〜2〜



結婚の破綻、多忙を極める新規事業、マヤへの叶わぬ想い。真澄を取り巻くそれらの現実に、
真澄はただ全力で拮抗していくしかなかった。
少なくとも、仕事に忙殺されている間は、余計な気詰まりに心悩ますことは、無くて済む。
忙しい。それが、真澄にはせめて救いだった。
忙しい、とは、心を亡くす、と書く。
真澄からこの時、失われていく、人間らしい心。
“だからといってそれが何だというんだ”。
真澄は半ば、己の身上を呪いながら、居直るしかなかった。
そんな真澄に、天上の神は、さらに鉄槌を下す。
紫織の、急死であった。


真澄の目の前で、白日夢を見ているように、紫織の通夜、盛大な葬儀、鷹宮家との往来が続いていく。
紫織が向精神薬と睡眠薬を多用していたことすら、真澄は知らなかった。
“俺が、追いつめた……殺したのは俺か…”
ここに至って、さすがの真澄も、
「仕事の鬼」の仮面を被り通すことはできなかった。
痛烈な底のない苦悩をありありと表面に出す。
誰もが、そんな真澄を遠巻きにして、真澄には近寄り難かった。
いくら、経緯が経緯とはいえ、紫織には、もう少し別の対処の方法もあったのではないか。
そんな、無益な繰り言すら、今更のように真澄は思い煩う。
罪悪感。
真澄の受けた衝撃は、真澄自身にも図り知れず、大きかった。



早春のその出来事から真澄の苦悩は深く、季節が巡り、盛夏も近づいたことすら真澄には無感覚だった。
紫織を偲んで鷹通とはそのまま残った部門提携により、大都芸能がT芸能を抜いて芸能社業界トップの地歩を固めたことも、
真澄の個人の心中には、何の意味もないことに過ぎなかった。
英介にとってもまた、鷹宮にはひた隠した結婚失敗の実態を知るだけに、そもそもの目的であったその成功も、
意味の半分を失っていた。
この季節、マヤが、また1クール、ドラマ主演している。
半分、死んだような心で、真澄はテレビ画面のドラマを見る。
ひさびさに目にするマヤの姿である。
所属女優とはいえ、『紅天女』に関わらなければ、日常真澄はマヤと会うこともない。
つかの間の演技、架空のものであっても、マヤの笑顔、張りのある明るい声、様々な表情、そしていつの間にか
大人の女を演じられるようになったマヤの芸域の広がり、
そうしたものが、いっとき、真澄の荒んだ心を和ませた。
“マヤ……俺は随分と遠くに来てしまった…”
そういえば、マヤは、紫織の死をどう思っているのだろう。
とにもかくにも目の前の仕事と自分の内面の苦しみに手一杯で過ごしてきたが、
ようやく、真澄の心に、そんな素朴な疑問が湧く余裕も出たようである。
時間、こそ、およそ人間にとって、人生の最大の友であろう。
思い起こせば、紫織との結婚を余儀なく控えて、マヤへの想いに懊悩していた頃が、
遥か遠い昔の夢のように、真澄には思える。
あの頃の方が、幸福だったのかもしれない……。
テレビ画面を見るともなく眺めながらそう考えて、
幸福?
改めて真澄は、自問自答した。
自分に、「幸福」など、果たして今まであったのだろうか?
実母の生前はともかく、速水真澄となって以来、
幸福を追い求めたことが、今まであっただろうか?
その希求に忠実に、生を貫いたことが、一度でもあっただろうか。
否、である。
だからこそ、真澄は真実、マヤに心惹かれた。
そして今となっては、紫織への罪悪感から、自分ひとりの幸福を考えるなど、
真澄には思いもよらないことであった。
“人ひとり、見殺しにした俺だからな…”
自虐的に、真澄は内心で呟く。
それが、真澄が苛まれ続けている、紫織への罪悪感だった。
カインの刻印のように、それは真澄の額に常に貼りついて、真澄を救われない苦悩に陥れていた。
その孤独の淵にあって、今の真澄には、マヤは唯一心許せる存在である。
だが、同時に、真澄には、マヤはすでに手の届かぬ、遠い存在だった。
真澄にはマヤのようには、「紅天女の恵み」は訪れてはいないのだから。
いつの間にかドラマが終わっていたテレビを、無造作に真澄は消した。



晩夏の宵。お茶の水、カザルスホール。
新規に大都芸能傘下に参入した音楽事務所初主催の、クラシックコンサートの晩である。
嵯峨崎綾乃・チェロコンサート。ピアノ伴奏、田中祐子。
今世紀最大のチェリスト、カザルスの名を冠したカザルスホールは、
こうした小コンサートには相応しい規模と程良い音響・設備を有している。
真澄はその音楽事務所社長らとともに、その席に列席していた。
開演前、ロビーの喫煙コーナーで、真澄は独り、煙草を燻らせていた。
客入りは上々のようだ。これで演奏内容が良ければ、真澄の立場としては異存はないだろう。
チェロコンサートにカザルスホールとは、たまたまではあるが気も利いている。
真澄が煙草を揉み消し、何気なくホール正面玄関に目をやった。その刹那、
マヤの姿が真澄の眼に飛び込んできた。
“マヤ…!”
瞬間、真澄は経ち竦む。
軽やかな足どりで物珍しそうに周囲を見回しながら、薄着で軽装のマヤは会場に入ってきた。
そして、真澄の立ち姿に吸いこまれるように、その場の真澄に気づいた。
マヤの瞳が大きく見開かれる。そしてパッと華やいだ、輝く笑顔を真澄に向けた。
マヤが歩み寄ってくる。
真澄にはまるでスローモーションを見ているように思えた。
マヤは笑ってこくりと、真澄に一礼する。
「速水さん!」
マヤの屈託ない声。真澄の耳に快く響く。
「やあ、チビちゃん。久しぶりだったな。元気だったか?」
「速水さんったら、まだ“チビちゃん”なんですか?」
マヤが苦笑して口を尖らせる。
マヤは、真澄の顔色を一瞬素早くうかがった。そして、内心に呟いた。
“速水さん……顔つき変わっちゃって…”
確かに紫織の件以来、真澄の表情は険を増し、いっそう人を寄せつけない冷たい暗さを漂わせていた。
真澄のそうした風情に、マヤの胸は痛んだ。
「今日はどうした?君のオフじゃないのか?」
「ああ、水城さんがチケットを下さったんですよ。たまには行ってらっしゃい、って。」
マヤがそのチケットを真澄に見せる。
そういうことか。いかにも水城らしい配慮である。
念入りなことに、真澄の隣の席番だった。
水城なりに、真澄を、またマヤを思いやり、気遣っている。
この際は、真澄は水城の厚情に感謝して甘んじることにした。


今日の演奏曲目は、ピアノ伴奏編曲のドヴォルザーク「チェロ協奏曲 ロ短調作品104」、
エルガー「チェロ協奏曲 ホ短調 作品85」、
バッハの無伴奏組曲1番・プレリュード、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。
曲目まで「カザルス」ホールにうってつけだった。
やがて開演時間となる。マヤと真澄は関係者と共に着席し、演奏会が始まった。
嵯峨崎綾乃は、中堅どころの手堅いチェリストとして、地道な音楽活動を展開している。
知る人ぞ知る、その道の有能な楽才人だ。
伴奏者ともども、演奏レベルは非常に高く、招いた評論家達にも、この内容ならば納得されようという演奏だった。
真澄は、事務所関係者を評価した。真澄の仕事は、それで完了である。
マヤにはクラシック音楽の詳しいことは判らなかったが、
チェロという中低音楽器特有の豊饒な熱情表現、奏者の高度な演奏テクニックに、
ごく自然に深く感動させられた。
道は違えど、同じく表現芸術に携わる者として、マヤは演奏に魅了され、限りない共感を抱いた。
そして、傍らには、同じ演奏を耳にする真澄が居る。
マヤには幸福に充溢した、それはひとときだった。
演奏、終了。綾乃が立って一礼する。舞台に満場の喝采が贈られる。
マヤの芝居の舞台でも、喝采はいつも、降りしきる雨音のように、真澄の耳には聞こえる。
アンコールには、綾乃の選曲であろう、「ダニーボーイ」が熱く奏でられた。


真澄はマヤにロビーで待つように言うと、音楽事務所関係者らと短い打ち合わせに入った。
それも、じき終わる。
「では、速水社長、今後ともよろしくお願い致します。」
「ああ、伊藤さん、今日はご成功、おめでとう。」
これから一席、という音楽事務所社長の申し出を如才なく辞して、真澄はその場を後にした。
およその観客の去ったロビーで、マヤが陶然と演奏の回顧に浸りきっていた。
真澄はマヤを誘い出す。
「待たせたな。」
「速水さん、これからお仕事は?」
「今日は終わりだ。ところで食事は済ませたのか?」
「あ、私は来る前に。」
「そうか。俺はまだなんだ。つき合ってくれるか?」
“チビちゃん”、と真澄がつけ加えそうになる。すんでの所でそれを抑えたのを見て取って、マヤが笑った。
「はい、お供します。」
「近くにいい店がある。歩いてすぐだから、そこに行こう。」
真澄は社用車を帰らせた。帰りは車でも拾えばいい。
夏の終わり、いくらか和らいだ夜の暑気の中、真澄はマヤを伴って、夜の街に出た。


神田古書店街、書泉グランデ隣の有名な珈琲店オーナーが、趣味でワイン主体の店も開いている。
神保町すずらん通りから一本裏手に入ったその店は、こじんまりとして、しかし
いかにも趣味の店、といった凝った内装の、小綺麗な店だった。
バーカウンターの止まり木に彼らは並んで腰掛け、久々の再会に杯を掲げた。
チン、と合わせたワイングラスのクリスタルが、美しい音で鳴る。
真澄は食事、というよりは、ワインの肴をつまむ程度だ。
マヤには軽いボディの、フルーティなイタリアンを、真澄は辛口のドイツワインを、それぞれ口にした。
交わす言葉は淡々と少なく、それでも、真澄には唯一心許せる相手だ。
「速水さん、もっときちんとお食事しないとダメですよ。」
マヤが真澄の少食を気遣う。
真澄はフッと笑って、それを受け流した。
「君に気遣ってもらうとはな。形勢逆転したな。」
「…もうっ、いつもそんな冗談半分で。」「速水さん身体壊しちゃったらどうするんですか。」
マヤは言外に、紫織の件を心配している。それは真澄にも判った。
「それほどヤワではないぞ。見くびってもらっては困るな。」
「…でも、速水さん、」
「うん、なんだ?」
「いえ…。なんでもないです…。」
“顔つき変わっちゃって”という言葉を、マヤは呑み込んだ。
「言いかけて止めるのはずるいぞ?」
今度はマヤが、笑ってそれを受け流した。少し酔いを含んだ潤んだ流し目で、真澄を見やる。
その思いがけぬ女の色香に、真澄は沈黙させられた。
そうだ、マヤはいつまでも子供ではない。だがやはり真澄には、
何か不思議なものを目にする気がした。そして、それにたまらなく魅せられた。
マヤの生命ある存在感。若々しく瑞々しい。それに接して、
凍りついていた真澄の人間らしい感情が、真澄のどこか奥深いところで、静かに揺り動かされていた。
「マヤ、って名前のワインがあるのを知っているか?」
「えぇ、そうなんですか?」
「ああ。マスター!」
真澄はカウンターから店主を呼んだ。
白髪もみごとにダンディなその店主は慇懃な物腰で奥から出てきた。
「マヤ、はここは置いてあるかな?」
「ああ、フルボディのカリフォルニアワインですね。ウチではボトル10万でやらせてもらってますよ。」
「10万?1本で?」
マヤが目を見開く。
「お試しで?」
「いや、今日は結構だ。ありがとう。」
「毎度。」
言って店主はまた引っ込んだ。
「ほらな。あるんだ。」
「吟醸酒なら真澄、というのもある。今では紅天女、も銘柄だぞ。」
「知らなかったわ…」
マヤは感心して呟いた。演劇一筋、のマヤが知る筈もない。
真澄はマヤのその驚く顔が見たかったのだ。真澄は得心した。
真澄がグラス2杯目を空けたところで、時刻も遅くなった。
「さて、そろそろ出るか。」
「はい。ごちそうさまでした。」
マヤは止まり木から滑り降りて、会計を済ませる真澄を戸口で待った。
冷房の利いた店を出ると、夏の夜気が生暖かい。
「酔い覚ましだ。少し歩こう。」
真澄はマヤを促して、歩き始めた。
「速水さん、歩いたら私、かえってお酒がまわっちゃいます。」
「大丈夫だ。そうしたら俺がおぶってやる。」
真澄は冗談で済ませてしまう。マヤはやれやれと、真澄に付き従った。


夜も更けた古書店街は、人通りも少なく、じき表通りに出た。
真澄は靖国通りを横切って、裏手の道に歩み入る。
少し坂を上がると、「夏目漱石出身」と石碑のある小学校があった。
そこを過ぎてまた少し歩くと、ビルの狭間に、小さな公園がある。
街灯に照らされたオフィス街の公園には、ひと気も無い。
マヤはブランコに歩み寄り、腰を下ろした。
真澄も隣に座って、煙草に火を点けた。
マヤはブランコを少しだけ揺らす。
「君は昔よく公園に逃げ込んでいたものだったな。」
真澄のその声音には、遥かな物思いが込められていた。
「ええ、もうずいぶん前…。」
「ずぶ濡れの君を、家に連れて帰ったこともあった…。」
「はい…。」
「ここまで来られたのは、速水さんのおかげです…。」
ポツリ、ポツリとマヤが口にする。
「“思えば遠くに来たものだ”か…。君とは長いつきあいだな。」
「ほんとに…。」
「俺は君の紅天女が観られて、本望だったよ。」
「…それも、速水さんがいてくれたから…私ひとりでは、何もできなかった。」
しみじみと、思い傾けてマヤが言う。
真澄は吸い殻を投げ捨てると立ち上がって、マヤの正面に立った。そして、マヤの腕を取ってマヤを立たせた。
真澄は真正面からマヤをみつめ、口を開いた。
「俺は人ひとり見殺しにした。そんな男だ。」
「それでも、君は俺を求めてくれるか。」
その苦しげな真澄の声に、マヤの胸は強く痛んだ。そして、譫言のように、台詞を口にした。
『愛しいおまえさま…』
『阿古夜だけのものになってくだされ…』
咄嗟に真澄はマヤをかき抱(いだ)いた。
初めての、抱擁。恋し合う者の。
「マヤ…!俺は……」
真澄の逞しい胸に頬を押しつけられて、マヤは軽い眩暈を覚えた。
そして素肌の両腕を、そっと真澄の背広の背に回す。
煙草と幽かなコロンと、男の、匂い。
抱き締められて、真澄の胸で、甘やかなときめきがマヤを満たす。
長身の真澄が身をかがめて、まるで小柄なマヤに縋りついているように見える。
薄着を通して真澄に伝わってくる、マヤの仄かな素肌の香り、素肌の感触。
まるで幼な子が母に縋りつくように、真澄はマヤの躰にしっかりと身を寄せる。
「俺は…」
“何も言わないで” “何も言わなくて、いいから”
マヤが心に呟く。そして、真澄を見あげる。
マヤの、慈しみに満ちた眼差しが、真澄の深い色の瞳とまともにぶつかる。
救いを懇願するように、真澄はマヤのその恋情溢れる瞳に見入った。
真澄の求めてやまない、マヤがそこにいた。
真澄はマヤを思い切り仰け反らせ、両腕にマヤを抱き直して、深くマヤに口づけた。
マヤは真澄のくちびるに圧倒された。
呼び覚まされた熱情が、真澄から溢れる。
マヤはその小さな全身で、真澄の迸る感情を精一杯受け止めた。
夏の夜のように、熱い、長い口づけだった。
乳飲み子のように、真澄はマヤのくちびるを貪る。
暗闇の中で、一条の光明を見いだした者のように。
薄着の背中を撫で下ろされて、マヤはゾクリとわななく。
それが合図のように、真澄はやっとマヤのくちびるを解放した。
そして、再び強く抱き締める。
マヤの薄着の胸に、真澄の早鐘のような心臓の鼓動が伝わってくる。
このまま、思いにまかせてマヤを抱いてしまいたい衝動も、真澄の裡で一際高ぶった。
「…俺が好きか?」
ひと呼吸おいて、慈しみ深く、しっかりした理性の口調で、マヤが答えた。
「はい、速水さん。」
そのマヤの真摯な声音が、真澄の心を打った。
そして、真澄は我に帰る。
今のマヤ、この天然の穢れなき存在。自分に迷いのある内は、手にかけることは許されまい。
それほど、真澄にはマヤはかけがえのない、貴重な存在なのだ。
「…ありがとう…」
静かに真澄は言葉にして、マヤの髪に頬をうずめた。
片腕でマヤを抱きながら、片手でマヤの長い髪を撫でる。
そして、指でマヤの顎をつと持ち上げ、また軽く口づけた。
羽根のように軽く、くちびるをくちびるで愛撫する。
甘い、と、マヤは感じた。
愛する男性の腕の中とは、こうしたものなのか。
マヤは、ひととき感慨も深かった。
くちびるを離して、マヤは真澄の胸に、身をもたせかけ、うっとりと目を閉じた。
時が、謎めいて、ゆっくりと流れていった。


「んっ、いやっ!」
唐突に、マヤが露骨な嫌悪の声をあげて首を振った。
マヤの耳元に蚊がブンと飛び回った。そういえば、素足も刺されたようだ。急に痒みが襲ってくる。
「何だ?」
「蚊に刺されちゃった…。」
「掻くんじゃないぞ。痕になったらまずい。」
女優の身体、である。傷は禁物だ。
「大丈夫。薬、いつも持たされてるんです。」
「どれ、見せてごらん?」
マヤはベンチへ歩いて、座ってバッグから塗り薬を取り出した。
「速水さん、向こう向いてて下さい。」
マヤは短いスカートを手繰り寄せた。
「いいから。それ、よこすんだ。」
真澄は悪戯心にマヤの手から薬のチューブをひったくった。
「いや、速水さんったら…」
真澄はベンチに跪いてマヤのスカートをさっとめくり上げた。
露わになった白い太腿。夜にくっきりと白く浮かびあがる。
それは真澄の眼を愉しませた。
ほの明るい街灯の下で、虫さされの痕がうっすらと赤く見えた。
真澄は塗り薬をそこに擦り込んでやる。と同時に、さりげなくマヤの素足を愛撫した。
マヤが苦し紛れに笑う。
「あははは、くすぐったい!速水さん、やめて、やめて!」
「だめだ。」
真澄もつられて笑って否む。
「きちんと塗っておかないとな。」
そう言いながら、真澄の指先は、愛撫の動きになっている。
「いやっ、ダメですったら…!」
マヤが笑い転げて、身を捩る。
ついにマヤはベンチに突っ伏して、涙を流して笑い続けた。
真澄はチューブに蓋をして、上半身でマヤに覆い被さった。
「そんなに笑うんじゃない。色気も何もあったもんじゃないぞ。」
そう言う真澄も、久々に楽しげに、心から笑っている。
マヤが、下から真澄を押しのけようとする。
ひととき、ふたりはベンチで、子どものようにじゃれ合った。


「ああ、もう…速水さんの意地悪…!」
笑い泣きもようやく収まり、マヤは起き直って、居ずまいを直した。
真澄は素知らぬ顔で、煙草に火を点けた。
やはり真澄は、マヤと居ると、心和み、心安らぐ。
しみじみと、彼はそれを実感した。そして、尋ねた。
「年内のスケジュールは決まっているか?」
「はい、年末年始まで。」
「そうか。そうだな、」
一旦言葉を切って、真澄は思案顔になる。そして口にした。
「クリスマスは一緒にいてくれないか?」
有無を言わさぬ言葉の強さだった。
マヤは、思いのほか、真澄の心を伺い知るような気がした。
少し、はにかんで、それでも率直にマヤは答える。
「…はい。わかりました。」
「また、しばらくは会えないだろうが。」
「はい…。私は大丈夫。速水さんこそ、あんまり思い詰めないで…。」
「…ああ、君にまでそう言われると、な。……そうするよ。」
実際、この宵、一夜のマヤとのひとときで、真澄は暗闇で頭をぶつけながら歩いている道筋から、
一筋、光の道が見えたような、そんな心持ちになっていた。
そうした、夏の、終わりであった。
夏は冬に憧れて、冬は夏に帰りたい。…昔、そんな歌もあった。
今こそ、真澄は、その来たるべくして来る冬の日を、
憧れに近い思いで、思い馳せた。
普段の調子で仕事をしていれば、年末などもうすぐにやってくるだろう。
マヤと、クリスマスを過ごそう。
ようやっと、真澄は呼吸も苦しいような胸苦しい日々から、解放されるだろう。
そんな予感を真澄にもたらした、この夏の宵、マヤとのひとときであった。



そして、迎えた聖夜、ふたりは心身ともに、真実、「魂の片割れ」となる。



終わり





2001/7/6

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