亡き王女のためのパヴァーヌ








ピアノ楽曲演奏は静かに終えられた。
フェルマータの嫋々たる余韻だけが、そこに、残った。
語りたいことは、すべて、語った。この演奏で。心の限りで。
暫し、瞑目する。
瞼を開くが、
譜面台の楽譜は涙で滲み、音符は視界に揺れて揺れて
もはや楽譜を読みとることは出来なかった。
そっと、椅子から立ち上がる。
そして、黙って、真澄の胸に頽れた。





「お姉ちゃん、猫!猫だよ。猫ががいるよ!」
「え?猫?ほんと?どこに?タケちゃん?」
速水愛子。12歳。速水コンツェルン会長令嬢。
真澄とマヤの愛娘であり、弟の雄大ともども、多忙な両親に存分に愛され
健やかに成長した。
真澄の整った容貌をそのままに受け継いだ、美貌の少女。
この春、東洋英和の付属小学校からそのまま中学に進学した。
それはじきに夏休みも迎えようかという7月に入ったばかりのとある夕刻。
黒塗りの車の送迎で学校から帰宅し、速水邸玄関に横付けされた車に、
弟の雄大がそう言って駆け寄ってきた。
「あっ!いた!」
雄大が庭に駆け出す。
「待って。待って、タケちゃん!たけひろ!」
愛子は通学鞄も車中に残したまま取るものも取りあえず雄大の後を追った。
宵闇迫る初夏の夕刻、速水邸の広大な庭園。
和式建築の離れの床下から、小さな子猫2匹が、こじんまりと顔を出していた。
言われてみれば、ここ2、3日、夜、猫の鳴き声が庭の何処かで聞こえていた
ような記憶もある。
だとすれば、この子猫たちの母猫が鳴いていたのだろうか?
はぐれてしまった子猫を探して?
この子猫達はどこから来たのか?
親子ごと、捨てられて、この庭に紛れ込んだのだろうか?
雄大が子猫の傍に駆け寄って手を伸ばすと、
子猫2匹はサッと床下の奥深くに逃げ去ってしまった。
「あ、逃げちゃった。」
「タケちゃん、だめよ、猫ちゃん達、きっと恐いのよ。」
愛子と雄大は床下を覗き込んで、敷石の上にしゃがんだ。
「お姉ちゃん、この子達、お腹空いてるのかな。ご飯、あげる?どうする?」
「そうねえ…。」
愛子はふと思案顔になり、小首を傾げた。
さらり、と、愛子のその柔らかな頬に、くせのない髪が揺れた。
「タケちゃん、ペット屋さん、行こうか。どんなご飯がいいか、聞いてみよう。」

姉弟はそれぞれ自転車を出して、連れ立って駅前のペットショップを訪れた。
「坊っちゃん、その猫ちゃんはどのくらいの大きさ?」
店員に尋ねられて雄大は
「えっと、このくらい。」
両手で15センチほどの隙間を作って見せた。
それならばおそらくその子猫は生後3か月余りだろう、と教えられ、
ならば、この幼猫用のドライフードが良いと、ふたりは薦められた。
「このカリカリをあげるお皿はいつも綺麗にして、
 あとはお水もいつも新鮮なお水にしてあげるんだよ。それだけでいいから。」
そのドライフードは1.5キロで1600円。
子どもの小遣いでは高価な金額だったが、
姉弟はそれぞれ財布から惜しげもなく小遣いを出してそのドライフードを買った。
猫用の食器ひと揃いも買って、姉弟は黄昏の速水邸庭園にとって返した。

愛子と雄大がドライフードと飲み水を用意し離れの床下にそっと置いた。
姉弟は固唾を呑んで、ふたり並んで物影から子猫の様子を窺っていた。
やがて子猫のうちの1匹がどこからか出てきて、
皿に盛られたドライフードの匂いを嗅ぎ、
恐る恐る口にするのが見て取れた。
子猫はやがて、これが生き延びる道と悟ったかのごとく、
懸命にドライフードを食べ始めた。
「あ、食べた…!」
雄大が愛子を振り返る。
「うん、食べたね。良かった。」
「明日、朝、また、ご飯とお水あげてみようね、タケちゃん。」
姉弟は微笑み合った。
まだ12歳と9歳のこの姉弟。
頑是ない少女と少年は、野性の野良に餌付けしてしまうことの真の残酷さを、
いまだ、知るよしも無かった。




 1か月のロサンゼルス支社滞在から帰宅した真澄は、その夜、
夫婦のリビングでマヤから子ども達と子猫の事の次第を聞き、眉を顰めた。
速水邸では雄大が5歳の年から子ども達への真澄の配慮で
室内犬としてウェルッシュ・コーギーを飼っており、
現在では母犬の小雪と息子の小太郎の2匹が使用人に丁寧に世話されて
のんびりと暮らしていた。
時に8月初旬。
「とすると、その子猫達は生後4か月頃か。」
「そうなのよ、真澄さん。愛子ちゃんも雄大くんも、もう一生懸命で…。」
マヤも困惑の溜め息をつく。
「捕獲は出来なかったのか?」
「ええ…近寄るとすぐ逃げちゃうの。全然人に慣れていない状態。」
真澄はマヤと並んでソファに腰を下ろした。そして腕を組んだ。
「子供達の気持ちは解るが…そうだな。
 現実的なのは、今のままあと2、3か月は餌やりは続けさせて、
 つまりだな、餌付けしてしまった以上責任をもつということだ。そして
 子猫が生後6か月頃になったら捕獲して避妊・去勢手術を受けさせる。
 その後、リリース(もう一度放してやること)する。
 あとは、その猫達の生命力を信じて、運を天に任せる、
 そんなところだろうな。」
「あら?家には入れてあげないの?」
マヤは真澄の語った方針が酷く手厳しいもののように思えて思わずそう尋ねた。
「難しいだろう。4か月まで母猫と離れた後も人に飼われたことがなく
 生き抜いてしまった経験のある一方、食べ物を運んで貰った経験もある猫を
 今後生涯室内飼いにする、と言うのは猫にも、我々にも、あまり幸せなことに
 ならないケースが多い。」
真澄は敢えて努めて淡々と言葉を継ぐ。
「その子猫達をウチで飼うなり里子に出すなりするのならば、
 もっと早く捕獲して、人慣れさせるべきだった。さもなければ、
 その子猫達が生き抜くために身につけた経験や性格が、
 家猫としては不適格になる。
 4か月になってしまった半野良ならば、
 我々は冷静に今後彼らが生き抜くための手助けをする方がいいだろうな。」
「まあ…。」
マヤは項垂れて真澄の語り継ぐ言葉を聞いた。
「どんな猫でも家猫になって幸せになれるわけではない。
 ましてうちには小雪も小太郎もいる。
 半野良で成長しかかって、犬と折り合いの付く性格の猫に育ったとは
 とても考えられないぞ。人間を怖がるようでは。
 もし、その子猫達をウチで飼う望みがあるとすれば、少なくとも今現在
 信頼関係があるだろう愛子と雄大だが。もし可能なら、一刻も早く捕獲して
 子供部屋に隔離させて、とことんの愛情で飼ってやらないと、だな。」
「そうねえ…でも…。」
マヤは語る言葉を探してしばし沈黙した。
「家の中で安心してひっくり返って腹を天井に向けて寝る猫でないと、
 家猫としては可哀相だぞ、マヤ。」
「うん、ええ…。」
「野良は緊張感が強くなければ生き残れない。
 生きていく要件が逆なんだ。家猫と野良では。
 どのみち、このままではどちらにしても猫自身に気の毒なことになる。
 長生きはできないだろう。そうなれば愛子と雄大にも不幸せだ。
 俺たちがしっかり判断しないと。」
「そうだわね…。でも、真澄さんがこんなに野良ちゃんに厳しいなんて。」
マヤは些か恨めしそうに、真澄を横目で見あげた。
「俺は一般論を言ったまでだ。」
真澄は沈着を装う。
「でも、でも。
 もしかしたら、子猫ちゃん達、うちに懐いてくれるかもしれないじゃない?」
あくまでマヤらしい、その楽観的な物言いに、真澄は頬を緩めた。
「俺もな、マヤのように『責任』というものを突き詰めずに考えずに済めば
 さぞ楽な人生だと思う。」
言って、真澄はさもありなんと可笑しそうに微笑んだ。
「あら。あたしだってちゃんと考えてるわよ、愛子ちゃんと雄大くんの責任は。」
マヤは反論したが、どのみち、家庭内で男と女の負う『責任』は本質的に異なるのだ。
夫はその家庭の徳を高めるために外で働き、妻はその格を守るために家で努める。
それはマヤにも、薄々は判ってはいた。
「さあ奥さん。機嫌を直してくれ。寝るぞ。いいな?」
なお物言いたげに真澄を見あげたマヤのくちびるを、真澄は甘い接吻で塞いだ。
久々に燃えあがるふたりの熱い愛の営みのうちに、夜は音もなく更けていった。




 その年の夏は酷い猛暑だった。
前年が冷夏だっただけに、真夏日連続40日の暑さは、誰しもに酷く堪えた。
愛子と雄大の子猫2匹は、猛暑の日中はどこかに隠れて姿を見せなかったが、
夕方になると、どこからともなく姿を現し、
速水邸の庭のそこここで2匹で元気良くじゃれ合っていた。
やがて幼い雄大より、こころ長じた愛子の方が、猫には熱心になった。
真澄が自治体のボランティアに依頼して捕獲を試みたが、捕獲は成功しなかった。
一匹は黒白ブチの毛並み、もう一匹は茶トラだった。
黒白ブチの方は好奇心旺盛でとても闊達な性格、
茶トラの方は哀れにも恐がりで体格も悪かった。後肢がいつも頼りなげだった。
何故か、子猫達はニャアとも鳴かなかった。一声すら、発しないのだ。
声の出ない猫として産まれてしまったのかしら…。
何か、いやな思い出でもあるのかしら…。
愛子は心密かに愁いた。
8月も終わりになる頃には、2匹とも少しだけ成長し、
庭園の低い灌木の木登りも覚えた。離れの塀にも飛び乗れるようになった。
愛子は、夏休み、稽古事の合間合間に、熱心に子猫達を飽かず、眺めていた。
「嬢ちゃま、ほれ、蚊取線香。」
すっかり日も短くなった夏の終わりの夕刻、庭園の離れ傍近く子猫達に見入る
愛子に、気のいい庭師が蚊取線香を焚いた皿を差し出してやった。
愛子はおさなごころに黒白ブチに「ブチ」の“ぶっちゃん”、
茶トラには“トラちゃん”と名付け、その少女の綺麗なソプラノの声で、
何度も何度も、夕まぐれに、そっと子猫達に呼びかけ続けた。


可哀相に…こんなに暑いのに…。
涼しいおうちの中でフカフカのお布団でのんびり寝そべることも知らないで…。
フロントラインだって、つけてあげられない。
ノミが一杯いるんでしょうに。
猫は清潔好きだって聞いたけど、
おうちの中は綺麗なのに。
予防注射のワクチンも受けさせてあげられない。
伝染病に罹らずに済ますには、どうしたらいいの…?
小雪ちゃんもコタちゃんも、おうちの中で、楽しくねんねしてるのに…。

盛んに毛繕いする“ぶっちゃん”のノミを心配して、愛子はひとり、嘆いた。




 夏が行き、秋も巡った。
中学に進学してから、「宝塚音楽学校を受験する」と宣言していた愛子は
秋からは受験予備校としてその筋には有名な都内のレッスン教室にも通い始めた。
バレエ、ダンス、日舞、声楽、ピアノ。
数々の厳しいレッスンに耐え、どんなに疲れて遅く帰宅しても、
愛子は一日2回の子猫達への「ご飯とお水」を欠かさなかった。
父である真澄に指示されるまでもなく、
愛子は子猫達の命への重い責任を感じるともなく感じていた。
愛子は生来利発な少女であった。
劇団オンディーヌ児童部での芝居でも母譲りの天賦の才を閃かせていたが、
愛子はピアノ演奏をことのほか好んだ。
中学1年の少女とは言え3歳から始めたピアノ歴はすでにキャリア10年。
今年の誕生日には、ベートーヴェンのピアノソナタ『ワルトシュタイン』第3楽章を
サロンコンサートで披露し、来席した賓客から喝采を浴びた。
愛子はことあるごとに、少女らしいその鋭敏な感性が感受するまま、
日々の喜びを、父母の不在の寂しさを、さまざまな感情を、ピアノに託して
ほっそりした指で巧みに滑らかに鍵盤を弾いた。



 例年になく11月はまだまだ暖かかった。
そろそろ子猫達の捕獲を、と真澄に命じられた速水家の使用人達が
手を変え品を変え、子猫捕獲を試みた。
が、子猫2匹はますます人間に怯え、杳として姿を隠すばかりで、
ことごとく捕獲は失敗。
ついに子猫捕獲は成功しないまま、師走を迎えてしまった。
報告を聞いた真澄は、心の裡で愛子を不憫に思った。
猫にとっても、結果、残酷なこととなってしまった。
おそらくは愛子が経験するであろう悲しみは、真澄には想像に難くなかった。
だが、それもまた、愛子の将来への糧となる、と、真澄は信じる努力をした。


 愛子は食べ残しのドライフードは捨て、食器を清潔に拭い、
日に2回の「ご飯とお水」を欠かさずに、子猫2匹のために丹精こめた。
愛子の前にだけは姿を見せる子猫達は、なかなか大きくならなかった。
が、気候の良い秋を越して、子猫達は食欲も出たようだ。
“トラちゃん”の方はどうやら雄猫だと判別のつく程には成長した。
身長が伸び、ますます痩せっぽちの体躯だけが目立った。
“トラちゃん”は恐がりだったが、自分の名前を呼ばれると、
掠れた小さな声で、幽かにニャア、と返事をするようになった。
茶トラの長い尻尾は見目良く整っていた。
“ぶっちゃん”も、高価なドライフードの効用か、毛艶も良く、
初冬の透き通った陽差しに黒い毛並みがつやつやと輝いた。
俄に寒さを増したある師走の朝、愛子が庭に出て離れを覗いてみると
“ぶっちゃん”が離れに巡らした板塀に乗って、朝の光を浴びていた。
その頃では、手を出しさえしなければ、愛子が近寄っても“ぶっちゃん”は
逃げることもせず、愛子と目を合わせて、じっと佇むようになっていた。
野性の眼で、“ぶっちゃん”は愛子を見つめ、愛子の呼びかけを聞いた。
だが、ついつい愛子が撫でたくて少しでも手を伸ばすと、途端に素早く
“ぶっちゃん”は逃げ去ってしまうのだった。
愛子は切なく肩を落とした。
ふと、愛子は東洋英和中学の講堂礼拝で習った聖句を思い出していた。
『イエスは言われた。「この世で最も小さい者に対してすることは
 私に対してすることと同じである。」』
それは、この世の弱い者、力のない者、小さな命に奉仕することは、つまり
イエスに奉仕することと同義である、という聖句だった。
物心ついた頃から、愛子は東洋英和に居た。
マヤの気質を受け継いで素直で正直な子どもとして育った愛子は、
与えられた環境によく順応し、およそ疑うということを知らずにいた。
教えられれば素直に頷き、多忙で不在がちとはいえ愛情深い両親を信頼し、
何不自由無い裕福な家庭の子女として、思い通りにならないことは一つとしてない日々。
そうした愛子にも、この子猫達との巡り会いとそののちの日々は、
人として生きれば、必ずしも自分の願い通りにものごとが運ぶものではない、
と言う厳しい現実を教えていた。
その聖句は、子猫達を憐れんで痛む愛子の心に、一条の光明をもたらした。
猫ちゃん達をお世話することは、イエス様にお仕えすることと同じこと…。
愛子の脳裏に、学校で長らく慣れ親しんだ聖像のイエスの顔が浮かんだ。
イエスの顔は、十字架の上にあって尚、真理の光を宿していた。
イエスさま、猫ちゃん達を守ってください…。
きっと、きっと、お世話しますから…。
しかし。“ぶっちゃん”が逃げ去った後の空間は、愛子には酷く空々しく、虚しく、
うつろな寂しい果てしもない空間に見えた。
――寂しいな、悲しいな。――
そんな思いに愛子は囚われた。
すると、ふと、また、愛子の心に、先週の聖書の授業が浮かんだ。
『幸いなるかな、悲しむ者。』
有名な、イエスの山上の説教の一節である。
この春から愛子はクラスで中学入試で入学してきた新入生とも同級になった。
付属小学校からの持ち上がりの生徒は概しておっとりとして穏和な生徒が多かったが、
入試で選抜された新入生達は厳しい中学入試の試練を乗り越えただけあって、
気も強く活発な生徒が目立った。その入試生が、授業で堂々と教諭に質問したのだった。
「先生、どうして、悲しい人が幸いなんですか?」
中年女性の聖書担当教諭はにっこりと微笑んで、逆にその生徒に質問で応えた。
「さて、どうしてでしょう。どう思いますか?」
入試生は、あっさりと返答する。
「解りません。」
入試生はおよそ聖書にも讃美歌にも縁のない生活をしてきたことだろう。
「では、宿題です。来週までに答えを考えてくるように。」
愛子には、教えられた聖句に疑問を抱くなど、思いもよらないことだった。
乾いた土が雨をよく吸収するように、愛子は教えられればそれを素直に受けとめ、
疑ってみることを知らなかった。
入試生のその言動は愛子には殊更に印象深かった。
悲しむ者は、幸い…。
だったら、今、ぶっちゃん達になんにもしてあげられない私は、幸いなのかしら…。
愛子がその聖句の真の意味するところを知るのは、翌年のことになる。



 師走も半ばを過ぎると、あっという間に年の瀬も訪れる。
速水邸では日頃は多忙なマヤと真澄もクリスマスには仕事を調整し、
家族揃って心暖まる団欒のひとときを過ごした。
真澄は一家をバッハの『クリスマス・オラトリオ』のコンサートに連れて行った。
また、クリスマスイヴに催したごく親しい来客のみでの速水邸でのクリスマスパーティでは、
小雪は大好きな鶏ささみにたっぷりありつき、小太郎は来客にも臆せず
いそいそと応接室で盛んに来客に愛想を振りまいた。
愛子は応接室のグランドピアノで数々のクリスマスソングを披露した。
そんな幸福な一夜にも、愛子は庭の離れの子猫達への配慮を忘れなかった。
この寒空の下、どこでどうして、子猫達は暖をとっているのだろうか。
2匹、寄り添って、暖め合っているだろうか…。
どうか、無事でいてね。猫ちゃんたち。
愛子の祈りは絶えることが無かった。


もしかして、私は、猫ちゃんたちには本当は可哀相なことをしているのかもしれない…。
ただ、餓えさせないようにというだけで…?
私、わからない…。

ただ純一な情愛を注ぐこと、それだけが、今、愛子にできることの全てだった。


年の瀬も押し迫った頃、東京に初雪が降った。
早朝、愛子が離れを覗きに行くと、“ぶっちゃん”が濡れ縁で、
空から降る白い牡丹雪を不思議そうに見上げていた。
子猫には生まれて初めて目にするものだったろう。
“トラちゃん”の姿は見えなかった。
しんしんと、雪は舞った。
狂うように舞う雪と、子猫とを、愛子は交互にみつめ続けた。
庭は、底冷えがして、空気は身を切るように冷たかった。

ぶっちゃん…おいで、おいで。
おうちは、あったかいのよ。
おこたも、作ってあげるから。
お外は、こんなに、寒いじゃない。
ね、おうちに、入ろうよ。
きっときっと、綺麗にしてあげるから。
ねえ、ぶっちゃん…。ぶっちゃん…。

愛子は、心に呟いた。
猫は、すい、と、姿を隠した。




 年は暮れ、年が明けた。新年である。
速水家でも、英介亡き後の家長である真澄が新年祝賀を取り仕切った。
元日の朝は清々しく晴れやかに明け、和服の晴れ着に着飾った家族は揃って
初詣に出向き、帰宅してからは家族水入らずの新年の食卓を囲んだ。
午後には真澄夫婦が年始回りに出かけてしまうと、愛子は平服に着替え、
この半年余りですっかり日課となった猫の世話をきちんと済ませた。


 やがて本格的な冬が来た。
厳寒の冬を迎えてから、愛子の“トラちゃん”は、
どうやら、仲良しのお友だち猫を見つけたらしく、
野良猫とも思えない綺麗な白い毛皮に僅かに茶髪の混じった、
立派な体格の大人の雄猫といつも一緒に行動するようになった。
“トラちゃん”の姿が見えないな、と愛子が物寂しく庭を眺めていると、
どこからともなくその2匹は揃って現れて、愛子の与えた離れの床下のドライフードを
喜んで食べていた。
雄猫の行動範囲は500メートルに及ぶと言われている。
“トラちゃん”は相変わらず痩せっぽちだったが、随分と身長が伸びた。
それでも、その、立派な大人のお友だち猫の3分の2程の大きさしかなかった。
“ぶっちゃん”は時折、日溜まりを求めて、速水邸の庭園をとぼとぼと彷徨っていた。
愛子が日に2回世話するドライフードも水も、毎回、すっかり食べ尽くされ
水入れもからになっていた。
この寒い冬、子猫達はどうやら生き延びる道は見つけているようだ。
愛子は、子猫達に与えられた生命力をひたすら祈り、
無事、冬を乗り越えてくれることを、切に切に願った。
自分だけ、ぬくぬくと暖かい清潔な部屋でくつろいても、そこには、
哀れなあの子猫達はいないのだ。
子猫達は、寒空の下。
さぞ寒かろうにと考えるだに、愛子は切なかった。胸が痛んだ。
愛子は自分がいかに罪な人間か、と、みずからを責めた。
『罪深き世にかかる恵み あめより来べしと たれかは知る』
愛子はクリスマスの讃美歌の一節を思い浮かべた。



「あら、あのお痩せの茶トラくん、お宅さまの猫ちゃんでしたの?」
速水邸の裏の5軒隣りの邸宅、その家の細君は女丈夫。
近所でも有名な猫好きの家であり、家猫はもちろんのこと、
集まる野良猫に惜しげもなく餌を与え、巧みに捕獲しては
去勢・避妊手術も施してやっている。
そして里親が見つからなければ、
その邸内で好きに猫達を住まわせてやるような家庭だった。
地域自治会の集会にマヤの名代で出席した速水家の家政婦長が
その細君に愛子の“トラちゃん”の行方を知らないか、と尋ねたところ、
思いもかけずそんな返事が返ってきた。
「まあ。奥様はご存知でしたの?うちのお嬢様がお世話していましてね。
 ですが、この頃見かけなくなりまして。」
家政婦長は愛子に良い知らせが出来そうだ、と内心で喜んだ。
「お名前をいろいろ呼んだんですのよ。トラちゃん、と呼びましたらね、
 お返事しましたわ。大丈夫、先日ちゃんと手術も注射も受けさせました。
 今は、たくの玄関にいる10匹と混ざって元気にしておりますわよ。」
家政婦長は満面の笑顔で深々と何度も礼をした。

「ほんと、マサさん?磯川のおばさまがそう仰ったの?」
レッスンから帰宅した愛子はその知らせを聞き、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「はい、愛子さま。磯川さまのお宅なら猫ちゃんも大丈夫ですよ、きっと。」
「そうね、そうだわね…。」
少しだけ寂しく笑って、愛子はそれでも“トラちゃん”の行く末の幸運を神に感謝した。
「じゃあ、あとは交通事故にでも遭わなければ、大丈夫よね?」
「愛子さま、昔の人は言ったもんですよ、
 まだ起きていない不幸を想像して涙を流すと、その通りになるから
 泣いてはいけない、ってね。」
ハッと愛子は顔をあげた。
「あ、そう、そうよね。マサさんの言う通りだわ。」
「大丈夫ですよ。」
力強い語調で、家政婦長マサは暖かく愛子を励ました。



 季節は巡る。折々の四季。
速水邸庭園では白梅が咲き、紅梅も花開き、沈丁花が香った。
桃の花も蕾をつけた。頃は早春。
――なあに?赤ちゃんの泣き声?――
真夜中の夢うつつに、愛子は、どこからか聞こえてくる猫の媾合の鳴き声を聞き、
寝返りを打った。
猫の恋の季節。
その頃になると、何匹もの雄猫が速水邸に紛れ込んでくるようになった。
愛子が設えた“ぶっちゃん”のためのドライフードを、度々、盗み食いし、
雌猫を求めて盛んにテリトリー争いの喧嘩も繰り広げた。
速水家の庭師達は黙々とそれら雄猫のスプレーの跡を丁寧に始末した。



 4月。満桜咲く。
愛子も中学2年に進級し、心浮き立つ新学期を迎えた。
日々は平和と安寧のうちに過ぎ、速水家の幸福は何の翳りも無いかのごとく。
真澄はますます政財界での地歩を揺るぎなく固め、家庭を大切に守った。
マヤも順風満帆の芸能生活を送り、よき妻、よき母の役目にもまた、努力した。
愛子のぶっちゃんは、いつの頃からか、愛子帰宅の車の音を聞き覚え、
愛子の運んでくるドライフードの紙袋ががさごそ言う音をも聞き覚えた。
賢い猫だった。
愛子の気配で、ぶっちゃんは、離れの濡れ縁にちょこんと座り、
与えられるドライフードを待つようになっていた。
だが、やはり人間には決して、近寄ることをしなかった。

「嬢さま、猫さね。お腹大きいでないかい?」
庭師が愛子に声をかけた。
「え?まさか。」
ぶっちゃんは、子猫の体型からは漸く脱して、『中猫』ほどの大きさにはなった。
だが、愛子の目には、とても大人の猫の大きさには見えなかった。
――そんな、まさか。子猫が子猫を産むなんて?――
愛子は、知らない。猫は生後1年と経たずに成猫となることを。
盛りの春を過ぎる頃、言われてみれば、
確かにぶっちゃんのお腹は目立つようになっていた。
ぶっちゃんは、本能の要求だろう、この頃には鳴いて、愛子にドライフードを
要求するようになった。
――ぶっちゃん、赤ちゃん、産むの?ほんとに?――
愛子の半信半疑のまま、瞬く間に4月が過ぎていった。



 5月。ゴールデンウィーク。うららかな陽春の日。
昨年のこの大型連休には真澄は家族を連れてスイスに渡った。
だが今年はマヤのスケジュールが空かなかった。
マヤは高校卒業後真澄に連れて行かれた演目、
『アンナ・カレーニナ』の舞台に主演していた。
こどもの日には、真澄は愛子と雄大を観劇に連れて行く予定。
そんな5月の初め。
ぶっちゃんは、2日間、失踪した。
愛子が誂えたご飯もお水も、全く手つかずのまま、2日間が過ぎた。
3日目に、ぶっちゃんはようよう、こっそりとドライフードは食べにきた模様だった。
姿を隠したまま、ぶっちゃんが食餌だけはきちんと済ませる日が続いた。
ぶっちゃんは、決まって、離れの裏側、速水邸と隣家を隔てる塀の方から現れる。
10日程経って、愛子が朝、ふと、そのぶっちゃんを見かけた。
確かに、膨らんでいたお腹は、実にすっきりとしていた。
――ぶっちゃん、どこかで、産んだんだわ、赤ちゃん…!――
愛子には俄には信じ難かった。

大丈夫なのかしら。
赤ちゃん猫、雨に濡れたりしていないのかしら。

ぶっちゃんが、いそいそと食餌に通ってくる5月もやがて過ぎていった。
5月の後半には、確かに、ぶっちゃんの乳房は幾つも腫れ、授乳の跡が
はっきりと見て取れた。



 月あらたまって6月となった。
朝食を終え、リビングで登校前に少しテレビを見ていた愛子に、執事が声をかけた。
「お嬢さま、あれ、ご覧なさい。」
執事は屋敷西翼の元英介の和室だった部屋を指差した。
速水邸1階のリビングからはその部屋は垂直に見える。
その和室濡れ縁の床下に、まさしく、ぶっちゃんの産んだ子猫だろう、
生後1か月の大きさの、小さな小さな子猫が1匹、丸くなっていた。
「お母さま、見て!」
愛子はマヤを呼んだ。
「どうしたの?」
愛子と並んでマヤはリビングの採光も明るいテラスを覗き込んだ。
「ほら、赤ちゃん猫だわ。」
「まあ。」
すぐに、もう1匹が、床下の奥から顔を覗かせた。
「2匹なのかしらね。きっと、ぶっちゃんがくわえて連れてきたのよ。愛子ちゃん。」
「嘘みたい。凄いわ。ぶっちゃん。偉いわ。」
愛子は潤んだそのつぶらな瞳で感激して、マヤを振り返った。
「そうね…。」
マヤは、ほんの少しだけ、愛子に気取らせない程度に、声を曇らせた。
ぶっちゃんが西翼の奥から、サッと駆けてきた。
そして、子猫ともども、床下に姿を隠した。
「ここなら安全って思って連れてきたのかしらね、お母さま。」
「そうね。ぶっちゃんはお利口さんだから。」
「さ、あとは任せて、愛子ちゃん。学校でしょ。行ってらっしゃい。」
「…はい。」
名残惜しく、愛子は登校して行った。

困ったわ…今度こそ、どうしても、親子ごと捕獲しないと…。
マヤは天を仰ぐ思いだった。



 それから毎日、朝に夕に、愛子がリビングから西翼を覗くごとに、
猫の親子3匹はすっかり新しい居場所に安心したらしく、
和室濡れ縁でくつろいでいた。
気温が上がった日には、ぶっちゃんは濡れ縁に長々と寝そべり、
子猫2匹にのんびり授乳させていた。
冬場にはあれほど心愁い、胸を痛めた外猫への愛子の思いは
まるで夢のようにかき消え、すっかり心和む猫の親子3匹の愛らしい姿に
愛子は夢中になった。
可愛い。可愛い。可愛い。こんなに可愛い、小さな猫ちゃん達。
学校とレッスンで家を空けている間のぶっちゃん親子の様子は、愛子は
執事やマサから、逐一報告して貰う。
愛子さま、今日はぶっちゃんはトカゲを捕まえて、子猫に食べさせようとしていました。
愛子さま、今日は子猫は夕方庭まで出て、2匹で元気にじゃれ合っていました。
ぶっちゃんはそれを傍に佇んでじっと見守っていました。
愛子さま、ぶっちゃんは授乳させながら子猫の毛繕いもしてあげていました。
それらを聞き、愛子は心から喜んだ。
子猫は母猫の狩りを見て、狩猟の方法を学習すると言われる。
ぶっちゃんは捨て猫であり、母猫と過ごした時間は僅かだっただろうに、
よくも狩りまで出来るものだと、愛子は感心した。
野性の本能というもの、天地自然の営みというものの偉大さを、
子どもごころに愛子はいたく、感じ入った。
人の叡智よりも、野性の営みこそ真実、神のみこころに叶うことなのではないのか。
本当は何匹産まれたのだろう。
1か月、必死でぶっちゃんはきっと、子育てして、
生き延びたこの2匹を守ろうと頑張って、こっちに連れてきたんだわ。
リビングから覗く遠目にも、ぶっちゃんは見事に母猫の表情をしているのが見てとれた。
愛子は、よその猫にも食餌の場所として覚えられてしまっている離れ床下の
ドライフードと水の置き場を、西翼濡れ縁の下に移してやった。
3匹によかれ、と思っての配慮のはずだった。
確かに、子猫2匹は日々元気に成長し、1か月経つ頃には、
母猫ぶっちゃんの母乳だけでなくドライフードにも口をつけるまでになったのだった。



 ぶっちゃんの子猫は1匹はサバトラ白の毛並みにサバトラの長い尻尾。
もう1匹はカラス猫。尻尾はジャパニーズボブテイル型。
だが、近寄ってよく見ると、一見黒猫に見えるその毛並みは
うっすらとトラ縞模様をしていた。
3匹はよほど至近距離に近寄らない限り、逃げも隠れもせず、
のんびり元気に濡れ縁の生活を続けていた。
子猫は無邪気に庭園を走り回り、木登りも塀のぼりも覚えた。
7月になり、ぶっちゃんが捨てられてから、ちょうど1年が経った。
比較的雨の少ない梅雨だった。
愛子も夏休みに入った。
夕暮れ時、遠くに遊びに行き過ぎる子猫2匹を、ぶっちゃんは、
独特の鳴き声でにゃごにゃごと鳴いては呼び寄せて、
殊勝にも呼び戻した子猫の顔を舐めてやる。
子猫相手には、ぶっちゃんはよく鳴いた。
愛子はぶっちゃんがこんなによく鳴く猫だったことを初めて知った。
子猫2匹と比べれば、さすがにぶっちゃんは大きく見えるが、
きっと野性の生活で長時間熟睡することも無いのかも知れない、
よその成猫よりずっと小さい体格のままで、成長しきらずにいた。
ぶっちゃんはまだまだ若い命。その生命としての若さの勢いで、
子猫を産んで育てているのかもしれなかった。
ぶっちゃんは、トカゲに始まり、子ネズミ、アゲハ蝶、セミまで狩りをしては、
子猫に与えていた。
天から授かった野性の母性愛の、なんと健気なこと。
子猫達もたいそうな甘えん坊で、少しの間ぶっちゃんの姿が見えないと、
黒猫の方がその細い高い澄んだ鳴き声で、懸命にぶっちゃんを呼んだ。
愛子がリビングから濡れ縁を眺めていると、
子猫に呼ばれたぶっちゃんは庭園を横切って急いで矢のように駆け抜け、
子猫の元に戻って子猫を舐めてやり、子猫を落ち着かせたものだった。
子猫達は甘えてぶっちゃんにまとわりつき、
母乳を求めてぶっちゃんの腹に小さな頭をしきりに突っ込んだりしていた。
梅雨も明け文月も二十日を過ぎ、蒸し暑い日も多くなった。
昼下がり、愛子がふと猫たちの濡れ縁を覗くと、
子猫達は小さな体のこれ以上は長くはなれないというほど伸びきって昼寝をしており、
ぶっちゃんも耳を床板にくっつけて、猫本来の眠りの姿勢で熟睡していた。
――良かったわね、ぶっちゃん――
過ぎてゆく日々の束の間の、幸福な猫一家の夏の昼下がりであった。



 夜も11時。そろそろ眠ろうかしら、と愛子は勉強机から立ち上がった。
すると、フギャァー、と、ただならぬ猫の悲鳴が闇夜を突いた。
何事?
愛子は私室の窓を開け声のした屋敷西翼に目をやった。
夜目にも判別のつく白い毛並みの猫とぶっちゃんが、のたうち回って喧嘩をしている。
すぐに使用人が駆けつけるのが見えた。
竹箒でつつかれて、白い猫は逃げ去った。ぶっちゃんも慌てて床下に逃げ込んだ。
腹を空かせたどこかの野良猫だったのだろうか、ドライフード目当てで、
ぶっちゃん達の濡れ縁に盗み食いに来たのかもしれない。
しばらくじっと愛子は様子を窺っていたが、ぶっちゃんも子猫も隠れたきりだった。
ぶっちゃん、大丈夫だったかしら…。
その夜はそれきり何事も起こらなかったので、愛子は懸念を敢えて心に封印して就寝した。
その夜から、度々、ぶっちゃんのテリトリー争いの喧嘩の悲鳴が聞こえるようになった。
愛子は用心してぶっちゃんの今の濡れ縁の他に元の離れ床下にも
ドライフードと水を置くようにした。
だが…。
時、すでに遅きに失したと、運命の歯車は告げていた。
愛子が昨年、捨てられたぶっちゃんに出逢ったのも運命ならば、
生者必衰、会者定離、それもまた、運命の定めるところの天の意志。

 その年最初の台風が関東地方を通過した翌日からは、猛暑が続いた。
8月になり、35度を超える日も数日。連日真夏日の、本格的な夏の到来である。
それでもなお、ぶっちゃんの猫一家は生きるための野性の知恵の命ずるまま
日中は床下で暑気を凌ぎ、早朝と夕方には濡れ縁を走り回って健在だった。
授乳の間は発情せず、しばらくは発情しにくい季節も続く、と、
真澄とマヤは獣医からは教えられていた。
捕獲するなら、そろそろの頃合い、とふたりは考えていた。
その矢先であった。



 昼過ぎ、愛子はレッスンに出かけようと、速水邸玄関で車を待っていた。
すると、子猫2匹の必死の鳴き声が屋敷西翼から聞こえた。
子猫達は鳴いている。必死に、鳴いている。鳴き続けている。
鳴く、と言うよりは、泣く、といった声のように、愛子には、聞こえた。
胸騒ぎがして、愛子は西翼濡れ縁にそっと歩み寄った。
濡れ縁の奥で、ぶっちゃんが蹲っているのが見えた。
子猫2匹は、その動かないぶっちゃんに取り縋るように、鳴いていた。
そう言えば、昨日一日、ぶっちゃんの姿は見なかったことに、愛子は気づいた。
猫は具合の悪い時は、物影に隠れ潜んで、じっと苦しみに耐えるという習性がある。
それは愛子も真澄から言い聞かされていた。
まさか…。
愛子は恐懼に駆られて、濡れ縁の下を覗き、蹲るぶっちゃんに手を伸ばした。
子猫達は、サッと逃げた。が、遠巻きに母猫から目を離さなかった。
これまで、何度か愛子は、ぶっちゃんの背に触ったことがあった。
そのたびに飛び上がって驚いて、恐怖の余りに逃げ去っていたぶっちゃんだった。
だが、今日は。愛子が触ってもぶっちゃんは、
幽かに、在るか無きかの小さな呻き声をあげただけで、ぐったりとその場に昏倒した。
「ぶっちゃん!」
異状に気づいた愛子は走って家に戻り、大判のバスタオルを箪笥から出して、
マサを呼んだ。
「大変なの!ぶっちゃんが…。私、獣医さんに行く。
 マサさん、ケージで子猫ちゃん達をなんとか捕まえて、あとから獣医さんに来て!」
言い残して愛子は濡れ縁に駆け戻り、そっとぶっちゃんの四肢を持ちあげて
バスタオルにくるみ、胸に抱いて待機していた車に乗り込んだ。
ぶっちゃんの重さは、儚いほど、愛子の両腕に軽かった。
どうしたの、ぶっちゃん、いったい、どうしたの…お願い、助かって、お願い…。
運転士は手早く車内電話で獣医と真澄とに連絡を入れた。
成城動物病院。近隣でも評判の獣医である。
幸い、診察は一番で受診できた。
診療台で獣医はぶっちゃんの体温を測り、巧みに採血して血液検査を施し、
鎮静剤の注射を打った。
ぶっちゃんは朦朧とした目を、一度だけ、開いた。
息をするのも、苦しそうだった。喘ぐように浅い呼吸。
やがて血液検査の機械音が止む。
そこにかねて獣医から借り受けた金網のケージで子猫を捕獲したマサが飛び込んできた。
獣医はケージの中の子猫達にはフロントラインを滴下した。
子猫達もパニックを起こして、2匹で抱き合ってケージの隅で震えていた。
「残念ですが…。」
獣医はその穏やかな目を静かにマサと愛子に向けた。
「敗血症です。もって、今夜か、明日…。」
「えっ…?」
愛子は耳を疑った。
「これが喧嘩傷ですね。ご覧なさい。こんなに化膿して。傷口がこの状態です。
 この季節ですから、この傷では進行が早かったでしょう。」
獣医はぶっちゃんの片方の後ろ足をそっと持ちあげて内股のその傷口を指し示した。
愛子はその無惨な傷口から思わず目を背けた。
「今、楽にしてあげられますよ。それとも、最後まで看てあげますか?」
愛子は溢れそうになる涙を必死で怺え、きっと顔をあげると、
真っ直ぐに獣医に向き直り、はっきりと答えた。
「私、最後まで、看ます。」
獣医は憐れみぶかい優しい眼差しで、無言で愛子を励まし、やんわりと告げた。
「判りました。お大事にどうぞ。」
愛子の心に獣医のその眼差しが、くっきりと刻み込まれた。
その後帰宅するまでのことは、余りに混乱して、後々、愛子にはよく思い出せなかった。
いずれ捕獲した暁に、と用意してあった猫用の客室に3匹を連れて戻り、
子猫はケージに入れたまま、部屋の隅に置いてやった。
ぶっちゃんの体をくるんだバスタオルを広げて、ぶっちゃんをそっとソファに寝かせる。
息を詰めて、愛子は、ぐったりと横たわるぶっちゃんを見つめ続けた。

いったいどれほどの時が経ったのか。
愛子には判らなかった。
もう、夜も更けたのか。
いつの間にか、真澄とマヤが愛子に付き添っていた。
ぶっちゃんの苦しそうな浅薄呼吸は次第に弱々しくなっていった。
ぶっちゃん、ぶっちゃん。
可哀相な、ぶっちゃん。
頑張って。頑張って。
痛いでしょう、苦しいでしょう、でも、どうか、頑張って…。
一度、ぶっちゃんは酷い全身の痙攣を起こし、カッと血の混じった泡を吐いた。
それから、二度と、ぶっちゃんの四肢は、動かなくなった。
ぶっちゃんの浅い呼吸は、やがて間遠になり、体はすっかり冷たくなっていった。
最後の、ひと呼吸、ぶっちゃんは、微かにケホ、と咳をした。
その後ややあって、一回だけ小さな息を吐いて、ぶっちゃんの呼吸は止まった。
手で触れてかろうじて確認できていた弱々しかった心臓の脈動も、すぐに、止まった。
その瞬間。
ケージの子猫達が揃って、ニャァァ、と、鳴いた。
判るのだ、野性には。身近な者の死が。
その鳴き声を聞いて張り詰め切った愛子の神経の緊張は一気に緩み、
愛子は泣くことも忘れて、茫然と床に座り込んだ。
その愛子の背を、真澄がそっと撫でてやり、マヤがやさしく愛子の手を握ってやった。
窓の外は、黎明。
真夏の、早い夜明け。
「愛子、よく頑張ったな。」
「ぶっちゃん、偉かったわね。」
両親に静かな言葉かけられて、愛子は初めて、真澄の胸に、わっと泣き伏した。
好きなだけ、真澄は愛子を泣かせてやった。
ぶっちゃんは、亡くなったのだ。
子猫達を残して。
その事実が、今、改めて、愛子の理性に迫った。
泣き疲れた愛子を隣りのソファに寝かせてやると、真澄とマヤはそっと部屋をあとにした。
疲弊しきった愛子はうとうとと浅い眠りに落ちたが、すぐに目覚めた。
ぶっちゃんの遺骸は固く死後硬直していた。
再度、さめざめと、愛子は泣いた。
そしてまた、いつの間に眠ったのだろう、次に愛子が目覚めた時は、
ぶっちゃんの硬直は収まって、冷たい、柔らかい体になっていた。
弱冷房の効いた部屋で、子猫達はケージの中でぐっすりと眠っていた。
「愛子、お寺に行くぞ。ぶっちゃんを連れてきなさい。」
真澄が物憂げに愛子に告げた。
お寺?お寺って、なんだろう?
疲れ切った愛子の思考もまた鈍っていた。
愛子は言われるがまま、ぶっちゃんの小さな体を
差し出された真新しい白いバスタオルでくるんで胸に抱いた。
車で30分ほど。都内近郊でも動物霊園で有名な寺である。
真澄は個別立ち会い火葬を手配してあった。
寺で備え付けの花束を買い、真澄はぶっちゃんの遺骸に添えてやった。
「お別れです。」
職員が火葬場に付属の小さな祭壇に線香を焚き、りんを鳴らして
般若経のCDを流した。瞑目する真澄に並んで、愛子は立ち尽くした。
お別れ?これで、お別れ?嘘でしょう?
愛子はバスタオルの上のぶっちゃんの小さな安らかな死に顔を見た。
咄嗟に突き上げてきた大声で泣き喚きたくなる激しい衝動に、かろうじて愛子は耐えた。
お経が終わると職員は深々と真澄と愛子に一礼した。真澄は遺骸をバスタオルで包んだ。
ぶっちゃんの遺骸と花束をダンボールに収め、職員は火葬場の重い扉を開けた。
ダンボールはゆっくりと火葬場に収められた。
これは夢?真夏の白日夢?
愛子には、すべてに実感が無かった。
火葬場の重い扉は閉じられ、職員が扉に深々と一礼して、点火が行われた。
真澄は愛子を連れて、待合室で決められた時間を待った。
寺には約束事のように沢山の猫がおり、そのうちの2匹が愛子についてきた。
猫は、人間の感情に時にとても敏感な動物である。
悲しむ人間の心を解する猫もいるのだ。
待合室の長椅子に座った愛子の膝に、その1匹はひょいと乗ってきた。
元気、出してね。
まるで言葉を発したように、その大きな猫は、人懐こく何度も愛子に頭をこすりつけた。
泣き腫らした愛子の目は再び潤んだ。
「速水さま、お時間です。」
職員に呼ばれて火葬場に戻ると、焦げた骨の独特の匂いがした。
ぶっちゃんの遺骨は綺麗により分けられ皿に乗せられていた。
「愛子、この箸で、ふたりで足の骨から拾うんだ。」
真澄は愛子を諭す。
そうか、足から、拾ってあげれば、ぶっちゃんは歩いて天国に行けるのね。
儚かった命は、儚い白い小さな骨の断片となった。
お骨を拾い終えると、真澄は愛子に骨壺を抱かせて、共同墓地に向かった。
職員がとりどりの花々に彩られた共同墓地の深い坑の蓋を開けた。
「さあ、愛子。納骨してあげなさい。」
何を考える余裕も無い愛子は、命じられるまま、骨壺の蓋を開け、そっと、骨壺を傾けた。
ぱしゃん。
散骨の、音だった。
あまりにもその音は儚かった。
愛子の脳に、その音はくっきりと書き込まれた。
愛子が我に帰ると、一斉に盛んな蝉時雨が、降り注いだ。
真夏日だった。墓地には、陽炎が揺らめいていた。







「愛子ちゃん、食べられる?冷たい桃よ?ほら、瑞々しいでしょう?」
霊園から帰宅して入浴を済ませ着替えた愛子はそのまま、一昼夜熱を出して
寝込んでしまった。
目覚めた愛子に、マヤが白桃を差し出してやった。
ベッドから半身を起こすと、愛子の身体の節々は痛んだ。
「お母さま…。子猫ちゃんは?」
その愛子の寝起きざまの物言いにマヤは暖かく笑った。
「大丈夫よ。ちゃんと獣医さんで洗ってもらったし診察も注射も受けたわ。
 お部屋も駆虫剤で綺麗にしたし。食べてるしおトイレもしてるわ。
 心配しないで。愛子ちゃんは自分の心配をしなさいね。」
「良かった…。」
愛子は桃を少し食べると、また再び昏々と眠った。
その日は日曜日。愛子を気遣って、真澄夫婦は一日自宅で過ごした。
夕食には、どうやら愛子も起きあがれるようになった。
食卓で、愛子は細々と卵のおじやを食べた。
真澄はリビングに食後の珈琲を運ばせた。
愛子はもの悲しく、リビングから西翼を眺めた。
つい昨日まで、毎日、ここから、元気な猫の親子の姿が眺められたのだ。
なのに、ぶっちゃんは、もう居ない…。
1年間、ずっと世話をした、健気だったぶっちゃんは…。
私がうっかりカリカリの場所を変えたりしたばっかりに…。
よその猫ちゃんと喧嘩なんかさせちゃって…。
愛子の視線を追った真澄は、もの柔らかに、愛子に語りかけた。
「愛子、いいか。焦るな。自分を責めるな。今度のことは、愛子は悪くない。
 全く悪くないんだぞ。餌の場所を移してやった、という愛子の心の現れである行為が
 たまたまうまくいかなかっただけのことだ。もしかしたら、なにもかも、
 うまくいっていたかもしれない。うまくいっていたかもしれないんだ。」
「だから、自分を責めるんじゃない。今は気持ちの無理はするな。いいか?」
真澄にやさしく慰められて、再々愛子の瞳は潤んだ。
「お父さま…。」
真澄は静かに言葉を継いだ。
「悲しむ者にこそ、神の力は完全に現れる。聖書に、そう書いてあったな?」
その真澄の言葉に愕然と、愛子は顔をあげた。
「一見逆説のようだが。学校で愛子が習ってきた言葉こそ、真理だ。
 悲しむ者は幸いだ。悲しむ者にほど、弱い者にほど、
 神の慰めはたくさんある。そうだな?」
ああ、あの聖書の授業…。あれは、去年の冬だったわ…。
だったら、今頃、きっとぶっちゃんは神様にたくさん慰められているんだわ…。
愛子は初々しく頬を紅潮させて、深く何度も頷いた。
「判ったか。いい子だ。」
真澄も愛子を東洋英和に入れてから10年、父兄として学校の主義である
キリスト教主義教育については理解を示していた。
真澄はつと立ち上がって愛子の頭を優しく撫でてやった。
そしてリビングテーブルから一冊の本を取り上げ、愛子に手渡した。
『虹の橋で逢おうね』とその愛らしい装丁に書かれていた。
愛子はページを繰った。最初の一文を読み、涙は愛子の瞳からとめどなく溢れて
止まらなかった。
「お姉ちゃん、泣かないでよ。僕も泣きそうだよ。」
雄大が囁いた。
マヤが愛子の手から本をとって、朗々と、だが穏やかに、その詩を朗読してやった。
詩、『虹の橋』。
舞台で鍛えられた女優であるマヤの朗読は、美しく、語る力に満ちていた。
家族はひととき、時を忘れてマヤの朗読に聴き入った。
そして真澄はリビングのオーディオセットに歩み寄ると、一曲のCDを流した。
曲、サンソン・フランソワ演奏、ピアノ曲、モーリス・ラヴェル作曲、
『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
愛子には初めて聴くCDであった。
真のフランスのエスプリを現代に伝える、天才ピアニスト・フランソワの
才気煌めく偉大な遺産である。
パヴァーヌとは孔雀のPAVOを語源とし16世紀にスペインで発祥した宮廷舞曲様式を指す。
気品に溢れ優雅で厳かな舞曲を意味し、
3部形式のその曲をフランソワは正しくタイトル通りに演奏していた。
曲はラヴェルの1899年、パリ音楽院在学中の作品。
王女Infanteはスペイン語のInfanta、スペイン王室皇女を指すがモデルは不明。
ルーヴルにあるヴェラスケス描の古いスペイン皇女の肖像画に霊感を得たとも
言われている。パヴァーヌとは舞曲であり死者を悼むための楽曲ではないが、
ラヴェルはその緩やかで荘重なリズムによって、3部形式の典雅なエレジーを構想した。
後年ラヴェルはこの曲を管弦楽曲に編曲している。
曲名は印象主義と言うよりは、より象徴主義的と評されている。
ラヴェル自身は楽譜冒頭に、たっぷりと歌うように、と、フランス語で書き込んでいる。
清冽な情感に溢れたフランソワの端正な演奏は、決して情緒に流されないが
ひととき間違いなく、切なく『亡き者』を悼んで、その玲瓏たる楽音を豊かに響かせた。
ああ、挽歌だわ…。
そのピアノの色彩と音色は、愛子の魂を、深く深く揺さぶった。
この曲こそ、ぶっちゃんのための主題曲…!
愛子は確信した。
絹糸のような繊細なピアニシモから
劇的なテヌートとアクセントと3連譜で終曲はクレッシェンドし、一切を浄化し、
フォルテッシモで、6分間の演奏は終了した。
感動に震える声で愛子は真澄に尋ねた。
「お父さま、この曲、なんて言うの?」
「『亡き王女のためのパヴァーヌ』だよ。」
真澄は微かに微笑んだ。
「亡き王女…」
やっぱり…。愛子は絶句した。
ぶっちゃんこそ、愛子にとっては、まさしく『亡き王女』。
「ありがとう、お父さま。私、この曲、弾くわ。きっと練習する。
 来月、ぶっちゃんの命日までに私、弾けるようになるから、
 お父さま、お母さま、その日には聴いてね。」
マヤは愛子のその言葉を聞き、悲しむ子の母として心の底から安堵した。
真澄とマヤの心尽くしを愛子は愛子らしく、きちんと素直に受けとめたのだ。
それが、何より、ぶっちゃんへの良き供養ともなろう。
マヤは真澄と視線を合わせて、ほんのかすかに頷いた。

ぶっちゃん、見ていてね。
私、ぶっちゃんのために、ピアノを弾くから。
そして、いつか、虹の橋で、きっと逢おうね。
さよなら、ぶっちゃん。
ぶっちゃん、さようなら。
今は、さようなら。
どうか、いつまでも、神様のおやさしいみ手に守られて、幸せに。



 それから1か月。晩夏の夕べ。
愛子は真澄とマヤを前に、しずしずと速水家のスタインウェイに向かった。
譜面台に、宝物を置くように、楽譜を置く。
静かに呼吸を整え、姿勢をただし、愛子はピアノに向かった。
そして、祈りをこめて、愛子は演奏を開始した。
曲、『亡き王女のためのパヴァーヌ』。

ピアノ楽曲演奏は静かに終えられた。
フェルマータの嫋々たる余韻だけが、そこに、残った。
語りたいことは、すべて、語った。この演奏で。心の限りで。
暫し、瞑目する。
瞼を開くが、
譜面台の楽譜は涙で滲み、音符は視界に揺れて揺れて
もはや楽譜を読みとることは出来なかった。
そっと、椅子から立ち上がる。
そして、黙って、真澄の胸に頽れた。
真澄はその暖かな胸に、しっかりと愛子を抱き締めてやった。
マヤはまなじりの涙をそっと拭った。
どこからか、懐かしい鳴き声も、聞こえてくるようだった。


『我が魂よ、主を誉め称えよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。』
(詩篇103.2)









終わり


詩 『虹の橋』→
Wishigcap →


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