紅葉狩り






気象庁は29日、関東地方の紅葉予想を発表した。
今年は9月の平均気温が高く、10、11月も平年より高めに推移するとみられていることから、
紅葉の時期は例年より5日から10日遅いとの見込みであった。


たけなわの秋。
好天が続く。
空は高く青く澄み渡り、透き通る光陽の耀よいが一年のうちでも最も美しい季節。
金木犀は空気が冷たく澄んでいないと花咲かないと言われる。
百日紅はいつのまにかその花を散らし、その年の金木犀が最初の蕾をつけた頃。
街にはほんの僅か、甘い芳香が何処からとも知れず漂うようになる。
香りにはいつも、記憶の断片が呼び起こされる。
思い出は幽かな痛みを伴って、人の心に儚く浮かんでは消え。
それもまた巡る四季の、かけがえのない恵み。
行く川の流れは絶えずして。淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて久しく留まりたるためし無し。
秋の気配の寂寥は、また世の無常をも思わせる。
過ぎてゆく束の間の、豊穣の秋。




車は首都高から東北道を1時間半。
宇都宮インターで高速を降りた車は日光宇都宮道路を真っ直ぐに進んだ。
週末の行楽地での混雑を見越して早朝に東京を発ったため、渋滞にも遭わずに
真澄は車のスピードを上げた。東京からは約130キロの道程になる。
マヤは助手席のシートにゆったり凭れて車窓を流れゆく風景に見入っていた。
この週末は珍しく真澄がマヤを一泊二日の小旅行に誘った。
多忙を極めるふたりである。なかなかゆっくりと季節の行楽を楽しむ機会にも恵まれなかった。
だがこの日は真澄は自らマヤの休日に自分のスケジュールを合わせた。
久々のふたり揃っての地方行きである。
車中の音楽には大ヒット映画『コーラス』のサウンドトラック。
また、同じくサンマルク少年少女合唱団の『コーラス・イン・コンサート』。
ボーイソプラノのソロも一際清浄な『ピエ・イエズス』。
マヤには久しぶりの真澄とのドライブだ。
高速道路も楽しいが一般道を走っても、浮き浮きとマヤの心は浮き立った。



「ほら、マヤ。日光杉並木街道に入るぞ。」
「え?もうそんなに近く?」
日光街道・例幣使街道・会津西街道の総延長37km、約1万3千本にわたる日光杉並木街道は、
世界一長い並木道である。
古いもので樹齢約360年の杉の巨木が連なり、荘重で神秘的な景観を作り出している。
この杉並木は徳川家康の忠臣・松平正綱が東照宮に寄進したものであり、
20年余の年月をかけて完成させられた。日光という土地柄らしい名所である。
真澄がその由来をかいつまんでマヤに説明してやる。
「えっ。徳川家康? 家康ってあの歴史に出てくる家康?」
「そうだ。日光は家康ゆかりの土地だ。
 五街道の一つ、今走っている日光街道は江戸時代からの道だぞ。」
「凄い木ね…。」
鬱蒼と立ち並ぶ高い杉の巨木にマヤは目を瞠った。
「なんだか実感湧かないけど、この道で参勤交代とか実際やってたの?」
「そうだろうな。参勤交代は三代将軍家光が確立させた制度だが。」
時速60キロ。
サスペンションの良い真澄のBMWは軽快に並木道を走り抜けた。



やがて日光街道も終点。
日光駅が見えてくる。
真澄は車を宿泊先の金谷ホテルに向けた。
金谷ホテルは、箱根で言えば富士屋ホテルに相当する、日光随一の旅荘である。
明治6年の創業以来、国内外の要人に愛され続けている、歴史と伝統のクラシックホテル。
築城造りを意識して模した白壁と瓦屋根が壮観だ。
真澄の車は音もなく駐車場に滑り込んだ。
真澄はマヤを促して車を降りた。
BMWと車のキーはこのホテルに預け、日光見物には一日、ハイヤーを調達する。
日光は名所巡りにはバスなどの公共の交通機関では何かと不便な観光地でもある。
マヤは真澄がこの道行き用にと買ってくれたシャネル・ニュートラベルライントートの
バッグだけ手に提げて、真澄のあとに従った。
もとよりマヤはブランド品のことなど何も知らない。ただ、愛らしいそのピンク色だけを喜んだ。



まずは神橋。
金谷ホテルから徒歩でもすぐの新名所。
平成9年からの大修理を終え、約8年ぶりに朱色の華麗な姿を現した『日光・神橋(しんきょう)』。
世界遺産登録後初めてのお目見えである。
神橋を渡って、橋の下の特設観覧台から橋の下部構造は今年ちょうど春から1年間限定で初公開された。
鮮やかな朱に塗られた真新しいその橋は緩やかな傾斜を描いて深い渓谷を眺望できる。
橋桁が秋の陽光を反射してきらきらと輝いていた。
真澄は白いポロシャツに麻のジャケットスーツという旅の軽装。マヤもゆったりした長袖のワンピース。
「転ぶなよ。ほら。」
真澄は気軽にマヤに左腕を差し出した。
「あ、うん。」
そっと、マヤは真澄のその腕に自分の右腕を絡ませた。ふと恋しさが募った。マヤの胸が高鳴る。
「いい天気だ。来て良かったな。」
言ってマヤに腕を貸しながら真澄は無造作に額の髪をかき上げた。
何気ない真澄のそんな仕種にも、マヤは時めく。
造型の整った真澄の横顔を見あげて、あらためてマヤは頬が火照るのを感じた。
言葉で答える代わりに、マヤは少しだけ腕に力をこめた。
ゆっくりと、橋を渡る。
欄干からは、見事に紅葉した渓谷が見渡せた。
「わあ。綺麗。」
マヤの歓声も僅かにうわずる。
「ちょうど見頃だな。今日は正解だった。」
「ん…。」
真澄はすでに秋の小旅行の爽快さを満喫していた。
すがやかな風が高い青空を吹き過ぎて行った。
マヤの密かな羞じらいも、秋空の彼方に風が浚ってゆくようだった。



名所巡りは、ハイヤーの運転士に任せた。
「お客様、日光東照宮でございます。」
運転士が後部座席の扉を開け、ふたりを招いた。
「ああ。ありがとう。では行ってくる。」
「ごゆっくりどうぞ。」
真澄と手を繋いで、マヤは初めての東照宮に赴いた。
『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿をはじめ、見どころ満載の東照宮。
この東照宮は“意匠のためには工費一切お構いなし”という三代将軍家光の命により
贅を尽くして建立されたもので『家康公』が祀られている。
境内には華麗な社殿、五重の塔、門、灯籠などが並び、どれも荘厳で華麗。
その中でも極彩色の『陽明門』は特に有名だ。
日が暮れるまで見ていても飽きない美しい門ということから別名『日暮門』とも呼ばれている。
国宝に指定されているこの門には500以上の彫刻が施されているとも言われている。
「へえ…!凝った門なのね。」
マヤが威風堂々たる陽明門にしげしげと見入る。
「国宝だからな。」
神厩舎では『三猿』の彫刻が見られる。
実際に彫られた猿の彫刻は小さく感じられるが、その姿や表情はゆっくり眺めてみても味わい深い。
また、東照宮三彫刻の一つに上げられる狩野探幽作の三神庫の想像の『象』の彫刻も見逃せない。
そして坂下門。
家康公の墓を守るかつての開かずの門『坂下門』の手前の回廊に左甚五郎による『眠猫』の彫刻がある。
この眠猫、どのように見えることかそれぞれ人によって解釈も異なることだろう。
この東照宮では年中行事として春秋2回、東照宮例大祭が行われる。
千人武者行列と称され、馬に乗った神官や神輿、鎧兜に身を固めた武者たちの行列が参道を練り歩き、
流鏑馬神事も奉納される。日光が誇る世界遺産の1つである。
今日のところはふたりは流鏑馬は残念ながら見送りとなった。
「奈良とかまで行かなくても、こんな歴史あるお寺があったんだ。」
「寺、ではないんだが。東照宮は家康の遺言なんだ。ここに自分を葬るようにとな。」
徳川幕府300年の日本史の重みの確かさに、改めてマヤは日本人に生まれて良かった、と思った。



「ご昼食でしたらこちらでどうぞ。」
ハイヤー運転士は国道119号線沿いの瀟洒な和風建築の前で車を停めた。
小綺麗なその高級料理店は2階建て。檜造りの玄関にはやはり檜の看板で『蔦谷』とあった。
真澄は2階の座敷の席を選んだ。靴を脱ぐと俄にすっきりと解放感がある。座敷の畳は清潔だった。
ふたりは食膳についた。
「マヤ、食べたいものは?」
和紙の『おしながき』を真澄はマヤに差し出した。
「速水さんが食べたいものでいいわ。任せる。」
およそマヤは欲、というものが無い。あっさりしたものだ。
「よし。任せておけ。そうだな…。」
真澄はざっとメニューに目を通すと座卓の呼び鈴を鳴らした。
その座敷の窓からも、遠景の紅葉は目に鮮やかだ。
真澄はたびたび柔らかな微笑みをマヤに贈った。
そのつどマヤの瞳はあでやかに明るく輝いた。
ややあって、注文した『松茸きのこ御膳』8000円が運ばれてきた。
土瓶蒸しの松茸の香りが早くも芳ばしい。
紫檀の膳にとりどりに松茸を贅沢にあしらった数々のうつわからは湯気も立ちのぼる。
新米たっぷりの松茸飯。きのこと根菜の巻繊汁。小鉢には焼き松茸と蒸し鶏の生姜醤油和え。
松茸のきんぴら。焼き椎茸とたくあんのおろし和え。
箸休めには小さく柚を飾ったほうれん草のお浸しを海苔巻きで。
これには胡麻油をひとたらし垂らした醤油の小皿が付く。
漬け物は色も瑞々しい胡瓜とカブに人参。膳に彩りを添える。
別オーダーで旬の秋刀魚もまた。これは大根おろしと醤油だけでサッパリと。
料理の見た目も美しく、秋らしい食欲をそそった。
「いいにおい。美味しそう。」
「好きなだけどうぞ。お嬢さん。」
真澄の声には軽い揶揄が含まれた。
マヤはよく食べるからな。
マヤの健康な食欲を見るのも真澄は好きだった。
「いただきます!」
旨い料理にふたりの食はよく進んだ。
ひとしなごとに舌鼓を打つマヤに、真澄の機知に富んだ会話も弾む。
土瓶蒸しが殊更に逸品であり美味だった。具の銀杏の歯ごたえもこの季節ならでは。
都内一流どころの品にも勝るとも劣らない。
ふたりはゆっくり“食欲の秋”を堪能し、どの皿も綺麗にたいらげられた。
頃合いに運ばれてきたのは、この店では緑茶ではなく熱い焙じ茶だった。
益子焼の夫婦湯呑みも、しっくりと掌に馴染んだ。
デザートには大きな栗を丸ごと仕込んだ和菓子。風味は焙じ茶の旨味とよく合った。
「旨かったな。」
「うん。ああ、もうお腹いっぱい。ご馳走さま。」
真澄が煙草に火を点けた。食後の一服がまた極上の贅沢。
「もみじ、綺麗ねえ…。」
マヤは座布団に脚をくずして窓の外を見やった。
空の青に木々の紅葉のさまざまな色彩。
日常を遠く逸脱して楽しむ、旅のひととき。マヤのはなやぐ笑顔に真澄の心も穏やかに和んだ。



「少し休みたい。車だけ走らせてくれ。」
真澄は運転士に命じた。
早朝からの旅も、ハイヤーで食後の小休止。
ふたりは深々と車のシートを倒して、軽いうたた寝に落ちた。
そして小一時間も眠っただろうか。
「お客様、お客様。いろは坂から華厳の滝でよろしいですか?」
運転士に声をかけられて、真澄は目を覚ました。
「あ?ああ。頼む。マヤ、マヤ。」
「うーん…。あ、寝ちゃった。」
真澄はリクライニングを元に戻して、マヤのシートも直してやる。
「いろは坂です。シートベルトをどうぞ。」



いろは坂。『日本の道百選』にも選ばれており、
日光市街から中禅寺湖や日光湯元などの奥日光を結ぶ国道である。
上下2本ある道路はそれぞれ一方通行になっており、上りは第2いろは坂、下りが第1いろは坂を通り、
全部で48か所あるカーブごとに第2が“い”から“ね”、第2が“な”から“ん”と
それぞれ文字がつけられており、紅葉の見どころでもある。
マヤは紅葉を見るどころか、急カープを車が回るたびにきゃあきゃあと歓声をあげて真澄の腕に縋った。
「なにこれ!凄い道!」
「酔わないか?」
「大丈夫だけど…きゃっ!アハハハ!」
連続する急カーブにマヤは笑い転げた。
色は匂へど散りぬるを。我が世誰そ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見し。酔いもせず。
車はゆっくりと山道の48のカーブを回り終えた。



「華厳の滝です。お客様。行ってらっしゃいませ。」
ふたりが駐車場の車から降り立つと、さすがに観光客の客足も増えていた。
華厳の滝。
霧降滝、裏見滝と並んで日光三名瀑の一つでもあり、
落差98メートルを一気に流れ落ちる豪快な姿は、
那智ノ滝(和歌山県)、袋田ノ滝(茨城県)と並んで日本三名瀑の一つにも数えられている。
無料の観瀑台もあるが、有料のエレベーターに乗れば滝壷近くまで降りることができ、
間近で滝を眺めることができる。
今日のところは真澄は遠景の滝を眺めるだけにした。
近年、断崖は30メートルも後退し滝の水量が激減したとのニュースも伝えられたが、
今日は幸い、その名にしおう通り銘打たれた滝の姿を目にすることが出来た。
紅葉のさなか、轟々と滝音が響く。名勝であった。
観瀑台から滝壺を遙かに見おろせば眩暈を起こしそうな気がマヤにはした。
好きなだけ滝を眺めて、ふたりは車に戻った。



黒塗りのハイヤーは男体山を遠望しながら中禅寺湖に向かう。すでに標高高い奥日光。
男体山。標高2484mの男体山は、古くは二荒山と呼ばれており、
山頂にある二荒山神社の奥宮には、御神霊・大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られている。
総面積11.62平方キロメートル周囲約25キロ、最大水深163メートルの中禅寺湖は、
日光を代表する湖である。
水面の海抜高度1269メートルは、日本一の高さを誇る。
2万年前の男体山の噴火によって溶岩で渓谷が堰き止められ、原形ができたと伝えられる。
この紅葉の季節には周囲の山々の紅葉が湖面に映え、湖面は絶妙の色合いを醸し出す。
マヤと真澄は遊覧船に揺られて、広大な湖の紅葉狩りを堪能した。
ひとの思惑などいみじくも易々と凌駕する、天地自然の営み。
どこまでも透明な西日を浴びて煌めく山々の紅葉。
鮮やかな赤。黄。淡紅色。それらが燃えるようだ。
近づく夕映えを映し出す湖面にさざ波が立つ。
暮れなずむ黄昏迫る湖の深い蒼。光と影は交錯する。去りゆく秋の一日に。
秋の夕日に照る山もみじ。濃いも薄いも数あるままに。秋を彩る楓や蔦も山の麓の裾模様。
奥日光の澄んだ冷たい空気を胸一杯吸いこむと、古代いにしえの伝説の数々も身に迫るようだった。



「竜頭の滝と戦場ヶ原はいかがいたしますか。」
すでに秋の早い夕暮れ。運転士が気を利かせた。
「そうだな。かなり冷えるか?」
真澄はマヤの上着が無いことに目をやりながら運転士に尋ねた。
「ええ、この時期ですとこの時間では。」
「そうか。では明日にする。ホテルに戻ってくれ。」
「かしこまりました。」
「まだ見るところがあるの?」
マヤは些か驚いて真澄を振り返った。
「奥日光は奥日光で見ておきたかったが。マヤ、冷えるからな。風邪をひくぞ。」
「…はい。」
真澄の心遣いが、マヤの胸に甘く沁みた。



車は一路、日光市街へと下った。
やがて金谷ホテルに到着。ハイヤーに料金を払って、ふたりはホテルに入った。
予約の客室はホテル・イン・ホテルのN35号室。チェックインは要らない。
フロントで速水を名乗ればホテルマンが客室にふたりを案内した。
この特等室は猫足のバスタブを備え、大谷川沿いの庭園に面したこのホテルきっての角部屋になる。
部屋には真澄の車の荷物も既に運び込まれており、副支配人が挨拶に来た。
彼が持参するレジスターカードがチェックインの代わり。
それを鷹揚に真澄は受け流して、広々とした客室に、マヤとようやくふたりきり。
ソファに身を投げ出したマヤに身体を重ねて、真澄はひとしきり熱い接吻でマヤを確かめた。
あえかにマヤが喘いで身じろぎしたので、真澄はくちびるを離した。
真澄の身体が離れると、急に寒い、と、マヤは心許なかった。
「これから夕飯だ。それから腹ごなしに少し歩いて星を見に行こうか。温泉もあるぞ。」
「え…。なんだか色々ありすぎちゃう。」
「せっかく確保した貴重な休みだ。いくらでも遊べばいいじゃないか。」
「もっとも、結婚したら、いつでも好き放題遊べるんだがな。」
(結婚…?)
思いもかけない真澄の言葉にマヤの瞳は大きく見開かれた。
が、真澄はさして気に留める風情でもない。
「ディナーはここの名物でいいな?」
「あ?う、うん。」
「よし、行こう。」


真澄はホテルマンにダイニングルームまで案内させた。
金谷ホテルの広い正餐室。煌々と明るい。幾つもの長い正餐テーブルが燦然と並ぶ。
以前映画で見た革命前のフランス貴族の屋敷にでも紛れ込んだかのような錯覚もマヤは覚えた。
ダイニングルームには銀やクリスタルの数々の食器の音もチン、と澄んで鳴り響いていた。
給仕が粛々とマヤの椅子を引いた。
真澄が口にした名物ディナーとは、『クラシックディナー』と名付けられている。
創業130年のこのホテルが代々受け継いできた明治・大正・昭和それぞれの時代の料理。
一日18食限定のフルコースである。
特にN35号室限定のスペシャルメニューとして、クラシックディナーのスープと魚料理に代わる
“フォアグラと日光湯波の豆乳スープ仕立て”が用意されていた。
この料理は、ウェイターがテーブルのすぐそばで調理する。
湯波は日光の名産物でもある。
ワインの白は軽い辛口のサンセール、ラ・クロワ・デュ・ロワを、
赤は若く飲みやすいコート・ド・ニュイ・ヴィラージュを、それぞれ真澄は選んだ。
「紅葉狩りに乾杯だ。」
真澄が掲げたワイングラスにマヤも祝杯のグラスを合わせた。
どちらも高価らしく、マヤにも飲みやすいワインであった。
「クリスマスにはシャブリに生牡蠣も頃合いだろうな。」
贅を尽くした食卓につきながら、なお真澄は悠然と更に贅沢を言う。
マヤは格式高い正餐に気圧されて、“シャブリに生牡蠣”にまで想像を巡らす余裕は無かった。
が、どうやらマヤもゆったりと給仕される料理の数々の美味はもの珍しく味わった。
たっぷり2時間余りのフルコースも、真澄のブルーマウンテンと燻らす紫煙で終えた。



いったん部屋に戻ってひと休みすると、真澄はホテルのレンジローバーを手配させた。
マヤには夜歩きに備えて、厚手の上着を持たせる。真澄もジャケットは革のジャンパーに着替えた。
ホテル玄関からマヤとともにレンジローバーに乗り込むと、真澄は
「霧降高原へやってくれ。」
と指示した。



霧降高原は、表日光連山の東端で赤薙山の中腹に位置する。標高1000メートル強。
日光市街からは車で5分ほど。
車から降りると、すでに夜の高原の冷気もひんやりと冷たかった。マヤは上着に袖を通した。
空はよく晴れていた。月は新月だろうか、月明かりは見あたらなかった。
日中ならこの道はハイキングコースになる道だろう。
真澄はマヤの手を引いて、ひと気の無い夜の高原に歩を進めた。
暗闇に山肌だけが、ぼう、と仄かに明るい。それもまた幽玄な眺望。
「ほら、マヤ。星だ。」
見あげれば、澄み渡る秋の夜空は満天の星。
「わあ…。」
雲一つない漆黒の夜空に星々が輝いていた。
秋は暗い星が多く星座はあまり目立たないが、雲海をも見おろすこの高原からは夜空一面に星が望めた。
ペガサス座、アンドロメダ座、ペルセウス座、カシオペア座。
そして唯一の一等星みなみのうお座のフォーマルハウト。
一つ一つ指差しながら、真澄はマヤと星を数えた。
いつだったか、こうして、真澄と満天の星を眺めた。
あれは…そう、梅の里。もう遠い日の、思い出。
この夜も、冴え渡る夜空に星影がさやか。無限に広がる大宇宙。彼方から星々のおとない。
感慨も深く星空を見あげるマヤに真澄が囁いた。
「寒くないか?」
マヤがゆっくり首を振る。
真澄は冷えてきたマヤの肩をそっと抱いた。
ふたり、この夜のしじま、世界のただ中で溶け合えてしまえたら。
真澄がマヤを静かに引き寄せた。
今、夜は黙して星空の下、ふたりだけ。



真澄の腕の中で、マヤが小さく震えた。
どれほどのあいだそうしていたのか。
随分と長い時間のようにも、またほんの僅か、星の瞬く間の時間のようにもふたりには思えた。
永遠を紡ぐ瞬間。時間という謎。その迷宮に迷い込んでいたふたり。
「行こうか。あまり冷えるといけない。」
しっかりとマヤの肩を抱いて真澄はもと来た車への道を辿った。
星々がふたりを見送っていた。



車に戻ると
「なつめの湯へ。」
と真澄は再び指示した。
霧降高原ホテルでは望遠鏡で星を見せてもくれるが、真澄の選択は言わずもがなである。
その入浴施設は近年掘り当てられた温泉を使用しており、
女湯、男湯の他にサウナ、低温サウナ、ジャクジー、ジェットバス、メゾネットの休憩室もとり揃え
深夜半まで個人で貸し切りできる露天風呂も複数設営された知る人ぞ知る名所だった。
霧降高原を下ってすぐの道沿いに看板はこじんまりとライトアップされていた。
「マヤ、温泉だ。暖まって行こう。」
「へえ。こんな時間でも入れるんだ。」
マヤはまさか真澄と混浴とは露ほどにも考えていない模様。
真澄はからかうようにマヤの長い髪を弄んだ。真澄の視線がマヤの胸に絡みつく。


「ええっ、速水さんと一緒に入るの?」
「露天風呂の貸し切りだぞ。他に誰も居ないから。さあ、マヤ。」
言うが早いか真澄はマヤを脱衣所に連れて入った。そして手早くマヤの着衣を脱がせてしまう。
「ちょ、ちょっと待って。」
「いいから。」
「やだ、待ってったら。」
「いやだ。待たない。」
温泉の泉質はカルシウム―硫酸塩で中性低張性高温泉に属する。
効能は関節リウマチやアトピー性皮膚炎など。
だが今のふたりには温泉の能書きは無用だ。
抵抗虚しくすっかり裸にされてしまったマヤは羞恥に俯いて、仕方なく備え付けのタオルで髪を纏めた。
「あっち向いてて、速水さん。」
背を向けるマヤの素肌を一瞥して真澄は自分もさっと衣服を脱いだ。
「あたし先に入るから。速水さん、見てないでよ。」
真澄は声を立てて笑った。


露天風呂の湯。湯煙が立つ。
後ろ抱きに真澄に抱かれて湯に浸かり、マヤの身体は弛緩した。
高原で星空を眺めて冷えた身体も、
肌当たりの柔らかい湯に肩まで浸かればやがて身体の芯からじんわりと暖まってくる。
「ふう…。」
真澄の胸に背をもたせてマヤは手足を伸ばすと、声に出して溜め息をついた。
「いい気分だろう?」
「…うん。そんなに熱くないし。」
パチャ、と、マヤは湯を手で掬った。そして真澄を振り返ろうとした瞬間、
「…あ…っ…」
耳に息を吹きかけられてマヤは身じろぎした。湯面が揺らぐ。
「カシオヘア座だ。ここからも見えるな。」
そのゆったりした口調とは裏腹に、些か妖しく真澄はマヤの耳にくちびるを近づけた。
そしてマヤの耳朶を甘噛みする。
「ちょ、速水さ…、あ…。」
湯の中で真澄の手は自在にマヤの肌を這った。
温泉の湯でよりなめらかさを増したマヤの柔肌は真澄の指先によく滑る。
湯温のためだけではなく、マヤの頬はぽっと上気した。
「冬場の露天風呂もいいぞ。昴に、北斗七星。オリオン座。」
淡々と言葉にしながら真澄は片手で湯の中のマヤの乳房を撫で回した。
「や…、あん、…もうっ…」
そしてもう一方の手はマヤのウエストラインをなぞる。
うなじにくちづけられて、マヤは戦慄いた。
真澄の愛撫と湯温でマヤの身体は熱く火照り始めた。
「だめ…やめて…。」
気怠く、しかし陶然と、マヤは言葉で抵抗を試みる。
マヤの腰に、大腿に、真澄の愛撫は進む。
マヤの上体が傾いだ。
この場でマヤを奪ってしまってもいいが。
だが、湯の中で、それもこの後ろ抱きの姿勢では、よほど女性の側が慣れていないと難しいか。
真澄なりに、マヤは大切な宝だ、マヤには無理はさせたくはなかった。
「よし。続きはベッドでゆっくりとな。」
「え…あ、あの…うん、でも…。」
真澄は恥じらうマヤの身体をくるりと正面に向けると、軽くマヤのくちびるにくちづけた。
「湯冷めしないうちにホテルに戻ろう。あがるぞ。」



金谷ホテルN35号室の夜も日付が変わろうとしていた。
あらためてマヤはシャワーも浴びて化粧も落とし、
バスルームに備えられたとりどりのアメニティグッズを手にしては喜んだ。
この部屋ではベッドもリネン類もアルフレックス製。
この小旅行のために新品のランジェリーを用意したのも、ようやく花開いたマヤの女心ではあった。
ツインのベッドの片方に腰を下ろして、マヤは自分の心臓の音が部屋に響くのではないかと思った。
真澄がバスルームから出てくる。
はた、とマヤは立ち上がった。
「速水さん、ビール飲む?」
「いや、いい。水だけくれないか。」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぎ、真澄に手渡すマヤの手は僅かに震えた。
「はい。」
「ありがとう。」
腰にバスタオルを巻いただけの半裸の真澄は、ひといきにグラスの水を飲み干した。
真澄の喉元はこの夜マヤには殊更に官能的に見えた。
思わず、マヤは目を逸らした。
目のやり場に困るって、こんな気分?
あたしったら…。
間接照明に、伏せたマヤの睫毛が目元に薄い影を落とした。
真澄が部屋の照明を落とす。灯りは絞ったベッドサイドランプのみ。
「マヤ…。」
囁いて、真澄は軽々とマヤを横抱きに抱き上げると、シーツごと毛布を捲ってマヤをベッドに横たえた。



待ち焦がれた夜。
繰り返す睦言。
ときめく心臓。愛撫さながらの吐息。
燃えたつ肌と肌。
飽かず真澄は熱くマヤを抱く。
真澄に与えられる快楽に、真澄の腕の中でマヤは身悶えた。
恋しい人に愛される女のその喜悦。
愛する者を存分に翻弄する男のさがのその満足。
互いが互いに求め合い、与え合う、恋人たちの夜。
常に端正な表情を崩さない真澄も、この夜のひとときはマヤにだけは様々な顔を見せた。
交わすくちづけも、今はきらびやかな夢の綴れ折り。
二度、三度、真澄はマヤに挑み、
夜通し存分に愛し合って、
いつしかふたりは寄り添って深い眠りに落ちていった。




朝まだき。
ふとマヤは目覚めたが、真澄の腕枕が無意識にマヤを抱き寄せるので再びマヤは朝寝に寝入った。
今度は先に目覚めた真澄が遮光のカーテンを開ける。外はすっかり日も高かった。
ガウンを羽織ると真澄はマヤにくちづけた。
「ん…。」
接吻で起こされる朝。それはなんと幸福な朝だろうか。
「あ、おはよう、速水さん。今何時?」
「おはよう。もうモーニングには間に合わないな。ほら、水だ。」
「ありがと。」
マヤはベッドのシーツを胸までたくしあげてグラスを受け取った。
「ここは引きあげよう。カフェテラスで軽く食べるか。」
「はい。」
真澄と交代でマヤは洗面にバスルームに入った。
「きゃっ!」
「なんだ?」
真澄が部屋から声をかける。
「な、なんでもない。」
キスの痕…こんなに…。
マヤは鏡に映った自分の肌を見て頬を染めた。




旅も2日目の服装にそれぞれ着替え、ホテルマンを部屋に呼んでチェックアウトも済ませた。
旅行鞄と車のキーはホテルに預けて、
ふたりは金谷ホテルのラウンジ・メープルリーフで遅いブランチをとった。
このラウンジではパンが名物と有名である。
そしてまた前日同様ハイヤーを手配し、ふたりは奥日光へ出向いた。
この日曜日も好天に恵まれた。
観光客に混じって竜頭の滝の滝飛沫を眺め、戦場ヶ原を散策してマヤは、ひとひらのもみじを拾った。
その一葉をマヤは大事にハンカチに挟んでバッグに仕舞った。
これを旅の記念の押し花にするつもり。
午後遅くの昼食は日光市街まで戻り、
『ゆば亭ますだや』の和室コースで湯波満載の郷土料理をふたりは食べた。
一、ゆばのぜんまい和え
一、紙ゆばの酢の物(きゅうり・菊・かにたま)
一、しの巻き・揚げゆばの煮物(椎茸・竹の子)
一、川鱒の塩焼(栗・流しもの・月ヶ瀬)
一、生ゆばの刺身
一、たぐりゆばの味噌田楽
一、舞茸のホイル焼き
一、みぶ漬けの香の物
一、舞茸入り椀
一、御 飯
一、抹茶アイスクリーム
土地の名産、湯波はさすがに乙だった。
ゆっくりと食休みして店を出ると、日光市街は観光客の波、波。
「土産物屋でも寄るか?何か欲しいものは?」
「ううん、いい。」
おみやげ、か。旅行ももう終わりね…。
午後の陽差しは輝かしかったが、そう思うとふとマヤは寂しくなった。
「おみやげより…あたし…速水さんと一緒の方がいい…。」
独り言のように呟いて、マヤは躊躇いがちに真澄の腕に甘えた。
察しよく真澄はその長い腕を伸ばして、力強く暖かく、マヤの肩を抱いてやった。


旅の締めくくりは、この2日間限定で開催されている『日光御抹茶サービス』。
日光田母沢御用邸記念公園、ここは国指定重要文化財である。
本格的な茶室で御用邸の雰囲気に触れながら、日光銘菓の和菓子と抹茶を味わう『秋の御抹茶サービス』。
公園内の茶室で秋の御用邸の雅な雰囲気に触れながら、日光銘菓の和菓子と本格的な抹茶を味わえる。
他の観光客に混じって茶室ではマヤは多少緊張したが、
後を引かない和菓子の上品な甘みと、マヤにとっては珍しい抹茶の味わいを楽しんだ。



時刻は午後四時を回った。
帰京の時刻である。
ふたりは預けていた真澄のBMWに戻った。
真澄は帰途は日光インターから直接東北道に入った。
音楽は静かなバロック室内楽だけを真澄は流した。
「疲れたなら眠っていていいぞ。マンションまで送るから。明日は一番稽古だろう?」
「ううん、大丈夫。速水さんこそ疲れないの?」
「鬼の社長業を甘く見るなよ。」
「はいはい。」
他愛ない会話もふたりは道々楽しく語らい、車は一路、高速を走り抜けた。




「コーヒーでも飲んでいく?」
「いや、遠慮しよう。長居しそうだからな。」
「そう…?」
マヤのマンションの玄関先。
「また、しばらくは会えないが。」
「うん。楽しかった。とっても。速水さん、ありがとう。」
「ほら。お土産だ。」
真澄は旅行鞄から、マヤが旅支度をしている間手早く金谷ホテル物産店に手配させた
幻の日光みやげと称させる『ひしやの羊羹』を取り出して、マヤに手渡した。
「あれ?いつの間に?」
「何しろ手に入りにくい品だからな。ゆっくり食べるといい。」
「…ありがと。嬉しい。」
人目を避けて真澄は名残の抱擁をマヤに贈った。
「また連絡する。」
「うん。待ってる。」
真澄を見あげたマヤの瞳がしばし潤んだ。
名残惜しいのはどちらも同じ。だが真澄の自制心がこの時まさった。
真澄は身体を離して、掌でマヤの頬を軽く撫で、笑顔で暫しの別れを告げた。
エレベーターに真澄の姿が消えるまで、マヤは真澄を見送っていた。



秋の夕日に照る山もみじ。
拾ってきた落ち葉を感慨深く眺めながら、マヤはリビングでひとり、口ずさんでみた。
初めて目にしてきた土地の様々な光景が、マヤの脳裏をひと刹那、走馬燈のごとく巡った。
まさしく紅葉狩りの、真澄とのかけがえのない秋の宴の二日間であった。








終わり




++++

こちらは2005/10/15〜11/30のくるみん様主催「秋の宴」投稿作です。
以下がアップしていただきました際の私のBBSコメントになります。

私はこの観光地は小学校の修学旅行一泊二日で行ったきりです。
遠い記憶を頼りに「るるぶ」など立ち読みして書いてみました。
お読みいただいて、虚々実々ないまぜのバーチャル紅葉狩りなど、
楽しんでいただけましたら幸いです。
作中の名所は折々検索していただけますと、実物の写真は見つかるかも知れません。
前半で力を入れすぎて疲れてしまい、お約束の肝心の×××は…
力尽きてサラッと済ませてしまいました。スミマセーーン。
前後半のバランスが著しく悪い一作ですね(汗)
まあ余計な御託は無用ということで略すべき叙述は思い切って略しました。
ご都合主義は原作に倣いました?。笑ってスルーしてやって下さい。
くるみんさん、このたびはお世話になりました。
どうもありがとうございました。2005/10/4 紫苑








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