〜〜『神はまた人の心に、永遠を想う思いを授けられた』旧約聖書 伝道の書〜〜




その日の朝。
  黒塗りの車がひっそりと居並ぶひと気のない社の地下駐車場。人目を忍んで真澄に会った聖は言った。
  「今夜、部屋をおとりしておきました」
  “301”とあるルームキーを、聖はそっと真澄に差し出した。真澄は言葉を失う。しかし思わずその鍵に鋭く目を奪われた。
  すでにチェックイン済みなのであろう鍵である。
  「チェックインは“藤村真澄”さまです。明朝まで、真澄さまへの連絡は一切私がカバーします。」
  「聖…」
  「よほどの緊急の場合以外はお取り次ぎいたしませんので。」
  どうぞおふたり水入らずで、と言外に聖は言っている。
  「いや、待て…」
  「3階南角の海の見えるきれいな部屋です。あのたかにも気に入っていただけるでしょう。」
  「私は先にあのかたをお連れしています。」
  しばらく沈黙したあと、
  「……わかった。ありがとう」
  真澄はその鍵を受け取った。手にヒヤリ、とした。しばし、凝視する。
  「長い一日となることでしょう。あなたのとっても。あのかたにとっても。」
  この言葉は、真澄の胸に、ずしりと重く響いた。
  「では、後ほど。あのかたとお待ちしています。」
  頷く代わりに目を合わせた聖の瞳には、深い理解と共感と僅かな憐憫とが浮かんでいた。そしてそれが
  彼のいつもの幽かな哀しみを静かに覆い隠していた。この瞳にぶつかって、真澄の心に閃く意思が、確として固まった。
  「ああ。では頼んだ。」
  「はい。お任せください。」
  もう一度2人は目を合わせ、素早く各々の方向へとその場を後にした。
伊豆への車中。
  運転しながら、否が応にも真澄は緊張を高めていった。期待、不安、もしやのそれらが、ひどく入り乱れて
  交錯する。一度は腹を決めたつもりでも、気持ちはただ徒らに揺らぐ。もし……、いや、しかし…。
  無益と承知しながらの自問自答を、真澄は繰り返していた。
ホテルマリーン白百合の間。
  広いガラス窓一杯に、午後の陽光が燦燦と海を青く際立たせている。水平線が、遠い。
  リビングの大理石調のテーブルには、白磁の陶器花器いっぱいに、「紫のバラ」が活けられている。
  聖とソファに並んで、正装したマヤは、高鳴る鼓動を押さえきれないでいた。
  …速水さん…紫のバラの人…。速水さんに会える。もうすぐ。会いたい。速水さん。会いたい…。
  薔薇は美しく、みずみずしい花弁は匂い立ち、自ら誘うようにマヤの目を釘付けにした。
  このバラ、この紫のバラに、あたしは今までどんなに励まされてきたか…。このバラを受け取った日の
  感激は、いつの時だって、はっきり憶えてる…。今だって…。今。今日こそ、今日こそ速水さんにちゃんと
  言うんだ。あなたが好きですって。
  マヤはそうした物思いにひとり耽っている。そんな思いつめたふぜいのマヤを、傍らで聖はいたわるように
  見守っていた。そして、そっと声をかけた。
  「お時間ですね。」
  ハッと我に帰ったマヤは、飛び上がらんばかりに驚いた。ほとんど同時に、コンコン、とドアがノックされる。
  聖はつと立って、扉ごしに相手を確かめる。そして内鍵を開けた。扉が、開かれる。
     速水さん!
     マヤ!
  同時に二人は心に呼び合った。同時に互いの姿を目にしながら。弾かれたように、マヤは立ち上がった。
  「真澄さまどうぞ。お待ちしておりました。マヤさま、このかたが……」
  聖が言い淀んで言葉を止めた。二人の目は、互いの瞳を捉えて離さない。
  真澄の、射るような眼差し。マヤの想いに揺れて熱を帯びた潤んだ大きな瞳。
  それは、僅かの間、ほんの一瞬のことだったかもしれない。しかしそれは、永遠に続くとも思われるような
  瞬間であった。見つめ合ったまま、永遠に。永遠。遥けき時。ただ見つめ合うだけで二人は、互いの全てを
  完全に掴み、切れよう筈もない強い絆で固く結ばれたような思いにとらわれた。魂と魂の和合。
  長い長い、一瞬であった。
   そんな二人に、聖はふっとほほえむように顔を和ませ、テーブルに歩み寄って薔薇を一輪、手に取った。
  それを真澄に持たせると、
  「さ、真澄さま…」
  と真澄を促した。薔薇の棘はきれいに抜かれていた。
  真澄はマヤから目を離さぬまま部屋に歩み入り、ひと刹那大きく息をすいこんで、よく通る声で言った。
  「俺が紫のバラの人だ」
   俺が紫のバラの人だ―――マヤにはその声が何倍にも大きく、美しく耳に聞こえた。
  互いに立ち尽くしたままの二人に、聖は謎めいたいくぶん切なげな視線を投げかけ、
  「では、私はこれで。真澄さま、よろしいですね?」
  と声をかけ、静かに部屋を退出していった。



   マヤは薄化粧したくちびるをわななかせ、それでも瞳はあらん限りに真澄を見つめていた。
  互いに言葉を忘れてしまったようだった。だが、先に気づいたのは真澄だ。真澄は薔薇をマヤに差し出した。
  「どうした。驚かないのか。それとも驚いて口がきけなくなったか。」
  夢に浮かされたように、マヤが口にした。
  「速水さん、あたし、待ってました。ずっと。速見さんがこうして名乗りをあげてくれるのを、ずっとずっと、
   待ってました……。」
  真澄は耳を疑った。何、だって!?
  「あたし、―――もうずっと長いこと…どんなにこの紫のバラに感謝してきたか…。
   速水さん、今まであたしを支えてきてくれたこと、ほんとうに感謝してます。ずっと、こうやってお礼が言いたかった。」
  ひとたび口にすると、マヤは抑えていた感情がもう高ぶる一方だった。潤んだ瞳が激しく揺れる。
  「知っていたのか? 俺が紫のバラの人だと? いったいいつから―――」
  「は…やみさ……」
  涙が言葉を堰き止める。身体の震えが止まらない。
  泣いてくずおれそうなマヤに真澄は駆け寄って両腕を支えた。真澄の手の薔薇は二人の間にぽとりと落ちた。
  真澄に力強く支えられてマヤは堪らず一気に緊張の糸が切れ、わっと真澄の腕に泣き伏した。
  真澄も面食らって混乱しながら、それでもマヤに腕を貸してやっていた。
  マヤの嗚咽がようやく収まる頃、真澄はしぜんマヤの頭を撫でてやっていた。
  ゆっくりと真澄はマヤをソファに座らせて自分も並んだ。
  「どうした…。ん? 話してくれないか。なぜ知っていたんだ?」
  マヤは、「忘れられた荒野」の初日のスカーフのこと、亡母の墓前に落としていった万年筆のことを、ぽつりぽつりと語った。
  「…そうか。…そんなこととはな。」
  しばしの沈黙の後、真澄が重苦しげに言った。
  「それで君は、俺が紫のバラの人だと判って、それでどうなんだ……?」
  これが、真澄の最も重要な問題である。
  「あたし…、あたしは―――」
  マヤにとっても、今、が告白のその時だと、天啓が閃くように知らせてくれた。
  マヤはすっと背筋を伸ばした。頬を紅潮させすこしためらいがちにまつ毛を伏せたが、それでもきっぱりと目を上げて、
  真澄に正面から向かって明瞭に言った。
  「あたし、あなたが好きです。」
  驚きのあまり言葉を無くしたのは真澄の方だった。マヤのその言葉は、真澄の耳に幾重にも響いて聞こえた。
  「紫のバラの人がどんなにあたしを大切に思ってくれていたか、あたしよくわかってます。
   だから速水さんが好きなんじゃありません。男の人として、速水さんが好きです。」
  とうとう、マヤは言った。
  「速水さんが好きってわかってから、辛かった。会いたくて、いつでも会いたくなっちゃって、恋しくって。
   会えないのが寂しくて。でも速水さんには紫織さんだっているし、諦めなきゃっ、て」
  「でも、だめなの。私、速水さんのことが好き……」
  マヤの黒目がちの瞳は、恋情に煌めいていた。慕情に満ちた濡れた輝く美しい瞳だった。
  反射的に真澄は、絶句したままマヤをすばやくかき抱いた。強く、抱き締める。
  「信じられない……夢のようだ。君のほうからそんなことを言ってくれるなんて…」
  「今日は俺が君に、俺の気持ちを伝えにきた。 それが、君のほうから……」
  あとはもう、言葉にはならなかった。
  「マヤ……」
  もう一度、彼はマヤを抱え直した。マヤの髪に頬をうずめる。
  「マヤ…」
  長い長い間の胸のつかえが、腕の中の小柄なマヤの温もりに、ゆっくりと溶け出して行くのがわかる。
  こんな思いをするのは真澄は生まれて初めてのように思う。深い感慨が心の奥底から生まれ出て、ひたひたと真澄を満たしてゆく。
  抱き締められてマヤもまた真澄に身体をあずけた。真澄の胸は広く、暖かく、力強く、大きかった。
  「これが……夢でないのなら…」
  「速水さん、ほんとうよ。ほんとのことよ。」
  「速水さんは、少しでもあたしのことが好き…?女優としてじゃなく?」
  いじらしい問いである。
  「ああ好きだ…。もうずっと君を見続けてきた。マヤ、君だけだ。」
  「君にずっと惚れてきたのは俺だ。ずっと長いこと、君に惹かれてきた。君を愛してきた。」
  「速水さん…!」
  マヤは真澄にすがりついた。
  「俺の思いは絶対に叶わないと思っていた。一生、心に隠しておくものだと。」
  「俺は一生君の影のままだと思っていた……。」
  マヤが首を振る。
  二人はしばらくそうして、互いの温もりに包まれていた。
  幸福とは、こういうものなのか、と真澄は思った。人が求めて止まぬもの、愛情の幸福とは。
  想いが通じ合うこと、愛情を交わし合えること、、それがいつまでも続くと信じられること。
  これを知らずにして過ごす人生の、なんと拙劣なことであろう。これで、良かったのだ、と
  しみじみ真澄は思った。腕の中のマヤの存在に、真澄は感謝を覚えた。マヤの貴重さを、真澄は思った。
  「君と居ると、気持ちが安らぐ。“嘘”がいらない、という気がする。魂と魂がふれ合うような、そんな思いがする…。」
  黙ってマヤは真澄の胸に頬を寄せた。サラリとしたシャツの感触の下から真澄の体温が伝わってくる。
  つかのま、その倖せにマヤは酔った。
  だが、不意に胸を過ぎった不安があった。マヤは真澄の腕からするりと身体を離した。途端に真澄は不意に切ないうすら寒さを覚えた。
  「でも、紫織さんが……」
  これには真澄は眉根を寄せて答えた。
  「きのう、婚約解消を申し入れたよ。」
  「えぇっ、そっそれじゃ、紫織さんは……」
  「彼女は承知しなかったがね。だがもういい。彼女のことは。マヤ、君の本心を聞けたからにはな。俺はもう これからは 君だけだ。」
  真澄は明言する。
  「でも、大変なことなんでしょう?」
  不安げにマヤは訊いた。
  「君は俺を信じていてくれるか? 何があっても」
  「何があっても……。」
  マヤは真澄の言葉を反芻した。そして夢見るような口調で言った。
  「ねえ、速水さん、憶えてますか、梅の谷でのこと。」「川のほとりでのこと。」
  「ああ、…そうだったな。」
  「あの時のこと、私信じられるの。だから、速水さん。」
  「俺も同じだ。マヤ、待っていて欲しい。必ず君を俺だけのものにする。」
  その言葉にあらわれた真情に、マヤは率直に感動した。そして、しっかりと頷いた。
  「私、速水さんが好きです。たとえ何があっても。いつまでも。」
  「ありがとう。」
  「…では約束だ。」
  真澄はつと腕を伸ばして片腕にマヤを抱き、もう片方の掌で、大きく見開いたマヤの眼を塞いだ。
  そしてすばやくマヤに口づけた。
  マヤのくちびるに、真澄の唇が乾いて感じられる。
  マヤは事態を呑み込むのにひどく動転したが、じき真澄に身体を預け、はにかみながらそっと自分も腕を真澄の背に絡ませていった………。



その日の夕刻。
  「ああもしもし、日刊芸能の松本だ。そっちはどうだい。何かネタあるかい」
  聖は女性誌記者の“大都番”に連絡を取っていた。
  「な、何だって!? 時刻は?場所は?容態は?入院先はどこなんだ!?」
  “とにかく社長が出張直行直帰じゃあ、鷹通もそうそう呼び戻せんだろう?”
  「だろうな。じゃこっちも取材に出る。どうもな。じゃあ。」
  紫織の自殺未遂である。
  聖には、凶行の時刻がどうにも訝しく思えてならない。
  まるでマヤと真澄が会う時刻を知っていたかのごとく感じられるのだ。公には真澄のスケジュールは、
  静岡方面への一泊直行直帰である。そのために朝わざわざ社用車で東京駅まで送らせている。
  そして、そこから停めておいた自分の車で、真澄は伊豆に向かったのだった。
  ただ水城だけが、真澄は一日半休であると知っていた。
  聖は、迷った。今なら、駆けつけるには間に合う時刻だ。これを明日まで延ばすべくか否か。
  真澄の社会的立場もある。聖の決断にかかっていた。
  お二人には気の毒だが……事が事だけに、相手が悪すぎる。
  聖は意を決して真澄を呼び戻すべく、ホテルマリーンに連絡を入れた。
  今朝の自分の不吉な言葉、“よほどの緊急の場合”が起こってしまったのであった。


再び白百合の間。
  電話が鳴る。真澄が応じる。聖と全く同じ台詞である。
  「……わかった。おまえはこっちに来て俺の車で彼女を送っていってくれ。俺は車を呼ぶ。」
  「…どうしたんですか?」
  不安一杯に、マヤが尋ねた。
  「紫織さんが自殺未遂を起こしたそうだ」
  苦々しく真澄が言い放った。マヤは大きく息をすいこんだ。他にマヤになす術はない。
  「聖が迎えに来るまで君はここで待っていてくれ。あとで必ず連絡する。」
  「“何があっても”ね、速水さん。」
  マヤは先刻の会話を引用して言った。
  「ああ、本当だな。」
  二人は黙って再び互いを見交わした。互いに語る眼をして。
  後ろ髪引かれる思いを振り払うように、真澄はマヤに声をかけた。
  「じゃ、俺は先に出る。マヤ、済まんな、本当に……。」
  行きかける真澄の苦渋に満ちた表情を見て、本能的にマヤは叫んだ。
  「気をつけて! 速水さん!」
  手で合図して、真澄は慌ただしく駆け出していった。
  ひとり部屋に取り残されたマヤには夕闇迫る海は、寂寥に満ち満ちて見えた。マヤは海に背を向けた。
  同じ部屋に居ながら、先刻までとは全く次元の違う空間に迷い込んでしまったように、マヤには思えた。
  そしてひとり、真澄の去ったドアを凝視し続けた。





終わり
2000/12/6






SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO