〜2〜



  その週の土曜日。銀座が土日は休みになるので、赤坂の土曜日の深夜は、大人の世界では気楽に閑散としたものである。
「璃弥」も、一組、客が残っているだけだった。今日は早仕舞できるかしら。リヤは、心の内でやれやれと明日の休日を思った。
そのとたんに、カラカラ、と、戸が開き、一人、客が入ってきた。あらら、ラクしようなんて、思うもんじゃないわね。
「あら!速水さん!」
真澄は、すでにどこかで飲んできてはいるらしい。しかし、ただならぬ殺気のような、怒気をはらんだ暗い雰囲気を酔いに醸し出している。
「やあ、女将、また寄せてもらいましたよ。」
その声も、やや掠れて、どこか自嘲気味である。何か、あったわけね。察しよく、リヤは早仕舞を諦めた。長丁場になりそうだ。
「どうぞ、どうぞ、よくいらして下すって。」
くだんの席をリヤは真澄に用意する。真澄と入れ替わりに、残っていた客が帰った。
深夜1時も回った。じきに、店の従業員の女の子たちも、次々帰路に着く。
リヤは、席に立つ真澄の上着を脱がせてやった。
「若社長は激務でいらっしゃるわね。今日もお仕事でした?」
真澄の上着をハンガーに掛けながら、リヤはそれとなくねぎらう。今日のリヤは目に鮮やかな白の大島紬だ。
「ああ、仕事でもしていないと、とてもやってられませんね。」
苦々しく言って、真澄は檜づくりの椅子にどっかと腰を下ろした。
そして、早々に煙草を胸ポケットから取り出し、苛々と火を点けた。
浅く座って背もたれに背中を投げ出し、斜に構えて足を組む。
(暗黒ブリザード背負っちゃって。これじゃ私も本気出さないとね。)リヤはそう、内心ひとりごちた。
「まあ、勇ましいこと。じゃあ、今日はこれはいかが?郷里(くに)から、結城市の逸品ですよ。」
リヤは吟醸の中でも、名の割りには軽い口当たりの飲みやすい一本を取り出した。その銘柄、「武勇ひやおろし」。
「いいですね。いただこう。」
「おつまみは?」
「任せます。」
ぶっきらぼうに、真澄は言い放つ。
「明日は休みだし、私もお付き合いしますわ。」
真澄の物言いも気にせず聞き流し、リヤは愛想良く、自分用の酒も用意した。
「それはありがたい。光栄なことだ。」
皮相な言い回し。真澄の悪癖である。酔うと尚更冷酷無比に、それは鋭く響く。さすがにリヤも、おや、と思った。
しかしリヤは意に介さず、クリスタルのお猪口になみなみと冷酒を注ぎ、真澄に手渡した。
「休日にかんぱーい!」
明るくリヤは同じ猪口を掲げた。そして、両手で上品な仕種で、酒を口にする。真澄は黙って、ぐい、と一口で猪口の半分は空けてしまう。
真澄は鬱(ふさ)ぎがちに、俯いている。リヤは明るく謡曲を謡いながら、真澄の卓をセットして、つまみを調理する。箸置きには、明るくハマナスの柄。
「“左右左 左右 颯々の なびく返すは 舞の袖…”」
れんこんを5mm位にスライスして、油を引いたフライパンで両面を焦げ目がつくまで焼き、最期に鍋肌から醤油をたらして、じゅっとまわしてできあがり。
香ばしく、醤油が香る。
「どうぞ。れんこんのパリパリ煎餅ですよ。」
品の良い益子焼の皿にさりげなく盛りつけて、リヤは勧める。前々回から真澄の専用になった、輪島塗にあわび貝飾りあしらいの男箸。
その芳しい香りに、真澄も顔をあげて、箸をつけた。乙な味、だった。歯ごたえが、快かった。
続いて、揚げ出し豆腐。手早くリヤは豆腐を片栗粉でまぶし、さっと揚げる。リヤは油の中に、ごま油を少し足した。アツアツのところに、
皿と揃いの珍しい相馬焼陶器の薬味皿に、おろし生姜、アサツキ、薫りよい削り節をリヤは気前よく盛りつけた。
「速水さん、パーっといきましょ、さ、どうぞ?」
「ああ、…どうも…。」
真澄には、リヤの心尽くしが、半分ありがたく、半分心苦しかった。
つまみ料理の手際よさと器とのバランス、見た目、味わいは、やはり一流だ。真澄の酒も、料理につられて、どんどんと進む。
リヤはわざわざ機嫌良く、謡曲を謡い継ぐ。
「“風に任する浮雲の 泊まりはいづくなるらん 来し方より 今の世までも 絶へぬものは 恋といへる曲者
  げに恋は曲者かな 身はさら さらさら さあら さらさら 更に恋こそ 寝(いね)られね”…」
「恋はくせもの、か…。まったくだな…。」
真澄はリヤの謡をほろ酔いで反芻する。
料理の合間に、リヤも酒を口にする。
「速水さん、茨城、といえば、水戸将軍、水戸といえばやっぱり納豆でございますわねぇ。」
郷から取り寄せの地元の納豆「久米納豆」をリヤは冷蔵庫から取り出す。納豆をよくまぜて辛子、出汁、ワケギなども入れ、半分に切った油揚げに詰め、
楊枝で止めて、さっと焼く。
「はい、速水さん。将軍大将さまの納豆稲荷、ご登場ですよ。」
リヤはパッパッと一味唐辛子を振った。色鮮やかな古九谷の皿に盛りつけると、シンプルな品が華やかに映える。
食欲も忘れていた真澄だが、リヤの手料理には、どうやら食も進んだ。酒も、旨い。
「ああ、女将、ありがとう。美味いよ。」
「速水さん、イヤなことはね、美味しいお酒が忘れさせてくれますでしょ?。」
「ああ……」
しかし真澄はじっと中空を見つめ、苦々しく呻吟した。
「だが…。…あの桜小路の野郎…!」
これは言わせてしまった方がいい、と、咄嗟にリヤは考えた。誘導尋問する。
「ま、ステキなお名前じゃありませんか。初めて聞きますわね。」
「素敵、なもんか!こともあろうに稽古中だぞ!稽古中に何て真似をしやがる!」
真澄の本音が爆発した。すかさずリヤは突っ込んだ。
「どんな真似?」
「マヤに無理矢理キスしたと、報告が入った…!二人だけの時にだと…?!くそっ!」
真澄は猪口を煽る。リヤはさっと、それに注ぎ足す。無意識に真澄はその酒を続けて煽った。
酔いと怒りに震える声で、真澄は呻いた。
「マヤのくちびるは…俺のものだ…俺だけの…くっ…」
喘いで真澄は、卓に拳を叩きつけた。ドンッ。
そして、卓に肘をついて、両手で頭を抱え込んだ。
(あらあら、そういうこと、ふぅん。純な人の恋路は大変だこと)リヤは心得た、と、内心で頷いた。
「“恋や 恋 われ中空に なすな 恋”…か。」
リヤはひとりごちて謡い、真澄に声をかけた。
「速水さん、今日は苦しいお酒ねぇ。じゃあ、ひとつ豪勢にいきましょうか!」
明日の「休日」のために今日仕入れたばかりの私用の品だったが、リヤは冷蔵庫から取り出した。
能登半島の岩牡蠣。
夏が旬の牡蠣もある。それが岩牡蠣。能登半島と、新潟の象潟あたりが産地になる。珍しい逸品だ。
金張り九谷、庄三風の赤と緑色に、新鮮な牡蠣の白が美しく映える。食器も華々しい九谷で、念を入れる。
「どうぞ、速水さん。景気づけですよ。召し上がれ。」
リヤはカウンターに皿を置いた。
真澄は顔をあげ、皿に目をやった。その価値は、真澄にも判った。
「ああ、これは、どうも…。」
「私も頂いちゃおうっと。」
リヤは笑って、自分も食べた。
真澄は一口で、牡蠣をつるりとたいらげる。風味佳く、旨かった。
新鮮な味わいと舌触りと喉ごしで、真澄の荒む胸中も、いくらか和らげられるような気がした。
「…俺はマヤを誰にも渡したくないんです…。」
「いっそのこと、あの子にすべてうち明けてしまおうか…。」
「だが、それも、拒否されるかと思うと、出来やしない…。」
「俺は、一生、あの子の『影』で居続けようとも思った。だが、あの子が他の男のものになるなどと…。」
「考えただけで気が狂いそうになる…!桜小路め…!」
真澄のおよその懊悩は、今日のところは桜小路優への嫉妬、に集約されていた。
「あいつはほんのガキの頃から、どうやらマヤには本気で気があるらしい…。」
「だが、ここまであの子を見守ってきたのは俺だ、俺なんです!」
真澄は、喋っている相手が誰か、は半分は判っている。が、あとの半分は酒の上での独り言のようなものだった。
リヤは相槌を打ちながら、聞いてやっていた。が、おもむろに口を開いた。
「案外、その相手のかたも、速水さんに本気かもしれませんよ。」
真澄はつと顔をあげて、リヤを真っ直ぐ見据えた。そうだ、この女将と喋っていたのだ。
「なぜだ。なぜ、そんなことが言えるんです?」
「そうねえ。女の直感、てヤツかしら?」
真澄は、それまでの渦を巻くやりきれない憤怒が、どこかにはぐらかされたような気がした。
「女の直感?」
「ええ。そうですよ。場数を踏んだ女の、ね。」
リヤは、冷酒の徳利から真澄の猪口に酒を注(つ)ぎ足した。一升瓶はあと3分の1ほどになっている。
「聞き捨てならないな。」
真澄は赤らんだ目をリヤに向けた。
「場数を踏むと、どうなんですか。」
真剣に真澄は、リヤを問い詰めた。
リヤはゆっくり思い巡らすように、言葉を継いだ。
「ええ。速水さんがそれだけ思いをかけて守ってらした、その隠れた相手が誰なのか、彼女の方はもう気づいているんじゃありませんかねぇ。」
「……。」
真澄は絶句した。猪口を口に運ぶ手が、中空で止まっている。
「それがきっかけで、速水さんを見る目が変わった、ってことはあり得ますよね。」
「そのうえ速水さんほどのいい男ですからね。ずっと守ってもらってきた若い娘さんが、心動かされない筈はありませんわ。」
リヤの直感も、あながち間違いではない。
「マヤが紫のバラの人が誰だか、知っている?……まさか。」
真澄は酒をぐいと煽った。無性に喉が乾いている。
「ま、紫のバラ?なんて素敵な足長おじさんかしら。でしたら、間違いなく、彼女はもうそれが誰だかお判りだと思うわ。」
「女将、おかわり。」
真澄は猪口を突き出した。
「はいはい。どうぞ。」
リヤはなみなみと酒を注いでやる。真澄はそれをクイと煽る。
「では、あれはやっぱり夢じゃなかったのか…?。」
「夢?」
「ああ、この間、ちょっと揉め事がありましてね。俺があの子をかばって気を失った。その間に、あの子から告白されたような気がして……。」
真澄は頭を振った。
「それが本当なら、…俺は…。」
「だが今さら、どうしたらいいんだ…。」
しばし黙って、リヤは言った。
「障害のある恋ほど、長く燃えるものですわ。」
そして景気良く、リヤは真澄を励ます。
「速水さん、元気お出しなさいな。きっと望みはありますよ。」
料理の締めをリヤは支度した。さっぱりと、鮎茶漬け。焼き上がったばかりの鮎の身をほぐし、抹茶塩をぱらりと入れて、薬味は三つ葉。
九谷・吉田屋風の黄色模様も鮮やかなどんぶりに盛りつける。
「さ、ご飯ですよ。サラサラっと召し上がれ。」
料理の味も判らなくなりそうなほど真澄は酔って、煩悶していたが、どんぶりを渡されて一口、口をつけると、
この鮎のサッパリした食感は、真澄の気を引き立たせた。
「旨いな…女将…。」
「女将は、口もお手並みも達者だ…。」
真澄は茶漬けを綺麗にたいらげた。
「お客様のおかげさまですねぇ。」
リヤは笑った。
「速水さん、思い詰めるタチなのね。でもまあ、男と女、想い合ったらなるようになるもんですよ?。」
「…うん、女将にそう言われると、そんな気もしてくるな…。」
「まずは速水さんが強気にならないと。」
「そう、そう…だな。」
満腹になり、酔いもいい加減回った真澄は、急に眠気に襲われた。
「ケ・セラ・セラ、なるようになるって、いうじゃありませんか。」
穏やかにリヤが宥める。そのもの柔らかな声がいっそう、真澄を眠気に誘う。
「ああ…なる、ように、か…。」
「そうだ…マヤ…おまえだけだ…。おまえ、だけ…」
譫言のように、真澄は切れ切れに呟いた。いささか呂律が怪しい。
真澄の半分閉じた虚ろな瞳に、マヤの姿が朧気に映る。マヤは瞳を見開いて、真澄を見ている。
真澄はカウンターに頬杖をついて、瞼を閉じた。
リヤはそんな真澄の様子を窺って、料理の皿を手早く片づけ、テーブルを拭いた。
「速水さん、はい、お水。」
「…う…ん…。」
真澄は何かをムニャムニャと言葉にしようとしたが、頬杖からそのままカウンターに突っ伏した。そして、ピクリとも動かなくなった。
(やれやれ、やっと酔い潰れてくれたわ。)リヤは凝った肩を上下させ、自分でひとしきり揉みほぐした。
一升瓶はほとんど空いていた。
眠ってしまった真澄を起こさぬように、リヤはそっと表に出ると、灯籠看板の明かりを消して店の中に仕舞った。暖簾もおろして、店じまいの支度をした。
夏の早い朝がすぐそこに来ていた。午前4時、少し前。うっすらと空が青白い。
極力音を立てぬよう気遣いながら、リヤは手早く真澄の回りを片づける。
さて、と、聖さん、だったわね。
リヤは聖を電話で呼び出した。
「ええ、そうです。こちらにおいでです。では、よろしく。」
聖を待つ間、リヤは2日分の請求書をしたためる。
和紙の封筒に封をしたところで、丁度聖が到着した。リヤは口に指を立てて、静かに、と聖に合図した。そして小声で聖に耳打ちした。
「お休みになっちゃいましたわ。はい、こちらをよろしく。聖さんにお預けしてよろしいのね?」
言ってリヤは請求書を聖に渡した。
「はい、承りました。」
聖も心得ている。
長身の真澄をゆっくりカウンターから抱き起こすと、聖は真澄を抱え上げた。リヤは急いでガラリ戸を開け、
店前に停めた聖の車の後部座席ドアを開けてやる。
なんとか、聖が真澄を車に押し込んだ。
息を弾ませて、聖がリヤに頭を下げた。
「女将さん、どうもお世話さまでした。」
「いえいえ、これに懲りずにまたお越し下さいとお伝え下さいね。お待ちしておりますよ。」
「はい。確かに申し伝えます。」
「これ、はい、速水さんの上着。」
リヤは聖に背広を手渡した。聖は受け取ると、一礼して、車に乗り込み、発車させた。
リヤは、見えなくなるまで、その車を見送った。夏の早い夜明けが、すぐそこだった。



  後日談。リヤが銀行振り込みを確認すると、その翌週月曜には早々に、真澄から支払いが入金されていた。そして、その月曜、店宛に、
立派な夕張メロンが宅配された。送り主は「速水真澄」。
彼は自分で、これを食べに来るかしら。リヤは、店主としては、食べに来る方に、賭をした。




終わり

2001/7/11


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