その日の夕刻。
  聖は迷った。今なら駆けつけるには間に合う時刻だ。これを明日まで延ばすべきかか否か。
  真澄の社会的立場もある。聖の決断にかかっていた。
  鷹宮家にはなんとでも言い訳は付く。それよりも今日、この日、この一日がどう明けるのか、
  その方が真澄にとっては重大なことだ、とも聖は考える。真澄の人生にとってこの一日、このたった一日の重みを、
  その意味深さを、聖は思った。そして、決断した。
  予定続行だ。今日は真澄に口を噤む。本社の方はあの秘書が巧く対応するだろう。
  今夜までは、真澄に真の人生を生きてほしい。たとえ、明日からは修羅が待っていようとも。
  真澄が巻き込まれるであろう窮地を思うと、聖は何とも言質のつけようのない、苦々しさにひどく気が滅入った。
  だが、今宵一夜。生きてある真澄の心からの微笑みがそこにあることこそ、聖にとっては至宝のごとくに貴重だったからである。


白百合の間
  マヤの眼を覆っていた掌をはずして、真澄はマヤを抱え直し、くちびるを離した。
  真近いマヤの、伏せられた瞼、かすかにふるえる睫毛、頬にかかる乱れ髪、ひそかにわななく唇。
  ひとつ、ひとつ、真澄は心に刻みつけていく。フッと真澄は微笑んだ。
  気配に、マヤは眼を上げて、真澄を見た。ほんの何度か見たことのある、真澄の本心のままの笑顔がそこにあった。
  これが、本当の速水さんの顔、本当の心……。マヤは演技者の本能で、表情から内面を鋭く読みとっていた。
  真澄のその微笑みは、マヤの胸に、強く響いた。この一瞬を、マヤはおそらく永遠に忘れないであろう。
  「“誓いのキス”だ」
  笑って真澄が言った。言われて、マヤはひどく照れた。
  マヤに意識があるときのファースト・キスが“誓いのキス”、であるとは出来過ぎなのだったが、それにはマヤは考えが回る余裕はない。
  ただ、何度も小さく頷くだけだった。
  「小さいな君は。」
  真澄の腕の中では、マヤはふた回りもみ回りも体格が違う。
  「こんなに小さくて、どうして舞台であんなに大きく演じられるんだ。」
  「不思議だよ。君は。」
  穏やかな真澄の言葉を、音楽でも聴くようにマヤはうっとりと聞いていた。ソファは心地よかった。
  真澄の腕の中で、時間の流れが急に緩やかになってしまったようだった。
  ただ身を寄せ合っているだけで、甘美なときめきが二人を満たす。そして、至福な安らぎに身を任す。
  真澄はマヤの頭を自分の肩にもたせかけ、手をとりあって、少しの間そのままにして黙っていた。マヤは瞼を閉じた。
  いつの間にか、海に夕暮が迫っていた。窓の外が薄青くたそがれる。ルームライトが明かるく映えるようになる。
  真澄はマヤの耳元に囁くように言った。
  「今日、部屋をとってある。今夜は一緒にいてくれないか。」
  夢見心地でマヤはその言葉を聞いた。
  「…え?」
  ハタ、とマヤは我に帰って、身を起こした。
  「え、あ、あの、あたし……」
  機先を制して、真澄は言った。
  「家に友達がいるんだろう。連絡は入れておいで。」
  「そこの電話を使うといい。」
  それは問答無用の言い回しであった。指示命令し人を動かすことに、真澄は慣れている。
  「あ、は、はい。」
  よもやの成り行きに、ひどく狼狽しながら、促されるままマヤはホテルの電話を取った。
  バイト先の麗を呼び出してもらう。
  「あ、麗? あたし。 あのね、あたし今日帰らないから……」
  さいごの所は消え入りそうな声である。
  真澄はマヤのそんな一挙一動を興味深げに眺めている。
  “なに? 聞こえないよっ”
  繰り返し言うのが、なんともマヤにはたまらない。
  「あたし今日帰らないからっ。 麗は心配しなくていいからねっ。」
  “エエなんだって!? ちょっと、マヤ!”
  「あした帰るから。じゃあねっ」
  ガチャリと受話器を置いて、はぁぁとマヤは溜め息をついた。ふり返ると、真澄がさも面白そうにマヤを見ている。
  「連絡しました。これでいいですか。」
  なかば居直って言ってくるマヤに、真澄は笑った。
  「ハハ…、いいだろう。」
  単純に、真澄は楽しそうである。
  「よし。上に食事に行こう。腹は減っていないか。」
  完全に真澄のペースである。マヤは、この際それに合わせるしかない、と思った。


最上階のレストラン。
  生演奏のピアノの高音が煌めいて美しい。手際よくソムリエがワインを注ぎ、皿が並べられる。
  洒落た食事であったが、マヤはなかばうわの空で、それらを眺めていた。
  それでも真澄が白のワイングラスを掲げると、自分も真澄のグラスに杯を合わせた。チン、とクリスタルの美しい音が響く。
  これから二人がおかすであろう過ちに乾杯、とは誰の台詞だっただろうか。(註:ヘミングウェイです。故・森瑶子が好きで
  無論、マヤには微塵もそこまで考える余地はない。                         初期によく引用していました。)
  ただ行儀良く、
  「いただきます。」
  とだけ言った。
  「速水さんと食事するのってこれで二度目だわ。」
  「ああ、アルディス姫の時だったな。」
  「そう。あの時は、今日こそ本当に紫のバラの人に会えるんだと思って、贈ってくれた服を着て、カチンコチンだったんですよ。」
  「成長したよ。君は。紅天女まで辿り着いた。」
  「芸そのものが演技者を成長させる。」
  「速水さんがいてくれたからだわ。」
  「でも紅天女はまだまだです。ほんとうに難しい。月影先生は、もうあたし達の中に紅天女はいる、っておっしゃったけど……」
  「楽しみにしているよ。君の紅天女が観られればどんなに……」
  真澄の口から同じ言葉をいつかあの夜の社務所で聞いたときのことを、不意にマヤは思い出した。
  あの時の、やるせなさ、せつなさ。
  それが、今はこうしていられる。いったい何の奇跡でも起こったのかと思う。夢でも見ているようだ。
  食器を置いて、マヤはナプキンの端で、眼の端に滲んだ涙をそっと拭った。
  「どうした。もう酔っぱらったか。君は泣き上戸か?」
  首を横に振って、マヤは言い訳した。
  「ちょっと思い出しちゃって……」
  ふと、真澄は思った。並みの舞台人として以上に、この子は己の感性に素直で正直なのだ。
  それが、未だ何者によっても歪められてはいず、若く初々しい。瑞々しい。
  いや、たとえ何物によったとしても、今後この天性が歪められることはあるまいとも思う。
  それだけのしなやかな強靱さをも、マヤは持ち備えていよう。だからこそ、数々の舞台でマヤは無限に輝いてきた。
  その魅力に、真澄は強烈に魅せられてきた。長い間の、かけがえのない存在である。それが、今は、手を伸ばせば届く所に居る。
  そのマヤと囲むこの席の酒は、真澄には極上の味がした。
  デザートはあっというまに平らげるマヤに、今度は真澄が思い出し笑いした。彼は上機嫌である。
  「よければ俺のもあるぞ? 君は甘いものはいくらでも食べたからな。」
  「いつかのことですか? もう。 あたしはもうあんな子供じゃありませんたら。」
  「そうか? それは結構。では今日は楽しみだよ。」
  言外に含みを持たせて、半ば本気で、半ばからかい気味に、真澄はマヤを横目で見やった。
  マヤは、ドキリ、とした。それは…それって……。
  「速水さん! あの…」
  「ん? なんだ?」
  「……いえ、なんでもありません。」
  急に気もそぞろといったふぜいのマヤを、煙草を燻らせながら真澄は愉快そうに眺めていた。


  「さ、もう行くぞ。」
  「ごちそうさまでした。」
  席を立ったマヤの肩を人目もはばからず、真澄は抱いて歩いた。マヤは、真澄の放つ「男性」の雰囲気に、次第に呑まれていった。



白百合の間。
  すっかり部屋の眺望は夜景の海、である。柔らかに明るい間接照明の向こうは、黒々と横たわる海であった。
  ちょうど、月がのぼっていた。満月にほんの僅か足りない。
  「綺麗……」
  マヤは夜景に喜んだ。マヤにとって夜の海の光景など、久しく見ていないものだ。
  月は水平線の少し上にあり、その光を逆三角形に海に映しだしていた。
  マヤの立つ部屋の床より、水平線の方が高い。外は風が強いのだろうか。
  月が照らしていた。小さく揺れる 遠い波の上を、音もなく、明かるく、白く、月が。
  窓辺に立って見入るマヤを真澄が後ろから抱きすくめる。二人の間の空気が柔らかで甘やかだ。
  「月が見てる。速水さん。」
  可愛いことを言う。いっそう強く真澄の腕がマヤをかきいだく。
  いつまでもこうしていられたら、どんなにいいだろう。……人とは儚い夢を見るものである。マヤが呟く。
  「あたしには、お芝居しかなかったんです。ずっと。演技している時だけは生きてる、って実感していて……
   でも、速水さんのことが好きになって、どうしようもなくって。お芝居とおなじくらい、ううん、お芝居以上に
   強烈だった。自分が自分じゃなくなるみたいに。そんな気がしてました…。」
  恋によって無垢な魂が自我に目覚めたとしても、マヤはマヤだった。マヤは天然のままである。
  「光栄なことだよ。君にとっての芝居以上だとは。」
  「俺はとうてい叶わない思いだと思っていた。君にはずっと憎まれ役だったしな。」
  「でもそれは、あたしの為に速水さんがしてきてくれたことだってわかって……」
  「いつからそんなことを思っていたんだ?」
  「いつかしら…いつのまにか。」
  「でも、はっきり好きだって思ったのは、梅の谷だった。それからずっと。」
  「梅の谷か……」
  ついこの間のような気もする。逆に遠い昔のことのようにも。
  「哀れ、すれ違いか。俺はあの谷から帰ってきて、自分を押し殺して生きなければならんと考えていた。
   君のことはまさかまさかとは思っていた。今日は間に合って良かったよ。取り返しのつかないことになる前に、
   きみとこうやって気持ちが通じた。」
  「速水さん……」
  「それを君と確かめたい。いいね?」
  ごく自然にもの柔らかく、しかし否やを言わせぬ口調で、真澄は言った。
  役者は揃った。これ以上ないお膳立て・舞台装置である。あとは緞帳が開くだけだ。
  真澄の言葉で、マヤは開演ベルを聞くのと同じような高鳴るときめきを感じた。幕が開くまでの、あの刺激的な緊張感。
  それも初日のそれ、である。思わず、身じろぎした。
  それが答えだと言わんばかりに、真澄はマヤの身体を自分に向けさせ、あごをついと上向かせた。
  マヤの背を抱き、そして身をかがめて深く口づけた。
  想いこめた、接吻だった。マヤは、それを受け止めるのが精一杯だったが、真澄の気持ちは痛いほど伝わってきた。
  こういうふうにして心って伝わるんだ、とマヤはどこかで感じていた。
  そのように小さなひとつひとつから、マヤは少女から大人への階段を上ってゆく。

  真澄の唇が熱を帯びてきた。弾力があり、吸いつくように、緩急が加わってくる。外の海の引いては寄する波のように。
  マヤは陶然と、それに引き込まれていった。身体から力が抜けていく。だが、心は真澄につられるように熱かった。
  あんなに好きだった人が、こうやって自分をいとしんでくれる。その甘い幸福にマヤは酔った。
  軽い眩暈を覚えて、マヤの身体がぐらりと揺れた。真澄は唇を離して、マヤの顔をのぞき込んだ。マヤが真澄を見上げる。
  恋の幸福のさなかにある生気に満ちたマヤの輝く瞳を美しいと真澄は思った。
  両手でマヤの頬を挟んで、真澄はマヤにの髪に軽く口づけ、声をかけた。
  「先に風呂に入っておいで。俺は後からでいい。」
  「え、あ、は・はい」
  リビングブースの横、窓側のキングサイズのベッドが、マヤは急に気になりだした。チラリとそちらに目をやってから、
  マヤは足早にバスルームに消えた。それを見やって真澄は、まったくあの子は…。みんな顔に出てしまう、と真澄はひとり、笑っていた。



   ゆうにマヤと麗のアパートの台所くらいの広さはあるパスルームは、煌々と明かるく、ガラス張りのシャワーブースと
  バスタブが別々に分かれていた。どうやってお風呂入ればいいんだろ。マヤは考えてしまった。
  広いマーブル模様の洗面台に大きな鏡。湿気除けが丸く塗られている。いろいろな手の込んだアメニティセットが並ぶ。
  ホテル名入りのふかふかした贅沢なバスマット。ハンガーにバスローブが二つ並んで掛かっている。きれい。
  物珍しさにマヤはひととおり物色した。シャワーでいいわ。こんな大きなお風呂じゃおぼれそう。
  ホテルの縫い取りのある清潔なタオルで髪をまとめて、マヤはシャワーブースに入った。湯温がいくらか気分をほぐす。
  えーと石鹸、石鹸。置き場はあるが、そのものはない。あっ、外にあるの?洗面のとこだっけ?
  マヤはバスルームでも戸惑いまくっていた。速水さんはこんなところ慣れてるんだろうなあ、と思わず気後れがした。
  少し念入りに身体を流しただけで、マヤはシャワーを止めてブースを出た。これを着ていけばいいのかしら。
  これも縫い取りのあるバスローブに袖を通した。やだ、ダブダブ。マヤには大きすぎるサイズだった。
  マヤは大きな鏡に自分を映しながら、アメニティのブラシで髪を梳いた。自分で自分を見るのも、妙に緊張する気分だ。
  こんな成り行きとは想像だにしていなかったが、気合いを入れて下着も新調してきていて良かったと、乙女心にマヤは思った。
  着ていた服をたたんで持って、そうっとマヤはバスルームを出た。
  「あの、お先に。」
  「ああ、服はクロゼットに掛けておくといい。その中だ。」
  と真澄は指差した。湯上がりのほんのりと色つやの良いマヤのふぜいを、真澄は鋭く一瞥した。だが、さりげなく声をかけた。
  「じゃあ交替だ。」
  上着を脱いでネクタイをほどき、無造作にその辺りの椅子の背に引っかけると、真澄がバスルームに行く。
  言われたクロゼットを開けて、またもマヤは面食らった。
  広々としたその中にハンガーが幾本もかかり、下部にはご丁寧に引き出しまで何段もついている。
  こまごまとしたすべてが、マヤには非日常であった。やっぱり速水さんとあたしは世界が違うんだ、とマヤは少し臆した。
  これも掛けておいてあげよう、とマヤは、真澄のスーツの上着とネクタイを手に取った。質の良い手触り。微かに真澄の匂い。
  マヤの知らない世界の真澄をマヤは感じていた。



  少し濡れた髪をタオルで拭いながら、そろいのバスローブで真澄が出てきた。真澄から発散される男性の色香に、マヤは動悸が高鳴った。
  好きになった人の、初めてみる姿である。マヤの胸が甘く疼く。
  真澄を見上げるマヤの眸は、艶めいて濡れ、熱していた。そんな双眸で見つめられたら、真澄はたまらない。
  真澄は部屋の照明を消した。
  マヤをソファから立たせ、軽々と抱き上げてベッドに運び、メイクベッドされたシーツを片手で引き剥がしてマヤを横たえた。
  そしてあっというまに身体を重ねた。思わず、マヤは身を固くする。
  「あの、…速水さん、あたし、こういうことって初めてで……」
  「当たりまえだ。そうじゃなかったら、俺は君も相手の奴も許しちゃおかないぞ」
  男は女の最初の男でありたい。そして女は男にとっての最後の女でありたい。人とは、そうしたものだ。
  両手でマヤの柔らかな頬を包み、かぶりをふって、真澄はマヤにゆっくりと口づけた。
  今日になって何度目かの、真澄の唇。甘い、とマヤはようやく感じる。長く静かな口づけのあと、マヤの頬に、額に、瞼に、耳元に、
  あごに、髪に、こわれものを扱うように真澄は唇を寄せる。そして彼の長い指で少しずつマヤの髪を梳いてやりながら、
  喉もとから首筋へ、柔らかく唇をすべらせる。
  マヤの口から、吐息が漏れる。舞台人として鍛えられてきたマヤは、心身共に至極感じ易い。
  マヤのバスローブをそっとはだけさせ、あらわになった細い肩から鎖骨のくぼみにかけて、くちびるで、ゆびさきで、掌で、何度も真澄は愛撫する。
  真澄の心こめた気遣いをマヤは感じ取る。  速水さん……やさしい、やさしくしてくれる。あたしのために……
  これが速水さんの、ほんとうのやさしさ……。真澄の献身でマヤは心満たされていく。
  未知の行為への懼れも、抵抗も、しだいにマヤから遠ざかっていく。
  マヤが身体を委ねてきたのに真澄は気づいて耳元に囁いた。
  「可愛いよ。マヤ。きみを、愛している……」
  睦言は、マヤの心身をさらに甘く痺れさす。  ああ速水さん、好きです、ほんとうに……。慕わしさに、マヤは真澄の背に腕を回した。
  「マヤ……」
  呼びかけは、優しく、慈しみ満ちて、情を乞い、マヤを誘い出す。さらに強い心の交感へ。愛することの尊い心身の昂ぶりへ。
  真澄はマヤを全裸にした。マヤは思わず目を閉じて顔をそむける。
  「綺麗だ…恥ずかしいことじゃない。」
  すべらかで柔らかいが弾むように真澄の掌を押し返してくる、肌理こまかい肌。ほの白く浮かび上がるその姿を、飽かず真澄は目に焼きつける。
  これこそ、彼の欲していた姿だ。そして、彼も裸体をマヤに覆い被せる。
  互いの温もりが、心地よく全身に広がってゆく。ときめく心臓。愛撫さながらの呼吸。マヤのすべてを、真澄が真情こめて愛していく。
  繰り返す、愛撫、吐息、熱。強く、あるいは軽く真澄に触れられると、マヤはそこに自分のうなじがあるのを知る。
  そこに自分の肩があるのを知る。襟元。脇下。乳房。脇腹。上腕。膝裏。足首。足指。指先。今まで自分の知らなかった触覚。
  乱れるマヤの呼吸があえかな喘ぎに変わる頃、マヤはかつて知らなかった興奮を、感覚の昂揚を覚えた。
  真澄によって的確に生み出されるそれは、マヤを渦巻く桃色の坩堝へと、マヤを誘い出す。
  マヤは夢中だった。夢、まぼろしの境いに入り込む。マヤ独特の天授の感性で。我知らず、喘ぎに混じって悦びの声があがる。
  「マヤ……マヤ」
  呼びかけにすら愛撫されたように、全身に戦慄が奔る。
  「…………」
  真澄の指と唇が止まると、もっと続けてほしくなる、焦れるような狂おしい思いを、マヤは初めて知る。
  マヤの反応の確かさに、真澄はいっそう没頭した。
  「素敵だ、マヤ……」
  マヤはもう言葉では応えられない。半身を捩って、真澄の下で身悶え続けた。
  マヤが女に変化するまだ清らかな部分に、真澄の愛撫が到達する。そして、そこにそれがあるのを、あやうい意識でマヤは知る。
  真澄はただ入念に準備をほどこしてやった。マヤの歓喜のあえぎがしとど漏れる。

  その時、が来た。真澄にとって、マヤにとって、最も厳粛な時が。

  なかば祈る思いで、真澄はマヤにゆっくり己を穿っていった。
  刺すような重苦しい痛みが、マヤを貫いた。その痛みが、マヤを正気に引き戻す。
  二人は互いに心の中で名を呼び合った。マヤは声をこらえて真澄にしがみつく。真澄はマヤの上体を、強くかき抱いた。
  二人は、結ばれた。 確かな、二人の証しであった。
  鈍い痛みに耐えながら、マヤは圧倒されていた。なんという圧迫感。熱さ。真澄が自分の内部にいるその確かな感覚。
  泣けてくるような感動を、マヤは覚えた。そして真澄は、ようやくマヤを自分のものにした深い喜びに満たされる。
  呼び合うように二人は口づけた。真澄が腰を進めるたび、マヤのざらつくような痛みは、なぜかしだいに消えていく。
  支配されることが悦びであると、マヤは教えられる。真澄の動きが次第に熱を帯びていく。マヤは再び夢の中に誘われる。
  「は、やみさん……お願い…」
  あえぐ息の下からマヤが口にした。
  「うん?」
  「お願い、何か…言って」
  マヤ自身も、自分が何を懇願しているのかは、はっきりとは判ってはいない。
  「ああ…マヤ…愛している。俺のものだ……」
  「もう、離さない」
  「速、水さん、…私も…」
  やがて、真澄の熱が頂に達した。マヤが呻く。真澄はマヤの内に自らを激しく放った。



   放心したように、マヤは真澄の胸に頬を寄せている。真澄は腕枕でないほうの片手で、マヤの髪を撫でてやる。
  あらゆる一切から解放されたように、二人は脱力して横たわっていた。
  すべてから解放される、ということは、人には許されてはいない。だが、今、このひと時だけは、二人はすべてから解き放たれて自由だった。
  ただ、互いの存在だけがあった。奇跡のような、ひとときである。
  充足した、甘く気怠い空気が二人を包んでいた。 ほうっと、マヤがため息をもらす。
  「大丈夫か?」
  「……え?」
  何が大丈夫、なんだろう。マヤの思考はまだ定まらない。
  自分に身を委ねきって陶酔に朦朧としているマヤに、真澄はフッと笑みをこぼす。男にとって最も満足する贅沢な時間だ。
  だが真澄は、その満悦に笑むのではなく、いっそうマヤへの想いを募らせて微笑むのだ。その点が、並みの男より真澄はより純粋である。
  でなければここまで長の年月、マヤを想い続けて来ることは無かっただろう。
  この子と、ずっといつまでもこうしていたい。それが儚い望みだとは、今は真澄には思えなかった。
  二人の愛という実感に、身も心も満たされている今は。
  
  月は今沖天にあり。虚空高く天にあまねくその真白い光を放っていた。

  この世界のただ中で、今、真澄はマヤと二人、二人だけの存在。その確かさだけを、今は真澄は信じていた。
  生涯忘れ得ぬであろう思いを、深く胸に刻みこみながら。
  だがその存在とは、実はひどく足もとあやうい、くっきりと闇色の影にふちどられた、不確かなものなのだ……。
  ふと、マヤが顔をあげた。二人の間にもう言葉は要らない。
  見つめ合う互いの向こうに、彼方から永遠が、二人を誘っている。
     倖せだよ、マヤ……。ありがとう。…今は、ずっとこうしていよう。あの月が傾いて沈むまで………。






終わり




2000/12/6




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