360500番ゲット・Solo様リクエスト:いつもは真澄さんとマヤの間でやきもきしている聖さんや水城さんに
 のんびりとしたクリスマスを味わってもらいたいです。
 二人が結ばれてホッと人心地 という形でも やきもきしながらも ちょっと息抜きというものでも構いません。
 あとは一切お任せします

※ということで、たまにはマヤマスではなく、聖さん、水城さんのそれぞれのクリスマス、で参りますね。





速水真澄は晴れてマヤを花嫁として迎えた。
ふたりが結婚して、初めて迎えるクリスマス・イヴ。
この日はさすがの真澄も、早くからスケジュールを調整し、マヤと共に過ごす時間を確保していた。



長年、マヤと真澄の間柄を傍らで見つめ、心を痛めてきた水城冴子。
この年、ようやく水城にも、のんびりとしたクリスマスイヴを過ごす時間にも恵まれた。
水城も、早くからこの日のためにふたり分のコンサートのチケットを手配し、
似たような境遇で働く旧友とともにクリスマスのコンサートに足を運ぶ予定であった。

「では、真澄さま、わたくしは今日はこれで失礼しますわ。真澄さまも、マヤちゃんとどうぞごゆっくり。」
「ああ。ご苦労。水城くんも偶にはゆっくりしてくれ。」
真澄の機嫌は気味が悪いほど良かった。
「そうさせて頂きますわ。では。」
水城は内心で肩を聳やかし、御託は無用とばかりに、早々に社長室を辞した。




水城はごくごく珍しく、定時で退社し、旧友との待ち合わせに渋谷に向かった。
渋谷の街はクリスマス一色。
街路樹にはイルミネーションが鮮やかに煌めき、街灯のスピーカーからはクリスマスソングが流れる。

(こんな世間に身を置くというのも、随分と久しぶりだわね…。)

水城はしみじみ、待ち合わせに賑わうハチ公前の光景に眺め入った。
水城が待ち合わせ場所に到着してから、ややあって、水城の旧友、武田裕子が現れた。

「冴子!久しぶり!元気そうね。」

「裕子!久々ね。あなたも相変わらずね。」

ふたりはコンサート会場に向かって歩を進めた。
「今日はチケットの予約、ありがとう。楽しみだわ。コンサート。」

「チケットなら、いつでも手配できるわ。何しろウチは芸能社ですからね。」

「あなたのボス、やっと結婚したらしいじゃない。冴子も肩の荷が下りたでしょう?」

「ええ、やっとね。おかげさまで。」

「裕子は?相変わらず仕事が恋人なの?」

武田裕子は社費でMBA留学しMBAを取得してからは第三勧業銀行の社長秘書筆頭を務めている。

「この人なら、いいかな、っていう男性、ついに現れたわ。私も年貢の収め時かしら。」

「あら!じゃあ今日はこんなことをしていていいの?」

「残念ながら。まだ、そんな間柄じゃないのよ。私の片思い。」

「まあ。裕子が片思いするなんて。ぜひそのかたとお会いしてみたいわ。」

「そういう間柄になれたらね。真っ先に冴子に紹介するわよ。」

「うまくいくといいわね。応援しているわ。」

「ありがとう。冴子。」



コンサート会場。東急Bunkamura、オーチャードホール。
演目はヘンデル『メサイヤ』。
秋山一慶指揮、東京シティフィルハーモニー管弦楽団演奏、合唱、東京オラトリオ協会。
ソプラノ・内藤和子、アルト・市ノ瀬有紀、テノール・佐藤宗之、バス・吉村和郎。
華やいだロビーは盛装した人々で溢れ、どの笑顔も楽しげだった。

「さ、着席しましょう。間もなく演奏が始まるわ。」

水城の用意した席は、ステージ中央、前から12列目。演奏の音が最もよく集まってくる良席だった。

「さすが芸能社ね。こんな良いお席が取れるなんて。」

「任せてちょうだいよ。」

水城は微笑んだ。



開演時間となった。指揮者が袖から出てきて、客席に一礼する。
水城も裕子も、盛んな拍手を舞台に贈った。
指揮者が指揮棒を振り上げた。客席が静かに沈黙する。
指揮者のタクトが上がり、演奏開始。

「メサイヤ」とはヘブライ語で「油を塗られし者」、
つまり、神の国の設立のために主により祝福の油を塗られた王者を示す言葉から派生している。
『メサイヤ』は、3部構成で成り立っている。
第一部はキリストの降誕と生誕の秘義にまつわる部分、
第二部、第三部はそれぞれ、キリストの受難物語と、キリスト教の未来を扱っている。


――『メサイヤ』について説明してみよう。
George Fredric Haendel (1685-1759) 作曲による壮大なオラトリオ(聖譚曲)。
ヘンデルのオラトリオ中の最高傑作であり、現代に至るまでの宗教曲の金字塔とされている。
1741年、オペラ、オラトリオの不成功や健康上の理由から失意のどん底にいたヘンデルのもとに、
時のアイルランド総督ガヴェンディシュとダブリンのフィルハーモニー協会から、ダブリンで予定されていた演奏会用新作の依頼があった。
ヘンデルは旧来の友チャールズ・ジェネンズが、旧・新約両聖書を元に書いた英語の台本により、8月22日から9月14日にかけての
僅か3週間でこの大曲を一気に作曲した。彼はロンドン・ブルック街の自宅に引きこもり、外界からの接触の一切を断って創作に没頭し、
自ら感動の涙を流しながらこの曲を仕上げたと言う。
初演は1741年11月、ダブリン。大成功を遂げた。この演奏会は曲の性格を考慮して行われ、収益は全て慈善団体に寄付された。
ヘンデルはその後も毎年この曲を演奏してはその収入を慈善団体に寄付した。
「MESSIAH」とは計52曲のアリア・合唱曲・管弦楽のみによるパートから成り、<預言と降誕><受難と贖罪><永遠の生命>の三部で
構成されている。通常のオラトリオとは異なり、特定の事件や物語を扱ったものではない。歌詞は全て旧約・新約聖書に基づいており、
ひたすら救世主キリストのみわざを称え崇高に歌い上げ、「救世主・キリスト」を明確に浮き彫りにしている。
曲の中には、救世主待望とキリストの栄光・勝利のみならず、愛と苦悩に満ちた受難の姿も描かれ、さらに、地上の王達の神に対する
反逆や、王の王たる主の賛美も組み込まれ、ドラマティックな歌劇的要素も含まれる極めて変化に富んだ作品となっている。
特に有名な第二部終曲第44曲ハレルヤ・コーラス。
1743年ロンドン初演時当時のイギリス国王ジョージ2世が感動の余り起立して聴き入ったという逸話から、現代に至って、
ハレルヤ・コーラスでは聴衆全員が起立して演奏を聴くのが慣習となっている。――



シンフォニーの序曲が始まった。
神の国の平和を予兆させる、この安寧な序曲を、水城は心から愛していた。
テノールによるレシタティーフとアリアが歌われ、最初の合唱が始まる。

「And the glory of the Lord shall be revealed. …」
『このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者がこれを見る。主の口が語られたからだ。』(イザヤ書第40章5節)

最初の合唱には、水城は特にときめいた。
これから、3時間に及ぶ大曲が始まるのだ。
心浮き立つ、キリスト生誕の物語が、歌で綴られていく。

水城はNO.8のアルトのアリア、NO.12、15の合唱、No.18のソプラノ・アルトの二重唱を特に愛した。

一流の演奏はきっちりと洗練されており、一部の隙もない。
家でCDを聞くのではない、生演奏の舞台と客席の呼吸に、水城は酔った。

(ああ、久しぶりだわ…こんな素敵な夜…。)

水城は陶然と演奏に聴き入った。

第二部が始まる。最初の合唱No.20の荘厳な響きに、水城は心奪われた。

「Behold the Lamb of God,that taketh away the sin of the world.」
フレーズ“Behold ”の、なんという深み。
『見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。』(ヨハネ 1:29)

そして合唱NO.20。水城は第二部では、この曲が特に気に入っている。
「Surely, He hath borne our griefs and carried our sorrows. …」
“Surely”の揃った合唱の、なんという確かさ。水城は鳥肌が立った。
『誠に彼らは我らの悩みを負い、我らの悲しみを担えり。』(イザヤ書 53:4)

粛々と、第二部の演奏が続いていく。

そして、NO.41、テノールのアリアに続いて、この『メサイヤ』の白眉である、ハレルヤコーラスに続く。

慣例に従って、前奏開始とともに、水城も裕子も、椅子から立ち上がった。起立して、壮麗な合唱に聴き入る。

水城は心の中で、合唱とともにハレルヤコーラスを歌った。

『ハレルヤ!全能の主なる神は統べたまえり。この世の国は我らの主と主のキリストの国となれり。』
『彼は世々限りなくこれを治めたまわん。王の王、主の主。ハレルヤ!』(ヨハネ黙示録 11:15 19:16)

鉄槌によって主の栄光が再び地上を照らしたあと、主の栄光の国の訪れが賛美して歌われる。黙示録の聖句が曲調を更に盛り上げる。
楽曲は圧倒的であった。

力量感に満ち満ちたハレルヤコーラスに続く第三部は、よき知らせの広がりと実現を謳った聖パウロの思想に立脚している。
「メサイヤ」到来の預言に始まり、その受肉に頂点を迎えた歌劇の流れは、今や未来にその矛先を向け、
キリストの王国が完全に実現する日を待ち望むのである。

第三部冒頭のソプラノのアリアNO.43の調性は、テノールが曲頭で歌う預言に満ちた待降のアリア、
「慰めよ、我が民を慰めよ」と同じホ長調。
このソプラノアリアは「私は知る、私を贖う者は生きておられる。」という曲の核心をなす部分では、
大切な言葉に高い音と高い音価を与え、それを強調している。
救済に対する静謐な確信が、このオラトリオの終結部の主潮をなしている。

水城は感動に目を潤ませながら、演奏に魅了された。

やがて3時間に渡るこの壮大なオラトリオも、終曲を迎える。
No.51と52の華麗にして荘厳な合唱が、コンサートホールに響き渡った。

「Worthy is the Lamb that was slain,and hath remeeded us to God by his blood,…」
『屠られし神の子羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、讃美を受くるにふさわしい。』
『屠られし神の子羊とみ座に座したもう者に、誉れと栄光と力とが、世々限りなくあるように。』 (ヨハネ黙示録 5:9、12−13)


合唱に心を合わせながら、水城は祈る想いで、演奏を堪能した。

最後の長大な「アーメン」が、まるで、水城のこれまでの人生の一切を肯定してくれているように水城には思え、水城の目頭は熱かった。

夢中で演奏に聴き入っていたが、「ブラヴォ!」の掛け声で、水城は我に帰った。コンサートの終了である。
そして、裕子とともに、ステージに向けて盛大に拍手を贈った。
華やかなアンコールの拍手も長く続いた。



「ああ、素敵だったわねぇ!冴子、素敵なチケット、ありがとう!」

席を立って、裕子が水城に声をかけた。

「あら、どういたしまして。演奏も良かったわね。」


ふたりはその後、銀座まで足を延ばし、裕子が予約を入れておいた松阪牛専門店で、ステーキに舌鼓を打った。
気の置けない旧友との他愛のない会話も弾み、水城には心和むひとときだった。
ふと、水城はマヤと真澄を思った。

(真澄さまも今頃は、きっとマヤちゃんと楽しく過ごされているでしょうね…。)

ステーキ専門店では、予約客専用に、小さなクリスマスリースがお土産として渡された。
ささやかな、嬉しい心遣いだった。

その後、水城と裕子は、裕子の行きつけのバーに立ち寄り、女ふたり、意気投合して、楽しい会話に盛り上がった。
そのバーで、水城と裕子は、お互いにプレゼントを交換した。


時刻も深夜12時を回った。そろそろ、お開きの時間である。

「冴子、今日はありがとう。楽しかったわ。久しぶりに冴子と話せて嬉しかった。」

「私もよ、裕子。今度はいつ会えるかわからないけれど、ぜひその彼氏を紹介してちょうだいね。」

「そんな日が来るといいわね。」

ふたりは晴れやかな笑顔で別れの挨拶を交わし、それぞれタクシーを拾って、帰路についた。




水城はマンションに戻ると、旧友の贈ってくれたプレゼントを開けてみた。
中には、紫色の入浴用のアロマキャンドルが数個入っていた。

(裕子らしい…。)

水城が贈ったプレゼントは、裕子愛用のティファニーの香水。

水城は部屋着に着替えると、バスタプに湯を張り、裕子がくれたキャンドルをバスタブの隅に並べた。
そして、水城はゆっくりと風呂に入った。
キャンドルに点灯する。
キャンドルは浴室に薫り高く香って、水城の神経を柔らかく解していった。

ああ、こんなにのんびりできるのは、いったい何年ぶりかしら…。

水城はバスタブで、思い切り手足を伸ばした。安寧のくつろぎのひとときだった。

水城は湯から上がると、とっておきのバランタイン30年を取り出し、水割りを作った。
ひとり、リビングでグラスを傾け、水城はしみじみと、今日一日を振り返った。
グラスを空けると、水城は寝間着に着替え、寝室に入り、ベッドに潜り込んだ。
やがて安らかな眠りが、水城に訪れた。
深い眠りに、水城は落ちていった。
水城の、イヴの夜。








マンションの扉に鍵をかける。
薄緑のロングコートを羽織って気楽な軽装で、聖は駐車場の愛車に乗り込んだ。
師走の黄昏はすぐそこに迫っていた。
西空がうっすらと茜色に染まっている。
鉛色に鈍く光る夕空も師走らしく、重く垂れ込めていた。

(さて、どこへ行くかな。)

聖は気儘にひとり、車を走らせるつもり。

赤坂インターから聖は首都高に乗り込み、聖は環状線をゆっくり回った。

(鎌倉でも行くか。)

首都高湾岸線から、並木ICで横浜横須賀道路に入り、朝比奈出口で降りて、金沢街道を経由し、車は鎌倉へ。

“When a Man Loves a Woman … ”
時代を超えた渾身の名曲バラード、パーシー・スレッジの「男が女を愛するとき」のソウルフルな歌声を、聖は車で久しぶりに楽しんだ。

When a man loves a woman
Can't keep his mind on nothing else
He'll trade the world
For the good thing he's found

If she's bad he can't see it
She can do no wrong
Turn his back on his best friend
If he put her down

When a man loves a woman
Spend his very last dime
Tryin' to hold on to what he needs

He'd give up all his comfort
Sleep out in the rain
If she said that's the way it ought to be

Well, this man loves a woman
I gave you everything I had
Tryin' to hold on to your precious love
Baby, please don't treat me bad

When a man loves a woman
Down deep in his soul
She can bring him such misery

If she plays him for a fool
He's the last one to know
Lovin' eyes can't ever see

When a man loves a woman
He can do no wrong
He can never own some other girl

Yes when a man loves a woman
I know exactly how he feels
'Cause baby, baby, baby, you're my world ……

男が女を愛するとき
他のことに気を留めていられない
男はこの世界と引き換えにしかねない
見つけたばかりの宝と

たとえ彼女に欠点があっても見えやしない
彼女は完全無欠なのだ
親友にだって背を向ける
もし彼が彼女をこき下ろせば

男が女を愛するとき
これで最後という金を使ってでも
自分が必要なものを放さないようにする

すべての安楽を捨てて
雨の中で寝るかもしれない
もし彼女がそうしろと言うのなら

ここにいる男はある女に惚れている
俺の持っているものはなんでも君にやった
君の大切な愛を手放さないようにしたくて
だからお願いだから冷たくしないでくれ

男が女を愛するとき
魂の奥底で
女が男を惨めにすることだってある

もし女が男を弄んだとしても
男はそれに気付かない
恋は盲目だから

男が女を愛するとき
男は完全無欠
他の女まで手を出すことは決してできない

そう 男が女を愛するときの
男の気持がよくわかる
なぜって君は俺の世界だから……



今の聖には、この歌の真情を気安く楽しむことできる。
今はもう、思い悩む真澄を気遣うことも無くて済むのだから。

(そう、男というものは、こういうものだろうさ。)
(女を愛するならば、こんな風に愛を注ぐのもまた、本望だろう…。)



すっかり日も落ちた鶴ヶ丘八幡宮に聖は車を停めた。眺めるともなく、広々とした境内を眺める。
若いカップル達が、クリスマスイヴのデートを思い思いに楽しんでいる。
そんな光景も、今の聖には何を憂うこともなく、気軽に受け流すことができる。
今は、いい。
今は、自分ひとりで、いい。

境内の茶店で聖は甘酒を買って口にしてみた。
舌先に酒粕の仄かな甘み。日暮れの観光地で、ひとり、何を思い煩うこともなく、寒風に身を晒す。
そして聖は再び車を発進させ、七里ヶ浜に向かった。


路上駐車が並ぶ道路脇に聖は車を寄せた。
海岸に降りてみる気はなかった。ただ、冬の海が眺められればよかった。
七里ヶ浜では波打ち際には、ここにも若い恋人たちの群。グループで遊びに来て、音楽を鳴らしては踊っている若者達もいた。
日も暮れた冬の渚の海岸線は遠く、小暗く、侘びしい眺めにも見えたが今の聖には、その荒涼もまた、風情があった。
そしてふと、聖もまた、真澄を想った。

(今頃はもうすっかり、マヤさまとのひとときを楽しんでおいでに違いない…。)

頬に吹きつける冬の潮風。遠い海岸線に昇ったばかりの三日月。虚空高く煌めく冬の星座。
聖ひとりにとってはこの時はそれらはすべて、気儘で気軽なひとときの慰めであった。

孤独。
それは、聖の唯一の支え。


好きなだけ夜の海を眺め、聖は再び車中の人となって、東京へと戻るひとりのドライブを楽しんだ。





聖は、赤坂の璃弥を訪れていた。
檜のガラリ戸を開ける。
時刻は夜9時。璃弥は開店したばかりで、客はまだ入っていなかった。

「あら、聖さん!いらっしゃいませ!」

女将が明るい声をかける。

「今日は速水さんは?」

「奥様とご一緒ですよ。僕は今日はお役ご免です。」

女将は聖のコートを脱がせ、ハンガーに掛けた。

「ああ、速水さん、ご結婚なさったのよね。」

カウンターで女将は、暖かいおしぼりを聖に手渡し、手早く京焼陶庵の趣味の良い箸置きに輪島塗の男箸、
有田焼小鉢のお通し、と卓に並べていく。

「鬼のいぬ間に大吟醸『真澄』はいかが?」

聖は女将の気遣いに、小さく笑って聖は答えた。

「ああ、いいですね。頂きます。」

いつ来ても、この店は落ち着く。和やかな空間だった。店の外のクリスマスの喧噪が何かの冗談かのようだ。
クリスマスイヴを一人で過ごす聖に、女将は不要な言葉をかけない。
およそ、殺伐とした聖の日常からはかけ離れた情に満ちた空間が、店に入った聖の心に滲み入るように、聖の心を穏やかに解きほぐす。

「さ、どうぞ、聖さん。」

女将は有田焼の盃を聖に手渡すと、徳利から熱燗の吟醸酒を注いだ。

「ありがとう。」

女将が肴をカウンターに並べた。ひらめのエンガワの唐揚げ、ごま豆腐、ジュンサイの酢の物、と小粋に気が利いている、いつもの品だ。

「早いものねぇ。もう今年も終わりですわよ。」

「今年は聖さんにはどんな年でしたの?」

「相変わらずですよ。良くも悪くも。」

「ウチもおかげさまで、無事に年を越せそうですのよ。」

「ご商売繁盛で、何よりですね。」

「お客様は神様ですわ。聖さんも、神様。」

そう言って、女将は明るく笑った。

「ささ、聖さん、冷めないうちにもうひとついかが?」

「ああ、ありがとう。」

聖は盃の2杯目を空けた。そして、料理に箸をつける。

「うん、いつ来ても、女将の料理は旨い。」

「“思ひ回せば小車の 思ひまわせば小車の わづかなりけるうき世かな”」

女将は明るい澄んだ張りのある艶やかな声で、謡曲を謡った。

「ああ、女将、良い声ですね。相変わらずだ。」

「聖さん、偶のおひとりですもの、どうぞ、ゆっくりして下さいな。」

「さあさ、もうひとつどうぞ?」

勧められて、聖は盃をどんどんと空にしていく。益子焼の徳利も2本目に入った。

「“何ともなやのう うき世は風葉の一葉よ”」

「“廻らば廻れ 水車の 川の柳は水にもまるる ふくら雀は竹にもまるる 野辺のすすきは風にもまるる ほろほろほろ はらはらはら”」

女将は寡黙な聖に余計な気を遣わせず、楽しげに謡曲を謡い継いだ。

「あたしもねえ、この商売、長いですけど、それはいろいろありましたよ。」

「そうでしょうね。だが、女将ほどの人だ。きっと何があっても、切り抜けてこられたんでしょう?」

「修羅場もあったんですよ。」

「修羅場?」

「ええ。男と女のね。」

「過ぎてしまえば、みーんな思い出。人生、時間が最大の友人ですわよね。」

「友人…そうですね。」

女将の言葉に誘われて、聖はこの1年をふと、振り返ってみた。
『影』の任務は相変わらずだが、真澄の結婚が、もっとも大きな出来事だった。結婚を境に、マヤとの橋渡しの役目も完全に終わった。
真澄は結婚以来、聖にも輝くような笑顔を見せるようになった。それは、聖にとっても幸福なことではあった。

今頃真澄さまはマヤさまと楽しいひとときを過ごされているだろうか…。

聖が遠い目をして思い耽っているのを、天麩羅を揚げながらさりげなく女将は見つめた。

(こんなにいい男なのに…この人ほど、訳有りのお客さまもいないわ…。)

「聖さん、天麩羅はいかが?」

聖は我に帰った。

「あ、ああ。頂きます。」

「はい、お酒のおかわりも。」

天麩羅は、さっくりと歯ごたえがあり、中身は柔らかく衣はからりとして、実に美味だった。

「旨い酒と旨い料理、いい女。のんびりした時間。僕は幸せ者ですよ。」

「まあ、お上手ね。」

徳利3本目も、聖は空けた。ほどよく酔いが回って、聖の神経も緩やかに和んだ。

「“左右左 左右颯々の なびく返すも 舞の袖”」

ほぐれた聖の神経に、女将の澄んだ謡いの声が、心地よく響く。

「“なにともなやのう 憂きもひととき嬉しきも おもい覚まさば夢そろよ 何しょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ”」

「昔の人は、いいことを言いますね、ねえ、聖さん。」

「一期は夢、か…。」

「ええ、ええ。そうでございますとも。気が付けば、みんな思い出ですわ。」

「女将…。」

「聖さんは憂い顔がお似合いね。でも、笑顔なら、もっと素敵でしょうに。せっかくのいい男が。」

女将のその言葉に、聖は苦笑いした。

「…僕ほど、笑顔に無縁な人間はいませんよ。」

女将は聖のその言葉を、聞かなかった振りをした。
聖は勧められるまま、酒を呷り、料理を口に運んだ。
ゆったりとした時間が、優雅に流れていく。聖にとっては、それは貴重な時間だった。
女将は、まめまめしく膳を設え、聖に酒を勧めた。
時刻は11時。店の女の子が出勤してくる。
聖の目がうつろに泳ぎ始めた。少し、酒を過ごしたようだ。
聖は、俄に眠気を覚えた。カウンターに頬杖をつき、聖は思わず軽いうたた寝に落ちていた。
聖のような男にしては、珍しいことだった。
女将は静かに聖の膳を整え、灰皿を替えた。

12時近くなって、他の客が入ってきた。聖は目を覚ました。
「ああ、女将、済みません。眠ってしまったようだ。」

「いいんですよ。聖さん。お車、呼びましょうか?」

「ああ、頼みます。」

「毎度ありがとうございます。はい、お勘定。」

女将は「舌代」と記された茄子紺染めの絞りの布をあしらった二つ折りのいつもの勘定表を聖に手渡した。
聖は現金で支払いを済ませた。
やがて迎えのタクシーが到着する。

「女将、今日はありがとう。また来ます。」

「ええ、ええ。いつでもお越し下さいな。お待ちしておりますよ。」

女将は聖にコートを着せ、ガラリ戸まで聖を見送った。
聖は店を後にして、呼んだタクシーに乗り込んだ。



車で10分ほどで、聖のマンションに着く。
聖は部屋に帰ると、ガウンに着替え、ソファにごろりと横になった。
そして、テレビをつける。聖の神経の緊張は解け、酔いが心地よく回った。
テレビはクリスマスの街を映し出していた。

(クリスマスか…無縁だな…。)

いつの間に眠ったのか。
軽いうたた寝から覚めて、聖はシャワーを浴びた。
そして、寝室の暖房をつけると、聖はベッドに身を横たえた。

(久しぶりだ…こんなにゆっくりしたのは…。)

やがて、聖は、安らかな眠りに落ちていった。
聖の、イヴの夜。









クリスマス・イヴの夜。
水城も、聖も、ひとり、静かにくつろいで、安らかな夜を過ごしていった。















終わり









2002/12/16

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