353333番記念作: 今回はキリ番リクエストではありませんが、時節柄、ぜひこの題材をと思い、
 書きました。
私のシュミに走りまくっておりまして相済みません〜(^^;ゞ





 真澄がマヤとの婚約を公にして、初めてふたりで迎えるクリスマス・イヴ。
真澄はこの日は、早くから大都芸能の音楽部門担当に依頼し、あるコンサートのチケットを用意させていた。
NHKホール、レナード・オルカ指揮NHK交響楽団演奏、ベートーヴェン『交響曲 第九番 二短調 作品125 合唱』。
合唱・国立(くにたち)音楽大学。



 ずっと以前から、婚約発表したら、マヤとともに一緒に行こうと約束していたコンサートである。
マヤも心から楽しみにしていたコンサート。
マヤは第九を生で聞くのは初めてだった。クラシック音楽のコンサート自体、マヤは初めて足を運ぶ。
マヤは真澄から贈られた黒のベルベットのワンピースに紫のバラのコサージュを飾り、髪をアップに纏め、念入りに化粧して、
真澄の迎えを待った。
マヤのマンションの部屋の電話が鳴る。
“ああ、俺だ。今、マンションの下にいる。降りておいで”
「はい、今行くわ。」

マヤがマンションから出ると、真澄の車が玄関に横付けにされていた。
「やあ、フィアンセ殿。着飾ったな。」
マヤの正装をひと目見て、真澄が微笑んだ。
「似合う?」
マヤは少し含羞んで、そっと上目遣いに真澄を見あげた。
「ああ。上出来だ。さて、行こう。」
マヤを助手席に、真澄は車を発進させた。




  ベートーヴェン(1770−1827)の作曲した9曲の交響曲は、どの1曲をとっても決して相似してはいない。
その中でもこの「第九」は彼の作品中で特異なだけではなく、交響曲史上でもユニークな姿を維持し続け、
その独自の芸術的価値はその後の交響曲史に照らしても少しも色褪せていない。
そもそも純粋な器楽様式の中に声楽を導入したこと自体が革命的であったし、
その試みが初演時にして大成功を博したことも、奇跡的な事実なのである。
  知識欲旺盛な少年として育ったベートーヴェンは18歳半ばになった1798年5月に、ボン大学に聴講生として入学している。
ボン大学はいわゆるライン啓蒙運動の拠点となっており、啓蒙君主の誉れの高かったオーストリアのヨーゼフ2世皇帝を兄に持つ
ケルン選帝侯のマックス・フランツが、前選帝侯の設立したアカデミーを発展的に解消して、ボン大学に昇格させていた。
マックス・フランツは有能な啓蒙思想家や知識人をドイツ中から募って教授に招いた。
テデウス・デレッサーやオイロギウス・シュナイダーといった、当時最も進歩的な思想家として知られた教授を慕って、
多くの優秀な学生たちがドイツ各地からボンにやってきていた。
  ボンの街はアルト・ハイデルベルクの学生街さながらに、ゲーテやシラーの文学を論じ合ったり、
当時流行し始めていたカント哲学の談論が、街のレストランの日常的な光景となっていた。
  ペートーヴェンが入学した時期は、まさにあのフランス大革命勃発の前夜であった。
1789年7月14日の、人民軍によるバスティーユ襲撃を機に人民が蜂起したというニュースは、どこよりも早くボンに伝わってきた。
シュナイダー教授の熱のこもった革命思想に関する臨時講義には、殆どすべての学生が感動した。
この講義をペートーヴェンが直接にせよ間接にせよ、聴いたことは間違いないだろう。
18世紀後半の音楽家で、政治や社会に深い関心を示したのは、ペートーヴェン以外の大作曲家には見られない。
こうした革命精神は、芸術家の創造精神となって、ある意味では不可欠であり、後のペートーヴェン音楽の様々な様式革新に何も影響を与えなかったとは、考えられない。
  一方、直接的な政治思想ではないが、その創造精神において、極めて急進的であったのが、フリードリヒ・シラーであった。
シラーの友人であるB.L.フィッシェニヒが、イエナ大学からポン大学に招かれて、シラーの講義をしたのが1792年であった。
ペートーヴェンはこの講義を聴き、また街のレストランでは、個人的にフィッシェニヒとも知己を得ていた。
このフィッシェニヒが1793年1月26日付のシラー夫人シャルロッテに宛てた手紙が残されており、
「この少年は選帝侯の命により、先日ウィーンのハイドンの元に派遣されたところです。彼はシラーの『歓喜』を作曲しようとしています。
 しかも全節に渡ってです。」
といった記述が見られる。
約30年後に、第九交響曲最終楽章として結実することになるシラーの詩『歓喜に寄す』との最初の出逢いが、
革命思想に関する談論が溢れていたボン時代の大学聴講生時代にあったのである。
  しかし、このシラーの詩との出逢いを「第九」と直接結びつけることはできない。
確かに「第九」の最終楽章主題に似た音形や、この詩への付曲の試みを、30年間の長い創作活動の中に何度か見いだすことが出来る。
しかし、それは、「第九」に限ったことでも、ベートーヴェンに限ったことでもない。
肝腎なことは、交響曲構想として、この詩への付曲を具体的に考え始めた時点にこそあるのだ。
  1813年初春までに「第七」と「第八」の交響曲を完成させていたペートーヴェンは、しばらく交響曲創作からは身を引いている。
1817年にベートーヴェンはロンドンの友人から、ロンドン・フィルハーモニー協会が次の冬のシーズンにロンドンに招待したい、
そのためにも2曲の新しい大交響曲を作曲して貰いたい、という手紙を6月9日付で受け取っている。
しかし、この年のスケッチ帳には作品106の大ピアノソナタ《ハンマークラヴィーア・ソナタ》への着手こそ見られるものの、ひとつとして交響曲のためのスケッチも生まれていない。
この年の暮れから翌1818年前半までに使用していたスケッチ帳の終わりの方にようやく「第九」第1楽章のための、
断片的スケッチが現れてくる。
このスケッチ帳には、「第九」とは別の交響曲の構想が、言葉で記述されている。
そこには、「アダージョの頌歌、交響曲中に教会旋法による頌歌を加える…最終楽章で次第に声楽が加わるように…編成は普通の10倍の大きさで。」といった内容である。
結果的に見れば、1818年段階での、二つの異なる交響曲構想が「第九」という一つの姿に統合されたことになる。
しかし、これら二つの交響曲創作は殆ど進展しないまま1822年秋まで、時が過ぎている。
この間に使われた12種類のスケッチ帳のいずれにも、「第九」関連のスケッチは見られない。
この年間は『ミサ・ソレムニス』と最後の5曲のピアノの大作、すなわ『ディアベリ変奏曲』と『ハンマークラヴィーア』以後の4曲のソナタの創作に充てられていたのである。
  従来、「第九」の創作期を、可能な限り若い時代に溯ろうとすることで、この作品に対するベートーヴェンの思い入れの大きさを見ようとする傾向があったが、実際に作曲した期間は1818年春に着手した経緯はあるものの、実質的創作は1822年暮れから1824年2月中旬までの1年3ヶ月程度であった。
まず第1楽章の主題が1818年(完成6年前)に確立された。
その後、別の色々な作品(晩年の5大ピアノソナタ、「ミサソレムニス」、「ディアベリ変奏曲」など)によって作業が一時的に中断した模様。
更にその後、 1822年頃から作曲を再開し、 1823年の前半(全曲完成の約10か月前)に第1楽章がほぼ現在の形にななり、
第2楽章が1823年8月頃(全曲完成の約6か月前)ほぼ完成し、さらに第3楽章は
1823年の10月頃(全曲完成の約4か月前)にほぼ完成したことがスケッチ帳から読みとれる。
「歓喜の歌」の旋律は、 1822年の夏(全曲完成の約1年半前)頃に初めて冒頭4小節がスケッチ帳に登場する。
終楽章の主題がこのようにまだ確立していない時期、先行する3楽章はおよそ完成していたか、或いは完成の途上にあった。
このことを考えると、「先行する3楽章を否定して第4楽章を導入する」というコンセプトが、作品完成の半年前にはまだ考えられていなかったことが伺われる。
ベートーヴェンはこの時期「第九」の終楽章を、声楽付き(現在知られている形)にしようか、
それとも今までの第1〜第8交響曲と同じように器樂だけの物にしようかと迷っていた。
ベートーヴェンは、現在の合唱付き終楽章以外に純粋に器楽のための終曲も考えていた。
スケッチ楽譜には “Finale instromentale”(器楽の終曲) という注釈がある。
この旋律は、「第九」の終曲を純粋器楽用のものとする場合、そのときのテーマとして用いることを考えていた旋律だった模様。
この旋律は1823年の秋 (「第九」全曲完成の約4〜5か月前) になってもまだ「第九」に関連したスケッチ帳に登場している。
ベートーヴェンは、「第九」完成間際まで、終楽章を純粋器樂にするか声楽付きにするか迷っていた。
現在のように「終楽章の冒頭で前の楽章を否定する」というアイデアは、 1823年の10月末(全曲完成の3〜4か月前)にようやく日の目を見る。
このことから、 「終楽章の冒頭で前の楽章を否定する」というアイデアは「『歓喜の歌』を効果的に導入するためのテクニックとして」作曲の最終段階でようやく思いついたアイデアだ ということがわかる。


  演奏会場の調達や日時の決定に並行して、オーケストラの増強やソリストや合唱団の選出編成などで手間取りながらも、
異例の練習時間も十分にとって、「第九」は1824年5月7日、金曜日の夜、7時から、満員のケルントナートーア劇場で初演された。
黒い礼服が無く、濃い緑色の上着を身につけたベートーヴェンは、4度も、聴衆のアンコールに呼び出され、
しまいには警察官が「静粛に!」と叫ぶほどであった。
当時は皇帝への喝采でさえ、3度までが慣例となっていたにも関わらず、である。
  初演時のスタッフは、総監督・ベートーヴェン、総指揮者・宮廷劇場楽長ウムラウフ、オーケストラ指揮者・シュパンツィヒ。
独唱陣は、ソプラノ・ゾンターク、アルト・ウンガー、テノール・ハイツィンガー、バリトン・ザイベルト。
ヴァイオリン・24、ヴィオラ・10、チェロ・バス・12、管・スコアの倍管編成、合唱は各声部20〜24名であった。





 真澄の車はNHKホールに到着した。駐車場に車を停めると、ふたりは急ぎ足でホールに入る。
ロビーでは、華やかにとりどりの盛装を凝らした人々が楽しげに談笑していた。
開演まで、あと15分ほど。真澄はロビーで一服すると、マヤを促して座席に着席した。
座席はステージ中央、前から15列目。ちょうど、楽器の響きが集まってくる、またとない良席だった。
「マヤ、楽章と楽章の間には、拍手しないように。」
真澄がマヤに念を押す。
マヤはパンフレットの『歓喜に寄す』の訳詞に目を通した。
開演2分前。客席のライトが落とされ、オーケストラがチューニングを始めた。
弦楽器の美しい音色に、マヤは思わず鳥肌が立った。



 やがて、開演。
指揮者が袖から出てくる。
第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの間を泳ぐように、すでに楽想に浸っているようだった。
客席から、盛んな拍手が湧き起こる。
マヤも、懸命に拍手を贈った。
大人数のオーケストラの後ろには、国立音楽大学生達の200名ほどの合唱団が静かに椅子に座して控えていた。
指揮者が指揮台にあがり、オーケストラを一瞥して、指揮棒を上げた。

客席は、水を打ったように静まりかえる。マヤはドキドキと胸が高鳴った。
指揮者が指揮棒を振り下ろし、演奏は始まった。



第一楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソ、二短調、4分の2拍子。ソナタ形式。
ホルンを伴った弦楽器が、静かに属和音の空白5度をトレモロで奏して、神秘的に始まる。
マヤは客席で、思わず真澄の手を握った。
主題に成長してゆく断片的動機が加わる。
クレッシェンドを経て、第17小節目のクライマックスで、初めて第一主題が現れた。
第二主題は変ロ長調。俗に言う「奮闘」の楽章である。
劇的な管弦楽、鋭い緊張を伴った楽曲の激しさに、マヤは思わず息を呑んで、演奏に聴き入った。
胸苦しくなるほどの、楽曲の迫力。マヤは我を忘れた。
音楽は、まるで人の姿のように、激しくマヤに迫った。
空恐ろしいほどの緊張感のうちに、第一楽章は終わり、思わずマヤは深い溜め息をついていた。


第二楽章。モルト・ヴィヴァーチェ、二短調、4分の3拍子。中間部はブレスト、ニ長調、4分の2拍子。
従来の緩徐楽章と入れ替えたこのスケルツォは極めて内容が充実しており、初演時にはこの楽章に対して異例の大拍手が贈られた。
大きくは3部分構成であるが、スケルツォ主部自体がソナタ形式をとっている。トリオ部では管楽器に重点が移る。
俗に言う、「熱狂」の楽章である。
荘厳華麗で、かつ重苦しい痛みを伴う音楽は、マヤの感性にはあまりにも狂熱的だった。

ああ、今年一年、いろいろ苦しかったこともあったわ…。
音楽が、マヤの記憶をまざまざと甦らせる。
演奏は烈しく盛り上がり、あまりにも壮麗な管弦楽にマヤは目眩を覚えた。
真澄の掌が、優しくマヤの手を愛撫する。音楽で揺さぶられた烈しい思いが、そっと慰められる気がマヤにはした。
息を呑んで演奏に聴き入るうちに狂熱の第二楽章は終わり、合唱ソリストが静かに入場してきた。


第三楽章。アダージョ・モルト・エ・カンタービレ、変ロ長調、4分の4拍子〜アンダンテ・モデラート、ニ長調、4分の3拍子。
アダージョ主題とアンダンテ主題が性格的コントラストを持ってロンド形式的に回顧してくるが、回帰の都度、多様に変奏される。
既存の形式には無かった独自の構成を持っている。
俗に言う「愛」の楽章である。
第一、第二楽章の波乱を含んだ烈しい楽曲とは一転して、安らかな安寧の調べが奏でられる。
優美で美しい、アダージョ。優しい、優雅なアンダンテ。マヤは惚れ惚れと聴き入った。
だが、一見、静かで優しい楽曲のどこかに、運命的な狂乱が隠されているようで、マヤは心からくつろぐことは出来なかった。
晩年のベートーヴェンの運命が、楽曲に秘やかに歩み寄っているようだった。
奏でられる旋律は、あまりにも美しく儚く、マヤの瞳は涙に潤んだ。
喜びの涙なのか、悲しみの涙なのか、マヤには判然とはしなかった。
ティンパニが静かに音量を落とし、第三楽章は終わった。


第四楽章。序奏部―ブレスト、二短調、4分の3拍子。主部―アレグロ・アッサイ、二長調、4分の4拍子。
多種多様な形式原理が極めて複雑に、しかし論理的に組み合わされている。
仮に純器楽部を第1部、声楽導入後を第2部とすれば、ここには協奏ソナタ様式の第一提示部と第二提示部の関係も窺える。
第3部・トルコ風行進曲、第4部・教会風音楽、第5部・二重フーガ、第6部・カデンツァ風四重唱、第7部・プレスティシモのコーダ。
第一提示部に、第一楽章から第三楽章までの冒頭主題が順次回想され、それらがすべてチェロ、バスのレシタティーヴォで否定され、
初めて究極的主題「歓喜主題」に至っている。「合唱」と呼ばれる楽章である。
究極に劇的なブレスト、提示部。その劇的なブレストを耳にしてマヤは戦慄に戦いた。
第一提示部では、チェロとコントラバスが、まるで会話をしているような気がマヤにはした。
そして、「歓喜主題」を見つけた時、管弦楽はまるで、本当に「歓喜」しているように、喜びに打ち震えたように、マヤには思えた。
マヤも耳にしたことのある、有名な「歓喜主題」。
「歓喜主題」がコントラバスからチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリン、と移ろっていく。
旋律が繰り返され、肯定されていく過程に、マヤは心から感動していた。
第二提示部では、楽器がまるで、音楽と戦っているように、マヤの目には見えた。
それほど、烈しい、ベートーヴェンの極限の曲想。そう、ペートーヴェンは器楽にも、最大限、限界の演奏を要求していた。
器楽演奏が一瞬の落ち着きをみせた時、合唱団とソリストが、音もなく立ち上がった。
そして、バリトンのソロが始まる。マヤは反射的に総身に、ザッと鳥肌が立った。
「O Freunde, …」
朗々たる、有名な一節。バリトンソロは圧巻の聴き応えであった。
そしてバリトンソロと管弦楽は、まるで対話しているようだ。
やがて、合唱が始まる。
国立音楽大学生による合唱は、若々しい、よく訓練された、一部の隙も無い、揃った見事な合唱であった。
これだけ大人数の合唱を聴くのは、マヤは初めてだった。マヤは圧倒された。
合唱はソロと代わる代わるに盛り上がり、極めて劇的に歌い継いで行く。
そして合唱はそれぞれの声部の最大音域をもってして、フォルテ・フォルテッシモで、最高潮に達した。
マヤは我を忘れて、合唱が導く遥かな境地に浮遊した。
そして始まる、トルコ風行進曲。トライアングルの楽しいリズムに、マヤは浮き浮きと心浮き立った。
若い男声によるよく響く合唱に、マヤは聴き惚れた。
そして、音楽は器楽部に入る。
曲想は厳しく烈しくマヤに迫り、マヤは楽曲に翻弄された。
管弦楽が静かに対話を始め、ボキャブラリー豊富なイントロが奏でられたあとは、パート「M」に入り、
一気に『歓喜』の主題を、力強く合唱が斉唱した。
マヤは感動に打ち震えた。

ああ、生きてきて良かった…!

マヤは生きる喜びに、強く突き動かされた。『歓喜』の主題は、マヤを深い生への喜びに誘った。
そして、合唱は教会風音楽のパートへ。荘重に各パートが重々しく深い主題を奏でる。
合唱が最もその説得力を発揮するパートである。
合唱は重々しく神の世界の真理を歌い上げた。
続いて、華麗な二重フーガ。全合唱曲の中でも壮麗な聴き応えのある二重フーガである。目眩く音楽美に、マヤは心躍った。
そして、第四楽章も終わりに近づく。
ソリストの四重唱カデンツァのあと、合唱は一気にコーダにたたみかけ、音楽はこれまでの最高潮に達した。
マヤは溢れる涙を拭うことも忘れ、終曲に向かう音楽に心を合わせていた。
合唱が高らかに歓喜を謳い尽くし、器楽の全力の演奏が最大スピードでこの偉大なる交響曲のラストを締めた。終曲。

「ブラヴォ!」
掛け声とともに、場内は一斉に大喝采となった。
マヤは真澄に差し出されたハンカチで涙を拭うと、思い切りステージに拍手を贈った。

ああ、ここにじっとしているのが辛いくらいだわ…!

マヤはステージに駆け寄って、指揮者に抱きつきたい衝動に駆られた。
指揮者がコンサートマスターと握手をした。
指揮者が、客席に向かって一礼する。喝采は一際大きくなった。
指揮者とソリストが、一旦袖に引き揚げる。それでも拍手は鳴りやまず、再び指揮者とソリストが登場する。
幾度となくアンコールが繰り返され、最後はオーケストラが席を立って、コンサートは閉会となった。





「どうだった、と、聞くまでもなさそうだな。」
車に乗り込んで、真澄がマヤに声をかけた。
「ああ、本当に素晴らしかったわ!こんな素晴らしい世界があったのね!」
マヤは興奮状態で、しきりに溜め息をついては、素敵、素敵、と繰り返した。
「あたしもあんな風に歌いたいわ!」
「第九、有名なのは知ってたけど、こんなに素晴らしい音楽だったなんて!」
「今日は席も良かったしな。前々から準備しておいて、正解だった。」
「いい音楽は、生で聴くに限る。」
「音楽評論家の吉田秀和が、すべてのクラシック音楽からただ一つ最高の曲を選べと言われて、
バッハの『マタイ受難曲』か『第九』かと迷って、結局『第九』にしたというのは有名な話だ。」
「『第九』って、人の人生そのものなのね!
 いろいろな悲しみや苦しみがあって、それが最後には喜びになっていく…素晴らしいことだわ…!」
マヤの感慨に真澄は大いに満足した。
「マヤ、連れてきて良かったよ。今度はヘンデルの『メサイヤ』に行こう。『メサイヤ』もいいぞ。」
「やはり、音楽は一流のホール、一流の演奏家、一流の客層、一流の客席で、生で聞くのが一番だな。」
マヤはまた一つ、人生の楽しみを真澄によって教えられた。
「あたし…速水さんとこうしていられて、本当に幸せだわ…。」
「マヤの幸せが俺の幸せだよ。」
ふたりはふと眼差しを交わして、慕わしい思いを互いに分かち合った。
貴重な、その瞬間だった。


その後、ふたりは銀座に食事に出かけた。
帰り際、マヤのマンションまで真澄はマヤを送った。
「ねえ、今日はひとりにしないで…。」
マヤが甘えて、真澄に縋った。
「珍しいな、マヤがそんなことを言うなんて。」
真澄は些かの驚きを隠しもせず、マヤに答えた。
「だって…あんな素晴らしいコンサートの後なんだもん。一人で寝るのはいや…。」
「フィアンセ殿のお誘いとあらば、喜んで。」
真澄は笑ってマヤのマンション駐車場に車を停め、その夜はマヤのマンションでふたりで過ごした。




 その夜、マヤは真澄の腕の中で、熱く歓喜に燃え、生きる証、生きる喜びを、真澄と共にした。








『歓喜に寄す』 詩・シラー

おお、友よ、そのような調べではなく!
声を合わせもっと楽しく謳おうではないか、
さらに喜びに溢れる調べで!


歓喜よ、神から発する麗しき閃光よ、
楽園の遣わす美しい娘、
私たちは熱い感動の想いに突き動かされて
気高い歓喜よ、おまえの聖所に歩み入る!
おまえは世のしきたりが冷たく引き裂いた者を
不思議な力で再び結び合わせる
おまえの優しい翼に抱かれると
すべての者は同胞(はらから)となる


心の通じ合う真の友を得るという
困難な望みの叶った者も、
気だての優しい妻を娶ることが出来た者も、
歓喜の想いを、声に出して合わせよ!
そうだ、この広い世の中で、たったひとりでも
心をわかち合える相手がいると言える者もこれに和すのだ!
だが、それが叶わぬ者は、歓喜の仲間から
人知れず惨めに去って行くがいい。


すべての者は自然の懐に抱かれ、
その乳房からは歓喜をいっぱいに飲んでいる。
操正しい者も邪(よこしま)な者も皆すべて
薔薇の香りに誘われて 自然の懐へと入って行く。
自然は私達にくちづけと葡萄と
死の試練をくぐり抜けた友を与えてくれた。
快楽などは、うじ虫に投げ捨ててしまうと、
知と正とを司る天使が、神の前に姿を現す!


歓喜に溢れて、ちょうど満天の星々が
壮大な天の夜空を悠然と巡るように、
同胞よ、おまえたちも与えられた道を歩むのだ。
歓喜に勇み、勝利の大道を歩む英雄のように。


互いに抱き合え、もろびとよ。
全世界の人達と、くちづけを交わし合うのだ!
同胞よ!満天の星々の彼方には
父なる神は必ずや、おわすのだ。
さすれば、おまえ達は、ひれ伏すか、もろびとよ。
この世の者たちよ、おまえを創造した神を崇めるか。
満天の星々の彼方に神を求めよ!
星々の彼方に、神は必ずや、おわしますのだ。









終わり








2002/12/10

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