Part2・エメラルド:「露天風呂」



  苦難の末、自ら開眼して試演を乗り越え、紅天女をかちとったマヤは、いよいよ本公演を迎えた。
そして『紅天女』本公演から、マヤは所属を大都芸能傘下に移した。
一方真澄は本公演の千秋楽3日後に、紫織と、華燭の典を挙げた。
そして真澄は紫織に、この結婚は政略結婚である、と宣言した。仕事を理由に、新婚旅行も取り止めた。
そして、速水邸で、社員に仕えられ、独身時代となんら変わらぬ生活を続けていた。
「形ばかりの妻」。紫織につきつけられたのは、そうした、結婚の破綻、という厳しい現実だった。
真澄の紫織に対する感情は、すでに冷え切っていた。
紫織も、他ならぬ自分が蒔いた種とはいいながら、傷心のうちに、邸内に新築した新居で独り、心身共に深く病んでいった。



  マヤはすでに『紅天女』女優であり、大都の一枚看板を張る女優として、舞台に、またテレビにと、多忙な日々を送っていた。
そうしたある日、とあるドラマ出演の件で、マヤは真澄の社長室に呼び出されていた。
「失礼します。」
「ああ、入りたまえ。」
…速水さん…!
…マヤ…!
目が合えば、互いに心で呼び合ってしまうふたり、である。だが、互いに心に確固として秘めた互いへの想いは、
今は、決してふたりとも表には出さなかった。
芸能社社長とその所属女優。いま、真澄とマヤは、それ以上でもそれ以下でもない。
マヤは、本心を気づかれまいとすると、自然、態度が不自然に硬化する。
「ご用はなんですか。」
なかばぶっきらぼうに、礼を欠く寸前で、マヤは口にする。
真澄はそんなマヤに、自分もまた、本心を隠そうと、態度が硬くなる。自然、眉間に皺が縦皺が寄る。
「こんどの中央テレビ系のドラマだが」
「はい。主演します。」
「台本を見た。いいか、君は『紅天女』、大都の看板女優なんだぞ。まともなラブシーンでなくとも、半裸を晒すとは何事だ。」
「速水さんは了解してプロジェクトを進めたんじゃないんですか?」
「その時点ではこの台本は書き上がってはいなかった。きみはまともに相手役とそれを演じるつもりなのか!?」
「…仕事ですから。演じる、と決められている以上、ベストを尽くします。それが何か悪いんですか。」
「紅天女ともあろうものが、簡単に素肌を全国ネットに乗せるんじゃない。舞台での神秘性が損なわれる。」
「じゃあ、今から脚本(ホン)を変えるって言うんですか!?」
「悪いか?」
「速水さんの一存で、なんて、あたしは承知できません!プロジェクトで動いてるんじゃないですか!」
次第にふたりの口調は、口論になっていく。否が応でも、ふたりは、ついつい、感情的になる。感情が高ぶっていく。
「自覚が足りない!君はもっと自分を大事にしたまえ!」
「大事にしてます!速水さんに言われるまでもありません!」
「ならば、ホンを変えさせる。」
「でも、それじゃ、せっかくのドラマの見せ場がなくなっちゃうじゃないですか!あたしは納得してるんです。演りたいんです!」
「見ず知らずの男相手に、か!?」
「見ず知らずじゃありません。今をときめく全国的なアイドルスターさんじゃない!あたしは、いい演技が出来るって、確信してます!」
「きみは…相変わらずの無鉄砲だ!」
「速水さんが今から圧力なんて、かけられないでしょ?。中央テレビなら、紫織さんのお父様の会社じゃないですか。」
口にしてしまってから、マヤは、後悔で自ら胸がヒリヒリと痛んだ。
そう、紫織の縁での仕事なのだった…。マヤの口から出る紫織、の名に、真澄も咄嗟に絶句した。痛いところを突かれた。
「……プロジェクトの主演として、あたしは現状のまま、演らせていただきます!速水さんの仰ることは聞けません!以上です。
 じゃ、失礼します!」
「おい、待て!」
真澄は社長デスクから素早く立ち上がって、出ていこうとするマヤの腕を、強くひっつかんだ。
「なんて口をきく!きみは大都芸能のものだ!ならば、どこに出演しようが、俺のものだ…!」
常々の冷徹さもどこへやら失せ、高ぶる感情のまま、とっさに真澄はあっという間にマヤを抱き竦め、
ぐいとマヤを仰け反らせて、いきなりマヤの唇を奪った。そして、素早くマヤを貪った。
一瞬、マヤは何が起こったのか、とっさには理解できなかった。
高ぶる激情のまま、思い切りマヤに口づけ、しばしして、ハタと我に帰って、真澄はマヤを突き放した。
マヤは唖然として、真澄を見あげている。
“しまった…!”
…真澄は、マヤに心の内を気づかれてはいないかと、鋭くマヤを一瞥した。
「お、俺は…」
真澄は自分のしたこととは言いながら、内心を隠すのに精一杯で、とてもその場にいたたまれず、
「判った。きみの好きにしたまえ!」
言い捨てると、さっさと社長室から立ち去ってしまった。


“なっ…なんなの!?…いったい…なんだっていうの!今のは…速水さん!”
しばし、社長室の扉に取り残されて、マヤは絶句し、呆然とあっけにとられていた…。



 そのドラマ収録に入る前の1か月は、仙台いずみシティホールで、ひと月弱の『紅天女』全国ツアーの一端が華々しく執り行われた。
公演は高評を博し、地元の名士達を堪能させて、一般の人気も格別、上々のうちに千秋楽を迎えた。
マヤは『紅天女』に心身共に深く没頭しながらも、おりおりに真澄の突然の口づけを思い起こしては、日々、複雑な心境で過ごしていた。

いったい、あのキスは、なんだったのかしら…。
まさか、速水さんも私のことを…?
いいえ、あんな立派な奥さんのある人が…まさか、…。
しかし、一度マヤに刻まれた、真澄のくちびるの感触は、反芻するたびにまざまざと甦り、決して消えることはなかった。

千秋楽のあとは、マヤは打ち上げメンバー何人かとともに、東京への帰り、福島のとある有名な温泉地の高級旅館に一泊する予定だった。



 千秋楽打ち上げパーティには、真澄も出張して出席し、招待客らへの挨拶回りに余念がなかった。
そして、真澄には仙台出張の折りの定宿となっている、マヤ達のいる温泉旅館に、真澄もまた、立ち寄った。
マヤは、そこが真澄の定宿とは、知るよしもない。芝居仲間が旅行気分で選んだ場所だった。

 マヤ一行が旅館に到着して、仲間とまずはロビー続きの茶室でくつろいでいると、
真澄が旅館一同の出迎えを受けて、宿に到着したところにバッタリ、出くわした。
マヤ一行は、驚きつつも、偶然に真澄と同宿するのを歓迎して、真澄を出迎えた。
その一団の中にあって、マヤは真澄には何かひどく気まずく、視線をそらした。

「やあ、君たちもここを予約したのか。」
真澄がソツなくキャスト一団に話しかける。
「社長がおいでとは知りませんでしたよ。ここはよくお出かけなんですか?」
「ああ。定宿だ。」
「社長なら、一番お高いお部屋でしょう?」
「まあ、そういうことになるかな。」
 真澄はマヤを目で追う。が、マヤは表面は平静を保ちながら、しかし、真澄を前にした態度は硬く、どこか不自然にギクシャクとしていた。
マヤが真澄に近づくこともなければ話しかけることもない。真澄が目をやると、マヤは目を逸らす。
じきに、真澄には長年懇意にしている女将が、真澄を部屋に案内していった。真澄は、マヤが気になって仕方なかった。



 深夜も3時を回った頃。
仙台から持ち込んだ書類を一通り決済すると、真澄は、露天風呂にでも、と腰を上げた。
部屋付きの露天風呂でもいいが、混浴で広々した景観の美しい、この旅館自慢の露天風呂の方にした。
この時間ならば、もう誰も居るまい。

一方、仲間との宴会も散会になり、皆が寝付いたなかで、ひとり、真澄が気になって、一向に寝付けなかったマヤも、この時間なら、と、
同じ露天風呂に出かけてみた。
思った通り、女湯からの脱衣所には、誰独りとして人がいる気配もない。
髪を纏めると、マヤはタオル一枚も持たず、露天風呂に浸かっていった。

 肩まで湯に浸かって空を見あげると、湯気のゆく先の深い空の色に明るく煌めく星空が美しかった。

 温い湯で、全身の緊張もほぐれた頃、人の気配がして、誰かが風呂に入ってきた。マヤはギョっとして、岩陰に姿を隠した。
そのマヤの立てた微かな水音に、真澄は先客が居るのかと訝った。
真澄は湯に浸かり、最も見晴らしの良い岩に身をもたせ掛けながら、気配を伺った。どうも、誰か居るらしい。
「どなたか、いらっしゃいますか。」
真澄は落ち着いた口調で、声をかけた。
“は、速水さん…!”
マヤは心臓が縮み上がるほど驚いた。途端に、激しく動悸が高鳴った。
“ど、どうしよう、こんなところで…”
 マヤは、途端に自分の全裸が気になった。
マヤは無意識に、裸を見られまいと、首筋まで深く湯に浸かった。
「あ、あの、あたし…」
マヤは消え入りそうな声で返答した。
“マヤ!?…マヤなのか!?”
「おい、まさか、チビちゃん、きみか?」
「……そうです…」
「なんとまあ、結構な偶然もあるものだ…」
真澄の声には、幽かに笑いが含まれていた。
「仙台では、よくやってくれたな。興行成績も評価も、この分では上々だ。」
「だって…大事な舞台ですから…」
「それよりも、速水さん…」
ふたりは、しばしの距離を隔てて、湯に浸かりながらうす暗がりで話していた。声が岩場にくぐもって木霊する。
「うん、なんだ?」
「この間は…どうしてあたしに、あんなことをしたんですか…」
「大都芸能の所属女優は、みんな速水さんのものなんですか?」
「女優ばかりじゃないさ。全社員も、その家族も、大都に関わる人間のすべての責任を負っているのが、社長の俺だ。」
真澄は話題を逸らした。
「責任があるから、あたしにあんなこともするんですか!?」
「…そんなわけではない…」
「だったら、どうして!」
「……どうしてだと、きみは思うんだ?」
「質問に質問で答えるのはずるいわ…」
マヤは、何ともいたたまれなくなり、風呂から逃げだそうと、急に立ち上がった。が、いいかげん、長時間浸かりすぎていた。
急にのぼせが来て、目の前が真っ暗になり、大きな水音を立てて、マヤは風呂に倒れ込んだ。
「おいっ!どうしたっ!」
真澄は起き上がって湯をかき分けて歩み寄り、マヤを湯から引きずり上げた。のぼせたか…?
真澄は全裸のマヤを軽々と抱き上げた。
びしょぬれの髪、火照って熱いすべらかな肌、あえかな呼吸、魅惑的な胸の膨らみ、くっきりとくびれた腰の線、
足の指先までピンクに染まっている…。
なんてことだ…!
真澄は初めて目にするマヤの全裸に、ひどく狼狽しながら、胸のときめきも際どく高まった。下腹部が、熱く、疼く。
“俺の…、マヤ…!”

真澄は脱衣所で手早くくったりしたマヤの身体を拭った。
マヤに浴衣をひっかけると、真澄は自分の身体を拭うのもそこそこに、マヤを部屋に送り届けることはせず、
自分の居室に抱いて運んでいった。



纏めた長い髪をほどいてやり、濡れた髪はタオルに乗せて、全裸を浴衣でざっとくるむと自分の広い布団に、気絶しているマヤを寝かせた。
そして、所在なく、煙草をもうもうと燻らせた。


「速水様、速水様…!」
次の間から、女将が居室に声をかけた。
「いかがなさいましたか。まだお休みではございませんの?」
真澄は、その女将の声に、浴衣の帯を締め直した。
襖を開けると、女将が冷たい飲み物と氷を用意してきていた。
「ああ、いつも済まないな、女将。」
「いいえ、失礼いたしますよ。」
女将は、黒檀の居間テーブルに、飲み物を配して、寝室に何気なく目をやった。
「あら、こちらのかたは…?」
真澄は、マヤを寝かせた布団の脇に、どっかと腰を下ろして胡座を組んだ。女将は、その脇の灰皿を取り替え、真澄に座布団を勧めた。
そして、自分はマヤが眠る布団の反対側に、正座した。
「うちの女優ですよ。風呂でたまたま居合わせた…。」
真澄の声はうわずり、マヤを見つめる強い視線に、ありありと動揺が見て取れた。
“いつも冷静な速水様らしくないこと…”
女将は少々の新鮮な驚きとともに、真澄とマヤを交互に見やった。
真澄の表情は、いかにも、叶わぬ想いに悩む、苦しげな男のそれ。眉間に立て皺が寄る。
しかし、マヤを見つめる目は、愛を乞い、濡れて光る。
長年、この商売に携わっている女将のことである。こと、男女の機微には、恐ろしく聡い。静かに、諭すように、女将は口にした。

「速水様は、このお若いかたにこそ、本気でいらっしゃるのね?奥様とは違って…。」
「…お見通しか。女将には敵わないな。そうです。この子が、まだほんの少女だったころから、俺はずっとこの子だけを、見つめてきた…」
「ご存じの通り、僕の結婚は政略結婚です。妻となった相手には、指一本、触れてもいない。…俺は不器用な男なんです…。」
「こんなことは、女将にしか言えないな。今の俺の立場では、この子をどうすることもできない…。ただ、影から、見つめているだけだ…。」
「お察ししますわよ、速水様。昔から、そうしたところは、ちっともお変わりではありませんね。
 …お苦しいことでしょうけれど…お気持ちをしっかりお持ちなさいませ。」
「ああ…、聞いてくれてありがとう、女将。誰にも、隠し通していたことだ。聞いてくれる人が居る、それだけでこんなにすっきり、楽になるとはな…。」
「あたしも、こういう商売柄です。ご安心なさい。私と速水様だけの秘密ですわ。」
「ご自分のお気持ちを、大事になさいませ。いつか、きっと、想いは叶いますよ。」
「そうだろうか…」
「速水様次第ですよ。ご自分をしっかりお持ちになることです…。では、あたしはこれで…。おやすみなさいませ。」
「…ああ、ありがとう…女将。おやすみ。」



 布団のマヤを見やると、なんとも無防備な、あどけない顔をして、すっかり昏々と寝入っている。
真澄は居間に散らかした書類を片づけて、マヤの脇に座った。
こんな顔をして…。だが、もう、すっかり姿形は大人の女になった…あの小さかった少女が…。
真澄は、今なら、全ての鎧をかなぐり捨て、何もかも忘れ、自分に素直になれる気がした。俄に、真澄の男の欲情が高まる。
“マヤ…俺は、おまえを愛している…”
すっ、と、真澄はマヤの頬に手を伸ばした。その途端、
「う…ん、はやみさ…ん、好き…です…はやみさん…」
マヤが熱に浮かされた譫言のように、口にした。

“なっ、なんだって!?”

真澄はマヤの耳元に唇を寄せた。そして、起こさぬよう、そっと囁いた。
「なんて言った?もう一度聞かせてくれ…」
「ん…はやみさん…すき…」

マヤは朦朧としている。
なんということだ…この子も、俺を好いていてくれたというのか…!
耐えに耐え、押さえに押さえていた感情が、一気に堰を切って激流のように真澄から溢れだした。
真澄はマヤに覆い被さると、くちびるに、瞼に、頬に、耳朶に、喉元に、口づけの嵐を降らせた。
そして、腕の中に、その感触を確かめるかのようにしっかりと、マヤを抱き締めた。
こんな儚い身体をして…。
真澄には、華奢な小柄なそのマヤの躰が、なんとも愛おしくてならない。真澄はマヤの浴衣をはだけた。
そして、小柄な割りにはよく発達した、花開いたばかりの魅力的な乳房。薄い桜色に仄かに色づいた、魅惑的なその乳首。
真澄は高ぶる激情のまま、その絹のようなきめ細かい肌触りの、しかしつんと張りのあるマヤの乳房に、思うさま口づけた。
そして、夢中で愛を囁きながら、点々と、口づけの刻印を施していく。濃い紅梅色の刻印が、真っ白な肌に、刻まれてゆく。
それは、えもいえぬ蠱惑的な眺めだった。
マヤは遠のく意識のどこかで、真澄が自分を抱いているのを感じていた。まるで、夢を見ているような気が、マヤにはしていた。
真澄は、初めて触れるマヤの肌の、若々しい艶やかな弾力に、我を忘れて、指先で、掌で、唇で、全身に愛撫を繰り返していく。
鍛えられてくっきりと括れたウエスト、そこからなだらかに続く、腰の柔らかな線。豊かな張りを持つ、真円の尻の双丘。
内腿の、触れれば溶けそうな、一際柔らかな肌。そこにも、真澄は刻印を刻む。軽く吸い上げるだけで、すうっと、くちづけの痕がつく。
このまま、マヤを組み敷いて、自分のものにしてしまいたい。その衝動と、真澄は心の内で必死に闘った。
だが今は、駄目だ…。まだ、俺には、マヤに対して責任が持てない…。
しかし、愛する女の姿態の、なんと心躍る、ときめくそれは、愛おしさであったろう…。
ひととき、真澄は気絶したままのマヤの全身を堪能した。そして、記憶の深くに、何一つ忘れまいと、刻み込むのだった。
真澄にとって、忘れがたい、かけがえのない時が、流れていった。




「マヤちゃん、マヤちゃん、起きなさいよ。先に朝食に行くからね!」
翌朝。マヤは自分の部屋の自分の布団で目覚めた。キャスト仲間の女優たちが、先に部屋を出ていった。

え…?あれ…?あたし…確か遅くに露天風呂に入って…。速水さんが居て…。寝不足の頭が、鈍く痛んだ。

布団に起き直ると、全身のあちこちに、ひりひりとむずがゆいような感覚を憶え、マヤは不審に思って、鏡台の鏡に向かって浴衣を脱いだ。
「えっ、なにこれ!」
マヤは思わず浴衣をかき合わせた。全身、至る所に、真澄の残した刻印が刻まれていた。
これって…“キスマーク”っていう…もの…?
じゃあ、夕べ、速水さんが…!?あたしに…!?

夢の中で、マヤは真澄に抱かれたような気がしていた。じゃあ、あれは夢じゃなかったの…?
とるものもとりあえずマヤは着替え、遅れて広間の朝食に向かった。
真澄は、個別に部屋で朝食を取るのだろう、大座敷には姿がなかった。
仲間たちは食後、旅館続きの日本庭園へ散策に出ると言っていた。マヤも、それについて出ていこうと玄関に向かったところで、
マヤは女将に呼び止められた。

「北島マヤさん、でいらっしゃいますね?」
「はい?そうですが?」
「速水さんは早朝、お発ちになりました。これを…お預かりしておりまして。」
女将は袂から、白い封筒を取り出し、マヤに手渡した。その表の筆跡を見て、マヤは愕然とその場に立ちつくした。
長年見慣れた、紫のバラの人の、筆跡、つまり真澄の筆跡だった。
封をしていない封筒を急いで開けると、マヤは中の手紙を取り出して、その場で読んだ。
短い手紙に、真澄のマヤへの確固たる愛がしたためられていた。
“今は俺は君に対して何の責任も持てない。だが、待っていてくれ。必ず、堂々と、君を迎え入れる。約束する。”
その一文に溢れる、真澄の真情、熱い想いに、マヤは抉られるように胸が痛んだ。知らず知らず、涙がボロボロと頬を伝う。
一歩離れてマヤを見守っていた女将は、そっとマヤに清潔なハンカチを差し出した。
「マヤさん、私は長年、速水さんをよく存じております。あのかたはずっと長いこと、あなたさまを想っておいででした。
 あのかたは、約束は必ず守られるかたです。今はお辛くとも、いつかきっと、おふたりでご立派に歩き出されますよ…。」
マヤは真澄の手紙と、女将の思いやりに、いっそう胸を熱くした。
いつか…きっと…速水さん……!
思いもかけない形で、ふたりは互いの本心を確認し合った。
マヤには、初めて、心からの真澄への愛情を、素直に自分の内にしっかりと受け止めた、それはすがすがしい朝だった。



そして、翌年の早春、紫織が夭折した。その事件で真澄の背負った苦悩を、今度はマヤが影からそっと、黙って見守り続けるのだった。





※このお話は『聖夜』に続いていきます※





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