〜2〜 |
街灯の明かりを頼りに、玄関先までマヤの手を取って真澄が別荘の階段を上がる。 夜の闇にも手慣れた仕種で、真澄は鍵を開け、扉を開いた。 マヤは招き入れられた玄関で立ちつくす。その間、真澄が手早く室内の明かりを点け、空調を入れる。 「どうした?入っておいで。」 真澄みずから、マヤの足元にスリッパを設えてやる。促されて、初めての場所に、マヤは緊張して足を踏み入れた。 「俺の隠れ家だ。よく来てくれたな。」 ふっと笑って真澄は、マヤをリビングに通した。そこで、マヤの眼は、部屋奥のリビングテーブルの上に釘付けになる。 “紫のバラ……!” 一束、紫の薔薇が、陶磁の花瓶に活けられていた。日中、真澄が手配させておいたものだ。 真澄はキッチンから珈琲を運んできた。盆をダイニングテーブルに置く。 マヤは絶句したまま、真澄と薔薇とを、大きく目を見開いて交互に見つめる。 真澄は上着を脱いで椅子の背に掛け、ネクタイを緩めた。そして、椅子を引いて腰掛けた。 「一休みだ。疲れただろう。飲みたまえ。旨いぞ。」 そう言って、真澄は煙草を加え、片手に珈琲カップを手に取った。 芳しい香りが、煙草の紫煙と混じって真澄の鼻孔を擽る。真澄にとって、最もくつろげる瞬間だ。 マヤは半ば呆然としながら、ダイニングセットの椅子に腰を下ろし、言われるがまま珈琲を口にした。 確かに、いい味だった。それが、マヤの緊張を和らげ、緩ませる。心が、解けていく。 熱いブラックコーヒーの味は、マヤには真澄の味のように、思えた。 ほどよい苦み、舌に微かな、甘いまろやかさ。それが真澄のようだった。 真澄は旨そうに煙草を燻らし、紫煙とともに、僅かに残る杞憂をも、吐き出した。そして、煙草を揉み消した。 マヤは、ゆっくり、珈琲を飲み干した。 「あの、ごちそうさま、おいしかったです。」 「やっと口をきいたな。」 真澄は笑う。彼はテーブルから立って、マヤの腕を取り、リビングのソファに共に座を移した。 マヤは、紫の薔薇を凝視する。 そして、悩ましく問う目で、傍らの真澄を見あげた。真澄は、それに応える。 「チビちゃん…、いや、」 真澄はいったん言葉を切って、言い直した。 「…マヤ、…」 真澄は花瓶から一輪、薔薇をすいと抜き取ると、マヤに差し出して、きっぱりと言った。 「俺が、紫のバラの人だ。」 マヤの耳の中で、その言葉が、幾重にも木霊する。“俺が、紫のバラの人だ…” 「長い間、苦しめた。済まなかったな…。」 慰撫するような真澄のその声音に、マヤの内部で渦巻いた感情が、一気に高ぶった。 「速水さん…!」 マヤは大粒の涙をポロポロとこぼし、堰を切ったようにわっと声を上げ顔を覆って激しく泣いた。 真澄は黙って腕を伸ばし、マヤを抱き寄せた。何度、自分はこの子を泣かせてきたことだろうか。 その取り戻せない過去の分まで、しっかりと、真澄は両の腕(かいな)に、マヤの半身を深々と抱き締めた。 真澄はマヤの背をゆっくり撫でてやる。 好きなだけ、真澄はマヤを泣かせた。 しばらくして、真澄の胸で、マヤの泣き声は静かな嗚咽となり、すすり泣きに代わった。 真澄はポケットからハンカチを取り出し、マヤに渡してやる。 泣き止まないまま、切れ切れに、マヤが必死で口にする。 「あたし…待ってました…速水さんが…、こうやって名乗ってくれるの……もう、ずっと、ずっと……。」 真澄は真摯な眼差しを向ける。 「長い回り道をした…許してくれるか…?」 マヤは涙を拭いて、しゃくりあげながら、顔を上げた。真澄の顔が間近い。 「許す、なんて……。あたし、速水さんが、好きです……!。あなたを、愛しています…どんなことがあっても…。」 マヤの濡れた瞳に、真澄が映る。どれほど愛おしく、愛はその瞳に映ることだろうか。 「あたし…速水さんが紫のバラの人だから、速水さんを好きになったんじゃありません…。 速水さんが好き、って判ってから、会いたくて、会いたくて。苦しいくらい速水さんが恋しかった…。 あなたが好きです…。好きになっちゃいけない人でも……。」 真澄はゆったりと語る。 「俺には、マヤ、君だけだ。もうずっと長いこと、君だけを愛してきた…。」 「それが判っていながら、婚約した…。だが、もう、それはいい。これからは、マヤ、俺は君だけだ…。」 「…だから…マヤ、…俺のものになってくれ……」 マヤは、ひしと真澄にしがみついた。それが、答えだった。 真澄は、マヤを両腕で軽々と抱き上げると、二階の寝室へと、階段を登っていった。 ふたりにとって、長く遠く、苦しかった愛が、今宵、真実の愛に成就しようとしている。 その愛に、ふたりは身を挺して、このひとときを捧げた。 交替で真澄がバスルームから出てきた。襟足の髪が少し濡れている。 マヤは真澄のシルクのパジャマ上衣を着て窓辺に立ち、景色を眺めていた。 夜の海に、半月が高くかかっている。半分の、月。まるで、今のマヤ自身のようだ。 バスタオルを腰に巻いて、真澄はそのマヤを後ろから抱きすくめた。そして、耳元に唇を寄せ、囁いた。 「…愛している…マヤ…。」 睦言に、マヤの心は甘く痺れた。 恋い焦がれた人に、愛を囁かれる。その眩暈を覚えるような幸福感。マヤは酔いしれた。一筋、涙が頬を伝う。 真澄はマヤを抱き上げると、半暗がりの寝室のベッドに柔らかくマヤを横たえ、半身でマヤに覆い被さった。 マヤの両の頬を掌でそっと包み、額に、瞼に、頬に、耳元に、羽のようにくちびるを寄せる。 頬にかかる乱れ髪を指で梳いてやり、涙の跡を優しく拭う。マヤの潤んだ瞳が、静かに閉じられた。 薄く開かれたマヤのくちびるに、真澄は思いの丈込めて、深く、くちづけた。 長く、熱い、愛おしいくちづけ。そして、いつしか、狂おしく求める、それは、くちづけ。 真澄の口づけに、マヤは陶然と我を忘れた。 真澄の情熱に、マヤの意識も遥か何処か遠くへ、さらわれそうになる。 真澄はくちびるを、マヤの耳から首筋に這わせた。 熱い吐息で愛撫しながら、マヤが微かに反応したその箇所をくちびるで貪る。 その触覚に、マヤは総身に戦慄を覚えた。吐息が、マヤの口から、ほうっと漏れる。 真澄は体を起こした。片腕で上体を支え、片手でマヤの長い髪を愛撫してやる。 そして、羽布団をめくり、シャツのボタンに手を掛けた。 含羞に、マヤが僅かに抵抗する。が、真澄は急かなかった。 頬に、髪に、愛撫を繰り返しながら、片手でゆっくりボタンを外していく。 懇切で丁寧な、全身への丹念な愛撫。マヤは、しだいにそれに夢中にさせられていった。 マヤの肌を滑り落ちるシルクのシャツの感触すら、マヤには愛撫のように感じられた。 そして、真澄が欲してやまなかった、マヤの生まれたままの姿が現れる。 薄闇にほの白く浮かび上がるその、小さく華奢な、しかし魅惑に満ちた、愛おしい者の清らかな姿態。 真澄はその躰に、長い慈しみの時を刻んだ。 マヤが懼れを無くすまで、また、真澄の傾ける愛にマヤが溺れ切るまで、心こめた愛撫を、真澄はマヤのすべてに丹念に捧げる。 マヤの甘い吐息。乱れる息づかい。真澄の手に、指先に、唇に、舌に、マヤは懇々と愛され続ける。 躰のすみずみまで、愛撫は隈なく隙なく行きとどき、マヤは甘く、切なく、真澄を呼んだ。 真澄もまた全裸になり、マヤに躰を重ねる。そして、真澄はマヤを力強くかき抱(いだ)いた。 触れ合う、熱した、肌と肌。見つめ合う、恋の、瞳と瞳。 蕩けるように潤んだ艶(なま)めかしいマヤの眼差しに、危うく真澄は一気に欲情を爆発させそうになる。 が、すんでの所で、真澄はそれを抑えた。マヤの為に。 ただ、熱情のまま、真澄はいっそう深く、マヤにくちづける。 マヤも、躊躇いがちに、そっと口づけを返した。 寄せては返し、返しては寄する波のように、繰り返す真澄の深い愛溢れる愛撫に、マヤはやがて心身ともに深く酔わされていった。 真澄の手で、マヤは「おんな」に、造型されていく。 真澄の手で、マヤは今宵、「おんな」という別の生き物に、新しく生まれ直すのだ。 “ああ…好きです…速水さん…” 朧気に夢見ごこちの意識で、マヤは真澄を恋うる。 真澄は、昂ぶる欲情を御し、ひたすらに、懇ろに、マヤに愛撫で献身し、奉仕した。 長い、長い愛撫の刻(とき)。 真澄の情けぶかい、慈しみの時。 「マヤ…綺麗だ…」 真澄はマヤの耳朶を甘噛みして、囁く。 遠のく意識で、マヤはそれを聞く。懼れも、羞恥も、やがてマヤから去り、 かわりに狂おしい恋焦がれる思いが、マヤの奥底から生まれ、次第に強まった。 “はやくひとつになりたくて、狂おしいほど相手を求める、それが恋…”。 阿古夜が、マヤの内部で、確実にマヤとして生まれつつあった。 “いとしい、おまえさま…” マヤの精神の深奥で、阿古夜がそう、声にする。 そして、マヤは、譫言のように、熱した声で、何度も真澄の名を呼んだ。 真澄は、時が満ちたことを知った。そして、そっと、マヤの耳元に囁いた。 「できるだけ苦しくないようにする…。楽にしていてくれ…。」 真澄によって入念に準備されたマヤには、抵抗はなかった。 くったりと、夢見るように、マヤは真澄に躰を委ねた。 そして、ふたりは、結ばれた……。 鋭く、引き裂かれる痛みが、マヤを正気に引き戻す。 肉体は、痛む。だが、マヤは、心の底から感動していた。これが、“ひとつになる”ということ…。 その、尊き情感。マヤの奥深くで、この時、真に、阿古夜が目覚めた。 真澄も、マヤを組み敷いて、マヤを刺し貫き、あまりにも長い時間を耐えてきたことが実った、その到達感に、全霊で満たされた。 幸福だ…。こんな、幸福なことは、俺には、無かった……。 涙するような思いが、真澄の心に去来する。 真澄が求めてやまなかった、本物の恋、が、いま、まさに実ったのだ。 ふたり、それぞれが歩んできた愛の真価が、今、実を結んだ。 真澄は、縋りつくマヤを抱き直しながら、しっかりと結ばれた躰を確かめるように、ゆっくりと腰を動かす。 いま、この時、ふたりは身も心も一つのものとなり、互いへの慕わしい思いを、ともに互いに交わす。 なぜ、今まで、ふたりは、別々のものでいられたのか?。 今ではそれが不思議に思えるほど、この時ふたりは、一つのものだった。 呼び交わす睦言は甘く、またしどけなく蠱惑に満ちて、ふたりを誘う。水々しく生成しはじめる世界へ。祝福された愛の天地へ。 それを、夢だ、と、人は言う。だが、ただ喜びは果てしなく、憧れる。 ひととき、ふたりを満たすエロス。それは輪舞のように、どこまでも彼らを追いかける。 この愛と性の境いで、情交は、いっそう互いへの没頭を深め、愛は性を営んで交感する。 互いの名を呼べば、情欲はさらに強まり、心が、躰で互いを求めてやまない。 ふたり、一つに繋がったまま、この熱した時は、永遠へと続いてゆくようだった。人の願う、究極の悠久へ。 男と女が、真実の愛に身を捧げる時にのみ、その遥かな夢は、確かに彼らのものとなる。 愛を為す、ということは、高い、ことなのだ。 真澄の腕の中で、マヤは、そう教えられた。 真澄もまた、マヤの内部で、逆巻いて迸る熱情を、純一に、マヤに捧げた。 やがてマヤの内部で、真澄の昂ぶりはいよいよ窮まった。 真澄は熱っぽく、マヤに囁く。 「マヤ…、覚えておいてくれ…これが、俺だ…」 真澄はマヤを強く抱え直すと、ひととき、律動を高めた。真澄が、熱く、狂おしく、マヤの内部を駆け抜ける。 マヤは真澄の為すがまま、躰を預けた。いっそう、マヤの感情も高まる。 喘ぎながら、マヤは真澄の名を続けざまに呼ぶ。 「…マヤ…!」 呼びかけられてマヤが真澄に縋りついた。その時、真澄は耐えに耐えた熱情を、マヤの奥深くに、思い傾けて強く解き放った。 真澄の腕枕で、マヤは真澄に身を寄せる。涙が、マヤの瞳に光る。 真澄の目から見ても、この時マヤの表情は生き生きと生気に満ちて、神々しく、美しかった。 真澄は、役割を果たした安堵と、みずからの想いも成し遂げた深い満足に、感慨も深かった。 真澄はマヤに軽く口づけて、深い声音で声をかけた。 「愛しているよ…。」 「はやみ、さん……。」 マヤは何も言葉にならなかった。また、何も言葉にする必要もなかった。 ただ、かけがえのないひとときが、ふたりを満たしていた。 いつしか、彼らはうっとりとまどろみ、身も心も、いっさいの拘束から解放されて、安らかな眠りに落ちていった。 翌朝。マヤは目覚めて身じろぎした。 「おはよう。」 真澄が片肘に頬杖をついて、マヤを見おろしている。 カーテンから差し込む朝の光も清々しく、マヤは慕わしく真澄を見あげた。 真澄は片腕でマヤを抱き寄せると、軽く、おはようの口づけを与えた。 マヤは、昨夜を境に、世界のすべてが一変したような思いでいた。 よく晴れた、忘れがたい、美しい朝だった。 その足で、稽古場まで直行で、真澄はマヤを送り届けた。 そして、マヤは自ら進んで、「恋の演技」の稽古を申し出た。 できる。あたしには、阿古夜を演じられる…!。マヤは確信していた。常処女(とこおとめ)の神女、阿古夜。 マヤは「おとめ」ではなくなったが、真澄が与えてくれた“魂の片割れ”の確かな実感が、マヤに新しい生命の息吹を吹き込んでいた。 何故、今まで、あれほど「恋の演技」に苦しんだのかがまるで悪い夢のように、 マヤは、月影千草もかくやと思われるほどの、清新な、純真な阿古夜の恋を、場面に生き生きと描き出した。 誰もが、マヤの変化に目を見張った。 黒沼と千草だけが、事実を見抜いていた。 “若旦那、よくやってくれたな” 黒沼は、内心でひとりごちていた。 一方、真澄は、紫織を呼び出した。帝国ホテル17階、レインボーラウンジ。 愁嘆場も予想されるため、あえて、人目の多いランチタイムを、真澄は指定した。 紫織とうまくいかなくなってから、ひさびさの再会だった。 およそ、真澄の意図を察してか、時刻より少し遅れて、憂鬱げな暗い顔で紫織は現れた。 「おひさしぶりですわね。真澄さま。真澄さまの方からお呼びとは、お珍しいこともあるものですわ。」 紫織の皮肉も意に介さず、単刀直入に、真澄は婚約解消を申し出た。 「あなたには、申し訳ないことをしました。しかし、僕と彼女は、もう他人ではありません。」 真澄の断言に、紫織が青ざめる。かつて、これほど、真澄が自信に満ちて、マヤについて語ったことは無かった。 かろうじて保っていた紫織の全身から、力が抜けていく。紫織の唇がわなわなと震える。 だが、もう、真澄の心を取り戻すことは、決してできないだろう。それは、紫織にも痛切に理解できた。 それでも、紫織は弱々しく抵抗を試みる。 「…承知できませんわ…。今さら…。だいいち、お仕事の方はどうなさいますの…。」 「僕にできる限りのことは、やらせていただく。それに、これ以上、あなたを苦しめるのは僕の本意ではありません。」 「お互い、子どもではないんだ。紫織さん、どうか判ってください。」 「申し訳ありませんでした。」 真澄は深々と頭を垂れた。 真澄の誠意は、紫織の理性では判っている。だが、感情が、それについていかない。 「…失礼しますわ。…真澄さま、あなたとは、もう二度とお会いしたくありません!」 フラリと、紫織は席を立った。それでも、紫織の矜持が、一人で紫織を歩かせた。 真澄は、皇居を緑を望むラウンジのソファにひとり残って、煙草を燻らせながら、今後のことに思いを巡らせた。 マヤの阿古夜は、完成の域に向かいつつあった。稽古は一気に勢いを増して順調に進み、試演への確かな手応えを得ていた。 真澄はキッドスタジオに黒沼を訪ね、マヤの様子を伺った。 「まさか、北島がなぁ…。若旦那、あんたのおかげだよ。」 「いや、あの子は、きっかけさえあれば、どんな困難な役でも、こなしてきた。たとえ、紅天女でも、きっと彼女はやり遂げるでしょう。」 「黒沼さん、あとはあなたの指揮次第だ。楽しみにしていますよ。」 「あんたこそ、良かったじゃないか。北島とのことは。はっはっはっ。」 黒沼は、高笑いして、真澄の背中をバンと叩いた。真澄は、やぶへびだ、と、笑って受け流した。 試演前日は、真澄はオンディーヌに、亜弓を訪ねた。 視力を失いながら、亜弓は果敢に演技に挑む。その凄絶な尽力。真澄には、どちらか一方、と決めるのは、理不尽な気がしていた。 そして、迎えた試演の日。 真澄とマヤが、長のとしつき、経巡り、求め続け来たマヤの『紅天女』が、今、まさに世に生まれ出でようとしていた。 真澄は、開演の緞帳が開くのを、客席で、息を詰めて、待っていた。 2001/7/25 |
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