寄稿あるファンからの恋文

リヤ様

〜ユーリ氏の地下作品に寄せて〜


 初めてユーリ氏の作品を読ませてもらって以来、かれこれ8ヶ月が過ぎようとしている。
掲示板ではどうしても、流麗な、美麗なという形容詞で感想を終わらせてしまい、申し訳ないと感じている。
これほどまでに多くのファンを惹きつけてやまないユーリマジックはいったいどこに潜んでいるのだろう。
一度きちんと考えて見ようと思い立ちキーボードに向かった。
 これは一ファンから作者へのラブレターである。思い込みや見当違いもあるだろうが、どうか笑って見過ごして欲しい。

 彼女がよく口にする「美学」とはどこにあるのか。
 まず、感じられるのは徹底的な語句・語彙へのこだわりである。
自分の世界の調和を乱す語彙は使うまいとするかたくななまでの姿勢が感じられる。使用される語句の感覚の統一によって、
書かれている内容は濃厚な性愛の場面のはずが、読み手にとっては限りなく雅文に近いイメージを受けるのは筆者だけではないだろう。優雅な古語によって綴られた18禁小説…そんなものが存在するとしたら、まさしくそれがユーリ作品だろう。
 ご本人から以前、三島由紀夫や森茉莉が好きだと言うことを伺っていたが、漢字の多用や、雅語の使用は確かにその影響が感じられる。しかし、彼女の作品を読み重ねていくと、単なる真似ではない、確立したユーリ流文体が浮かび上がってくる。…クリックをする。モニター上に文字が浮かび上がる。その瞬間がユーリ文学の真骨頂だ。彼女の文体は、その文字面(もじづら)を目で追ってこそ、さらに完成するのだ。普段の会話の中ではほとんど用いられることのない言葉の数々。それらがきらびやかな綴れ織りのように織り込まれ、星が輝くが如くあちらこちらで小さな火花を散らしている。聞けば聖書からの引用もあるという。重厚で典雅で、燃え上がる中にどこかしらひやっと冷たいものを感じさせるその文章は、決して読み手に優しいものではないし、どちらかと言えば読者をして拒まれているのではないかと思わせる時さえある文体だ。
筆者としては、その文体に惚れて、精一杯褒めまくっているつもりだが、その思いが果たして伝わっているだろうか。
 本人は「18禁作家」と笑っておっしゃるが、彼女の描く性愛シーンは、暗闇の中、ひたすらな祈りの声が聞こえてくるようだ。彼女の描く性は、深い深淵への入り口であり、さらにその奥を眺めやると、私には「死」のイメージすら幻視してしまいそうになる。
 なぜそう感じるのか。その人物達が、それぞれの限界まで苦痛(フィジカルなものだけとは限らないが)を忍び、そのカタストロフとして性の解放が描かれているからだと思う。最高の快感は、最大の苦痛を忍んだ後に初めて味わえるもの、最大の苦痛とは、常に死と隣り合わせの存在たりえよう。たとえ、登場人物が思いの丈を込めて愛し合い、その愛が未来に繋がるものだとしても、…ユーリ作品には、どうしても滅びの香りがつきまとう。
 もちろんこれは筆者個人の受け止め方であって、それには素直に肯けない方もいるだろう。また、その作品個々の世界により同じ18禁作品と言えども、味わいの違いもある。しかし、総じてユーリ作品として一括して捉えたときに、「血の花を散ら」したヒロインの傍らで「死んだように眠る男」というキーワードは、やはりユーリ氏の描く「性」は限りなく「死」と背中合わせの存在としか私には思えないのだ。
 ここで話が前後するが、古来、日本人は「性」は「生」と考え、男女の結びつきは豊穣・多産の象徴であり、農耕行事や神社のご神体などに、なんら恥ずべきものではなく高らかに大勢の人々によって寿(ことほ)ぎされるものとして存在していた。それゆえに、春画は「勝絵」「笑い絵」とも称され、出征兵士の守りや花嫁の密かな道具として人々に愛玩されたのだ。また、ある意味でキリスト教的処女信仰の全くなかった日本では、ルイスフロイスが「この国では、女子が平気で出歩く。処女性を重んじない」と驚いているように、非常におおらかで素朴とも言える性的土壌を持っている国であった。
 葛飾北斎という著名な浮世絵師がいる。彼も他の浮世絵師と同じく数多くの春画をものしたが、彼の春画はある意味で笑える。見ていると本当に楽しくなって、声を出して笑い出しそうになるのだ。それは何故か。答えは北斎自らが書き込んだ、その文章いわゆる「詞書き」にある。それこそ自由闊達に、その擬音を、セリフを、画面余白のスペースがなくなるまでに書き込んでいる。
「海女と大蛸」という有名な作品がある。海辺で大蛸が美人の海女さんを襲うという一場面ものだ。蛸と海女のセリフが間断なく続く。〜〜(蛸)いつぞはいつぞはとねらいすましてきたかいがあった。(海女)おくのこつぼのくちをすわれるのははずんでアア、エエ、モウ、いぼで、ソレ、いぼで、どうするのだ、いい、いい、はあ、はあ、まただよう、どうしてえ、(蛸)なんと八ほんのうでのあんばいはどうだ、ジュウジュウ、チュウチュウ〜〜写していて、やはりまた、笑いがこみ上げてきた。この状態でまだまださらに続くのだ。これでは精神的な結びつきなど想像もできまい。18禁作品の中であまりに多用されるオノマトペの連続は、私にとってはリアルな想像を呼び起こす作用よりも、この浮世絵のようにあんまりな絵空事としてどうしても受け入れがたいものとなる。
その点において、ユーリ氏の文体を考えてみよう。けっして使わないわけではないが、必要最小限の場面でオノマトペ(擬態語)、あるいは人物の喃語(喘ぎ声)が用いられる。どちらかといえば、他の18禁作品よりも押さえ気味だろうか。だからこそ、効果的であり、読み手の心に響いてくるのだ。
 日本では、男女の性交は楽しみであり、レジャーであり、時にはコミュニケーションのツールであった時代。私は、主に江戸期以前のことを念頭に置いて、この文をものしたつもりだが、これは見方を変えれば「平成の今」そのものではないのか。
 北斎の春画、それはそれでいいのである。それを否定するつもりで引き合いに出したのではない。古来のおおらかな「性」の世界を感じさせる江戸の浮世絵を、あるときは楽しんで、またある時はその屈折した精神を恐る恐るのぞき込む私がいる。
しかし、「今」「現代」という時代。携帯メールで「今日、Hしない?」と書き送る感覚。まるでスポーツか何かのような、セックスシーン。私たちが読みたい文章はそれではあるまい。すくなくとも、こういうネットという新しいメディアを得て、筆者が読みたいと思っているのは、コンビニのレディスコミックの告白コーナーに載っているような文章ではないのである。
ユーリ流文章、それは敢えて誤りを恐れず言い切るならば「反日本的」「反風土的」な文章であり、彼女の信仰と関係するのかどうか明言できないが、キリスト教的禁欲主義的(その意義をしっかり理解して使っているとは言えないのが恥ずかしい)という言葉が脳裏によぎるような、ストイックな厳しさをも感じさせる求道的な文体である。

 今後も、ユーリ氏には18禁に限らず、私たちに華麗なユーリ作品を披露し続けて欲しいという手前勝手な欲望がある。しかし、文章のみで世界を作るというのは厳しく険しい作業であろう。
どうか体調を保ちながら、我らお馬鹿なユーリファンに、今後も夢を与えていって欲しいものだ。竜頭蛇尾になってしまった気がするが、これからのさらなる活躍を祈ることでこの駄文の終わりを飾ろう。



おまけ(はあと)
これから、どんな作品が続くのかファンの立場で考えてみたい。

ガラかめ地下シリーズ
ついに結婚した真澄とマヤ。地下シリーズでは、マヤが性技の前に嗜むワインのようにさらに熟成していって欲しいものだ。
「結婚」…夢見る少女にとっては、憧れであり恋愛のゴールであろう。しかし、私たちの年代は知っている。それが、「永遠の日常」の始まりかもしれないことを。望月がやがて細るようなことが二人の間にあるのだろうか…そのようなことはないと信じたい。真澄は相変わらず忙しい日々だろうし、マヤも女優として日々新たな挑戦が続くのだろう。真澄氏のジェラシーぶりが決して「永遠の日常」など来させないのでは。(笑)

レオユリシリーズ
個人的には、今一番楽しみにしているのがこれ。なぜなら、作者が今一番熱いであろうと思われるから。そして私も一番熱いから。
北沢氏の「森」シリーズもまさしく、彼女の祈りが伝わってくる。ユリウスを全てレオニードの力で絡め取って、彼女の空白を埋め尽くしてあげたいという祈りにも似た思い。
ユーリさんのレオユリシリーズは、今後どのようになっていくのだろうか。やはり、窓の運命からは逃れられない二人なのかしら。でも、もうちょっとだけ、ユーリさん描くところのユスーポフ邸の二人が見たいと思う私であった。


2002/1/15



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