乱れた髪

written by かつみぱぱ様











寒かった冬も終わり、梅を押しのけるように桜の開花が始まった…

春は、何か新しい事が始まる予感を運んでくれる…

春一番は、髪を乱れさせ、同時に心も乱れさせる…





ACT1


春の早朝…大都芸能社長室はまだ眠りから覚めていなかった。

ただ一人、速水真澄は、2枚のスナップ写真をデスクに並べていた。

そして、そのデスクの上には、今朝発売され、日本中で話題になるであろう週刊誌も
無造作に置かれていた…

”北島マヤ試演稽古中に号泣”

”姫川亜弓、北島のお株を奪う神秘の演技”

”北島マヤは、レース脱落?”

”姫川、謎の暗闇での特訓”

週刊誌では、連日紅天女の様子を伝えていた。

姫川亜弓の演技は順調な仕上がりを見せていた。
何か問題があるとすれば、一部の報道で噂になっている、定期的な総合病院への通院くらいである。
但し、仕上がりからは、どこか悪いとは全く思えないので、インタビュー通り単なる定期検査だろう。

一方の北島マヤは、桜小路との演技で、うまくいったかと思うと急に泣き出したり、
台詞に感情がはいらず演技が成り立たなくなるという、この時期に来てまた演技者として
危機的な状況に陥っていた。

真澄は、週刊誌には目もくれずに、スナップ写真を1枚手にとった。

あの懐かしい、梅の谷で行われた試演の時のスナップだった。

マヤ、亜弓、月影、そして麗を始めとする劇団月影の元メンバー、一角獣たちが笑みを浮かべて
並んでいた…

「マヤ、あのとき、初めて魂のかたわれを君に感じた…」

一瞬、真澄は、うっすらと微笑んだ夢を見ているような表情を見せた…



そして、真澄は、もう1枚を手にとった…

それは、ナイトクルーズでマヤと真澄が甲板で二人並んで写っているスナップだった…

風でマヤの髪は乱れていたが、その表情は本当に嬉しそうだった。

満面の笑み…生き生きとしていた。

そして隣で写っている真澄も眩しい笑顔だった…

それは、速水家に来る前の、幼い少年時代の真澄だった…



「…情熱に溢れた瞳…君は魅力的だった…なのに、なぜ…君はどうしてしまったのだ…

 あのときに戻れるものなら、どんなに嬉しいか…」

そう呟くと、真澄の瞳は暗く沈んでいった…

「…伊豆の別荘から突然なくなってしまったアルバム…

そして、マヤの元に送り返されてしまったアルバム…

あれからもう一度、マヤは聖に渡し、今はあの引き出しに封印されている…

それ以来、マヤの紅天女の稽古はおかしくなってしまった…

…それは、あの人の罠…だった…

俺は、君のアルバムを見られてしまった…あの人に…」




「…また、俺のせい…か…」

真澄は明るくなってきたオフィス街を見つめた。

「…このままでは、マヤは紅天女を演じることはできない…」

そう真澄は呟くと、今度はデスクにある週刊誌の表紙を見つめた。

その後、今度はマヤのスナップ写真を身じろぎせずじっと見つめた。

1時間程経過してしまった…

やがて水城が出社する朝6時になろうとしていた…

その時、真澄は、おもむろにデスクの受話器をとった。

一度呼び出し、すぐに電話を切った…

そして、もう一度電話をかけて、2つコール鳴ったところで、また電話を切った…

すると、まもなく、真澄の携帯が鳴った。

真澄は携帯を開くと偽名を名乗った。

「…もしもし、藤木だ…」

「…真澄様…!…ご無沙汰しております、とても…御用でございますか」

「…ああ…半年振りだな、この電話で話しをするのも…
 今度の土曜、急なのだが君に頼みがある…会えないだろうか…」

「…はい、了解しました…またこうして真澄様のお手伝いをできるのは、嬉しいことでございます。」

「…すまないな…」

「…ただ、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、言ってくれ」

「ありがとうございます…頼みというのは、どのような…」

「…それは…紫の薔薇だ。」

真澄は、強い語気で言った。

「…!…わかりました。必ず参ります。電話は盗聴の恐れがありますので詳細はメールにて…
 それでは」

「…ああ、待っている。」

そう言うと、真澄は電話を切った…

真澄は行動を起こそうとしていた。

「…マヤ…以前にも、同じように君のやる気を奮い立たせようとしたが駄目だった…

 あの人や、君のお母さんのこと、そして、俺の義父と母のこと…もう、いい…あとで考える。

 マヤ、もう俺にできることは、ひとつしかない…時間がもうあまりないのだ…

 悲しみよりは、怒りの方がましだと思ってきた…だが、その考えは捨てる…

 俺ができること…君に紫の薔薇の真実を話すことだけだ。俺の紅天女との過去も…」

真澄は、マヤの演技への復活を賭けて、マヤと再び会う決心をしたのだった。紫の薔薇の人として…



ただ…そこには大きな誤算が存在していた…

真澄は、その誤算に気がつかないまま、真新しいアルバムに2枚の写真を差しこんだ…





ACT2


「紫織さん?…鷹宮紫織さんだね?」

「ええ。」

「ああ、会えて良かった!君がこんなところに来るなんて、奇跡に近いよ」

都心のホテルで、紫織は大学生時代の友人の結婚式の二次会のパーティーに顔を出していた。

「ああ、あなたは、清水さん、お懐かしいですわ」

「そのしゃべりかた、相変わらずだね…でも、君が大学時代の集まりに出るなんて初めてじゃないかな」

「そうですわね…」

「一体、どうしたんだい、鷹宮グループの御令嬢が社会見学?」

「嫌ですわ、そんな言い方…私も、普通の生活がしたいだけですの…みんなと語ったり、恋をしたり…

 普通の人と同じように過ごしてみたくなっただけですわ」

「…本当かい、その言葉、信じてもいいのかな。昔、何度も告白した僕の前で…」

そう言うと、清水は熱い視線を紫織にぶつけた…

「…ええ、本心ですわ…もう、あの世界には戻りたくないのです…」

そう言うと、紫織は曖昧な微笑みを浮かべ、清水の足元へ視線を落とした…

そして、少し乱れた髪を、ゆっくりとした動作でかきあげた。

「…とりあえず、今日は、二人で乾杯しようよ、再会を祝って…!」

「はい」

紫織は、熱い眼差しで清水を見つめた…

数時間後、二人はパーティ会場を抜け出した…





ACT3


真澄さま、わたしはあなたが憎い…

最愛の人がいながら、わたしに優しい言葉をかけたあなたが…

こんな残酷なことになるなんて、わたしには予想もできなかった…

許せない…絶対に許せない…




真澄さま…

あなたは、私の御願いを無視して、また影と何かを計画されていますね…

日本中の話題を集める紅天女…

少女のようだったあの子も、今では見違えるようになったわ…

真澄様にふさわしいのは、北島マヤ、あなたかもしれない…

わたくしは、病気がちで、世間知らずで、苦労もしらない……

いつも家族は仕事でいなかった…

幼いころから、大きなお部屋で一人で過ごした…

真澄さま、あなたなら、紫織を理解してくれると感じていました。


真澄さま…

あなたはなぜ、わたくしに優しいお言葉をかけてくださったの?

なぜ、パーティに連れていってくれたり、お芝居を観にいったり、楽しい時間をくれたのですか…

なぜ、あの子を愛しているのに、わたしとの時間を持ったりしたのですか?

やはり、会社の為…?

あまりにむごい……どうして…



真澄さま…

なぜ、あなたは諦めたりしたの?

あのアルバム一つ見れば、あなたがどんなに北島マヤを愛しているかわかります。

そして、数々の不正なお金の流れ…

学費や雨月会館改修や紅天女の打ちかけ…

信じられないお金…お金の問題ではないのですね…

あなたは、本気であの子を愛していたのですわ…

それなのに北島マヤとの愛をなぜ諦めたのですか?

あの子の母親のことだけなのでしょうか?



真澄様…

あなたは、一体、どうして、あの子を諦めてしまったですか…

紫の薔薇の事実をあの子に話しさえすれば、きっとうまくいったでしょうに…

そして、紫織とお見合いなんてしなければ良かったのです!

どうして、北島マヤではなく、わたくしを選んだのですか、真澄様!

一体なぜ…

何があなたの心にあるのですか…


真澄様…

気がついているのですか?

わたくしを2年前選んだ理由を…

わたくしは、最近わかってきたのです…

あなたがわたしとの時間を過ごし、わたしとの婚約を決めた理由…

わたくしを選んだ理由…

それは、北島マヤの身代わり…!



真澄さま、わたしはあなたが憎い…

最愛の人がいながら、わたしに優しい言葉をかけたあなたが…

こんな残酷なことになるなんて、わたしには予想もできなかった…

許せない……絶対に許せない…でも…

でも…紫織は…あなたを誰よりも愛しています!




男と女がお互いに激しく上下しながら、心の中で反芻する言葉のせいで

紫織の髪は大きく乱れていた…

やがて、その乱れた髪は、男の手で掻き揚げられ、妖しく波打った…

ガラスの部屋…あたり一面が鏡になっていた…

渋谷にあるホテルの一室だった…


今は、紫織のうしろから激しく攻め立てる男は、以前大学のパーティで再会した清水だった。

紫織は感じていた。

3ヶ月前はぎこちなかった動きも、清水のリードによって、少しづつ女の喜びを知った。

そして、自分の身体が変化していくだけではなく、初めて経験した男の体の不思議な反応を貪欲に学んでいた。

眠い時でも、疲れている時でも、そして愛していない相手でも意思とは違う反応をする男という生き物…

紫織は、真澄との冷え切った仲を埋めるように、清水に体を任せるようになっていた。

友人の結婚式での再会から、もう何度も二人はホテルで会っていた。



清水がバスルームから出ると、紫織は既に身支度を整えていた。

「…?」

「さようなら…もう3ヶ月…別れましょう…テーブルに…ささやかだけどお別れのプレゼントがあります。
 …ごめんなさい。あなたと過ごしたひと時…とても勉強になりましたわ」

「…?何を言っているんだい…君は…まさか、こんなにうまくいったのは、まさか…」

二次会の再開から、紫織の計画通りであることに、清水はようやく気がついた。

「…そう…そうなのです…これはわたしの火遊びだったのですわ…全てを賭けた…」

紫織はもう、これで男の扱いの勉強は終わりすることにしたのだった…時間があまりないのだから…

「紫織さん!…君はひどい人だ!一体なぜ…どうしてこんな!」

好きでもない男でも、真澄と思って接したせいか、少しだけ心が痛んだ紫織だったが

激しく罵る言葉を遠くに聞きながら、紫織は部屋を出ていってしまった…

身支度ができていない清水は成すすべもなくベッドに腰掛けたのだった。

やがて紫織は、1階のロビーでハイヤーを呼ぶように告げ、ホテルマンの案内でけホテルの外へ出た。

そして、泊まりに行っていることになっている大学院の友人宅の世田谷を告げた…

友人にはお金を払ってアリバイ工作に協力してもらっていた。

一人で乗る車にすっかり慣れた紫織…

その心は、今でも真澄への想いで一杯だった…


真澄様…
私はあのとき手首に傷をつけた…
でも死に切れず助かった…
一度失った人生……
だから、どんなに惨めでも
どんなに罵られようと
真澄様と一緒になる為に
わたくしは生きていきますわ…
例え真澄様の過去にどんな訳があろうとも
例え北島マヤの身代わりだろうとも
わたくしは構いません…
わたくしは、あなたを決して諦めません…


真澄様…
あなたは気がついていない…
あの子、北島マヤが、真澄様を愛していることを…
わたくしは決心しているのです…
真澄様がそのことを気がつかないうちに、あの子を真澄様から遠ざける…!


真澄様…
既成事実…
もっと深い関係になれば、やがて愛情にかわるかもしれない…
全てを賭けて、あなたに尽くします……
だから、一度だけ、わたしを振り向いてくださいませ…
最後に隣にいるのは、わたくしと信じております…


真澄さま…
土曜はわたしの誕生日…お忘れでしょうね…
土曜の夜はホテルのディナーを予約してあります…
そして、あなたは、来てくれるはずですわね…
だって、あの子がかわいいなら…大事なら…

真澄様…
少し待っていてください…
紅天女候補が、婚約者のいる昔所属していた芸能プロダクション社長と熱愛…
そんな記事が出たら、大変ですわねって、明日の朝電話をしますから…


車はやがて首都高速にはいった…

車の中で想いを告白する紫織の表情は鬼気迫るものがあった。

紫織の心は、全てが真澄を得る事に支配されていた。

「たった一度…その時に全てを賭けます…わ…」

どんなことをしてでも、真澄と結ばれる決心をしていた。

愛と憎しみ…今、紫織の心には、2つの大きな炎が渦巻いていた。






ACT4


帝国ホテルの一室…

20畳ほどのリビングにあるテーブルは、最高級のディナーが運ばれた。

二人のディナーのためにとても綺麗に準備されていた。

紫織と真澄は二人だけの無言の食事が進んだ…婚約者だというのに、重苦しい空気が支配していた。

やがて、全ての料理が終わり、テーブルが片付けられ、二人だけの時間になった…

重い口を開いたのは真澄の方だった…

真澄は言い知れない不安を感じていた…

「紫織さん、食事だけでここまで…?」

「…いえ」

「もしかすると、また北島マヤに会わない約束ですか…それなら守ってますよ」

「…真澄様、そんな嘘はおよしになってください。会うどころか、それ以上のことを

 あなたと、あなたの影の方で考えていらっしゃいますでしょう…」

「…!」

真澄は、聖から紫の薔薇が一人歩きしていることを知った。

1年前、紫織を問い詰めた結果、紫織が自殺未遂を図った。

それ以来真澄は罪悪感に苛まれ、紫織に別れを告げることができなくなってしまった。

しかし、稽古があまりにうまく行かないマヤに会う決心をし、聖に指示を出したところ…だった…

紫の薔薇の人として…

「そうか、君は…知っているんだな…」

真澄は、直感的に、紫織が自分のことを今でも見張っていることを悟り、一瞬身体が氷ついた…

「紫織さん、君は僕に、どうして欲しいのか?」

「…真澄様…そんな他人行儀な言い方はおよしになってください。」

「媚薬…恋する二人に効果があるらしいのですわ…」

「…?」

「…今夜は特別な日…さっき運ばせた料理の中に、上手に入れてもらいましたの」

「…何を…」

「わたしが望むのは、婚約者の男女なら、ごく自然に行うこと…今日はお願いしますわ…」

そう言うと、紫織は真澄の隣にすわり、真澄の首筋に両腕を回した。

そして、真澄の耳元に熱い吐息とともに次のように呟いた。

「紅天女が、婚約者のいる昔所属していた芸能プロダクション社長と熱愛…

 そんな記事が出たら大変って朝のお電話でしたお話し、面白いですわね」

「…!」

もう何も言えなかった…

真澄は否定も肯定もできない状態に追い詰められた感じがした…

紫織が、首筋から、やがて頬や胸をまさぐってきても、何もできなかった…

ただ、自分の愚かさを痛感していた…

絶望的な感覚が背中を貫いた…




やがて、紫織の手は、胸から更に下へと向かい、急に真澄の大腿を触り始めた…

真澄の体が、びくっと動いた…

紫織の手の動きは絶妙だった…

「一体、君は…」

真澄は、紫織の行動が信じられなかった。

婚約を交わした者なら、なんら問題ない行為ではあるが…しかし…いつの間に…

真澄の眼下で紫織は続けている…

その手は、微妙に大腿から少しづつ上へ這い上がって来る…

そして、ついに、手の平で包み込むようにしながら上下にうごめいた…

そして、その手は、正確に感じる部分を捉えた…

その動きは滑らかな上下運動に変化していった…

その動きに、真澄は耐えるしかなかった…

「…うっ」

真澄は、紫織のリズミカルな動きが、それほど激しくないかわりに、情熱的で繊細な動きであることを感じた。

あまりに突然の行為…全く無防備だった真澄は、心と身体が別々の生き物になろうとしていた…

「こんな呪われた形で初夜を迎えることになろうとは…」

真澄は、平静な状態を保つよう、全ての神経を集中させた…

しかし、真澄は、誘惑に負けて紫織に身体を預けてしまおうとする、黒い欲望がもたげてくるのを感じた…

その瞬間、理性を失いそうになってしまった。

「…これで、いいのかも…しれない…」

めくるめく陶酔感、開放感、放出感…

それらを期待する心が、あと数秒で、真澄を支配しようとしていた…

まさに、急転直下、真澄は紫織の腕の中に落ちようとしていた。



「!!」
その時、真澄の脳裏に、突然マヤの顔が浮かんだ。

「…マヤっ…」
そうなったら、本当にマヤと会えないと思った…
もう二度と、紫の薔薇の人になれないと思った…

そう思った瞬間に、真澄の黒い欲望は、信じられない速度で収束した。

更に次の瞬間、紫織の乱れた髪が絡まっている右腕を伸ばし、サイドテーブルを無意識のうちに探った…




紫織は、かがめていた顔を少しあげて、ほんの一瞬真澄の反応を見ようとした。

”ぴっ”

「…?」
紫織は、顔に何か生暖かいものを感じた…

「…きゃ!」
紫織は、顔にかかった液体を、あいている左手で触り、それが血であることがわかり思わず叫んでしまった。

やがて床のカーペットに鮮血が滴り落ち、黒いしみとなって、急速に大きくなっていった…

紫織は、何が起きたか理解するのに時間がかかった…

ほんの数秒のことが、10分くらいに感じた・・

紫織の目にした映像が、やっと頭の中で形をなした。

それは、サイドテーブルにあったペーパーナイフを、自分の大腿部に刺し、激痛に耐えている真澄の姿だった。

「…真澄様、なんてことを!」

「…紫織さん…俺の罪は…こんなもんじゃないな…」

紫織は、全く予想していなかった真澄の行動に驚き、呆然としてしまった…

真澄は、激しく流れおちる血と、力任せに刺したナイフが大腿骨まで達したせいで、軽いショック症状が現れてきた。

ぶるぶると、全身が震える…しかし、その震える手で、携帯電話を握った。

携帯が血ですべってしまい、なかなか番号を押せない…

やっと全ての番号を押せた…

「…もしもし、聖か…すまないが、今日の会う約束は駄目になりそうだ…

 その代わりに帝国ホテルの1405室まで迎えに来て欲しい。怪我をした。

 いや、俺がだ。表沙汰にはしたくない…俺ではない…そう、紫織さんをだ…

 ちょっと、歩けそうもないので、迎えに来てくれないか…

 ああ、そうだ、左の大腿、ナイフが骨に達したようだ…止血はなんとかやってみる…

 だらしないが、震えてしまってね…他に人はいない…」

「…わかりました、まずは、知り合いの医者を15分以内に行かせます。そのあとわたしも駆けつけますから。
どうかご安心を、ではあとで」

「頼む…」

聖の冷静な言葉を聞いて、真澄は震えが少し収まった。

自分のワイシャツを脱ぎ、その袖で太ももを思い切り縛った。

そこまでだった…真澄はそのままうずくまってしまった…



紫織は、完全にうちのめされていた…そして、思い出していた…

その瞬間、真澄が小さく「マヤ」と発したことを…




紫織が呆然としていると、やがて、ドアが数回ノックされた。

紫織がドアをあけると、聖の息のかかった医者と看護婦だった。

真澄の状態を見て、何も驚かず、一言もしゃべらずに真澄の治療をして部屋を出ていった。

すばやい止血と医者による手当てのせいで、大事にはならないようだった…

やがて強い鎮静剤のせいでベッドで軽いまどろみを真澄は始めた…



1時間後、また直接ドアがノックされた。

紫織がドアをあけると、氷のような表情をした聖が、車椅子とともに立っていた。

聖は、無言のままドアを開けた紫織と目を合わせてから、車椅子をベッドルームまで走らせた。

あたりには、おびただしい血の痕が残っていた。

聖は、真澄のその姿にショックを受けた様子だったが、無言で真澄の体を支え、真澄を車椅子に乗せた。

そして、紫織に言葉を選びながら言った…

「…この様子では…決して…愛のあるディナーではなかったと感じますが…」

しばらく、沈黙があったが、紫織がかすかに震えながら重い口を開いた…

「…もうこれっきり、真澄様に無礼はいたしません…真澄さまには…」

その言葉を聞いた聖は、視線を交わすことなく、軽く頷いた。

「ホテルにはこちらから後始末を依頼しておきますから、紫織さまは1時間以内に出てください…」

そう言い、鎮静剤で意識が朦朧としている真澄を押していった。



一人残った紫織は、そのまま居間のソファーに身じろぎもせずすわり、壁を見つめていた。

そして、呟いた…


「真澄様に無礼はいたしません…真澄さま…には…」





ACT5


「…マヤちゃん、電話よ、急用らしいよ」

「…ありがとう…?」

マヤは紅天女の舞台練習の短い昼食時間を過ごしていた。

この時間に電話など受けたことがなかったので、少し不審に思いながら、受話に出た。

「…もし、もし…?」

「…北島…マヤさんですか?…紫織です…鷹宮紫織です…」

「…!」

「…明日お会いできますか?」

「…えっ?…あっ、はい、少しなら…」

「それは良かったですわ…是非マヤさんにお話しいたいことがありますの…」

「…わ、わかりました…」

「では、明日、稽古が終わるころ、お迎えにあがりますわ…」

「……」

紫織は用件だけを言って電話を切ってしまった。



電話を切ったマヤは、恐ろしい程の胸騒ぎと、不吉な予感に思わずあとずさった…

そして、もう、長い間、プレゼントも、手紙も、まして、名乗りなど全くあり得ない愛しい人が浮かんだ…

「”紫の薔薇の人”…速水…速水さん…」

そう呟くだけが精一杯なマヤは、涙を流しながら座りこんでしまったのだった…





電話を一方的に切った紫織は、明日マヤに直接言うつもりだった…

「…北島マヤ…あなたにはっきりとお話ししますわ。

 あなたの愛する真澄様は、もうわたくしのものなのです…

 もう真澄さまと私は、他人ではないのだと…!

 あなたは大都芸能、真澄様とは、関係を断ち切ってくださいね…

 あなたには、演劇や昔からの仲間がいますから大丈夫ですわ…

 わたくしは真澄様を失ったら、もう何もないのです…」

紫織の顔は、もはや優美な面影はなく、嫉妬と憎悪にゆがんだ悲しい顔だった…

そして、その黒髪は妖しく乱れ、心の闇で黒い薔薇となり、紫の薔薇を包み込んでいった…






















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