炎暑の翳








血を吐くような 倦うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡るがような悲しさに、み空を遠く
血を吐くような倦うさ、たゆけさ

空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くような切なさに。

嵐のような心の歴史は
終焉ってしまったもののように
そこから繰れる
一つの緒もないもののように
燃ゆる日の彼方に睡る。

私は残る、亡骸として――
血を吐くような切なさ哀しさ。     (中原中也『夏』より)






車は上信越道をひた走る。
道の上にはいつも歌が流れていた。


高速でまた車のスピードを上げた、運転する真澄のその端正なうつくしい横顔を
マヤはそっと伺い見た。
全く運転に集中しているようにも見える。
だが、何かを、深く考え込んでいるようにも、見える。
その横貌。その美貌。
いっときそれに見惚れたマヤもこれから起こるであろう出来事への茫漠とした不安に、
ひと刹那、抉られるように胸の奥が痛んだ。

『夏は冬に憧れて 冬は夏に帰りたい
 あの頃のこと 今では 不思議に見える。
 駆け抜けてゆく 夏の終わりは
 薄れてゆく あなたの匂い。
 今日はあなたの声も聞かないで
 このまま ここから 帰るつもり。
 ずっとそこにそのままで 幽かに輝くべきもの
 決してもう一度この手で 触れてはいけないもの。』
カーステレオで小田和正が淡々と歌う。
だがその歌詞の意味するところは非常に深い。
グループメンバーの重唱も麗しい和声。

また次の曲はムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』。
華麗極まりないその管弦楽の美。

次々真澄が流す音楽に耳を傾けながら、マヤは独り、自らの裡なる不安と闘った。

ロッシーニ。女声合唱のための三部作『信仰・希望・愛』。まずは『信仰』。
『心悩みて苦しむ時
 寄る辺無き身の 頽るる時
 煌めく光 地の果てより
 輝き照らす、我が心を。
 この光こそ 神の賜える信仰の火よ
 み神の賜える 信仰の火よ。
 疑いは去り 我が行く手には
 喜びの宴 我を待てり。
 光はいづる。地の果てより。
 ほとばしるごと 我に迫りぬ。
 光の光、知恵の知恵よ。
 光の光、知恵の知恵よ。』


昨夜、関東地方をこの夏一番の台風が通過した。
今朝、夜が明けてみると、台風一過の抜けるような澄明な青空と
厳しい炎暑が東京に戻ってきていた。

東京を発ち、すでに2時間。
車窓からは、どこまでも遠く澄み渡るギラギラと輝くばかりの目映い夏空と
点在する白い高い天空の雲が眺望できた。

この真夏の空の下、マヤは、今、真澄とふたり。車中の人。
真澄さえいれば、何を懼れることがある?
真澄が、すべては、事を無事に運んでくれるだろう。
―速水さんを、信じよう―
―あたしには、もう、速水さんしか、いない―
車窓に次々と流れ行く風景を眺めるともなく眺めながら、
マヤは敢えて自らの不安を封印するべく努めた。


ICで真澄は高速を降り、旧軽の別荘地を目指してパイパスを抜けた。
約束の時間にはまだ少し余裕がある。
真澄はマヤを伴って旧軽の街中で車を停め、瀟洒な喫茶店にマヤを連れて入った。

やはり緊張していたのだろう、マヤはテーブルに配された檸檬を一しずく垂らした
グラスの水を一息に飲み干した。
喉、乾いてたんだわ…。
喉ごしに沁みとおるその冷たい水は、マヤの凝った熱した心にも、
すっと冷たく滲みていくようだった。
ダンヒルのライターで、手慣れた仕種で、真澄が煙草に火を点けた。
真澄も深々とその一服を堪能する。
心許なく真澄を見あげたマヤの視線を、真澄の瞳が受けとめた。
その、真澄の瞳の、和やかな光輝。
言わずとも、真澄の言葉は、マヤに語られる。
引き締まった整ったその脣もとを、ほんの僅か、真澄は緩めた。
あるか無きかの幽かな微笑み。
マヤは魅入られる。そして、そぞろなマヤの心も暫し慰められた。
冷たい飲み物で喉を潤し、ふたりは店を出て、再び車中の人となった。
いよいよ、目的地に向かう。



旧軽井沢の別荘地。
森の中に豪奢な家屋が点々と散在している。
それらの幾つかを通り過ぎ、一際広大な敷地に巡らされた板塀に沿って、
真澄はゆっくりと車のスピードを落とした。
格式高い門扉の前で、車は停まった。
真澄に促されて、マヤは車を降りた。
真澄は車のキーをロックする。
門扉の高価に見える表札には、「鷹宮」と、記されていた。




音もなく、門は開かれ、使用人がふたりを招き入れた。
よく手入れされた純和式の庭園。
緑も深い高い木々から降る蝉時雨が、一際、ふたりの耳に鮮やかだった。
鷹宮の別荘は、おそらく古くからの建造物なのであろう、
庭園も建築も、今でこそ珍しい完全な和式建築であった。
マヤと真澄は広い玄関に通され、磨き上げられた檜の廊下を案内された。


回廊を巡って別荘の奥まった和室。
しんと静まりかえった沈黙と静謐だけがそこに在る。
和服の使用人がふたりの訪れを告げ、しずやかに障子戸が開かれた。

――紫織さん…!――

マヤの目に、洋装で正装した紫織の姿が飛び込んだ。
マヤは、瞬間、心臓が凍りつくように思えた。



正座した紫織は優雅な立ち居振る舞いでつと立ち上がり、
ふたりに丁寧に頭を下げた。

「遠路、お呼び立て致しましたわね。」
「どうぞ、お座りくださいませ、真澄さま、マヤさん。」
紫織の蒼白な頬。
見開かれた紫織の瞳は暗く揺れていた。
ふたりは黙って紫織の指示通り、それぞれに宛われたいかにも高級な座布団に正座した。
「紫織さん、この子が、…」
真澄が口を開いたが、紫織はその切っ先を制した。
「何も仰らないで。真澄さま。」
「紫織には…わたくしには、判っていました…。」
「真澄さまが結婚式の延期を申し出られた時から。」
「そして、先週、マヤさんの試演を拝見した時から…。」

真澄は、言葉を失う。

「真澄さまの“魂の片割れ”は、マヤさん、あなたでしたのね?」
つとめて抑揚を抑えた、穏やかな語り口で、紫織はマヤに言葉をかけた。

「紫織さん…あの、あたし…。」
マヤも、言葉を失う。

「わたくし、調べさせていただきましたの。あなたの、“紫のバラのひと”。」
言って、紫織は臈長けたその蒼白な頬に、幽かな微笑みを浮かべた。
「わたくしという存在が、マヤさん、長いことあなたを苦しめてしまいましたわね。」
「ごめんなさいね。」

思いもかけない紫織の言葉に、マヤは顔を上げて紫織を凝視した。

そして、次に、紫織は真澄に真っ直ぐに向き合った。

「真澄さま、わたくし、思いますの。」
「結婚とは、真実、愛し合う者同士こそが結ばれるべきものだと。」
「愛の無い結婚は、神様がお許しになりません。」
「真実の愛情を分かち合う人達だけが、
 神様に結婚を許され祝福されるものなのではありませんの?」
「結婚は、神様との、生涯のお約束…。」
静かに、だが、真摯に、紫織は言葉を継ぐ。
「わたくしは、偽りの愛で、真澄さまと結婚し、自ら不幸に陥りたくはありません。」

紫織なりに、それ相応の激しい葛藤を克服したのであろう、
紫織の暗く揺れる瞳は、その内なる闘いを、ありありと示していた。

「真澄さまがご本心を封じてわたくしと婚約なさったのは、会社のため。お仕事のため。」
「決して、わたくし自身を愛してくださったからではありませんわね。」

真澄には答える術は既に無かった。

「真澄さまには、とても感謝していますのよ。」
「何も知ることが無かったわたくしに、人を愛するとはどういうことかを、
 真澄さまは教えてくださいました。」

「ですから、今は、判りますの。」
「わたくしは、真澄さまが不幸に陥る将来を、この目で見たくはありません。」

「紫織さん、では、あなたは…。」
真澄は微かに語尾を震わせた。

ひと刹那、鋭い沈黙がその場を支配した。
だが、次の瞬間、紫織は、このうえなく優雅に、しかし決然と、言葉にした。

「ええ…。真澄さま。婚約は解消いたしましょう。」

「真澄さまが、お仕事のことを何もご心配になることはありません。」
「祖父には、わたくしからよく話しておきますから。」

そして紫織は、愕然とする真澄とマヤのふたりを交互に見やった。揺れる瞳で。

「真澄さま、マヤさん、どうかお幸せに。」
「いつかまた、どこかでお会いしましょうね。」
「わたくしも、いつかきっと、幸せになりますわ。」
「真澄さま、どうかマヤさんを、幸せにしてさしあげて。それが、真澄さまのお幸せならば。」
「紫織は、いつも、真澄さまのお幸せをお祈りしています。」


「…わたくしも、迷いました。でも、今日、おふたりのお顔を拝見できて、心が決まりました。」
「もう、思い残すことはありません。」
「わたくしも、明日から、わたくし自身の新しい人生を考えます。」


そうだ、紫織とは、本来、こうした、聡明な女性なのだ。
控えめではあるが、芯はしっかりしている。そして、何より、優しい。



「紫織さん、ありがとう。感謝します。」
「真澄さま、短い間でしたけれども、紫織は幸せでした。」
「さようなら、真澄さま。」
紫織の万感の思いが込められた、その一言の重み。
それが真澄の胸に強く響いた。
「マヤさん、お健やかでね。また、舞台、本公演、ぜひ拝見させていただきますわ。」

マヤは溢れそうになる涙を必死に怺えて、ただただ、何度も頷いた。
真澄は紫織の前に手を付き、無言で深々と長い礼をした。

「真澄さま、お顔をあげてください。お約束ですわ。必ず、お幸せになってください。」

真澄は顔をあげ、その意志の閃く眼差しで紫織を射た。

「ええ、必ず。約束します。あなたとの、この僕の、一生の約束です。」
その真澄の言葉に、紫織は満足げに、まなじりで微笑んだ。



紫織は、座卓の呼び鈴を鳴らした。
間もなく、使用人がマヤと真澄を迎えに来た。
ふたりは、最後に、正座する紫織を振り返り、いま一度、軽く礼をして、紫織の居室を辞した。




紫織の別荘の玄関を一歩出ると、そこは炎暑。
沈黙していた世界に、蝉時雨が戻ってきた。
紺碧の空。
木々の緑。
緑の木陰には、濃い夏空が落とす炎暑の翳。
庭園の地には、陽炎が揺らめいていた。
いや、それは、マヤと真澄が見た、心の幻影だったのかもしれない。


俄には信じがたかった、紫織自らの婚約解消の申し出。
だが、他ならぬ、紫織自身が、認めたのだ、マヤと真澄の間柄を。
奇跡とは、起こすべく努力すれば、起こるものなのだ。
人の世の人生とは、そうした真実をもまた、隠し持っているのだと、真澄は今日新たに学んだ。
さあ、これからだ。
これから、俺は、新しく、マヤとの人生を始めるのだ。
紫織が、その背を押してくれた。
ならば、応えねばなるまい。己の全てを賭けて。
いいだろう。必ず、成し遂げてみせよう。
人は何かを得るためにはそれなりの犠牲を払わねばならない。
犠牲を犠牲とも思わずに努力できる人間は、真に幸福なのだ。
それもまた、人の生の、かけがえのない真実。



真澄は旧軽の小径で車を停めた。
冷房の効いた車を一歩出れば、外気は真夏の暑気。
マヤを促して、森を少し散策する。
森の緑の翳は濃く、風は涼やかに木々を揺らし、
天地自然のただ中で、今、マヤとふたり。
一本の楡の木で真澄は足を止め、マヤの肩を抱いた。

「速水さん…。」
「なんだ?」
「紫織さんが…。あの紫織さんが…。あたし、まだ信じられない…。」
「信じるんだ。あの人の言葉なら、俺は信じられる。」
「オヤジのこともある。これからが大変になるが、マヤ、待っていてくれ。」
「俺はあの人に約束した。必ず、マヤ、きみを幸せにする。」
「約束だ。」

真澄は深い想い傾けて、マヤに心からの接吻を贈った。

梢を吹き抜ける風はひととき木々を揺らし、信州の風と木の奏でる歌は、
マヤと真澄の未来を寿ぎ、祝しているかのように、ふたりの頭上高く響いていった。




真夏日。
炎暑。
陽差しは大地に深い翳を落とす。
陽光と影。
人の生もまた、そのように、くっきりと明瞭に、光と影に縁取られていることだろう。
だから、誰しも、人は変わる。折節の心の傷を勲章にして。
時の夢よ、巡り、巡れ。
今、永遠へと駆ける馬車が出る。




帰途の車中、真澄が流した音楽で、ことのほか、マヤは讃美歌に心打たれた。

『主は我が飼い主 我は羊
 み恵みのもとに 心たれり。
 みどりの牧場に 我を伏させ
 憩いの汀に ともないたもう。
 死の影の谷を わが行くとも
 悩みを 恐れじ 主ともにます。』


かくて、夏の炎暑の翳に刻まれたマヤと真澄の約束は、そののち、
確かに果たされることとなった。









終わり









※あとがき
42巻では「試演」は10月10日となっていますが、
この一作では、7月中旬、と設定させていただきました。
2005/7/27




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