満開の桜の木の下で

written by サキさま








桜が満開に咲き誇る、ある春の日曜の夕べ・・・・・


 その日速水真澄は、残務整理のため午後から休日出勤していた。
誰もいない社長室で執務机に向かっていると思ったより仕事に集中してしまい、
気づくとすでに時計は20時をまわっていた。
そろそろ帰ろうと、手早く書類をまとめ、薄いブルーのカジュアルなシャツの上に
ラフなジャケットを羽織る。そしてカードキーでセキュリティーのロックをかけ、
エレベーターでエントランスに向かった。


 担当者との急な打ち合わせがやっと終わった北島マヤは、これから約束があるからと
先を急ぐマネージャーと笑顔で別れ、大都芸能ビルのエントランスに向かった。
1階に着いてエレベーターの扉が開くと、何となく濃密な春の香りが鼻に纏わりつき、
また、誰かが開け放したエントランスのガラス扉から入ってくる夜の少し涼しげな微風を
頬に心地よく感じていた。
このビルに来たのは久しぶりだ。
何をするでもなく人の出入りの邪魔にならない隅の位置に歩いていくと、待ち合わせを
する人のように目立たないように壁を背にして待った。
特に誰かを待っているわけでもない。期待もしていない。
ただ何となく、ちょっとだけね、と自分を甘やかすようにして言い訳した。


 エレベーターが1階に着くと、真澄はいつも通りエントランスを見渡した。
さすがに日曜日だけあって、休日出勤スタイルののんびりした様子の社員をちらほらと
見かけるだけだ。
ふと鼻に纏わりつく春の香りに気づいて、少し通りをぶらぶらと歩いて帰ろうかと思い、
歩みを進めたところで、懐かしい視線とぶつかった。
北島マヤが小さなバックを手に提げて、帽子を目深にかぶってこちらを見つめていた。

 二人が公式の席以外で会うのは、真澄が、−−ほとんど気紛れとも言えるタイミングで
鷹通グループの令嬢との婚約を破棄してしまって以来、2年ぶりだった。
その間真澄は、鷹通との提携がもたらしたであろう恩恵以上に、企業の体質改善と安定化
に力を注ぎ、大都グループの次期CEOとしての地位を揺るぎないものにしていた。
また、北島マヤは紅天女の上演件を持つ唯一の女優として、二度の歴史的公演を大成功に
導き、若手実力派女優として確固たる地位を保っていた。・・・ただし、普段の北島マヤ
は昔と変わらず、街中で見かけても気づかれないほど目立たない存在だったのだが・・・

 真澄は、今日は何か特別な日だったか?と一瞬考えた。
このような場所で北島マヤに会うことなど普段は考えられなかった。天からの啓示の
ようにも思えて、また、自身も半分プライベートのような気持ちの負担の少ない日曜で
あったため、思いもかけずに自然な笑みがこぼれ、北島マヤに近づいていった。
また、北島マヤも、はにかむような嬉しそうな表情で微笑を返した。

「久しぶりだな。一人か? マネージャーは?」
「今日はもうこれで終わりだから、先に帰りました。」
「そうか。」

「君は、これから何か予定でも・・・?」
「いいえ、今日は何もありません。」
「そうか。」

真澄はふと思いついた台詞を装ってたずねる。
「よかったら花見にでも行かないか? 近くの公園は今日が満開だろう。」

マヤは小さく「はい。」と答えた。




 日曜の夜も更けた公園は、花見客もだいぶ引き、それでも公園の表通りの桜並木に面し
た場所では、明るい光源を背に宴会に興じる賑やかな声があちらこちらで上がっていた。
真澄はマヤを連れて、その間を縫うようにして抜け、公園の奥へと歩みを進めた。

 提灯の灯りも賑やかな声も遠ざかると、辺りは急に、動かない湿り気を帯びた、
花の香りや春の少し息苦しい胸のわだかまりやむせるような匂いがない交ぜになった
空気に一面襲われた。月も星も見えない闇夜には、狂ったように最後の嬌態を見せつけ
るが如く身をたわわに咲かせる桜の極薄い紅色が、二人にしな垂れかかるように
眼前の景色を埋め尽くしていた。湿った苔の生えた土の匂いがする。


 真澄の目線からは、右を歩くマヤの帽子の天辺とその口許しか見えない。帽子のつばが
邪魔をして目の表情は窺い知ることができない。
ゆっくりと足取りを進めながら、二人は他愛のない話をぽつりぽつりと交わしていた。
質問を投げかけながら、その口許を探る。遠慮がちに答える唇の動きには、何かを期待
して待ちわびる風情が感じられた。
しかしどんな問いかけにも独りごちるように俯いて答える口許からだけではその心情が
読み取れず、とうとう業を煮やし真澄は少しのぞきこむようにして、

「マヤ?」

と咄嗟に呼びかけた。

マヤは、思いがけない人に呼び止められたかのように目を見開いて、

「そんな風に呼ばれるのは・・・・2年ぶりくらいです。」

と、初めて真澄を見上げた。
確かに事務所の社長としては「北島くん」と呼んでいた。


すぐに我に還った真澄は、取り繕うように、流暢に言葉を継いだ。
「確か去年の春、満開の桜の木の下でという芝居を演っていたな。」
「あ、はい。見に来てくださったんですか?」
「ああ、見た。幻想的と言うか、耽美的な作品だった。」
「そうですね・・・」

 それは、マヤの演じる主人公の女性が、自分の愛する男の裏切りに嫉妬し、狂おしく
愛するあまりにその手に掛けて殺してしまい、満開の桜の木の下に埋める。
毎年桜が咲くたびにそれを思いだし、ついには自ら喉を掻き切って自害するという筋で、
美しくも耽美的なものだった。
マヤは、その顎の線から細い首筋と鎖骨の窪みが強調される胸元が広く開いた衣装を
着ていた。真澄の視線は、その耽美的な筋書きと相まって、常にその美しいバランスを
保つ首筋に注がれていた。
そして、クライマックスの、その喉元を掻き切る場面で、真澄はほとんど叫び出しそうな
衝動を覚えていた。

「あの時、俺は、君が喉元を掻き切る場面で叫び出しそうになった。」

「・・・なぜ・・・ですか?」

「・・・・完璧なバランスを保った美しいものの均衡が犯される、穢されるような
 気がした・・・・」

「・・・・・・・・」

「単に君の美しい喉元が鮮血にまみれるのが耐えられなかっただけかもしれない・・・」

「・・・・・・・・」

マヤが黙りこくってしまったので、浸り過ぎた自分を引き戻しながら
真澄はあわてて言葉を継いだ。
「ああ、いや、実際ぞっとするほど美しかったよ、あの主人公は。」

マヤは遠い記憶を手繰り寄せる目になった。
「・・・・あの役を演っている時は、まるで桜の妖気に魅入られてしまったかのように、
 愛する人を切り刻んで桜の木の下に埋めてしまえば、永遠に自分だけのものとして
 独占できる、生き続けられる、と本気で思ってました・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

「あはは・・・コワイですよねあたし。すぐその気になっちゃうから・・・」

「・・・・しかし、そんな風に愛された男は幸せだったかもしれない・・」

「・・・・・・そんな風に・・・愛されてみたいですか?・・・」

「・・・・そういう願望も・・あるかもしれない・・・・・」


 濃密な気だるさと桜の花びらを巻き込んだ一陣の花嵐が二人を攫い、思わず、
ともに身を避けて凌いだ。
マヤの帽子は風に飛ばされ、瞼や細く撓る弦のような髪の隙間、そしてその唇にも
花びらは纏わり付き、当人は目に砂埃を受けて痛がりその処置に執心していて、
花びらを振り払うどころではなかった。

 真澄はマヤの帽子を拾い上げると、すっかり取り乱しているマヤの髪の間から
一ひら一ひら薄紅の花びらを取り除いてやった。
弦の一本一本を選り分けるようにして奥に絡まる花びらを除こうと指を滑らせ、
痛がる目の瞼に吸い付くようにしている花びらを指先で静かに剥がす。そして
半分食べてしまっている花びらをその唇から引き出すように指の腹を滑らせる。
その動きを助けるように共犯者であるマヤの唇が半開きになる・・


 唇が誘っていることは明白だった。
唇の内側には開かせることによってのみ知ることができる桜の蠱惑的な花香が
内隠されているようだった。
えんえんとした欲望は当然であるが如く誘導され 何ものかに手びきされ、
甘い計略にたぶらかされるように、真澄の顔はマヤの唇を想って近づいていった。
そして、目の前の成り行きを阻むでもなく流れを持って見つめるマヤの両の瞳に出会って
いったん動きを止め、真澄は口の中で小さく、知らないぞ、と呟くと、位置を確かめる
ようにして、その柔らかい唇を自分の唇で覆った。
しばらくしてゆっくりと唇が離れようとする刹那、マヤの理由を求めるような視線と
交わる・・・
真澄は呼応するように再び唇を含むと、マヤの両頬を手で覆って答えを与えるかのように
柔らかく舌を差し入れた。
 多少の動揺はあったもののそんなことはとうの昔に知っていたとでも言うように求めに
応じ、それでもどうしていいかわからずに漂うマヤを、真澄が絡めとった。
二人は熱心に確かめ合った。


 ふとした物音に理性を感じた真澄はそっと唇を離した。
急に現実に引き戻されたマヤは、頼りなげに真澄から視線をはずすように首を横に向けた。
その仕草は拒絶でも後悔でもなかった。


 また少し風が出てきた。
細くしな垂れた枝先の花房が揺れ、音もなくひっそりと身をよじりながら
薄紅の花びらが空を舞う。あたり一面花嵐となる。


 真澄は急に言葉の必要性を感じていた。ありきたりな言葉なぞ口にするそばから
嘘になるような気もしたが、二人の重なった心を読み取り感じることはできても、
輪郭がぼやけあまりに抽象的でとらえどころがなく、早くしなければ、また春の風に
儚くも霧散してしまいそうだった。

−−輪郭を明確にする言葉が必要だ。しかし、いったい何を? どんな言葉を?


 ところがそんな憂慮は徒労に終わり、胸の内から押し出されるように単簡な言葉が
口をついて出た。


「ずっと・・・・君の事が好きだった。」


何とシンプルな言葉。
しかし声に出した瞬間からそれは色彩を帯びて鮮やかな現実となった。

 突然目の前に展開した現実の言葉にマヤは一瞬びくりとして驚いた風だったが、
泣きたくて悲しいような、嬉しくて微笑を返したいような、恥ずかしくて目を伏せた
がっているような、困ってしまって途方に暮れるような、そんな複雑な表情を
一瞬にして見せた。
 真澄には、その複雑な表情の意味するところが何となく分かったような気がしたが、
自身も少し困った風を装ってマヤに懇願するように優しく言った。

「言葉で・・聞かせてくれ・・・」

 マヤはさらに慌てたように目を泳がせていたが、覚悟を決めたように緊張した
面持ちで、頬を淡く染めながらやっとのことで息を声に変えてその唇を小さく動かした。

「・・・好きです・・・」

「誰が?」

「・・・あたしが・・・」

「誰のことを?」

「・・・・・速水さんのことを・・・」

「どれくらい?」

「・・・・・・・・・・胸が苦しくなるくらい・・」


すると真澄が哀願するような眼差しでマヤに訴えた。
「俺にも聞いてくれないか?」

マヤはその瞳に操られるようにしてたずねた。

「誰が?」

「・・・俺が、」

「誰のことを?」

「・・・マヤのことを、」

「・・・どれくらい?」

「・・・・・・・・・・・・・ああ、それはとても言葉にできない・・」

そう言うと真澄は、散り急ぐ桜の木の下でマヤを強く引き寄せ胸の内にしっかりと
抱き留めた。そして、髪や耳元、抱きしめる背中の線、腰のくびれ、全てに
もどかしい愛撫を加えた。
二つの心が重なり金環食の輝きの瞬間のように輪郭がくっきりと冴え渡った。


真澄の腕に抱かれながら、マヤは少し抗議するように口を尖らせてそっと呟く。
「・・速水さん、ずるい・・・言葉で言って・・・」

その可愛らしい小さな抗議に抱きしめる手を強めると、真澄は想いを込めて一語一語
言葉にした。言い訳するように、どれくらい? にあたる修飾をしながら。

「マヤ、愛している・・・・・ずっと昔から・・・誰よりも・・・・・・」


そしてマヤに口づけようと顔を寄せて動きを止め、

「俺は桜の木の下に埋めないでくれよ。」

と言うと、柔らかく微笑むマヤの唇に誓いの刻印を与えた。















<終わり>






みなさま初めまして、サキと申します。
紫苑様のサイトには初めて投稿させていただいております。
最近妄想にハマったばかりで、句読点はどう打ったらいいか?とか、
会話はどうはさんだらいい?とか、文章の基本に悩む日々ではございますが、
これからもいろんなものを書いていきたいと思っております。
最後までお読みいただいて感謝申し上げます。
サキ




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