ダービーの日

19000番ゲット・ぴろこ様リクエスト:競馬入門のお話を書いていただきたいです。
競馬にもお詳しいんですよね。私は競馬はほとんど知らないので。そういうのが読みたいです。

再アップにあたりまして:さてさて、また古いモノを引っ張り出してきましてスミマセン。
今日は折しも、2005年度の「日本ダービー」の日です。
夢の三冠馬、と、期待されるディープインパクトは、果たして無事にトップでゴール板を駆け抜けることができるでしょうか。
結果は、ただ、神様だけが、ご存知です。




(一部、フィクションを混じえています)

  宴のように、その日が始まる。祭りのように、その日が始まる―――。
馬に携わるすべてのホースマンの夢。精鋭の若駒たちが、初夏のターフを疾走する。
抜けるような晴天の五月の末。
競馬の祭典、第68回日本ダービーのその日、とある芸能社社長で馬主である知人に誘われて、
真澄とマヤは、東京競馬場のパドックにいた。



  競馬、この奥深いブラッド・スポーツ(「血のスポーツ」)。
サラブレッドとは、疾駆するために、人間によって血を改良された純血腫である。
サラブレッド、through・blood、は「徹底改良された血」を意味する。走るために、人間によって作られたその姿は、
すべての哺乳類の内で最も美しい、と言われる。
サラブレッドの血統を溯れば、約300年前のイギリスに誕生したたった3頭の種牡馬(しゅぼば・種馬)に辿り着く。
現存するすべてのサラブレッドは、この3頭の血脈から発生し、改良を繰り返されてきた。
より速く走るために、より強く走り抜くために。
日本の競馬界、特に中央競馬は、農林水産省の外郭団体であるJRAによって主催される、国営のスポーツである。
昭和の頃は、競馬、というと、オヤジたちが飲む打つ買う、のギャンブル・賭け事としてのイメージが強かった。
高度経済成長期の末期、ハイセイコーという1頭のアイドルホースが「怪物」の異名をとり、
広く社会に競馬の明るいイメージアピールを成した。
ファンは、その決して万能ではなかったハイセイコーに、熱狂した。
ダービーでの単勝支持率は、いまだ破られていない66%を記録している。
 「東京都 ハイセイコー様」でファンレターが届いたという話は有名である。
ハイセイコーの宿敵タケホープを駆り、ダービーを勝利したのは武豊の父、武邦彦である。
そのハイセイコーも、昨年、天寿を全うして、放牧中人間の誰に看取られることもなく、ひとり静かに世を去った。31歳。
人間で言えば、その4倍の年齢である。
  昭和の終わりから、中央競馬会はJRA、とCI方策を打ち、レースにグレード制を導入し、競馬のイメージ改革に着手した。
頃はバブル経済に突入する直前。
日本バブル経済崩壊直前、ハイセイコーと同じように、やはり公営の地方競馬から「怪物」の鳴り物入りで中央入りした、
一頭の葦毛(白い毛並み)。オグリキャップ。
このオグリキャップが、CIに成功したJRA競馬ブームの真っ只中にいた。
若者と女性が、大挙して競馬場に押し寄せた。
おりしも頃を同じくして、武豊という「天才」が騎手デビューを果たし、世間の耳目を集めていた。
競馬を知らずとも、武豊とオグリキャップの名は知っている、という世間の人々は多かろう。
オグリキャップ人気は沸騰し、若者の多くが車の後ろに、ぬいぐるみを置いていた時代である。
人智を越えた、一頭のサラブレッドのひたむきな走りに、人々は興奮し、熱狂し、感動した。
今を去ること、およそ10年前である。
武豊にすれば、「天敵」であったオグリキャップ陣営は、
オグリは“終わった” “燃え尽きた”と口さがなく騒がれた後のラストランの鞍上に、
武豊を指名した。そして、それが、「奇跡のラストラン」として、競馬史に残る名勝負となったのだった。
今でも、思い起こせば、涙する、というファンは多い。
 オグリ引退の日の有馬記念。
有馬記念というレースも、千葉県船橋市・中山競馬場史に残る有馬氏が発案した、
ファン投票によって出走馬を選出する方式の、年末のその年の競馬総決算レースである。
 「ええ、今でもよく覚えていますよ。」
武豊は、穏やかに微笑みながら、いつもの彼らしい、京男の淡々とした、もの柔らかい口調で語る。
 「あの日は、朝からもう、パドックの雰囲気からして異様でした。オグリ一色だった…。」
オグリキャップは、精神で走るタイプの馬だった。疾駆能力の高さももとより、精神を集中し燃焼させて、走る。
そのタイプの馬だった。
故障は克服してもいずれ、消耗するのは、分かり切ったことだった。
 「この馬、なんとか、焚きつけなあかん。」
武豊は、最終追い切り(レース前の本番同様の、きつい走り込み練習)を、芝(ターフ)でやりましょう、と陣営に提案した。
武にすれば、珍しいことである。
馬の仕上げは、陣営、つまり厩舎スタッフの責任範囲、騎手はそれに口を出さない、というのが、武の元来の方針である。
追い切りも、練習コースのウッドチップコースではなく、芝コースで、本番同様に。
つねに一番人気を背負ってきたオグリも、この日、前戦績を反映して、単勝4番人気。
だれもが、オグリが勝って終わることは無いだろう、と嘆きつつそれでも、奇跡を待つ、そんな思いを反映した4番人気であった。
武豊は有馬記念当日も、パドックで跨ってから、あえて、馬にきつく当たった。そんな鞍上に反発心を覚えたのか、
オグリ本来のギラギラした目の輝きが戻ってきた時が、ちょうどゲートインだった。
スタートが切られ、ペースはスローになった。が、武豊はオグリと折り合って(人馬一体に調子を合わせること)いた。
オグリはかかる(走りたがる)ことは無かった。スローペースにかかることなく馬群の中団につけ、一周目を回る。
武の、細身の長身を器用に折り畳むような優雅な騎乗姿勢。
馬を気分良く走らせることに関しては、まさしく武豊は「天才」であった。
レースでは、馬の能力7に騎手の実力3、の割合と謂われる。
が、武豊の場合は、間違いなく、馬6・騎手4、の割合になる。
最後の直線で、武豊がオグリキャップの手前を替えさせていた
(踏み出す脚の左右を変えさせる。オグリは左鞭を入れられると手前を替える癖があった)
のは、有名な逸話である。
いよいよペースの上がる勝負どころ、2周目の3コーナーカーブから、オグリが先頭目指してスピードを上げる。
時速にして約70km。
競馬場の興奮は、頂点に達した。
最後の4コーナー、オグリキャップは、先頭集団にとりつき、並ぶ間もなく冬枯れの芝の上、最後の直線に向かって疾駆した。
まさか、オグリが!オグリが来た!観衆の絶叫が、果てしもなく続く。
 「オグリだ、オグリだ、さあ頑張るぞオグリキャップ!」
アナウンサーが甲高く叫ぶ。
中山競馬場のゴール前名物の急坂を、オグリキャップが先頭で駆け上がる。観衆は、まさしく、奇跡、を目にしていた。
今現在でも、ラジオ短波アナウンスの実況には、女の子の黄色い声がアナウンスと一緒に記録されている。
パーフェクト予想で競馬の神様と敬われた故・大川慶次郎にして、オグリキャップの勝ちはありえず、
本命にした若駒メジロライアンの名を 「ライアン!ライアン!」と民放で連呼した。
それほどの、ラスト直線、大興奮の攻防であった。
約1馬身、オグリキャップが先頭でゴール板を駆け抜ける。15万観衆の狂喜を一身に浴びながら。
そのまま武豊は、ゆっくり一周してウィニングランをする。
 「オ・グ・リ! オ・グ・リ!」
15万観衆の、ユタカコール、オグリコールが湧き起こる。
 「ええ、全身に鳥肌が立ちました。」
 「僕も一緒にオグリコールしてました。」
そう言って、武豊は微笑む。
 「ウイナーズサークルで、女の子じゃなくて、おじさん、とかも泣いてるんですよ。ホント。偉いことしたな、と、改めて思いましたね。」
年の瀬の黄昏迫る冬枯れの競馬場の芝の上、オグリキャップと武豊は、この瞬間、伝説の英雄となった。
武豊、弱冠20歳、勝利数トップを走る若きリーディング・ジョッキーの誇りが、高々と天に突き上げられた左手に、悠々と漲っていた。
オグリキャップには、数十億円のシンジケート(種付け持ち株連合)が組まれ、故郷、北海道で種牡馬となった。
が、なぜがオグリキャップの産駒からは、オグリのような馬は、一頭も生まれていない。
オグリキャップの毛色や体質は産駒に伝えることが出来ても、走ることへの精神は、オグリキャップただ一頭だけのものであったのだ。
精神まで、遺伝させることは、できはしない。
現在ではシンジケートも解散され、牧場見学に訪れる人々からも、より奥の柵の放牧地に移され、静かな余生を送っている。
オグリには、現在でも、一頭でも種付けを希望する牝馬(ひんば・めす馬)がいる限り、種付けは行われるという。
 「一頭は、必ず凄いのが出るはずだ。」
オグリを管理する厩務員は、今もそう、信じている。




  オグリキャップから数年後、また、競馬史に残る名馬が誕生した。
3歳クラシックレース3冠馬となった、ナリタブライアンである。
このナリタブライアンの3冠達成の頃が、JRA史上最多売り上げを記録した、競馬ブームの頂点であった。
平成の世になって、初の3冠馬。
3冠とは、クラシックグレードT競争である、春の中山「皐月賞」2000m、東京「日本ダービー」2400m、秋の京都「菊花賞」3000m の全てを勝った馬のことを言う。
歴代、数頭。
JRAはこの年、入場人員最多記録を記録している。
目の前で、3冠達成を目にした人々が最も多かった、名馬である。
3歳馬にして、有馬記念をも制覇した。
そののち、いくつかの故障を克服してレースに臨んだ。
そして、平成の名勝負、と名付けられた阪神大賞典、マヤノトップガンとの800mに及ぶ一騎打ちを、武豊鞍上で制する。
さぞや、名馬が出ることだろうと期待されて種牡馬となったが、わずか2世代の産駒を残しただけで、
馬特有の全長30mの腸による腸捻転の闘病の後、胃破裂であっけなく世を去った。
現役時代の苛酷なレースが、身体を蝕んだとも言われている。
昨年、ナリタブライアンの馬房のあった地に、記念館がオープンした。
北海道を訪れるファンは、この記念館の丸石にメッセージを書き込んで、その名馬ぶりを偲んだ。
馬、とは、ストレスに極度に弱い、ごくごく繊細な大型動物である。
ちょっとしたことが、あとあと大きなトラウマとなって残ることが、ままあるのだ。
そして、宿命の、「ガラスの脚」。500kg近い体重を、あの細い脚で支える。
4本の脚で、自らの体重を支えられなくなった時点で、人は彼らを、安らかな永遠の眠りにつかせる。
  毎年、毎年、綺羅星のごとく、人気馬が誕生し、名勝負が繰り広げられる。そして、悲劇の最期を遂げた伝説の馬も、数多い。




 千葉県白井町、JRA競馬学校第18期生、秋山誠一は、18歳で卒業後、関西のJRA栗東(りっとう)トレーニングセンター伊藤雄三厩舎所属に、配属された新人騎手である。
厳しい3年間の寮生活と訓練の後晴れて騎手試験に合格し、所属厩舎で厩舎作業に励みながら、3月初旬の騎手デビューを待っていた。
誠一が所属する関西の名門、伊藤雄三調教師は、過去数多くの名馬を手がけ、武豊及びその兄弟子にあたる河内洋(かわちひろし)を育てた
故・武田作十郎厩舎から、引継の形で厩舎を受け継いでいる。
誠一は、競馬学校同期の大抵が競馬関係者の子弟であるにも関わらず、唯一ごく普通のサラリーマン家庭出身の生徒であった。
ただ、夭折した父親が乗馬好きであった、ということ、それだけの理由で、騎手を志した。
騎手にしては長身、体格から似ている武豊が、目標の騎手だった。
誠一の実家は京都にあったが、独身寮にも入らず、栗東の伊藤調教師宅に、居候の形で弟子入りさせてもらった。
これも、競馬界という狭い閉鎖社会により深く馴染むための、方策でもあった。
調教師宅には、高校1年になる孫娘の優子がいた。
現代風の端正な顔立ちを持った誠一に、優子は少なからず好意を寄せていたが、
まだまだ誠一はいわゆる新人の「あんちゃん」である。
大事に育てて行かねばならない厩舎の新人であるから、優子がいかに好意を持ったとて、それは憚らず人目にできるものではない。
早春の光溢れる3月第一週の土・日、阪神競馬場で、誠一はデビュー騎乗を飾った。
自厩舎の古馬(4歳以上の馬)500万条件戦(1勝馬クラス)である。
新人騎手デビューに備えてあえて用意された、上出来の馬。馬番11番。
この枠なら、スタート後馬込みに包まれることもなくレースを進められる。
パドック(下見所)で騎乗合図がかかり、馬の周回が止まる。誠一は初めて、観客の前で競馬の馬に跨った。
その週の稽古・追い切りで、好時計を出していたこの馬の単勝は5番人気。
緊張もあったが、誠一には喜びの方が大きかった。
誠一が跨って、馬に気合いが乗った。馬体の仕上がりも良く、勝ち負けになる(1・2着に入る)のも、
望みのないことはない。
馬券発売締め切り直前になって、単勝は4番人気になった。
ラスト一周の周回を終えて、競馬場地下馬道へ、誘導馬に従って馬たちが連なってゆく。
地下馬道から競馬場に出ると、陽光は柔らかく眩しく、馬の毛づやをキラキラときらめかせた。
本場馬入場である。マーチが流れ、アナウンスがターフピジョンの大画面に一頭一頭を紹介していく。
担当厩務員が引いていた手綱を離し、誠一の馬は返し馬(早足で馬場を走って最終調整すること)に入った。
まだ冷たい早春の空気が、誠一の頬をなぶる。
芝1800メートルの第6レース。
馬場状態、良。
約10分弱、待避所で輪乗りののち、ゲート前に集合の旗が振られる。
誠一には、ひとつひとつが新鮮だった。
手綱を引いて、誠一はゲート手前で馬を止める。ファンファーレまで、また少しの間、輪乗り。発走時刻になった。
スターターがスタート台に向かい、スターターの赤旗が振られ、ファンファーレが鳴る。
各馬ゲートイン。奇数番から順に、JRA係員によってゲートに引かれる。誠一の馬も、スムーズにゲートに入った。
偶数番各馬もすべて順調にゲートに収まり、大外枠の最後の馬がゲートに入る。係員、離れ、スタート。
誠一の馬も、まずまずのスタートを切った。
同レースにも騎乗の、武豊の馬のスタートが良い。武のスタートの巧さには、定評がある。
好スタートから、誠一は馬群の中団外目の位置取りを確保した。
このまま流れに乗って折り合いがつけば、馬の出来からして、好レースになる。初騎乗でも、誠一は冷静だった。
逃げ馬が一頭、ハナ(先頭)を切っていく。
そのペースに惑わされないことだ。
中団のやや前目、好位の圏内に、武豊の馬がいる。ユタカさんについていけば…。
武豊クラスのジョッキーになると、コンマ1秒を正確に体内時計で計ることが出来る。
ペース判断は、正確この上ない。
向こう正面、誠一は折り合いに専念し、武の馬をマークした。3コーナーから、ペースが上がる。
誠一の馬の脚質は、差し(中団待機からゴール直前で抜き去る)。
誠一は、馬に気合いをつけた。馬は反応良く、すっとスピードを上げた。
馬群の空いた内をついて、無駄なく先頭について行く。
4コーナーをスムーズに回って、内埒沿いに、誠一の馬は先頭を目指す。
バテた先行馬をかわしながら、ラスト直線、武の馬と、2頭の競り合いになった。あと、100m。
ゴール寸前で、誠一の馬は、先行した武の馬を差した。
史上でも珍しい、初騎乗、初勝利、である。ゴールインして、武豊が満面の笑みで、誠一に声をかける。
 「おめでとう!」
 「は、はいっ!」
誠一には、まだ初勝利の実感はない。向こう正面から馬を折り返して検量室前、「1位」の馬待機に馬を誘導する。
下馬して腹帯を外し、鞍を取り去る。
ゼッケンを厩務員に渡し、まだ何やら興奮の冷めやらぬまま、後検量に向かう。
後検量(レースの後、不正に鞍などの馬の負担重量が減らされていないかをチェックする)を済ませ、
「整列ー!」の号令に、検量室で騎手が整列する。1位から8位までの馬順が確定すると、かかる号令である。
 「おい、あんちゃん!記念撮影だぞっ!」
先輩にどやされて、誠一は不慣れにウロウロしながら、ウィナーズサークルに向かう。
馬とオーナー、厩務員との記念撮影を終える。
その後、JRA女子職員が「初勝利」の看板を掲げ、誠一はお立ち台に登らされる。
花束が贈られ、テレビカメラが向けられ、カメラマンが指示を飛ばす。
 「花束、逆だぞ。もっと高く!」
 「もっと笑って!」
一般の競馬ファンも、カメラを向ける。
この先、この騎手が、どれほど出世するか、によって、この写真は、貴重なお宝の一枚となるからである。
この日、誠一の乗り鞍は、この一鞍だけだった。これで、ジョッキールームに戻ることはない。
平服に着替えて、スタンドの調教師席に向かう。
伊藤調教師が笑顔で迎えてくれた。
 「よくやった。」
 「あ、ありがとうございました!」
新人に勝たせるため、用意した馬だった。とはいえ、意図通り勝利に恵まれた。
調教師にも、喜ばしい弟子の初勝利である。
優子が、スタンドに来ていた。
 「誠一さん、おめでとう!」
 「あ、優子ちゃん、見ててくれたんだ…。」
ようやく、誠一の顔がほころぶ。そうか、俺、勝ったんだ……。
優子は、その誠一の整った顔立ち、伸びやかでほっそりとした体躯を、恥ずかしそうに見あげる。
優子にとっては誠一が、何をするでもない。
ただ、誠一のする動作のひとつひとつが優子の胸をうち、はかない幸福感に満たされる。
それだけのことだった。今は、それ以上でも、それ以下でもない。
初恋は、えてして実らないものである。しかし、いつかは…。
優子は、誠一を黙って見つめ続けた。




  誠一が減量騎手として(新人の見習い騎手には、その勝利数によって、馬の負担重量を軽くする優遇制度がある。30勝以下の騎手は、定量より3kg減。)順調にスタートを切り、
春競馬は、クラシック戦線も盛り上がり、いよいよ、その終盤、日本ダービーの日がやってきた。


  ダービーと名のつく世界中の競馬の原点となる英国ダービーは、近代競馬の誕生に大きく貢献した英国貴族、
ダービー卿の名を頂き、1780年に第一回が開催された。
かの英国首相チャーチルは「一国の宰相となるよりも、ダービー馬のオーナーとなることの方が困難である」と語ったという。
成長のただ中にある生命力溢れ出す3歳馬にとっての、一生一度のレースは、同時に
「次代を担う最強のサラブレッド種牡馬を決定する」という、競馬文化の根幹をも担っている。
すなわち、ダービーとは、その国の競馬文化の基軸を支えるレースなのだ。
そして、そのダービー馬を勝利に導くダービージョッキーにもまた、
大いなる責務と、大いなる極上の喜びが待ち受けている。
騎手ならば誰もが望む“ダービージョッキー”の称号。
武豊にして、10年間勝てなかった日本ダービー。
彼にしても子どもの頃からの憧れであったという、ダービージョッキーの称号。
一度勝つと、その翌年には武はそのダービーを連覇した。
そして、アメリカ遠征直前、前人未踏のダービー3連覇がかかった昨年、一番人気馬を得て、観衆の誰もが武の3連覇を確信した、最期の直線。
最後方からレースを進めた「遅れてきた大物」アグネスフライトが、武豊の駆る皐月賞馬エアシャカールにぐんぐんと詰め寄る。
エアシャカールが若さを見せて、直線でヨレる。真横に迫ったアグネスフライトに2度、3度、馬体をぶつけてしまう。
武が素早く左右に鞭を持ち替え、体勢を立て直す。
その不利もものともせず、真っ直ぐ走り抜けたアグネスフライトが、わずか7cmハナ差、エアシャカールを制した。
鞍上は、河内洋。
実に、兄弟弟子での勝負決着であった。
兄弟子・河内は45歳のベテランジョッキーにして、初のダービー制覇。そして、このアグネスフライトこそ、
競馬が血の浪漫である所以を明らかにした馬だった。
祖母はオークス馬・母は桜花賞馬。
父に、日本競馬界の馬産地生産界地図を大きく塗り替えた大種牡馬・サンデーサイレンス。
史上初・3代続けてのクラシック制覇、の快挙であった。
この3代の全ての手綱は、河内が取った。クラシック制覇のために世に送り出されたような馬、であった。
そして、この年。その前年のダービー馬、アグネスフライトの全弟(父も母も同じ兄弟)アグネスタキオン。
タキオン、とは、物理学で「光の粒子」を意味する。
前年末のラジオたんぱ杯をレコードタイムで制して以来、弥生賞、皐月賞を快勝。
大本命で、この日本ダービーの日を迎えた。
アグネス、の冠号で有名な渡辺オーナー、前年のフライト同様、長浜厩舎。そして河内騎手。
兄フライト以上の馬、と、牧場にいる頃から、評判の高かった馬である。
血統、馬体、気性、レース内容、と、4拍子揃っている。
生産者である、日本最大の生産牧場・社台ファームの吉田照哉氏。
そもそもは、この男がアメリカの年度代表馬・サンデーサイレンス輸入を決断した時点から、現在の日本競馬が成り立っている、ともいえる。
日経新聞一面の長者番付にも名を連ねる、馬産界の若き傑物である。
サンデーサイレンスの、産駒へのその強烈な競争能力の遺伝。
アグネスフライトもエアシャカールも、このSS産駒であった。
その吉田氏をして、史上最高の馬、との声も上がる中、充分それを意識させているこの馬アグネスタキオン。
一年に生産されるサラブレッド約9000頭余り。そのうちのわずか18頭の選りすぐられた馬たちによる、日本ダービー。


 真澄の知人である馬主も、幸いにこのダービーに出走できる数少ない幸運な馬主となった。
出走できるだけでも、名誉この上ない。
普段は人の入ることは出来ないパドックの芝は、「日本ダービー」とペイントされ、
幸いに暑いほど晴れ上がった晴天の下、
ダービーに向けて競馬場には人々の熱が次第に上がっていった。
このダービーに出走する馬のパドック周回が始まった。


  関係者一団は、パドック芝の上に、緊張極まりなく、気もそぞろにたむろする。

 「あっ、あの馬と目が合った!」

マヤが声をあげる。役者の声なので、良く通る。

 「しいっ、マヤさん、お静かにっ!」
芸能社社長に、マヤが窘められる。
英国ダービー並みに、マヤはこの日、大きな帽子を被らされていた。舞台女優に日焼けは禁物なのだが、
ダービーなら、ということで、真澄が水城に選ばせた競馬観戦ファッションである。
真澄は笑って、
 「好きな馬を2頭選べばいい。どちらが1・2着に来ても当たりだ。」
 「そういうものなの?」
 「それが馬番連勝復式、といっても、わからんだろうな。」
 「単勝、ってあそこに書いてあるけど?」
マヤは電光掲示板の単勝人気の数字を指差す。
 「その一頭だけに絞って勝負を賭ける馬券のことだ。」
 「だって、1.1倍って?」
 「100円馬券を買って、それが勝てば110円になって戻ってくるんだよ。」
 「それじゃ、あんまり賭ける意味無いと思うけど…。」
 「それだけ、支持する人が多い、人気が高いということだ。」
真澄は淡々と周回する馬を見ている。そして、興奮気味の芸能社社長に、もの柔らかく話しかけている。
マヤはこれだけ近くでナマで馬を見るのは初めてだった。
究極に仕上げられた、18頭の精鋭たち。
どこがどう違うのか、マヤにはよく判らなかったが、一頭だけ、抜きん出て品の良い馬がいる。
その馬と、さっきマヤは目が合った気がしたのだ。
史上最高レベル、とも言われる今回ダービー。
その中でも、次元の違う走りをするアグネスタキオン。
勝てば、武豊に続く河内騎手のダービー2連覇である。



  ダービー前の第8レースむらさき賞は、俗称残念ダービーとも言われている。
つまり、同じ3歳馬でありながら、ダービー出走にはこぎつけられなかった馬たちのレースである。
ルーキージョッキーとしては珍しく、誠一はこのひのき舞台に立つ騎乗機会を得た。
勝負こそやっと5着の掲示板確保、ルーキーにしては立派な成績である。
誠一は後検量を済ますと、調教師席に向かい、誠一についてきた優子とともに、ダービーを観戦することになった。



 「速水社長、ウチの馬は勝ち負けにはなりませんかね?」
パドックで芸能社社長が、冗談交じりに、しかし、藁をも縋る希望をこめて、そう話しかける。
 「ハハハ、清水さん、ご自身がまず信じないことには。」
真澄は笑って受け流した。
 「やっぱりアイツでしょうかねぇ。」
芸能社社長は、溜め息混じりにアグネスタキオンを見やる。
栗毛が美しく初夏近い五月晴れを反射して、キラキラと光っている。
見るからに賢そうな、柔和に輝く目。
パドックの満場の観衆が放つ異様な緊張した雰囲気にも、堂々と落ち着き、
爆発的な瞬発力を生む馬体のバネ豊かな柔軟さが、歩様によく現れている。
 「綺麗……。」
マヤは思わず口にする。
 「ね、真澄さん、私あの子にするわ。」
素人目にも、アグネスタキオンは良く見えよう。
 「110円でいいのか?」
 「お金じゃないわよ。あの子だけ、オーラが違うみたいよ。でしょ?」
いよいよ、時刻が近づいた。

 「とま〜れ〜!」
独特の抑揚で、騎乗合図が掛かる。
騎手が、整列して、一礼。それぞれの騎乗馬へと、パドックを走る。
調教師とそれぞれ言葉を交わし、騎乗馬に跨る。
そして、周回のラスト一周。
騎手が乗ると、馬の気合いが、明らかに変わる。マヤは驚いた。生き物の放つ、その一瞬の、不思議さ。
誘導馬の白馬を先頭に、各馬、地下馬道へと消えていく。関係者達もそれぞれ、観戦席へと移動を始めた。
マヤ達は、エレベーターを上がって芸能社社長の馬主席へ。
 「こんなに遠くっちゃ見えないわよ。馬が豆粒みたい。」
観覧席4階ゴンドラの馬主席は、確かに馬場には遠い。
 「その双眼鏡を借りるといい。」
真澄が指差す。
既に本場馬入場が始まり、競馬場は大歓声に湧いている。その響きが、地響きのように馬主席に伝わってくる。
マヤは鳥肌が立った。
 「なにこれ。歓声なの?」
 「ダービー、だな、いかにも。」
17万観衆の興奮が、否応なくマヤを誘う。
広々とした広大な競馬場敷地の遠くに、首都高が走っている。その向こうは、蒼天の空。
数多くの旅だった馬の魂が、見守る、蒼穹の天。
虚空高く、限りある命あるものが、唯一無二の燦めきを放つ。ダービーの、日。

待避所で輪乗りをしていた馬たちが、スタンド真ん前のゲートに、集合合図の旗が振られて、三々五々集まってくる。
伝統の、白地に黒ゼッケン。
発走、1分前。
スタンドの興奮は、頂点に達した。
そして、スターターがスタート台に上る。赤い旗が振られる。
GTファンファーレの、鼓笛隊による生演奏。
17万観衆が、競馬新聞を丸めて手拍子を送る。
関東GTファンファーレ独特の、5拍子の変拍子が入る。そして、各馬、続々とゲートイン。
ほぼ真下に、マヤはそれを見入っていた。
なにか、とてつもないことが起こるような、そんな、予感。自然、総身に鳥肌が立つ。
最後の一頭がゲートに収まった。一瞬、競馬場全体が息を呑む。その、間合い。それが、スタート。

 「出ろ〜!」

合図とともに、各馬一斉にスタート。
全2400mの、第68回、日本ダービーが始まった。天高く響き吸いこまれてゆく17万観衆の大歓声。
マヤは真澄の手を握りしめて、一心に馬場を見つめ続けた。
命あるものが全うする、その生命が煌めく。ただ一つのゴールを目指して。
馬たちの疾駆は栄光への蹄跡。東京優駿。
結果は、天にいます神のみぞ、知る。
ダービーの、日。









終わり









2001/3/13



【作者註】
2005年5月29日(日)東京競馬場第10レース第72回日本ダービー東京優駿。芝2400メートル、午後3時40分発走。
天気、晴れ。芝、良。
3枠5番(赤)ディープインパクト勝ちました。
タイムは2.23.3。2004年キングカメハメハが記録したダービーレコードとタイ記録。
上がり3ハロンは33.4。5馬身差の圧勝。素晴らしい強さでした。
尚、単勝は1.1倍。単勝支持率は73.6%。作中に書きましたハイセイコーの単勝支持率を遥かに上回りました。記録更新です。
観客14万人、8966頭の頂点に立ちました。
これでディープインパクトは史上6頭目の無敗2冠馬となりました。
レース前の「君が代」独唱はオペラ歌手・錦織氏でした。
武豊騎手、池江調教師、金子オーナー、生産者さま、関係者の皆さま、本当におめでとうございます。
素晴らしいレースを見せていただきました。ありがとうございました。忘れません。







SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO