266666番ゲット・ミナ様リクエスト:ズバリ、「真澄さんの初体験もの」をお願いします。
きゃ――…マヤちゃんファンから石投げられちゃうかな〜。
当然、マヤとの遭遇以前のことになると思いますが、何歳の時かとか、相手とか、状況はユーリさんに一切お任せします。
現在のように睡眠不足とお酒とタバコにまみれる前の、お肌もつやつや、ハッとするようなカレの紅顔の美少年ぶりを、
ユーリさんの筆致で読んでみたいのでございますーー。

※ということで、「真澄さんの初体験もの」で参ります。昨年冬に地下で「速水真澄反童貞説・異国夜話」は既出ですが、
それとは別作品としてご理解下さい。尚、タイトル「ゆれる早春」は池田理代子氏の同名の漫画から拝借致しました。
ご注意:「マヤ×真澄」のカップリング以外は受けつけないかたは、お読みにならないで下さいね。
  大抵のガラかめ読者さんは、マヤに自己投影しています。「マヤ×真澄」以外には抵抗がおありかと思います。
 





 速水真澄。17歳。

 慶応初等部に速水家の養子として編入し、昨春付属の中等部を卒業、高等部に進んだ。
義父・英介の徹底した厳格な後継者教育に耐えて成長し、高等部に入ってからは自らも望んで英介の秘書を務めている。
10歳の時、営利誘拐に遭い、英介に冷酷に突き放されて以来、真澄は心を閉ざし、誰を信ずることもなくなった。
唯一の心の拠り所であった母、藤村 文も、英介の紅天女への執着から、結果、命を落とすことになった。
焼け落ちてゆく屋敷の炎の中、紅天女の舞台写真の映像は、真澄の脳裏にしかと焼きついて、消えることは無かった。
紅天女――いつか、俺がすべて奪ってみせよう、義父、英介の総てを。
その日までは…。
目的のためには手段を選ばない。

誰も信じない。誰も愛さない。

目には見えない鋼鉄の鎧を、真澄はいつしか、しっかりと心に纏っていた。



 その日も、下校して出社した真澄は、英介に付いて、会議に出席していた。
オーナー社長のワンマン経営、トップダウン式の命令系統に諄々と媚びへつらう重役達。
社長令息である真澄にも、媚びてくる役員ら。
真澄は内心、そうした大人達を心底、軽侮していた。
少年時独特の潔癖さによるのみではない。
真澄独特の孤独な厭世観は、深く真澄の裡に根を張って、そうそう容易には真っ直ぐ物事を受け止めることを潔しとしない。
純粋な感受性は、孤高の自尊心を生み、常に斜に構えて、真澄は周囲の大人社会を見下していた。
およそその年齢には似つかわしくない厭世観は、常に真澄の念頭にあり、真澄はひたすら、孤独であり続けた。
おのれが孤高でありさえすればいい。
だが、同時に、真澄自身の意志とは別の心の奥底では、その絶望的な鬱屈した孤独から運命的に救われることも、
真澄は渇望してやまなかった。
そのような果てしもなく暗く過ぎてゆく或る日のこと。




 週一回の第二外国語、ドイツ語の選択授業で、大学の文学部の学生が、教育実習にやってきた。
それは、すらりと背の高い女子学生で、「芳賀玲子」と、端麗な字で黒板に板書して、名を記した。
「これから期末テストまで、皆さんを担当します。よろしくね。」
鈴をころがしたような、涼やかな高い澄んだ美しい声をしていた。
いかにも教員を志しそうな知的な顔立ちで、凛として怜悧な雰囲気を持った女子学生だった。
それは目の醒めるような容姿の持ち主で、教室は俄にざわめいた。
慶応高等部は男子校であり、この突然ふってわいたような年上の女性の出現に、教室の生徒たちは俄然色めきたった。
芳賀玲子は22歳。匂い立つような若い女性の生気と色香が、そのしなやかな立ち姿から溢れんばかりだった。
授業の展開も明晰で、ドイツ語の発音も正確この上なく美しく、並々ならぬ知性の持ち主であることが、真澄にも手に取るように伺われた。
ただの美人、というわけではないな。
真澄は玲子を観察しながら、一癖も二癖もありそうだ、と、内心でひとりごちた。真澄独特の鋭い観察眼である。
その初日の授業が終わって、生徒たちがたいした用でもないのに質問で玲子に群がるのを後目に、真澄はひとり、教室をあとにした。



 生徒会の用事を片づけて、会社へ向かおうと迎えの車へ歩いていると、校門で真澄は玲子と鉢合わせた。
真澄は思わず声をかけていた。
「先生、学部ですか?」
「あら、あなたは?」
「ドイツ語の速水です。三田までお送りしましょうか?」
「ま、それはありがとう。さすがは高等部だわね。お迎えつきなのね。」
高等部のある日吉から大学専門課程のある三田までなら、方向は真澄と同じだ。
運転士がドアを開けながら、真澄に尋ねる。
「真澄さま、お連れ様ですか?」
「ああ。三田の大学まで回ってくれ。先生、どうぞ。」
「ではご遠慮なく。」
言って玲子はひらりと後部座席に乗り込んだ。身のこなしも隙がなく、優雅だった。
香水ではない、仄かな甘い香りが、真澄の鼻孔を擽った。
車を発進させると助手席から、朝倉が声をかけた。
「先生、うちの真澄さまはいかがですかね?」
「そうですね、今日だけでは何とも言えません。毎週小テストをしていきますので、結果が私も楽しみですわ。」
「我が社の未来の社長です。先生、よく仕込んでくださいまし。」
「まあ、それはそれは。かしこまりました。速水くん、よく予習してらっしゃいね。」
言うと、玲子はさもありなんと、真澄ににっこりと微笑んで見せた。
その血の通った暖かみのある微笑みに、思わず真澄は息を飲んだ。
望んで大人社会に生きているとはいえ、真澄も相応の年頃の少年なのだ。
玲子のその微笑みは、真澄を、本来の純粋な少年に引き戻すようだった。真澄は我知らず、玲子に見惚れた。
「先生は付属から慶応で?」
朝倉が助手席から尋ねた。その問いで、真澄はハッと我に帰った。
「いえ、慶応は大学からです。中学高校は東洋英和でした。」
ハキハキと、玲子は答える。
「それはまた、優秀でいらっしゃる。ドイツ語で教員免許とは、またお珍しいですな。皆さん、大抵は英語でしょうに。」
「人と同じことは嫌いです。なるべく人と違うことを選んでおりますの。」
やはり…。真澄の観察通り、一筋縄ではいかない、個性の強さだ。
「ほう、しっかりしておいでですのう。」
「真澄さまも学業のかたわら、会社で修行ですわい。」
「お父様を手伝ってらっしゃるのね。」

染めているのではない明るい栗色の長い髪。白人との混血のような、肌の白さ。
間近で見ると、玲子の肌は、透けるようにけぶって白く、陶磁のようになめらかだった。
ほとんど化粧気の無い、清潔感。
外貌だけではなく、玲子の存在感は、真澄の細やかな感性に鋭く深く訴えかける何かを有していた。
それが何なのか、明確に分析できるほどには、真澄はまだ十分には大人ではない。
ただ、玲子の醸し出す雰囲気は、常にはりつめた真澄の神経を心地よく暖かく解きほぐし、
その存在感には、しんと静まった森の奥の人知れない湖のような謐けさと、澄明感があった。
年の近い異性も初めてなら、そのような感覚を覚えさせられるのも、真澄には初めてだった。
いつか知らず、心ざわめき、真澄の心は揺れて、玲子のその存在感に傾きかかった。

「真澄さま、良い先生でよろしゅうございましたな。」
朝倉の呼びかけに、真澄は再度、ハタと我に帰った。
「あ、ああ。」
「しっかりお勉強なされませ。」
「そうだな。先生、来週はテストがあるんですね?」
「ええ。その予定よ。」
「貴重な事前情報だ。僕は満点を取りますよ。」
「ま、頼もしいこと。楽しみにしているわ。」

玲子は、真澄の整った端正な横顔を、ふと見つめた。年より大人びて見えるのは、家庭環境のせいだろうか。
この子は、もしかして同類かもしれない。玲子は思った。
カインの刻印を額に刻んだ、カインの末裔。
信ずるものは己だけ。ひとり、孤独の淵に自らの足で自らの意志で立ち、矜持と揺るぎない自我をもって、敢然と何事をも克服してゆく。
人を寄せつけない雰囲気を漂わせる冷たい横顔の真澄だったが、玲子は真澄の本質をその慧眼で見通していた。

やがて車は三田の慶応大学校舎に到着した。
「ありがとうございました。助かりましたわ。」
朝倉が答えた。
「どういたしまして。では先生、真澄さまをよろしく。」
運転士が開けたドアから、玲子はひらりと立ち上がった。そして、朝倉に一礼した。
「速水くん、じゃあ来週ね。」
「はい。先生。」
真澄も一礼する。
車は玲子が立ち去るのと同時に、大都運輸に向けて発進した。



 翌週の選択授業の時間がきた。
第2外国語は生徒の自由選択で、学年のあちこちのクラスから任意に生徒が集まってきていた。
元来の指導教授は日吉の大学教養学部の教授で、教室の一番後ろに控えて、玲子の教育実習を監督していた。
「Guten Tag !皆さん、予習はしてきましたか。今日は小テストから開始します。」
「ええーー!」
「抜き打ちだぁ!」
クラス中からブーイングが起こる。それを事も無げに受け流すと、玲子はさっさとテストのプリントを教室に配った。
「今日の範囲は人称代名詞の活用変化です。時間は5分間。では、始め!」
優秀で良家の子弟が集まる慶応高等部である。テスト、となると、どの生徒も目の色を変えて真剣だった。
玲子はゆっくり机間巡視していた。
“事前情報”を入手していた真澄は、ものの3分とかからずテストを終え、ひとり顔を上げた。真澄は玲子の後ろ姿を見つめた。
やがて5分が終わる。
「はい、やめ。そこまで。後ろから用紙を集めて。」
「今日の範囲のプリントを配ります。採点の間、自習ね。」
テストの代わりに配られたプリントは、テストの内容を解説し、テスト範囲の理解を深める仕組みの内容になっていた。
玲子は教卓で手早く38人分の小テストの採点をしていく。
「はい、では、テストを返します。満点はひとり。速水真澄くん。」
呼ばれて、真澄は席を立ち、教卓に歩み出た。
玲子と目が合う。真澄は悪戯っぽく、また、誇らしげに、胸を張った。
ほっそりと細身で長身の真澄の姿態。玲子は素早く真澄の全身に目を走らせた。初々しさの漂う、綺麗な少年だった。
そして、我が意を得たりとばかりに、玲子はにっこりと真澄に微笑んで見せた。
真澄の胸が、一瞬、鋭く痛む。
「よくできました。来週もこの調子でね。」
「なんだよ、速水ーー!」
「抜けがけだぞぉ!」
他の生徒がやっかんで冷やかす。真澄は肩をそびやかして、鼻で笑い、着席した。
「小テストは毎週行います。皆さん、よく予習してきてね。」
席順にテスト用紙を裏返しに返却しながら、玲子が指示した。
そして、その日の授業が始まった。

玲子が受け持つ45分間の授業は、他のどの教科にも増して充実し、心が躍り、あっという間に過ぎていくように真澄には思えた。
英介の配下にある真澄の抑圧された日常の日々。
そんな中で、玲子の存在は、一条の光明のようでもあり、一服の清涼剤のようでもあった。
週に一回。真澄には玲子の存在が、無意識の裡に密かに望んでいた孤独からの救いになっていった。


毎週のテストで、真澄は巧みにヤマを張り、クラスでただ一人、連続満点を譲らなかった。
それは、教育者の指導目標を巧みに突いた学習姿勢だった。
“やられたものだわね…”
玲子も、真澄には注目せざるを得なかった。



 移ろう季節は早くも巡り、8回の教育実習も終わりに近づいた。
期末テストも、玲子の手作りである。
真澄は全問正解を目指して、どの教科にも増してドイツ語の勉強に余年がなかった。
期末テストが終わると一週間で夏休みに入り、夏休み2日目に、ドイツ語クラスでも、1泊2日のオリエンテーリングが予定されていた。
玲子も教育実習の総まとめとして、このオリエンテーリングに参加の予定だった。
心おきなくこのオリエンテーリングに参加するためにも、真澄は期末テストには力を入れた。
テストという課題こそは、玲子との貴重なコミニュケーションなのだから。
テストを通じて、真澄は玲子を理解し、玲子もまた、真澄を理解してゆく。そのプロセスこそを真澄は楽しんだ。
教師と生徒という立場ながら、真澄は深く玲子という存在を内部深く捉え、玲子もまた、真澄の内面に通じていった。

試験の結果は、真澄の狙い通り、満点。
玲子は、真澄の成績表に、絶対評価の「10」をつけた。
こうまで完璧についてくる生徒は、玲子にとっても手応え十分だった。
教育実習は、真澄という成功例を収穫として、成功裡に終えられた。



 夏休みは、びっしりと大都での仕事が予定されていたが、真澄は玲子が来るドイツ語のオリエンテーリングには絶対参加する、と、
譲らなかった。
成績表を見せられては、英介も2日の猶予を与えざるを得なかった。



 野辺山高原、慶応高等部付属野辺山山荘寮。
ドイツ語クラスオリエンテーリング。35名が参加した。
教授陣からは、指導教授と助手、それに玲子の3人。
1日目は、高原の野山を巡り、2日目は、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」原典講読。
参加する生徒は、事前に「車輪の下」の日本語訳を読んでくるのが課題だった。
朝6時学校集合、バスで中央道を走り、昼前には山荘に到着した。
生徒は2段ベッドの8人部屋、教員はそれぞれ個室。玲子には、3階の女性専用シャワー付き個室が割り当てられた。
到着して、荷ほどきが済むと、全員が山荘で昼食をとった。
休憩が済むと、抽選で5名のグループを作り、磁石と地図が配られた。
山荘の職員が予め設定した場所を探し当てる、オリエンテーリングである。
玲子のグループと当たらないか、と密かに真澄が望んだが、果たして、見事、真澄は玲子のグループの抽選を引き当てた。
午後一時、グループは一斉に、近くの野山に散っていった。


 ああでもない、こうでもない、と地図と磁石を頼りに、山辺の道を早足で歩く。
「先生、早く早く!」
澄み渡る高原の青空の下、真澄は弾む思いで、紳士然と玲子の手を引いた。
「大丈夫よ、焦らなくっても。その道、左じゃないの?」
「あった!1個目だ!」
仲間の生徒が目印を手に取る。
若者たちの朗らかな笑い声が、高く澄んだ信州の青空に吸いこまれてゆく。
燦々と煌めく初夏の太陽。高原の森を渡る涼やかな風。
玲子の汗からは、麦の穂の香りがした。
来て良かった。真澄は心底、この時間を楽しんでいた。
天地自然のさなか、憧れの女(ひと)と共に過ごす。
真澄は頬を紅潮させ、弾けるように全身で喜びを表現した。
真澄の若さは弾け、玲子の若さもまた、自然のなかで豊潤に解放された。
あめつちのあわい、青春の一刻が、貴重に流れていった。

用意された7つの目印をすべて見つけると、真澄のグループは山荘に戻った。第3位だった。
山の辺に黄昏も近づく頃、オリエンテーリングはすべて終了した。


 それから夕食、入浴、あとは10時の消灯まで自由時間である。
ロビーで談笑する教授陣に生徒のひとりが声をかけた。
「先生、花火、やらない?持ってきてるんだ。」
「おお、いいだろう。職員の人にバケツもらってこい。」
「はい。」
生徒達も三々五々集まってきた。
真澄も玲子の姿を求めて、予習をやめ、部屋を出てやってきた。
山荘の庭先で、花火が興じられた。
「綺麗ね。」
いつの間にか、玲子が真澄の傍らに来ていた。
花火の閃光煌めく火影に仄かに明るく照らし出される玲子の横顔。
真澄は何か、かけがえのないものを見る思いがした。
打ち上げ花火は鋭い音を立てて、山荘の闇の星降る虚空高く消えていく。
花火で遊ぶなど、普段の真澄には全く考えられないことだった。
さらに信じられないことに、
「11時。部屋に来て。渡したい物があるの。鍵を開けておくわ。」
誰にも気取られないよう、ひっそりと玲子が真澄に囁いた。
真澄は黙って、幽かに頷いた。


 花火遊びも終わり、片づけも済んで、指導教授が指示した。
「消灯だぞ。明日はみっちりやるからな。よく寝ておけよ!」
「はーい、はい。」
生徒達は、それぞれの部屋に戻って行った。
朝が早かった上に、午後一杯運動した疲れで、生徒達の寝付きは概して良かった。
ただ、真澄だけは、玲子の言葉が頭の中に響いて、とても眠る気にはなれない。
2段ベッドのカーテンを引き、息を潜めて、真澄は時刻が来るのを待った。



 時間になった。
同室の他の生徒らが寝付いたのを確認して、真澄は音を立てないように部屋を出て、足音も忍びやかに3階の玲子の部屋を目指した。
3階の他の部屋には誰も入室していなかった。
ノックの音も密かに、真澄は玲子の部屋の前に佇んだ。
すぐに玲子が出てきて、真澄を招き入れると、扉に鍵をかけた。
真澄は心臓が口から飛び出しそうな気がした。
「いらっしゃい。」
玲子が婉然と微笑んだ。
シャワーを浴びたばかりらしいバスローブ姿の玲子からは、素肌の甘い香りがした。真澄は軽い眩暈を覚えた。
「これよ。」
玲子はカウチソファの上に置いたそれを手に取った。玲子は真澄の腕をとり、ソファに並んで腰を下ろした。
囁き声で玲子が言った。
「これをあなたにあげるわ。」
真澄の神経は研ぎ澄まされて、物音に酷く敏感になっていた。玲子の声は、実際より何倍も大きく、真澄には聞こえた。
手渡されて、見ると、それは「リルケ詩集」とドイツ語で書かれていた。
ライナー・マリア・リルケの原語詩集と訳本の文庫本だった。
本はよく読み込まれていたようで、真澄の手に柔らかかった。
所々に栞が挟まれており、真澄は訳本の方の栞のページを捲ってみた。
「秋の日」と、詩題があった。
――主よ 時が来ました。過ぎ去った夏はまことに偉大でした。あなたの影を日時計の上に置き、野面に風を吹き放ってください。――
また、別のページを繰ると、
――ほとんどあらゆるものが私を感受へとさし招く すべての転向からそよいでくる囁きがある 思い出せよと
   私たちがよそよそしく素通りした1日が いつかふいに 私たちへの贈り物となる――
と、記されていた。

「先生、これ、大事な物なんじゃないんですか?」
幽かに震える声で、真澄は尋ねた。
「ええ。子どもの頃から愛読していたわ。だから、あなたにあげる。」
「大事にしてくれるわね?」
「…もちろんです。大事にします。」
「明日が終われば、もう逢うこともないでしょうから……あなたに逢えて、わたし嬉しかったわ。」

そうだ、明日を限りに、この怜悧な視線を浴びることも、無くなってしまうのだ。
その事実は、真澄の胸に酷く堪えた。
嫌だ、別れたくはない…!
だが、事実は厳然として、真澄の前に立ちはだかっていた。
一期一会。
そんなことがあろうとは。
まだ若い真澄には、到底理解のできない、その事実。

苦しげに見開いた真澄の眼を、玲子は真っ直ぐに見つめた。
そして、真澄の手から2冊の本を取ると、テーブルに置いた。
「目を閉じて。」
しずやかに、穏やかに、玲子は口にした。
そして、艶やかな真澄の両の頬を掌で包むと、静かに真澄に口づけた。
重なり合う、くちびるとくちびる。
真澄は、咄嗟に何が起こったのか、判らなかった。
だが、玲子の、触れれば溶けてしまいそうな柔らかなくちびるの感触が、それが接吻だ、と告げていた。
夢中で、真澄は玲子を抱き締めていた。
そして、突き上げるような烈しい激情に駆られるまま、玲子のくちびるを貪った。


 どれほどの間そうしていたのか。
まるで一瞬のことのようにも、永遠に続く時間のようにも、真澄には思えた。
荒い息を弾ませて、真澄はそっと、ゆっくりと、くちびるを離した。
ひと刹那、ふたりは見つめ合った。
つと、玲子は立ち上がると、部屋の灯りを消した。そして、ベッドサイドランプの明かりを絞った。
玲子は真澄の腕を取ると、真澄を連れてベッドへ歩み寄った。
真澄は夢を見ているような気がした。とても現実のこととは思えない。
毛布を捲ると、玲子はベッドに横になり、真澄の腕を引き寄せた。そして、その美しい声で、甘く真澄に囁いた。
「……抱いて。」
その囁きで、真澄の内部で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
真澄は素早く玲子に覆い被さると、本能の赴くまま、激情の赴くまま、玲子を求めていった。


 深く玲子に口づけながら、真澄はもどかしく玲子のバスローブを剥ぎ取った。
薄暗がりに、仄白く玲子の裸体が浮かび上がる。
真澄は急いて自らの寝間着を脱ぎ捨て、全裸になった。
少しひんやりとした玲子の素肌に、真澄の若い肌が熱い。
真澄の裸体はすらりと若々しく、ナイフのような、若枝のような、両の腕(かいな)で、玲子を熱く抱き締める。
全裸の肌を重ねると、逞しい真澄の腕の中で、玲子はあまりにも脆く、儚い姿態だった。
真澄のどこかが、ひどく切なく、そして甘かった。
初めて目にする、女性の裸体。
それは真澄にはあまりにも蠱惑的で、初めて覚える途方もない熱情をいざなった。
夢中で真澄は玲子の乳房をまさぐった。
若い玲子の乳房の豊かな弾力。真澄の掌を柔らかく押し返す。
淡く色づいた乳霞は上向いて真澄のくちびるを誘う。
真澄がそれを口に含むと、玲子のくちびるから熱い溜め息が漏れた。
その溜め息は、真澄の欲情をいっそうに駆り立てた。
遠い記憶の幼な子のように、真澄は玲子の乳房に顔をうずめた。
臈たけた真白い両の乳房は、まるで何かの奇跡のように、真澄には思えた。

誰もがこうして、男と女の性の境で、唯一の通過儀礼を乗り越えていくのだろうか。

真澄は熱情こめて、玲子の乳房を愛撫した。
そして、細く括れた玲子の脇腹に、すっと指を滑らせる。
玲子の肌は真澄の指に吸いついてくるようだった。
こうした肌は、男の欲をひどくそそる。
真澄のしなやかな腕の中で、あえかに玲子は喘いだ。
そして、真澄は沸騰する欲情のまま、玲子の躰の上で腰を蠢かした。
本能が、玲子との結合を求めていた。
だが、霧の中で道を見失った人のように、真澄は当惑していた。
「…場所が…わからない……」
「…手をかして。」
玲子は囁いて、真澄の高ぶりに手を添え、自らの躰の入り口に、真澄を導いた。
真澄の若い高ぶりが、玲子の躰に潜り込んだ。
「そう…そのまま、来て、ゆっくり…」
玲子の女はすでに潤い、柔らかく真澄を受け入れた。
まごうかた無く、この時ふたりは、結ばれた。
「あっ……」
真澄は腰を進めながら、初めて己の高ぶりに感じた女性の内壁の感触に、総身に戦慄が奔った。
危うく達しそうになるのを、真澄は歯を食いしばって耐えた。
真澄の頬は紅潮し、吐息はひどく乱れた。
真澄を躰に受け入れて、玲子は真澄のすべらかな背中に腕を回した。
真澄の裡で目覚めた男の本性にひたすらに真澄は従い、真澄は烈しく素早い律動を玲子の躰に繰り返した。
目眩く快楽が、真澄を襲う。
「あ…ああ…!」
真澄は我知らず声を上げていた。
玲子はきつく真澄を締め上げて、真澄を導いた。絶頂へ。
玲子の内部で真澄はいっそう硬く巨きく変化し、えもいえぬ快楽の頂上を迎えていた。
「はぁっ!あぁぁっ!」
真澄は玲子の躰の奥深く、初めての絶頂を迸らせた。


この夜、少年は、男になった。


高ぶる感情のまま、真澄は玲子をきつく抱き締めた。
玲子はそっと、真澄の柔らかい頬に口づけた。
甘やかな安らぎが、真澄の胸に広がった。


 ようよう真澄の呼吸が整う頃、玲子はするりと真澄の腕から体を離した。
そして、真澄の腕枕に、柔らかく身を寄せた。
ほうっ、と、真澄が溜め息を漏らす。

「どうかした?」
「え、ああ、…女の人の腕が胸の上にあるって、いいなぁ、って…」
なんとも初々しい物言いに、玲子はフッと微笑んだ。
「シャワーを浴びてくるわ。」
玲子は言うと、ひらりと身軽に身を起こし、浴室に消えた。
真澄はまだ夢見心地だったが、ひとりになると、急に、世界中からただ一人見放されたような、深い孤独感に俄に襲われた。
その孤独感こそ、ひとりの自立した男として男が女を求める時、常に存在する感覚である。
真澄は感慨も深かった。

じきに手早くシャワーを済ませた玲子が浴室から出てきた。
「あなたも浴びてらっしゃい。バスタオルは使っていないから。」
玲子に促されて、真澄も浴室に向かった。
玲子の肌の香りを洗い流してしまうのは惜しい気がしたが、真澄は汗を洗い、清潔な皮膚でベッドに戻った。
真澄が体を横たえると、玲子は真澄に身を寄せた。
けぶるように香り立つ仄かな玲子の香りがした。

「先生…?」
「なあに?」
「恋人はいないんですか?」
「いないと思うの?」
「いや…そんな…」
「いるわ。」
あっさりとした肯定に、真澄の胸がチクリと痛んだ。
「結婚するなら、サルトルとボーヴォワールのように、って、子どもの頃からの信念だったの。」
「今の相手は、まさに私のサルトルよ。『契約結婚』しているわ。サルトル達のように。」
「お互いに相手だけに縛られるのではなくて、私たちは互いに自由よ。でも、ただひとりの人は、彼だけ、なの。」
「彼にとっても、私だけが唯一無二の女よ。他に愛人がいたとしても、ね。」
「サルトルとボーヴォワールは、生涯、魂を分かち合ったわ。私も、そういう人生でありたいと思っているの。」
「もう、そんな人がいるなんて、羨ましい…」
「あなたも、いずれきっと、いつか出会うわ。生涯、魂を分かち合う、ただ一人の女性に。」
「…想像も出来ないな。」
「運命は定められているわ。人間業を越えた処でのことよ。抗う必要はないわ。」
「そのことを、覚えていて。いつか、あなただけの女性が現れた時に。」

 やさしく囁く玲子の語り口と肌の温もりに、真澄はいつかしら微睡みを覚え、すうっと深い眠りに落ちていった。
玲子は真澄が眠りに落ちると、真澄から身を離し、玲子もまた微睡んでいった。



 翌、早朝、玲子は真澄を起こし、身支度を整えさせ、本を渡して、部屋に帰した。
何事も無かったかのように、オリエンテーリングの2日目は過ぎ、帰りのバスでは、真澄は熟睡していた。




 夕刻、バスは高等部校舎に到着し、バスを降りた生徒たちのひと群れは、玲子に握手を求めていた。
なにくわぬ風情で、真澄もその群れに加わった。
「先生、さようなら。」
「先生、お元気で。」
真澄の順番が来ると、玲子と真澄は、一際意味深い、強い視線を束の間の一瞬、交わした。
「先生、どうかお元気で。」
「ありがとう。あなたもね。いい社長さんになってね。」
「はい。…さようなら。」
「さよなら。」
真澄は後ろ髪を引かれる思いを意志で振り切って、踵を返した。
“さようなら、僕の、ひと……”

朝倉が、車で迎えに出ていた。
「真澄さま、合宿は楽しゅうございましたか。」
「ああ。行って良かったよ。」

真澄は帰りの車の中で、玲子から譲り受けたリルケ詩集をひもといた。
栞のはさんであったページを開く。
そのページには、次のように記されていた。


これが私の戦いだ
憧憬に身を清め 日々を貫き進むことが。
それから強くしっかり幾千の根をはって
生に深く喰い入ることが。
そして苦しみを通して成熟し、
はるかに生から立ちいでることが。
はるかに時間から立ちいでることが。


自分に打ち克つことなど究極のことではない
どんなに苦しいこと 腹の立つことにも
最後には私たちを包んでくれるあの穏やかもの
優しいものを感じとるような
そういう中心から静かに愛することこそ
究極のことなのだ


真澄は、玲子の鈴をころがしたような美しい声が、ひとりそれを朗々と朗読するのを耳にしたような気がした。

――覚えていて。いつか出会うわ。生涯、魂を分かち合う、ただ一人の女性に。――



 玲子との出会いと別れによって、真澄のゆれる早春の少年期は終わりを告げた。
そして、真澄は、いまだ知らない。自分が果たして誰と出会うのかを。






終わり






2002/9/16

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO