65000番ゲット:mopsy様リクエスト:「梅の里の満天の星空の下でムフフ、を
   お願いします。真澄さんにからかわれて拗ねるマヤちゃんも、見たいです。
   マヤのお母さんと紫織さんのお話もお願いします。」
   ※エピソードは50000番リクエスト『その愛に捧ぐ』の続きになっています。 




  そしてついに、一同はこの運命の日を迎えた。大都プラザ劇場。『紅天女』試演の1日。
真澄の奔走の甲斐あって、亜弓は病院を抜け出し、目の手術その日の試演に、女優生命のすべてを賭ける成り行きとなった。
一方マヤは、真澄に導かれて真澄と一夜を共にし、遂に真澄への想いを遂げ、「恋の演技」を真実、自らの表現に為し果せた。
果たして、試演の行方は……。




  前日の1日がかりの舞台稽古。小野寺チームは、亜弓のために舞台稽古を前日にねじ込んだ。黒沼チームの舞台稽古は、前々日に回された。
ここに至って、チーム全員に、亜弓の目の異常は隠してはおけなかった。
ほぼ全盲に近い亜弓に、立ち位置、装置装置、セットの確認、スポットのタイミングを、赤目慶が手取り足取り、叩き込んだ。
チーム総員がかりで、亜弓をフォローすることになる。
もしも、の緊急事態に備えて、事情を知ったアンダースタディ役は、覚悟を決めて、亜弓の舞台稽古にピタリと喰らいついていった。
亜弓の登場は、すべて板付き、暗転からスポット、そして溶暗。その演出に切り換えられた。やむなく袖に歩く時は、周囲の役者が極力、配慮する。
  視覚を損なったことで、他の感覚器官が異様に急発達し、ハミルの献身によってもまた、「真の紅天女」を亜弓は知得していった。
亜弓にとっては、失明の危機が、奇しくも、演技者として北島マヤを越える、唯一にして最大の契機となったのだった。
聴覚、嗅覚、触覚、皮膚感覚はじめ、第六感までもの視覚以外の感覚器官が、そら恐ろしく鋭く微細に発達し、視覚を補う。
それは、人間業とも思えない。
そう、「人間業」を越えること、それが、阿古夜であり、紅天女だった。
その経験を通じて、亜弓は「神女・阿古夜」の真の実体を、自らの本物の感覚で捉えていった。
その過程は、亜弓にとって、過去の生き方からは想像を絶する、まるで新たな生命として生まれ直したごとくの、凄まじい経験だった。
そして、ハミルから与えられた、無償の愛。
それらによって亜弓は、形から入り、役のを自らの側に近づける、これまでの亜弓の演技スタイルからは、一変した。
まるでマヤのように、「本物の」阿古夜、「本物の」紅天女、として、亜弓は『紅天女』を、ついに我がものとして、達成し成就したのである。
「これが、紅天女…!」 「できる!私の紅天女!」 「いくらでもできるわ…私の紅天女…!」
ただひとつ、盲目である、という致命的な欠陥を除いては。
  亜弓は、最大限、感覚器官のすべてをもってして、舞台稽古に当たった。そして、本通し終了とともに、力尽きて倒れた。
その日は、そのまま病院に戻り、応急の処置を受け、最低限の休養を確保して、翌日の試演に備えた。
もはや、亜弓にとって、すべての「用意」は整えられたのである。
あとは、ひたすらに、開演の時を迎えるのみ。



  マヤの側は、真澄への恋情に葛藤して為し得なかった「恋の演技」、そしてラスト、一真との「神と仏の葛藤と対立」の演技を、
ついに常のマヤの通り、極限の真実の境地に、到らしめた。
試演直前の、伊豆の夜、真澄の腕の中で愛を実らせ、マヤの内部で阿古夜の魂が目覚めたからである。
翌日から、数日間の稽古で、マヤは一変した。
舞台稽古で、立ち会った誰もが皆、このマヤの演技に、試演での勝利を確信した。



  大都プラザ劇場。かつて、少女の頃、マヤと亜弓がダブルキャストで「奇跡の人」を演じた、因縁の舞台である。
すべては、真澄の意図した通りに、事は運びつつあった。
まずは、小野寺組。厳重な、厳戒態勢ともいえる総員がかりの亜弓へのガードが、早朝から始まる。
裏方スタッフも概ね準備を整え終えた。
やがて、演劇協会審査関係者、演劇関係者、最低に厳選されたマスコミ・招待客らが、劇場に到着する。
真澄はロビーで鷹揚にそれら人脈と挨拶を交わしていた。ふと、その人波が途切れたとき、
「真澄さま…。」
後ろからそっと声をかけられて、真澄は不意をつかれて振り返った。
先日の成り行きから、今日は来ないだろうと思っていた、紫織がそこにいた。
蒼白な顔に緊張を隠しもせず、紫織は真澄の背後にじっと佇んでいた。
「紫織さん…。」
「見せていただきますわ…。真澄さまの、本心を。」
「わたくし、この目で、見せていただきます。」
紫織は低い声で、だが、揺るぎない意志を真澄に示してみせた。
「……、判りました。見て下さい。僕の、『紅天女』試演です――。」



  小野寺組、開演時間である。
真澄は紫織を伴って、客席に着席した。
客席のライトが落ちる。音もなく、緞帳が上がった。
まごうかたなき、梅の木の精霊、紅天女が、そこに出現した。
亜弓はすでに亜弓ではなく、自然界を司る、この世ならぬ存在と化していた。その摩訶不思議な、存在感の描出。
姫川歌子は、舞台袖でそれを目にして、滴り落ちる涙を、ひとり、ひっそりと拭った。
視力の無いことを全く気づかせない、最小限に抑えた無駄のない、動き。舞い。衣装の裾さばきも、まるで見えている人のごとく。
かつて梅の谷で、月影千草の一人芝居で観たそのままの、いや、亜弓の若さの分、千草をも凌ぐ、
天女の美と存在感が、そこにあった。
主演陣、脇役も、亜弓を中心に、美しく緊迫した、極めて創造的な演技の円を描き、戯曲は滞りなく、真に迫る迫力のうちに進んでいった。
亜弓の全神経は、周囲の役者に集中した。文字通り、全身全霊の集中。
舞台というものは、これほど人の心に鋭く、激しく迫るものか、と、誰もが改めて認識を新たにせざるを得ない、それは名舞台だった。
凄まじいほどの、亜弓の演技が、冴えに冴え渡ってゆく。
戯曲『紅天女』は、まさしく、今、30年の歳月を経てこの世に再び生まれ出ようとしていた。
ただ、主立った群衆劇は、試演では省略され、途中休憩無しで、通しで、「紅天女」を競うことに主眼が置かれた。
阿古夜の恋を、亜弓は、月影千草直伝のもののごとく、完璧に演じ通した。
そして、迎えたクライマックス。
すでに限界を超していた亜弓の神経は、真に迫る壮絶な迫力を、舞台上に描き出した。
神なる阿古夜と、仏なる一真との、葛藤と対決。
観客の誰もが全身に戦慄を奔らせながら、舞台に魅入られた。真澄もまた、同様であった。とても、視力を失っているとは思えなかった。
遂に、一真の渾身の斧が、梅の木のセットに振り下ろされる。効果音と、暗転。
そして、すべてが舞台上から取り払われ、真っ暗がりのホリゾントに一本のスポットで、ひとり佇む、紅天女。
溶暗、そして、暗転。
舞台、終了――。
アンダースタディが素早く闇を走って、亜弓の手を取り袖に走らせる。
音もなく、緞帳が降りた。
  客席からは、ヒソリとも物音がしなかった。誰もが皆、我を忘れていた。
梅の谷で、月影千草の最後の紅天女を目にした者も、亜弓の、千草にも劣らぬ表現に、完全に魅入られていた。
ふと、我に帰った真澄は、拍手を贈った。それにつられて、100名近い観客すべてが総立ちになり、喝采となった。
千草は、観客席中央で、満足げに物静かに微笑んでいた。
袖に戻った亜弓は、いきなりその場に昏倒した。精も根も尽き果てた亜弓は、すでに、意識不明。
秘密裏に手配されていた救急車に、亜弓は即運び込まれ、そのまま病院に直行した。
カーテンコールを待っていた観客の前に、緞帳が上がる。出てきたのは、小野寺演出家だった。
小野寺は簡単な挨拶を済ませ、
「姫川亜弓は、諸事情により、本日はこれにてこの場を失礼させていただきます。本日はまことにありがとうございました。」
小野寺ですら、亜弓の命がけの舞台には、演劇人として、正直深く感動させられていた。説明の声も震える。小野寺は深々と一礼した。
それにつられて、もらい泣きする観客も多かった。ここまでは、亜弓の完全勝利、と、事情を知らない者の誰もが考えた。



  約1時間後には、黒沼組の試演が始まる。その間真澄は、社長業をそつなくこなす。マヤの楽屋を訪ねてやりたいところだが、あえて、
真澄は、マヤにすべてを託した。黒沼からは、マヤはすでに申し分ない、と聞いていたことでもある。
真澄は紫織にキッパリと告げた。
「僕はあの子と約束した、『紫のバラの人』の席に着きます。あなたはここで、僕と彼女とを、その目でしっかり見て下さい。」
そして、黒沼組の試演、開演となった。




  アルカイックスマイルに、マヤ独自の豊かなアレンジ表現を加えたマヤの紅天女は、亜弓の美貌にまさるとも劣らず、美しかった。
すでにマヤに迷いはなく、マヤ独特の憑依型・没入型の紅天女の力が、舞台全面に溢れ、余すところ無くその無限の説得力を発揮していた。
亜弓の紅天女と決定的に違ったのは、何より、マヤの「天才性」。役の本質を丸ごとその身に宿してしまう、その天賦の才、だった。
マヤにとっては、「紅天女」を「演じる」のではなく、「紅天女」に「なる」。
マヤの紅天女の台詞、ひとつひとつが、観る者の胸を深く抉った。そして、戯曲『紅天女』世界に、観る者を強力に同化させ、引きずり込んでゆく。
マヤはすでに天界の女であり、この世ならぬ精霊であり、神女・阿古夜として、舞台上のそこに存在した。
そして、この年齢の役者が知っているとも思えぬ、「世界」の「真理」を、紅天女を通じて、マヤは舞台上に表現し尽くした。
それは、この戯曲『紅天女』が最終的に目指す到達点である。
マヤの阿古夜は、神々しい神女が初めて人間の娘として恋を知った、純粋な初々しい歓喜に満ち、同時に、それを縁どる深い悲哀をも、描き出していた。
その悲哀は、悲恋とその成就を予感させ、切なく、観る者の胸を打った。それも、マヤ独自の阿古夜像である。
真澄との恋に葛藤した経緯が、その明澄なうつくしい悲哀に、みごとに結実した結果であった。
「お休みなされ おまえさま……」
マヤのその台詞と所作の、意味深い、そして真情溢れ身に迫りくる切々たる味わいに、観客達は我知らず、涙を流していた。
真澄は、阿古夜の恋が、他ならぬ自分との恋路を辿っていることに、強く心を揺さぶられた。
亜弓が、月影千草の「正当派」の後継演技者であるとすれば、マヤの紅天女は「北島マヤの紅天女」に、徹していた。
どんな役でも、生き生きと、役者としての己の個性を役に織り込む。役に、自らの個性が息づく。マヤは、天性の、役者であった。
桜小路の若々しい一真とのコンビも、更にマヤのその個性を際だたせた。
そして、終幕、若い二人の、クライマックス。
舞台上に激しくほとばしる、演技への彼らの情熱。真に迫る、二人の葛藤。その迫力と、漲る生気。
清冽な桜小路の一真が、マヤの阿古夜にピタリ、息を合わせていく。
愛ゆえに、阿古夜は、一真にその身を捧げた。
すべて、くだけ、すべて、呑み込み、あらゆるもの一切が、舞台上に昇華する。唯一無二の、唯一つのその瞬間。かけがえのない、その刹那。
一真が、斧を振り下ろした――。
マヤの阿古夜が、暗闇にひとり、立ちつくす。そしてそれは、まるで人間とは、誰にも思えなかった。一本の梅の木の精、そのものであった。
溶暗、そして、暗転。緞帳が降りる。……試演、終了。



  亜弓の時と同様、観客は圧倒され沈黙したままだった。真澄は、まるで自らが「彼岸」の地にあるかのような気がしていた。
そして、ハタ、と気づいた。ついに、ついに、マヤの紅天女を観たのだ……!深い感動が、真澄を魂の底から揺さぶった。
思わず、盛大な拍手を、真澄は舞台に贈った。つられて、観客たちも総立ち、劇場は亜弓の時同様、嵐の拍手に満ちた。
月影千草はひとり、自らの役割を果たし終えた安堵と満足の、深い喜びに満たされていた。
やがて緞帳が上がり、カーテンコールとなった。
素に戻ったマヤの晴れやかな輝く笑顔は、「紫のバラの人」の席に居る真澄ただ一人に向けられていた。
目には見えない、誰も決して割り込む隙のない、強い絆が、そこに結ばれていた。
紫織には、はっきりとその繋がりが、目で見えた気がした。
これが、「魂の片割れ」ということ……。紫織の瞳から、涙は溢れて止まることはなかった。




  終演後、真澄はまっすぐにマヤの楽屋に足を運んだ。
楽屋は関係者でごった返していた。その人波をかき分けると、真澄は真っ直ぐマヤに歩み寄った。
「よくやったな…素晴らしい『紅天女』だった…!」
周囲はどよめいた。大都芸能社長自らの、祝辞である。
「速水さん……!」
真澄は一輪の短い紫のバラをマヤに差し出した。
みるみるマヤの瞳が潤み、大粒の涙が頬に流れた。
万感の思いで、ひととき、マヤは嬉し涙にかきくれた。
扉の影で、紫織がそれを、そっと覗いていた。そして紫織は、目頭を押さえると、ひとり、劇場を後にした。




  翌日。亜弓の容態回復を待って、目の手術の準備が進んでいた。
一方、月影千草を交えて、試演結果の審議が、演劇協会ビルで進行していた。ここで、亜弓の目の事実が、明らかになった。
一同、亜弓が、見えない目で演じたとは、俄には信じがたかった。
演技上は、二人とも全く互角。だが、どちらか一方に、上演権は限定譲渡される。
亜弓の女優生命が現時点で不確定である以上、亜弓に上演権譲渡は絶望的だった。必然的に、マヤに、その役割が渡されることになる。
だが、亜弓の試演を観た者らは、このまま亜弓を『紅天女』に無関係にしておくことは考えられなかった。
上演権継承は、北島マヤに、そして、役替公演、海外公演など、『紅天女』をより広範に興行していく際の女優として、亜弓を位置づける。
そう、千草が申し出た。一同、それに全く異存は無かった。『紅天女』後継者は、そのように決定された。
マヤは協会ビルに呼び出され、選定結果の報告を受けた。そして、千草から上演権を譲り渡された。煩雑な手続きも、終わる。
千草にとっても、マヤが少女の頃の出会いから、長い年月の果ての、悲願の成就だった。
「たのみましたよ、マヤ。『紅天女』を……!」
「…はい、先生……!必ず…!」
そして、その日のうちに、千草は梅の里へと、戻って行った。




  その頃、真澄宛に鷹宮家から、婚約解消の連絡が入った。紫織みずからの、申し出だという。今になって紫織自ら、身を引くと言うのか。
マヤの演技が、紫織をも変えたか。真澄は、そう理解した。昨日までの敵をも味方につけてしまうのがマヤの演技、である。
具体的な話し合いのために鷹宮邸に向かいながら、真澄は、マヤという「魂の片割れ」に、ひととき思い傾けた。
  紫織は鷹宮翁を間にして、淡々と語った。元来の紫織らしい、聡明な語り口だった。
「紫織は、真澄さまと結婚して、人形になりたくはありません。真澄さまには、真実、愛しあっているかたがいらっしゃる。昨日の試演で、
 紫織にはそれがよく判りました。絶対わたくしを愛して下さらないかたと結婚してしまうわたくしも、不幸せです。
 それを承知で、紫織は真澄さまと結婚はできません。この結婚は、ただいたずらに、わたくし達に不幸を招くだけですわ。
 わたくし自身が一人の人間として、女として、本当の幸せのために、紫織は真澄さまとはお別れさせていただきます。」
真澄は鷹宮翁に、平伏した。




  それからの日々は、マヤにとっても真澄にとっても、あとから思い返せば走馬燈のように行き過ぎた日々であった。
マヤは『紅天女』本公演に向けての諸々の準備、真澄は鷹通との提携事業の建て直し。亜弓の手術成功と、渡仏。
そして迎えた『紅天女』本公演。その成功と名声。
まるで矢のように、ふたりの月日が充実の内に過ぎていった。
  そして、ようやく、マヤの周囲も真澄の周囲もなんとか落ち着いた頃、真澄はマヤに千草の死を告げた。
試演から数日後、この世での役割を終えた千草は、梅の里で、ひとり静かに世を去っていた。真澄は遺言を受け、それはマヤには伏せていた。
梅の里に、千草が眠っている。おそらくは、ようやく尾崎一連の魂と結ばれて。
真澄は休暇を確保し、マヤを梅の里に連れて行くことにした。梅の里の源造に、その旨、連絡を入れる。
マヤはその前に、亡き母の墓前も弔いたいと、真澄に願い出た。
「ああ…、そうだな。お母さんのところにも行こう。」
紫のバラを携えて、真澄とマヤは久々に、マヤの母、北島春の菩提寺を訪れた。



 良く晴れた、陽光の美しい初夏の日だった。
墓の手入れをひととおり済ますと、マヤはバラを活け、線香を炊き、墓前に手を合わせた。真澄も、マヤの傍らに膝を落とす。
“母さん…あたし、とうとう『紅天女』を演ったのよ…。母さんも見ていてくれたでしょう…?”
“それからね、前に来たとき、写真をみせたでしょ、この人が、今はあたしのそばにいてくれるの…”
“母さんには、何にも親孝行できなくって、ごめんなさい…、でも、今、あたしは、やっと、ほんとうに幸せになれるの…”
真澄も同様に、墓前に手を合わせながら、亡き魂と、語らった。
“北島春さん…。どうか、許してください。あなたを死に追いやった僕です。だが、あなたの娘さんを、僕にください…”
“一生かけて、必ず、守り通します。必ず、この子を幸せにします…!どうか、それを、僕に許してください……”
その時、二人の耳元に同時に、虚空から、亡きはずの春の声がはっきりと聞こえてきた。
『マヤ、ずっと見ていたよ。あたしの娘が、こんなに立派になって…』
『よかったね。幸せにおなり。速水さん、この子の生涯を、頼みましたよ。』
ハッと、ふたりは顔を見合わせた。…そうだ、人間は、魂と語らうことも、できるのだ…。『紅天女』は、そう語ったではないか。
こうした体験は真澄には、初めてだった。うっすらと真澄のまなじりに、涙が浮かぶ。そして、立ち上がって、真澄は墓に深々と頭を下げた。
ようやく真澄は頭を上げると、マヤを立たせて、墓参を終えた。立ち去り際、ふたりは、もう一度、墓石を振り返った。
そして、それからふたりは、一度東京に戻り、梅の里へと旅立った。



  今回はプライベートであるから、真澄は旅装の軽装だった。背広姿以外の真澄がマヤには何か新鮮で、しぜん、マヤの心も浮き立つ。
長旅も、ふたりで共に過ごす時間なら、心楽しい旅路だった。
新幹線を降りてからの途中の電車で、マヤは真澄の肩にもたれて、うとうとと、うたた寝した。
電車での長旅を終え、車を拾って、源造の待つ山寺へ、二人は向かった。すでに夕闇が近づいていた。
梅の里……。ここで過ごした稽古のための2カ月。
車の中で、マヤは、どっと巡り来る数々の思い出に、ひととき、じっと浸った。
厳しく苦しかった稽古、紅天女を実感した瞬間、真澄への想いを自覚した社務所の夜。そして、月影千草の一人芝居……。
“月影先生……” 千草を思うと、あらためて、死の悲しみが、マヤの胸を苦しく塞ぐ。ほっ、と、マヤは溜め息をもらした。
そんなマヤの胸中を察したかのように、真澄がそっとマヤの手を取る。マヤは、その手の温もりに、心からの安堵を覚えた。
そうだ、今は、真澄がいてくれる。この手に自分は導かれ、支えられているのだ……。
車は遠路、山道を走って、やがて山寺に到着した。源造が、二人を出迎えた。
「源造さん、お久しぶりです…。」
マヤは深々と頭を下げた。真澄は源造と目を見交わす。
「よく、おいでくださいました。」
源造は、少しも変わらぬ風情でいた。
「マヤさん、みごとな紅天女でしたね。」
仏間にふたりを案内しながら、源造は本公演のことを言っている。
「すべてが、ここから始まったんです…このお寺から…」
感慨深く、マヤは言葉にした。
「さ、奥様がお待ちです。」
源造は板戸を開いた。仏間には黒檀の立派な仏壇に、灯明が灯されていた。位牌の戒名には「紅」の一文字が見えた。
真澄とマヤは、仏壇に並んで黙座した。持参した供物と線香を捧げ、目を閉じて、手を合わす。鳴らしたりんの音が、いつまでも美しく響いていた。
“マヤ…よくきてくれたわね…”
マヤの心に、千草の魂が語りかける。
“『紅天女』、みごとでした…よくやってくれたわ…”
“先生……あたし、とうとう、ここまで来ました…みんな、先生のおかげです…”
“あなたには…真澄さんがついているわ…あなたの魂の片割れが…”
“…はい、先生…あたし、速水さんと、『紅天女』を一生守っていきます…先生の跡を継いで…”
瞳を閉じたマヤの瞼から、とめどなく涙が溢れる。マヤにはどこからか、玲瓏たる錫杖の音さえ、聞こえてくるような気もした。
“真澄さん…たのみましたよ…この子と『紅天女』を…”
真澄の心にもまた、千草の魂は語りかけた。真澄は感じるともなく、それを感じ取っていた。
“月影先生…僕はあなたの『紅天女』を、生涯かけて、きっと守り通します…約束します…どうか、見守っていて下さい…”
生ある者が、亡き魂と語らう時。時を越え、次元を越え、生者と死者とは魂と魂で、通じ合い、結ばれていく…。厳粛な、時。
どのくらい時間が経ったろうか、マヤの静かな涙は、やがて押し殺した嗚咽に変わった。
そして、マヤは、わっと仏前に泣き伏した。
「マヤ…、先生の前だぞ…」
真澄が静かに宥める。
「せ…んせい…、月影先生…!」
むせび泣きながら、マヤは思いの丈こめて、千草の名を繰り返し呼んだ。源造は傍らで、そっと目頭を拭い、こうべを垂れた…。



  客間で、源造の入れてくれたお茶をすすりながら、三人は言葉少なに、それでもこころ通い合う時を過ごしていた。
梅の谷の千草の墓には、翌朝、詣でることにした。
「源造さん、ちょっと外を歩いてきますよ。この里の夜は、久しぶりだ。」
「そうですか。お夕食はお済みなのですね。ではお風呂とお床をご用意しておきます。」
「ありがとう。では、行こうか、マヤ。」



  真澄はマヤを促して、山寺を出た。道沿いに小さな林をひとつ抜けると、小高い丘に道は開けていく。
遠い山辺の端が、ぼんやりと明るい。
丘の頂上まで、二人は歩いた。空を見あげれば、梅の里の、満天の星。
そう、ここだったな…。真澄は思い出していた。いつか、マヤと、ここで寝転んで星を眺めた。
「覚えているか、マヤ?」
「うん、ここだったでしょ。私が星を見てたら、速水さんが来た…。」
言って、マヤはゆっくり腰を下ろすと、ごろりと草地に身を横たえた。
「また天体観測か?」
半ば揶揄しながら、真澄もまた、長い脚を投げ出して、マヤの傍らに腰掛けた。
「だって…ほら、速水さん、凄い星空…。ギラギラしてる…。」
「…ああ、そうだな……。」
真澄も、マヤの横に寝転んだ。そして、真っ直ぐ空を見あげる。
「…一年、経つのか…あれから…。」
「ほんと…夢みたい…。あの時。…覚えてる?速水さんのお義父さんが行方不明になって…。」
「よく覚えているさ。…忘れられるものか。」
数々の思い出が、いっとき、ふたりの脳裏を駆け抜けてゆく。
「あっという間だったような気もする…けど、もう、ずっと昔のことみたい…。」
「…そうだな……。」
「…凄い空……。宇宙に、連れて行かれそう…」
「ああ……。」
しばし、ふたりは、壮大な夜空の奏でる無音の楽の音に、黙って魅入られていた。
『ほら 聞こえませぬか おまえさま ここは音楽の満ちる里…』
マヤはいつかしら、阿古夜の台詞を口にしていた。真澄は夢のように、その台詞を耳にした。
ここは梅の里。紅天女のふるさと…。真澄は舞台の光芒に、遥かに思いを馳せた…。

  突然、マヤの脇の草がガサリと音を立て、何かがしゅっと走り抜けた。
「きゃっ!いやっ!」
マヤは叫んで、飛び起きた。その拍子に勢い余ってバランスを崩し、真澄の胸に肘鉄を食らわせる格好になった。
「ぐっ、つっ、なっ、なんだ!?」
真澄に縋りついて、マヤはその何かを避けようと、足で草をかき回した。
「なんか、いたのっ!やだぁ!」
「トカゲか何かじゃないのか?」
「きゃあ、いやぁ!」
トカゲ、と言われて、いっそうマヤは真澄にしがみついた。
マヤに喰らわされた肘鉄に、ゲホゲホと少々咳き込みながら、思わず真澄は笑い出していた。
「ハハハハ…まったく君ときたら…。せっかくのムードも何もあったものじゃない。」
「天女さまには、トカゲも愛しい創造物じゃないのか?」
「なによ!速水さんの意地悪!トカゲが好きな女の子なんて、いないわよ!」
フン、と、マヤは拗ねて、くるりと真澄に背を向けた。
「ムードが無くって、悪うございましたわねっ。どうせ、あたしなんか…!」
すっかり拗ねて、マヤは真澄の傍から離れようと半身を起こした。
すかさず真澄はマヤの腕を捉え、自分の胸の上に、マヤの上半身を引っぱりこんだ。そして、がっちりと、マヤを抱き締める。
真澄は、笑って、マヤの顔を覗き込んだ。マヤが上目遣いに、真澄を見あげる。眼差しが、交錯した。悪戯っぽく、真澄の眼が微笑んだ。
真澄はマヤの腕を取ると、身体を反転させ、マヤを身体の下に組み敷いた。
「あたしなんか、何だ?そんなことを言う口は、塞いでしまおう。」
言って、真澄は素早くマヤに口づけた。
「…ん…っ」
緩急に富む巧みな口づけを、真澄は充分にマヤに与えた。真澄の下で、マヤの身体から力が抜けていく。
熱っぽい真澄の口づけに、マヤはいつかしら夢中になり、真澄の背に腕を回していた。
感じ易くなったマヤのくちびるも、次第に熱を帯びて、真澄に口づけを返す。
寺に帰れば、おそらく寝室は別に設けられているだろう。ならば、ここで、マヤを奪ってしまおうと、真澄は思う。
真澄は、服の上から、マヤの乳房を掌で包み、ゆっくり愛撫した。敏感に、マヤが反応する。
「…っ…ダメよ…速水さん…」
「誰も来やしないさ…」
真澄は誘惑の吐息を、マヤの耳にほうっと吹き込んだ。
「星が…見ているわ…」
なんとも、可愛いことを言う。その言葉で、真澄の欲情に火がついた。
「星に、見ていて貰おう…俺達を…。」
真澄は羽織っていたジャケットを脱ぐと、その上にマヤを横たえた。そして、マヤのブラウスのボタンに、ゆっくり手をかける。
深い接吻でマヤの僅かな抵抗を封じ込めながら、真澄はマヤの服を脱がしていく。
露わになったマヤの肩に、真澄は指を滑らせる。真澄の愛撫に慣らされたマヤの躰は、しごく過敏にそれに反応してしまう。
柔らかく首筋にくちびるを這わせながら、真澄はマヤの上体を裸にした。
夜風が、マヤの裸の肌を吹き抜ける。ぞくり、と鳥肌が立つのは、風の冷たさのせいか、真澄の愛撫のせいか。
「…寒いか?」
星空に晒された乳房に、熱い両手を宛いながら、真澄が囁いた。マヤが幽かに呻く。
「じきに、熱くしてやる…。」
真澄はポロシャツを脱ぎ捨てた。触れる真澄の素肌の熱さに、マヤは陶然と夢見ごこちにさせられる。
後ろ手で器用にマヤのスカートのファスナーを下ろすと、真澄はさっとマヤからスカートも奪い去った。
敏感に高まり、赤みを増した乳房の頂きを口に含みながら、真澄は自分もズボンを脱ぐ。
薄い下着を通して、真澄の高ぶりが、マヤの太腿に、熱い。マヤは密かに、それにときめく。
ここは、梅の里。満天の星空の閨(ねや)。世界のただ中で、いま、この時ふたり。草のしとねに、この世でただ一つの、愛を交わす。
マヤの小さな下着の上から、真澄は指先の愛撫で、マヤをいつまでも焦らした。
マヤがみずから求めてくるまで、真澄は根気よく、全身に、そして下着の中の女の部分に、熱した愛撫をほどこしていく。
躰を重ね合う真澄の胸の鼓動が、息遣いが、ひどく速い。それが、マヤを、いっそうの甘い性の惑溺に誘う。
巧みな懇切な愛撫に熱中されられ、じらされたマヤが、やがて降参した。
マヤはすでに豊潤に熱くうるおって、待ち焦がれていた。
「はやみ…さん、ああ…もう…あたし…」
マヤの声が、切なく掠れる。
「欲しいか…?」
妖しく、真澄はマヤに囁く。
返事の代わりに、マヤは真澄の胸に縋りついた。
真澄はマヤの小さい下着を取り去る。
星明かりに、ほの白く浮かび上がる、マヤの姿態。天地自然のさなかで、これほど美しく、これほど愛おしいものはないと、真澄には思えた。
初夏の夜風の中、真澄も全裸となり、マヤの片脚を高く持ち上げると、一気に真澄はマヤを深く貫いた。
甲高く、マヤが歓喜の声をあげる。それは、虚空に高く、吸いこまれていった。
待ちこがれたマヤに、真澄は激しく、存分に、自らを与えた。
甘い嬌声が、マヤの口から断続して漏れる。
「愛している…マヤ…。」
マヤの耳朶を甘噛みして、真澄は囁いた。
真澄の、力強く激しい情交に、マヤはいっそう高められ、夢中で声をあげ、全身を貫く快感に、乱れて喘いだ。
強烈な性感に耐えかねたマヤの方が、先に歓喜の絶頂に導かれる。続けざまに、マヤは真澄の名を呼んだ。
愛おしい…。そうしたマヤが、真澄には愛しくてならない。
マヤのためになら、何物をも惜しくはない。
官能のうねりに全身を震わせるマヤを、真澄は深い思いで、強く抱き締めた。そして、思うさま、口づける。
飽くことを知らず互いを求め合い、ひととき激しい愛の淵にいつまでも身を躍らせるふたりを、満天の銀河が黙って見おろしていた……。



  翌朝。梅の里は美しく晴れ渡り、千草の墓参にはまたとない天候となった。
あの稽古の最後の日、千草が焼き払った吊り橋は再建されていた。源造の案内で、マヤと真澄は梅の谷に建てられたという千草の墓に向かった。
梅の谷では、かつての稽古の日々となんら変わらずに、紅梅が咲き誇っていた。谷のそこここに、千草の面影が浮かぶ。
マヤも真澄も、黙って歩きながら、千草のその在りし日の面影を偲んだ。
谷の奥深く、一本の大きな紅梅の木の下に、簡素な石碑が建てられていた。
「さ、こちらです。」
源造が、指し示す。それは、なんの飾りもなく、仏式の墓ですらなかった。その方が、神女・紅天女の墓としては、似つかわしいかもしれない。
寺で用意した花だけを石碑に捧げ、マヤは跪いて手を合わせた。真澄が片膝を付いて、そっと、マヤの肩を支える。
“マヤ…あなたを見ていますよ…いつまでも…”
千草の魂が、マヤに語りかける。
“はい、先生…私、先生のように、紅天女に私の生命を捧げます…精一杯やっていきます…見ていて下さい…”
師弟の魂の語らいの時が、静かに梅の谷に流れていく。紅梅の精気と谷の神気が、また新たに、紅天女の神髄をマヤに吹き込んでいくようだった。
真澄は、このマヤを、マヤの紅天女を、これからの生涯守り支えていくことを、またこころ新たに千草に誓った。



「源造さん、ありがとうございました。…あたし、またここに、稽古に来ていいですか?」
寺への帰りの道々、マヤは尋ねた。
「ええ、ええ。奥様もお喜びになるでしょう。ここはもう、マヤさんの故郷でもあるんですから…。」
そう、梅の谷、紅天女のふるさと。マヤと『紅天女』ある限り、この地は唯一の原点に違いない。
千草の死に水を取った源造は、その命ある限り、千草の墓守に、生涯を捧げるのだろう。
源造もまた、マヤにとって、ふるさとにあるかけがえのない人となった。
東京に戻るふたりを、源造は寺の門口で見送った。
「速水さん、また、マヤさんと、いつでもいらして下さい。源造もお待ちしておりますよ。」
「ああ、ありがとう。源造さん、元気でやって下さい。」
呼んだ迎えのタクシーが来た。乗り込んで、名残惜しげにマヤは振り返った。源造が一礼した。そして、車は帰路の山道へと発進した。



  東京に戻れば、また、ふたりには、それぞれの新たな闘いの日々が始まる。
梅の里の澄み切った高い虚空が、ふたりを静かに見送っていた。





終わり





2001/8/21

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