277777番ゲット・美月様リクエスト:交際を公にしていないという設定で、マヤちゃんに猛アプローチをする男性があらわれる。
  その人は真澄さんのコンプレックスを充分に刺激するものをもっている人で、
  大都グループより遥かに大きい企業グループの御曹司で、経営手腕もなかなかのもので、年齢もマヤちゃんとそんなにも離れていない。
  またこれが一番重要なのですが、両親に愛されて育ったので、愛すること、そして愛されることを素直に表現できる人。
  マヤちゃんもお兄さんを慕うような感情をその人に抱いている。
  真澄さんはどうするのかな?
   結末はユーリさんのお好きなようにお願いいたします。
※ということで、リクエスト通りに参りたいと思います。





 北島マヤによる『紅天女』初演は大成功裡に無事千秋楽を迎え、その年の芸術祭賞を総なめにした。
翌年、『紅天女』は大都劇場で、3ヶ月のロングランが敢行された。
その初日から一週間ほど経ったある日のこと。



 劇場支配人直々の紹介で、終演後、マヤの楽屋に面会があった。
「初めまして。西園寺誠一郎と申します。」
その青年は、真澄と同じくらいの背丈だろうか、すらりと背が高く、颯爽とした風貌も生き生きとした、好青年だった。
「あ…北島マヤです。ご観劇ありがとうございました。」
渡された名刺を見ると、『株式会社東武百貨店代表取締役社長』と肩書きがあった。
およそ世間に疎いマヤだが、マヤとさほど年が変わらないようなのに『社長』であるとは、さすがのマヤも一目置かなければならなかった。
「あなたの紅天女、素晴らしかったですよ。」
「ありがとうございます…。」
およそ讃辞には慣れ始めているマヤは、礼儀正しく礼を述べた。
「特に、一真が記憶をとり戻すきっかけになった瞬間、まさにあなたの姿は天女に見えました。鳥肌が立ちましたよ。」
熱っぽく、青年は語り継ぐ。
「神と仏の恋、クライマックスでは感動して、涙が出ました。」
「まあ、そんな…」
「本当です。あなたの阿古夜はまさしく神女だった…。」
「ああ、実に素晴らしいものを観せてもらいました。ありがとう。」
青年はマヤに握手を求めて、すっと手を差し出した。
マヤは躊躇いがちに、そっとその手をとった。
青年は力強く、マヤの華奢な手を握りしめた。
「あの、よろしければまた観にいらして下さい。」
「もちろんです。日曜にはまた来ます。身体に気をつけて、頑張って下さい。」
「はい。」
「じゃあ、また。」
すっと、マヤの手を離すと、青年はにっこりと微笑んで、真っ直ぐマヤの瞳を見つめた。
なかなかの美男子で、マヤは思わず含羞んだ。


 それから、毎日のように高価な花やプレゼントや手紙が西園寺からマヤに届けられるようになった。
西園寺は毎週日曜のソワレには必ず観劇し、観劇には必ず別組の客を誘い、足繁く楽屋を訪ねてきた。
西園寺の率直な人懐こい暖かみのある笑顔、いかにも育ちの良さそうな物腰、立ち居振る舞いに、
マヤはいつしか心を許し、食事の誘いも受けるようになった。
何より、公演の上客である。マヤとしても、主演女優としてそれなりの接遇は心得なければならなかったこともある。


「マヤちゃん、今日は何が食べたい?」
「この間はステーキだったから…何でもいいです。もうお腹ペコペコ。」
「じゃあ、築地に寿司を食べに行こう。」
知る人ぞ知る、築地の名匠の寿司店に西園寺は運転手つきの車でマヤを連れて行った。
ふたりは並んでカウンターに中央に陣取る。
海老の活け作りに、マヤは驚いて、歓声を上げた。
「きゃぁ、この海老、動いてる!」
寿司飯の上でまだ筋肉を動かす海老に、マヤは思わず西園寺に取り縋った。
「ハハハ、大丈夫だよ。新鮮だろう?食べてごらんよ。」
明るく笑って、西園寺は海老ごと寿司をパクリと口にした。
「うん、美味い。食べてごらん?」
マヤはおそるおそる海老を口にした。
プリプリと歯ごたえも鮮度が高く、さぞ高価なものだと、マヤにも窺われた。
ウニも大トロも、さしも見事な味わいで、マヤはひととき、楽しい食事を満喫した。
「ご馳走さまでした。ああ、もうお腹いっぱいだわ!」
「よく食べるね。さすがは女優さんだ。」
「明日も2回公演なんだろう、遅くならないうちに送ろうね。」
「はい。ありがとうございます。」
待機していた黒塗りの車に乗り込むと、西園寺が言った。
「マヤちゃん、今度の休演日、ディズニーランドに行かないか?」
「ディズニーランド?」
「ああ。天女さまもたまには地上に降りてくるといいと思って。」
「西園寺さん、でも休演日は平日よ、お仕事は?」
「社長が1日休んだところで、組織は普通に動くよ。休みをとるさ。」
「そういうものなの?」
「大丈夫。長い公演だから、たまにはリフレッシュするといいよ。」
(速水さんは休みをとることなんてないんだけど…)
マヤはしばし思い巡らした。
「どうしたの?都合が悪い?」
「あ、いいえ、…」
「よし、じゃあ行こう。10時に迎えに行くから。マンションの玄関で待っていて。いいね?」
「あ…、はい。」
西園寺は若い社長らしく決断が早い。とんとんと話が進み、マヤはすっかり西園寺の調子に乗せられていた。



 月に一度の休演日。マヤがマンションの玄関に降りていくと、10時ちょうどに西園寺の車がマンション前に停車した。
天気の良い秋晴れの日で、湾岸高速を快適に飛ばす車窓の眺めに、マヤは目を見張った。
「いい天気でよかったね。」
「海が綺麗ね。」
東京湾が秋の透明な陽差しを受けて、眩しく輝いている。
「マヤちゃん、ほら、シンデレラ城。」
遠くに見えてきたディズニーランドに、マヤの心もウキウキと浮き立った。
「わぁ、ホント!」
「ディズニーランドは初めて?」
「ええ。西園寺さんは?」
「僕も初めてだよ。僕の留学中に建設されたんでね。」
車は駐車場に待機させ、ふたりは勇んでディズニーランドに入っていった。
パスポートを西園寺が用意し、華麗な入場門をくぐると、そこはウォルト・ディズニーの夢の世界。
ミッキーマウスのパレードにマヤは歓声を上げた。
パレードに見入り、アトラクションに興じ、レストランでひと休みして、またぐるりとアトラクションを巡る。
半日、たっぷり遊ぶと、マヤと西園寺の親密感も、急に増したようだった。

秋の早い日暮れも近づき、西園寺はマヤを伴ってオフィシャルホテルの階上レストランに向かった。
「疲れたかい?」
「ああ、すっかり遊んじゃったわ。夢みたい。」
「舞台の上も夢の世界だが、ウォルト・ディズニーは現実の世界で夢を現実にしようとしたんだよ。」
ライトアップされたシンデレラ城の灯火も煌めく宵のレストランで夕食をとり、マヤはワインの回りも早かった。
「来てよかった。西園寺さん、ありがとう。夢の世界、勉強になったわ。」
「何事も芝居のためになるさ。女優なら感性を磨くことだ。」
「ええ、そうね。」
ワインでほんのりと上気したマヤの頬を見つめながら、西園寺が囁いた。
「マヤちゃん、好きな人はいるの?」
「えっ!?」
「一真役の桜小路くんかな。」
「違うわ!」
あっさりと否定してしまってから、マヤは言葉に詰まった。
紫織の死後積年の想いを叶えて、晴れて結ばれた真澄との仲は、極秘中の極秘だった。
「僕は…マヤちゃんが好きだよ。舞台の上でも、舞台を降りてからも。」
マヤの瞳を真っ直ぐ見つめながら、西園寺が優しく、しかし率直に口にした。
「あの、その…あたしは…」
「なに?」
「西園寺さんのことは、お世話になっているお客様だし、いいお兄さんみたいだなって…」
マヤのその物言いに、西園寺はプッと吹き出した。
「お兄さんか。…僕はマヤちゃんを妹だとは思っていないよ。」
「初めて会ってからまだ2か月しか経っていないんだ。僕は焦らないから。」
「僕のことも、真剣に考えて欲しいんだ。」
「返事はいつまででも待っているから。」
「あの、ええ、あ、いえ…」
ひどくうろたえて曖昧なマヤの態度を鷹揚に気にする風情もなく、西園寺はあくまで誠実だった。
「帰ろうか。明日も2回公演だろう?」
「ええ。西園寺さんには、感謝しています。」
「感謝、か。もうちょっと別の言葉が聞けると嬉しいな。そのうち、ね。」
西園寺は車をホテル玄関に呼び、その日はそれで帰途についた。
帰りの高速道路の夜景に、黙ってマヤは見入っていた。西園寺は紳士であり、マヤに指一本触れようとはしない。
やがて車はマヤのマンションに到着した。
「今日はありがとうございました、西園寺さん。」
「こちらこそ。楽しかったよ。じゃあ、また。」
マヤは車を見送ると、踵を返して部屋に戻った。



(好きだって…言われても……。困ったなぁ…)
存外の西園寺の発言に、マヤは困惑するばかりだった。



 ちょうどその日の夜更け。大都芸能の地下駐車場で、真澄は聖と会っていた。
一通りの通例の調査報告を済ますと、聖が真澄に告げた。
「マヤ様ですが…」
「うん、なんだ?」
「東武百貨店の西園寺氏がこのふた月、マヤ様に急接近している模様です。今日、休演日はディズニーランドへ出かけたとか。」
「なんだって!?」
「東武の西園寺といえば…芙蓉グループの御曹司じゃないのか?」
「はい、真澄さま。西園寺誠一郎。25歳。東大からハーバードのビジネススクールでMBAを取得し、帰国してから急逝した父親に代わって1年間準備期間を設けた後、社長に就任しています。」
「社長就任後は経営改革に手腕を発揮、百貨店を改革して、アジア一の売り場面積を誇る百貨店に変貌させました。連結総資産1兆5千億円。」
「芙蓉グループ、西園寺財閥の長子です。」
「旧華族の家柄で、曾祖父は鉄道王と言われた西園寺嘉一郎氏です。」
「なんでそんな男が…マヤと、だと!?」
「マヤ様とは3歳違い、舞台で見初められたのではないでしょうか。」
「それでマヤの方はどうなんだ。」
「それはなんとも…。」
聖はマヤと真澄の仲を知るごく側近のひとりだった。
「真澄さまご自身で確かめられた方がよろしいかと。」
真澄は苦虫を噛み潰したような渋面で、黙って聖を見やった。
「…おまえはどう思う?」
「マヤ様が、ですか?」
「そうだ。」
「観劇の上客として接遇されていらっしゃるだけでは、と思いますが。主演女優のお立場ですから。」
「…そうだな。いや、判った。マヤとは連絡をとる。いつも済まないな。」
「いえ。あまりマヤ様をお責めになりませんよう…」
「判っている。」
「では、おやすみなさいませ。真澄さま。」
「ああ。ご苦労だった。」
聖は車に乗り込むと、駐車場を後にした。真澄は複雑な胸中で、エレベーターを上がった。



 その夜、深夜も回ろうかという頃。マヤの部屋の電話が鳴った。
「はい。あ、速水さん!」
“遅くに済まないな。もう休んでいたか?”
「ううん、いま寝ようかなと思ってたところ。」
“近日中に逢えないか?体調の良い日を選んで”
「ほんと?嬉しい!公演中は逢ってもらえないかと思ってたの。」
“そのつもりだったが変更だ。”
電話口のマヤの弾んだ嬉しそうな声には、なんの偽りもなさそうだった。
「今週中ならいつでも大丈夫よ。速水さんに合わせる。」
“そうか、じゃあ水曜に、いつものホテルで待っていてくれ。”
「わかった。楽しみにしてる。終演したら真っ直ぐ行っているから。」
“俺もできるだけ早く行く。久しぶりだな。”
「ええ、速水さん。早く逢いたいわ。」
“俺もだ。じゃあ、早く寝むんだぞ。おやすみ。”
「はい、おやすみなさい。」
マヤは電話を切って、胸躍る思いで、ほうっと溜め息をついた。
その夜は独り寝のベッドが、いつになく物寂しく思われた。
真澄の温もりを思い馳せているうち、いつしかマヤは眠りに落ちていた。



休演日明け、ディズニーランドで受けた刺激に、真澄との久しぶりの逢瀬も控え、マヤの阿古夜の恋の演技は冴えに冴えた。
その日の舞台を観た観客は幸運であった。観客の誰もが、マヤの乙女阿古夜に恋をした。


 一方、その日、西園寺誠一郎名義の500万円の小切手が、『紅天女』興業主である大都芸能に、公演支援金として届けられた。
朝一番のアポイントで社長秘書自らが大都芸能に足を運び、小切手は真澄に直接手渡された。
年輩のその秘書は、若い社長の目付役でもあるのだろう。
「弊社社長の志です、どうぞお納め下さいますよう。」
「これはこれは、恐れ入ります。」
「弊社社長が、いたく御社の興業に感服致しまして。今後ともよろしく応援させて頂きたい旨、ご伝言つかまつりました。」
「さようですか。ご厚意、有り難く頂戴致します。主演北島には、ますます鋭意努力させます。
 御社社長どのには今後ともぜひよろしくご贔屓頂けますよう、お伝え下さい。」
社長秘書は慇懃に挨拶すると、真澄の応接室を辞して行った。
真澄はその小切手に、西園寺青年の「本気」を垣間見た気がして、謂われようのない嫉妬に駆られた。
社長室に戻ると、真澄は紳士録のページを繰った。
西園寺財閥、西園寺誠一郎、25歳、か。若造じゃないか。だが、マヤには似合いの年頃かもしれない…。
チリチリと、真澄の胸が焼け焦げる。
応接室を片づけた水城が、社長室に戻った。
「真澄さま、コーヒーをどうぞ。」
「ああ…」
「どうかなさいましたの?」
真澄の浮かない顔に、水城が問い質した。
「水城くん、これを銀行へ頼む。」
水城は渡された小切手の額面を見て、真澄の顔を見あげた。
「ま、大金ですのね。早速行って参りますわ。」
「西園寺、あの西園寺財閥ですの?」
「そうだ。マヤの新しい贔屓筋だ。」
苦々しく真澄が言い放った。
「まあ、マヤちゃんもなかなかやりますわね。」
水城のその一言に、真澄はますます渋面を作って、水城に背を向けた。
(あら、言い過ぎたかしら…)
逃げるが勝ち、と、水城は早々に社長室を後にした。
(社長もマヤちゃんのこととなると、すぐ荒れるんだから…)
水城は、またか、と溜め息をついた。
水城もまた、マヤと真澄の仲を知るごく一握りのうちの一人である。



 約束の夜が来た。
マヤは先にチェックインして、シャワーを使い、真澄の到着を待った。
しばらくして、ドアがノックされる。
マヤは鍵を開けた。
真澄は後ろ手にドアを閉め、鍵を掛けると、ものも言わずマヤを抱きすくめた。そして深く口づける。
「ん…」
煙草と幽かなコロンと真澄の匂いに包まれて、マヤは陶然と口づけを受けた。
長い熱い口づけから解放されると、マヤは真澄の胸に頬を寄せた。
「しばらくだったな。」
「逢いたかった…」
真澄が上着を脱ぐと、マヤはバスルームからバスローブを持ってきた。
真澄が着替える間に、マヤは冷蔵庫からいつものジンライムを取り出し、グラスに注いでテーブルに置いた。
真澄は鞄から書類を取り出すと、ポンとベッドにそれを投げ出した。
「なあに?」
「贔屓筋のバックグラウンドくらい知っておくんだな。西園寺の若造とつき合っているそうじゃないか。」
「つきあってなんかいないわ!あ、仕事のお付き合いはしてるけど…」
「シャワーを浴びてくる。とにかく目を通しておけ。」
有無を言わさぬ真澄の物言いに、マヤはしぶしぶ書類を手に取った。
先日聖が報告した通り、西園寺家の由緒から現在の事業まで、それは詳細に綴られていた。
マヤにはおよそ想像に難い事実の羅列であった。
真澄が髪を拭きながらバスルームから出てきた。
「どうだ。判ったか。西園寺とは、そういう家の御曹司だぞ。」
真澄はマヤと並んでソファに腰を下ろし、ジンライムを口にした。
「芙蓉グループ?」
「日本六代企業グループのひとつだ。三井、三菱、住友、芙蓉、三和、一勧。どれも歴史ある大企業ばかりで構成されるグループだ。」
「西園寺はそのうちの芙蓉集団に属する。西園寺の展開する事業は鉄道、百貨店、ホテル、運輸、輸入、建築、食品、と幅広い。」
「原宿に西園寺美術館、また西園寺育英会を創って中学高校、大学も経営している。」
「西園寺誠一郎は、その本宗家の跡取り息子だ。」
「大都がグループで束になってかかったところで、企業規模はケタ違い、だな。」
昔ながらの皮相な口調で、真澄は語り継いだ。
「見初められて嫁入りできれば、間違いなくきみは日本を代表する企業のトップ夫人になれるぞ。」
「日本でも数少ない上流階級の人間になれる。地位も名誉も、思いのままだ。」
「なんなの?本気で言っているの、速水さん!」
「写真を見たが、なかなか好男子じゃないか。きみと年も近い。」
「誘われて、キスくらいはしたのか?」
「じょ、冗談じゃないわ!」
「西園寺さんは紳士で、いい人よ。お兄さんみたいで、優しくて素直な人だわ…だけど、あたしに指一本だって触れたことなんかない!」
マヤが西園寺を弁護する言い分を聞くと、真澄の瞳がチカリと暗く光った。
「あたしがそんなに簡単に速水さんを裏切るようなことをすると思ってるの!?」
「…口説かれたんじゃないのか?」
「……、好きだ、って言われたわ…」
思わずグイと、真澄はマヤの腕を掴んだ。
「それで、きみは何と言ったんだ!?」
「何も言わない。速水さんのことは秘密だし。」
「痛い、離して。」
マヤは身体ごと真澄から離れた。
掴まれた腕が赤くなり、疼いて痛んだ。
「…マヤ、きみはもうただの北島マヤじゃない。一流の女優、それも『紅天女』の女優なんだ。贔屓筋に口説かれることも、これからもいくらでもあるだろう。
 そのあしらいぐらいは心得ておくんだな。」
平生な口調で真澄は諭したが、真澄の瞳は暗く爛々と光っていた。
「速水さん、妬いてるの?そんな必要、ないのに。」
「いちいち君の贔屓筋に妬いていたんでは、こっちの身がもたんよ。」
真澄は口では否定したが、言葉とは裏腹に、西園寺への嫉妬は、真澄の胸中に吹き荒れていた。
長年の想いが通じてからは、真澄のマヤへの独占欲は強まる一方だった。
「あたしが愛しているのは速水さんだけよ。」
「ならば、証拠を見せて貰おう」
言って、真澄はマヤを軽々と抱き上げると、ベッドに運び、シーツを捲ると、ドサリとマヤの身体をベッドに落とした。
そして、荒々しくマヤにのしかかると、激しい勢いでマヤに口づけた。
真澄はくちびるを離すと、呼吸を乱しながら、嵐のような愛撫をマヤの全身に施した。
マヤの豊かな胸の膨らみを、両手で荒っぽく揉みしだく。
そして頂きの蕾を口に含み、強く吸い上げた。
「あっ…ああ…速水さん、ダメ…痕はつけないで……」
危うく残っている最後の理性で、マヤは懇願した。衣装の早変わりで、肌が露出するからだ。
「判っている!」
嫉妬は、真澄の欲情にいっそう火を点けた。
真澄はその夜、激情に駆られるまま幾度となくマヤに挑み、最後はマヤが気を失うまで、存分にマヤを抱いた。
深夜もはるかに回った頃、ふたりは泥のような眠りに落ちていった。



翌朝、マヤが目覚めると、真澄がすでに起きていて、ちょうどルームサービスで朝食をオーダーしているところだった。
「おはよう。」
「ああ、おはよう。昨夜は済まなかったな。大丈夫か?」
「うん、大丈夫。シャワー浴びてくる。」
マヤは床に落ちていたバスローブを拾うと、さっと身に纏い、バスルームに消えた。
入念にマヤはシャワーを浴び、上がると化粧台で、絡まった長い髪を丁寧に解きほぐした。
昨夜は全身のすみずみまで、真澄の指が這ったのだ。素肌には、まだその感触が残っているようだった。バスタオルの感触が、妙に空々しかった。

マヤがバスルームから出ると、ルームサービスが届いていた。
ふたりは朝食のテーブルを囲んだ。
「今日は2回公演か?」
「そう。夜の部はOMCの貸し切り公演。」
「貸し切りだからといって手を抜くんじゃないぞ。」
「当然だわ。普段通り、精一杯演るわよ。」
スクランブルエッグをつつきながら、マヤはキッパリと言った。
「速水さん、あのね。」
「うん、何だ?」
真澄はすでに朝食を食べ終え、コーヒーに手を伸ばしていた。
「西園寺さんのことだけど…」
真澄はその整った眉を僅かに顰めた。
「あたし、きちんと話をするわ。」
「俺たちのことは内密だぞ。」
「うん。紫のバラの人の話をする。きっと分かってくれると思うの、西園寺さんなら。」
「千秋楽は速水さんも見に来てくれるんでしょう?紹介するわ。紫のバラの人だ、って。」
「西園寺さんなら、秘密は守ってくれると思う。」
「そうか?それならいいが…。」
「だから、速水さんも、あんまり気にしないで。ね?」
真澄は煙草に火を点けた。
「ああ、だがな、マヤ、きみが仕事とはいえ他の男と親しくしているのは、やはり気分が悪いものだ。」
「仕事よ、仕事。お客様は神様なんだから。」
「まあ、な。それはそうだが。」
「あたしは速水さんのものよ。あたしには、速水さんだけ。他の男の人なんて、目に入らない。」
「俺もマヤ、きみだけだ。」
「愛してる?」
「ああ。愛しているよ。」
ふたりは眼差しを交わして、ひととき、微笑み合った。
たとえ誰が立ちはだかろうと、真澄とマヤが築き上げた絆は、ゆらぐことは無かった。
真澄は立って、カーテンを開けた。
皇居の緑が朝日に眩しく映えた。

「俺は先に出社する。チェックアウトは済ませておくから、楽屋入りの時間までゆっくりするといい。」
髭を剃り、着替えを済ますと、真澄は席を立った。
「ありがとう。そうする。」
マヤも立ち上がり、真澄の胸に身体をもたせかけた。
真澄はひととき、想いこめて名残の接吻をした。
マヤも、口づけに応える。
ゆっくりと顔を離すと、晴れやかな笑顔でマヤは真澄を見送った。
「行ってらっしゃい。千秋楽にね。」
「ああ。身体には気をつけるんだぞ。」
「速水さんもね。」
真澄はキリリと精悍な社長の顔に戻ると、部屋を出ていった。
マヤは部屋に残り、ひとり、ひととき物思いに耽った。



その週の日曜日。常のように西園寺が客と連れだって、終演後の楽屋を訪ねてきた。楽屋には西園寺から贈られた胡蝶蘭がズラリと並ぶ。
「マヤちゃん、こちら、東武鉄道の専務ご夫妻だ。」
「ご観劇ありがとうございました。舞台はいかがでした?西園寺社長さまにはいつもご懇意にして頂いております。」
「いや、素晴らしい舞台でしたよ。こんなお嬢さんが演ってらっしゃったとは、驚きだ。」
「とても素敵でしたわ。わたくし観劇はよく致しますけれど、こんなに感動したことはございません。」
「お楽しみ頂けて良かったです。またぜひお運び下さい。」
「ええ、必ず。」
「本日はありがとうございました。」
マヤは深々と頭を下げた。
客は西園寺に先立って、帰途についた。
「マヤちゃん、食事に行こうか。」
「いつもありがとうごさいます。今日は西園寺さんに、ちょっとお話があるんです。」
「おや、珍しい。じゃあ、銀座の座敷のある店がいいかな。」
「はい。お任せします。」
「車で待っているね。あとからおいで。」
「はい。」
マヤは楽屋口で楽屋待ちをしているファンに手を振ると、エレベーターで地下駐車場に降り、西園寺の車に向かった。
運転士が車のドアを開ける。マヤは後部座席に乗り込んだ。
車が発進すると、西園寺が声をかけた。
「今日の舞台、いつもと違ってたね。」
「あら、そうでした?」
通い詰める常連の厳しい目は、さすがに誤魔化せない。
「阿古夜が、なんというか、こう、艶麗で、ぐっと色っぽかった。いつから演技を変えたの?」
「いえ、自分では気がつかないんですけど、そうでしたか?」
「ああ。まるで情事のあとの女のようだった。素敵だったよ。」
「敵わないわ。お見通しなのね。」
「…本当なの?」
「今日のお話、そのことなんです。」
マヤは店につくまで、それきり黙り込んだ。西園寺は黙って、マヤを見つめた。


銀座、「天一」。奥まった座敷に、銀座でも一番の天麩羅料理が運ばれてくる。
「わあ、綺麗な天麩羅!」
「味も確かだよ。食べてごらん。」
「はい、いただきます。」
魚介に海老、とりどりの菜類の色も鮮やかに、見た目もいかにも美しく、一流店ならではの贅を尽くした晩餐だった。
「美味しい!」
「そうだろう?」
サクサクとした薄い衣に歯ごたえのある野菜の味が纏まって、天麩羅は舌にとろけるようだった。
他愛の無い会話で食事が進み、一通り食べ終えると、西園寺は大吟醸を注文した。
盃を傾けながら、西園寺が話の口火を切った。
「マヤちゃん、それで、好きな人って?」
「…紫のバラの人、なんです。」
「え?紫の?」
西園寺は怪訝に聞き咎めた。
「ええ。私の初舞台の時から、ずっと紫のバラを贈って応援してきてくれた人で…。」
「西園寺さんを見込んで、西園寺さんだけに、お話しします。」
マヤは多少緊張しながら、この長年に渡る真澄の存在と支援と、長く苦しかった恋の道程とをこと細かに語った。
「紫のバラの人がいなかったら、今の私はあり得ないんです。『紅天女』を演じることもなかったと思います。」
「…その人がいなかったら、僕もマヤちゃんには逢えなかったわけか。」
「それで、その人とは結婚するの?」
「結婚…、それは判りません…。でも、私にとって、ただ一人の人、なんです。」
「『魂の片割れ』?」
「はい。」
「そうか…。10年近くか。…とても敵わないな。」
「トップシークレットじゃないか。よく話してくれたね。」
「あの、くれぐれもご内密に…」
「僕の仕事柄、僕は口は堅い。安心していいよ。」
「それで、マヤちゃんは、少しでも、僕のことは好き?」
「はい。西園寺さんの誠実なお人柄、尊敬しています。優しいお兄さんみたいで、親しくしていただいて本当に嬉しいです。」
「…判った。マヤちゃんのことは諦める。」
西園寺は潔かった。
「私はこれまで通りお付き合い願えれば、と思っています。」
「そうだね。僕もそうしたい。」
「千秋楽には、紫のバラの人、ご紹介します。」
「え?ほんとに?」
「はい。西園寺さんにはぜひ会っていただきたいんです。」
「光栄だな。楽しみにしているよ。」
マヤは、内心ホッと胸を撫で下ろした。
「遅くなったね。帰ろう。送るよ。」
「はい。ありがとうございます。」
「明日も舞台、頑張って。」
「はい!」
明るく、マヤは頷いた。
西園寺は少し寂しげに、ふっと微笑んだ。



 『紅天女』3ヶ月ロングランも、無事千秋楽を迎えた。
舞台は連日満員御礼、この公演も、成功裡に終えられた。
カーテンコール、舞台挨拶も済み、マヤは楽屋に引き上げた。
やがて真澄が楽屋にやってきた。
「ご苦労だった。よくやったな。いい出来だった。」
「速水さんに誉められるのが一番嬉しいわ。」
素早く真澄は衣装のままのマヤを抱き締めた。
一瞬、マヤは真澄の温もりに包まれて、うっとりと目を閉じた。
「着替えるわね。」
マヤは真澄の腕からするりと身を離すと、被り物を取り、衣装を脱いだ。鏡に向かって、化粧を落とす。
真澄は煙草を燻らせて、マヤの挙動を眺めていた。
マヤが薄化粧し直し、平服に着替え終わると、頃合いを心得たように楽屋のドアがノックされた。
「はい。どうぞ。」
西園寺が花束を持って、楽屋に入ってきた。
「マヤちゃん、千秋楽おめでとう。」
マヤは花束を受け取った。
西園寺は壁に寄りかかって佇む真澄に目を留めた。
「おや、あなたは、大都芸能の…」
「西園寺さん、ご紹介します。私の、紫のバラの人です。」
それを合図に真澄は真っ直ぐ西園寺に歩み寄ると、名刺を差し出した。
西園寺も名刺を取り出し、ふたりは名刺交換した。
「西園寺社長、ご厚意は北島から伺っています。北島へのたゆまぬご支援、心からお礼申しあげます。」
マヤは真澄を見あげた。真澄とマヤはひと刹那、眼差しを交わした。
その風情に西園寺は、立ち入る隙もないふたりの確かな絆を垣間見た気がした。
「速水社長、このたびは素晴らしい舞台、すっかり堪能させていただきました。僕は夢中になりましたよ。」
「それは何よりです。」
「ところで西園寺社長、北島マヤの後援会ですが。」
「はい?」
「昨年より大都芸能で北島マヤの後援会を設けています。一般のファンのかた向けの後援会でしたが、今度、よろしければ西園寺社長に
 会長をお引き受け願えればと、かねて考えておりましたが、いかがですか?」
「西園寺社長のようなかたに会長をお任せできれば、北島には何よりの後ろ盾です。」
真澄は西園寺の懐柔策に出た。
「それは、光栄なことです。僕でお役に立てるのでしたら喜んで!」
「ありがとうございます。今後とも末永く『女優・北島マヤ』をくれぐれもよろしくお引き立てのほどを。」
真澄は西園寺に握手の手を差し出した。
西園寺はその手をとり、ふたりはガッチリと握手を交わした。男ふたりの間に、一瞬、火花が散った。
真澄の手を離すと西園寺はマヤを振り返り、明るく声をかけた。
「マヤちゃん、これからもよろしく!」
「はい、西園寺さん。」
マヤの親密な“内輪”に引き入れられたことで、西園寺はすっかり気を良くしていた。
「これから内輪で打ち上げがあります。西園寺さんもいかがですか?」
真澄は社交辞令で一応の誘いをかけた。
「いや、内々のお集まりでしょうから、僕はご遠慮しますよ。いずれまた、日を改めましょう。」
「後援会の新しい立ち上げも、僕にお任せ下さい。詳細はまた後日。」
「速水さん、お会いできて何よりでした。今後とも宜しく。」
「こちらこそ、よろしく頼みます。」
「じゃあ、マヤちゃん、また。」
「はい。ありがとうございました。」
一通り挨拶を交わすと、足取りも軽く、西園寺は楽屋を辞して行った。



「やれやれ、だな。マヤ、今回のようなことは、これ限りだぞ。」
真澄は念を押した。
「判ってるわ。でも、西園寺さん、いい人でしょ?」
「いかにも、両親に愛されて育った、素直な良いところのお坊ちゃんだ。俺とは大違いだな。」
「今回は相手が良かったから、これで済んだが、マヤ、これからは気をつけるんだぞ。」
「大丈夫よ。私も、もう心得たから。」
「そんなに簡単に安請け合いするものじゃない。世間には色々いるからな。」
「はいはい、重々気をつけます。」
真澄の鋭い眼光に、マヤは首を竦めた。
「さて、千秋楽も終わったことだし、久々に伊豆でゆっくりするか。」
「ほんと?嬉しい!」
「ああ。体調のいい週を連絡してくれ。その週末は空けておくから。」
「判った。楽しみにしてる。」
「ああ。俺もだ。」
「じゃあ、先に打ち上げに行っているからな。あとから来なさい。」
「はい。」
真澄は楽屋から悠然と出ていった。



「千秋楽おめでとう!3ヶ月、ひとりの休演者もなく、みごと舞台を務めたカンパニーに、乾杯!」
真澄の音頭で、打ち上げの乾杯が執り行われた。
出演者、舞台スタッフらと、打ち解けて笑顔を振りまくマヤを目の端で追いながら、真澄はつくづくとマヤを想った。
今回はハラハラさせられたが、所詮、コップの中の嵐のようなものだ。
誰がなんと言い寄ろうと、マヤは俺だけのもの。
決して、マヤを離したりしない。
今までも、そして、いつまでも。

真澄は、改めて、マヤとの絆に思いを馳せた。







終わり





2002/10/6

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