−




突然、何かに憑かれたように、真澄は床に横たわるマヤの手首を強くつかんで
起き上がらせ、バスルームに連れていくと、熱いシャワーを勢いよくひねり、
マヤの頭の上から下に向けて、マヤの全身をシャワーで流し始めた。

マヤは放心したようにされるがままに、真澄を見下ろしていた。

真澄は、自分が服を着たままであることも忘れ、俯いて肩を震わせながら、
自分が犯してしまった、マヤの穢れを拭い去り洗い流すようにして、
いつまでもいつまでもシャワーでマヤの全身を流し続けた。


−−−バスルームは、湯気と水滴で飽和状態になる


お湯の温かさに少しずつ理性を取り戻したマヤは、真澄の、その、
自分の罪を恥じるように俯いたままの、
すっかり濡れて張りついてしまっているシャツの背中をじっと見つめた。


シャワーの音にかき消されながらも、呟く声が微かに耳に残る。
「こんなことをしてしまって・・・・すまない・・・マヤ・・・・」

肩が小刻みに震えていた。

−−−泣いている



「速水さん・・・・・」


その、すっかり濡れてしまっている背中を見ていると、
マヤはとたんに切なくなって、愛しさがこみ上げてきた。

真澄をすっかり許している自分を感じていた。

そして膝を折ってかがむと、顔を上げない真澄の首に両手を回して、
慣れない動作で、真澄を抱きしめた。

俯いてマヤと目を合わせない真澄の肩越しに、マヤは一語一語口を開く。

「分かってないのは速水さんです・・・・・
 あたしの魂のかたわれは・・・・・速水さんなのに・・・・・・・・・・」


言われている意味が瞬時に理解できず、真澄はゆっくりと顔を上げた。

マヤと目線が交わると、マヤは大きな黒い瞳に涙を浮かべながら言った。

「速水さんが・・・・・好きなのに・・・・・・」


その刹那・・・真澄は無言でありったけの力を込めてマヤをかき抱いた。
マヤも、真澄の背中のシャツを掴むようにして強く引き寄せた。

シャワーが流れたままの浴室のタイルの上で、膝をついて、
二人はずっと抱き合ったままだった・・・・・・・・・







どれくらいそうしていただろうか。

ふとした瞬間に、真澄が、少しマヤから体を離した。
そして、同時にゆっくりとマヤから顔を背けるようにしてしまった。

マヤには、彼のその動作の意味がすぐには理解できなかったが、自分の下腹部に
違和感を感じた途端に理解し、全身に緊張が走った。

知らないふりをしてバスルームから出ようかとも思った。
でも、それでは、先ほどの出来事を考えると、
真澄を傷つけることになるかもしれない。
それに、マヤの中には、真澄の体温を少しでも間近に感じたい、
という、抗えない欲求もあった。

マヤは、ぎこちない動作で、それでも自分から真澄に抱きついた。
しかし、真澄は、またすぐに体を離してしまった。

なぜ?

マヤは真澄を見上げる。

「だめだよ・・・・・マヤ。」
「・・・・・どうして・・・ですか・・・?」

真澄は相変わらず横を向き、マヤと目線を合わせなかった。
「冷静でいられなくなる・・・・」

しかしマヤは、真澄との距離を縮めようと再びしがみついた。
が、真澄は、両手でマヤの腕をつかんですぐに引き離した。

「お願いだから・・・・・・・誘惑しないでくれ・・・・」


マヤは、逆に自分が真澄に否定されているようで、少し悲しくなっていた。
また、あのような出来事の後は、自分が積極的に歩み寄らないと、真澄には
どうすることもできない雰囲気も感じ取っていた。

マヤは、すぐにでも立ち上がってバスルームを出ようとしている真澄のシャツを
強く引っ張るように掴んだ。さすがに目は合わせられなかった。

「あたし・・・・・別に・・・かまわないです・・・・・」

そして、真澄の濡れて胸元が透けているワイシャツのボタンに手をかけ、
その一番上のボタンをはずした。


マヤの大胆な行動に、驚いた表情の真澄は、「だめだ、マヤ。」と言って、二番目の
ボタンをはずそうとしたマヤの手を握って制した。

しかし、マヤはその言葉を無視して、三番目、四番目、と、ボタンをはずした。

その男の性ゆえ、強く否定できない真澄は、動揺した、困ったような面持ちでいたが、
マヤが最後に、濡れたシャツを肩から下ろすと、その上半身が露わになった。

急に目にとびこんできた、真澄の男の厚い胸板−−−

自分で脱がせておきながら、マヤはめまいがするような緊張を覚えた。
鼓動が異常に速くなり、膝が震えそうだ。
それでも、勇気を出して、その真澄の心臓の音を聞くように、
そっと胸に頬を押しつけた。


自分の胸に寄りかかっているマヤには手を触れられずに、
真澄はしばらく黙っていたが、
考える風にして、ぽつり、とつぶやいた。

「マヤ・・・・君は・・後悔しないだろうか・・・・・」


意外にも、マヤは静かにはっきりと答えた。

「・・・後悔なんて・・・しません。」



真澄は、その、もうだいぶ濡れてしまっているマヤの黒髪に、
おそるおそる手を伸ばした。
そして手のひらで触れるか触れないかの軽さで、何度か髪を撫ぜると、
決心したように両肩を優しく掴み、マヤと一緒に立ち上がった。

真澄の切なげな眼差しと、マヤの不安の混じった眼差しが絡まる。

真澄は、マヤの背中に手を伸ばし、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
そして、その頬を、両の手でふわりと包み込むと、唇全体で、
マヤの上下のやわらかい唇の感触を確かめるように、そっと口づけた。

それから、唇を離すと、まるでマヤに最後の許しを問うかのように、
その瞳をのぞきこんだ。

マヤは、その優しい口づけにうっとりした表情を見せ、
そして・・・・・また静かに目を閉じた。


途端に、真澄はマヤを強く抱き寄せ、深い口づけを繰り返した。


自分を探すように入り込んでくる初めての熱い舌の感触に、
マヤは途惑い、翻弄された。
ぎこちなく舌を伸ばすと、真澄が何もかも包み込むように
優しく絡めとる。
その息遣いも、唇も、舌先も、添えられる手のひらも、
下腹部に感じる無言の昂ぶりも、何もかもが、熱い。

逸る気持ちにブレーキをかけようとするもう一人の自分が、頭の隅で叫ぶ。
初めてのマヤにいきなり自分を押し付けては可哀想だ、と。
しかし、すでに回り出してしまった歯車は加速する一方で、
自分が経験として持っている愛の仕草の全てをマヤに注ぎこむように、
真澄は熱心に熱心に口づけを繰り返した。

そのうち、意思を持ったやわらかな生きもののように、
舌根から先端までも全て感じさせるような肉感的な口づけに変わる頃には、
マヤの口からも、思いがけないほど甘く切ない吐息が漏れていた。
キスだけでも意識が飛びそうだった。

真澄はふと体を離し、瞳が潤んで足元がふらつくマヤを支え、
「ベッドに行こう」と促した。



その夜、真澄はマヤを抱いた。

「愛している」と何度もつぶやきながら、これ以上大切なものはないと、
唯一の宝物を扱うように、優しくしなやかに・・・・・








鳥もまだ鳴かない、ようやく空が白みかける頃の春の早朝は、
まだ少し肌寒い。


真澄は目覚めると同時に、横にいるマヤを抱き寄せようと腕を伸ばした。

−−−手に感じたのは、冷たいシーツの感触。

違和感を感じ目を開けると、隣にいるはずのマヤの姿はなかった。


「マヤ・・・・?」

上半身を起こして部屋を見回すが、どこいもいない。
真澄は急いで起き上がり、居間やキッチンやバスルームを探し回ったが、
マヤの姿はなかった。

寝室に戻ってきてみると、枕の下に小さな紙切れがはさんである。
あわてて手に取り、開いてみると、

「もう会えません。」とだけ書かれていた。


真澄は力が抜けたように、ベットの端に座り込んでしまった。


−−−なぜ君は、行ってしまうんだ・・・・・?

−−−なぜ、こんなに愛しているのに、伝わらないんだ・・・・・


昨日は確かに愛し合った。
その気持ちに互いに偽りはなかったはずだ。

それなのに、なぜ・・・・・・


思い立って、スーツのポケットから携帯電話を取り出すと、
まだ一度もかけたことのなかったマヤの番号を検索し、電話をかける。
コールはつながった。 しかし、マヤは電話に出なかった。
何度かけても、つながらない。

真澄は諦めて、携帯をベットの上に放り投げた。


昨夜、自分は目の前のことに一所懸命で、先のことなど考えられなかった。
ただただ、マヤを愛することだけで、頭の中がいっぱいだった。
しかし、マヤはすでに、その先を考えていたのだ。

−−−そして、考えた結論が、これなのか?

真澄は、枕元の紙をまるめて床に叩きつけた。


原因が自分にあることは分かっている。
もうすぐ別の女性と結婚する男と、その先の愛を誓う女などどこにいる。
マヤを束縛する権利など、自分には、ない。
愛想を尽かされて当然だ。


大切なものを失った喪失感に、苦悩の表情をうかべ、
真澄は蒼ざめたまま、頭をかかえた−−−














<続く>









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