朝日さす窓


written by 紫苑










女で遊んだことが無いとは言わない。
男であるならば。
眦に媚態を滲ます女を一瞥する。
こちらが少し目配せすればそれで十分だ。
暗黙の了解はすぐにとりつける。
素人の女とは違う。口説く手間暇も要らない。
望めば情事は簡単に手に入る。
腕に纏わりつき自慢げに胸を押しつけてくる女の媚びに特に関心も示さない。
女の方が熱を上げるのが常だった。
化粧の瞼をきつく閉じ腕の中で喘ぎ悶える女をじっと観察する。
それが強いて興味深いものでもない。
所詮は情事のための情事。
心のどこかはいつも冷めていた。
女を存分に支配して頂点に導けばそれで満足は得られる。
それ以上でもそれ以下でもない。
そんな夜も、これまで全く無かったと言えば嘘になる。
だが、情事の女に熱を入れ上げるほどの愚直さには残念ながら恵まれなかったようだ。
秒刻みの日常の中で女はごく一部の戯れに過ぎなかった。
それで十分でありそれ以上の何も期待してはいなかった。
自分の男としての能力を知らしめてくれる女を、特に可愛いとも思わない。
一夜限りでゆきずりの女と媾う。
それもただの一興。その程度のことだった。





波打ったシーツに気怠げに横たわる女から躰を離すと、シャワールームに向かう。
頭から、熱いシャワーを浴びる。
髪から滴る湯が頬を伝う。
湯気にけぶるシャワーブースの湿気はまだ女特有の湿り気のようで
思い切りよくそれを洗い流そうと更にコックを捻る。
この時だけは、自分はただ一人きりになれる。
この時間は好きだった。
今思えば、やはり若かったのだと思う。
男である自尊心がいっとき満たされれば、それで後腐れもないことになんら疑念も無かった。
シャワールームの壁に手をついて情事の痕を全て洗い流す。
腰にバスタオルを巻いて、シャワーから出る。
濡れた髪から伝う滴にも構わない。
肉厚の綿のフェイスタオルを裸の肩に掛ける。
ルームバーから抜いたレミーのボトル。
煙草は旨かった。
深く肺まで煙を吸いこむ。
湯上がりの半裸を目にしたベッドの女が色めき立ち何かを言ったが意に介さない。
一時、旨い煙草と旨い酒で一人、祝杯を上げる。
何に?
性を境の男女の行為にもさりとて心動かされなかった自分に、だっただろうか。
次にいつ会えるのかと女が問うが曖昧にはぐらかす。
いつまでも裸体の女はしきりに愛撫を誘ったが、構わずに身支度を始める。
必要十分の現金を化粧台の女のバッグの下に滑り込ませると、ホテルの部屋をあとにした。







そんな夜が幾度か巡ったのは、もう遥か昔のことのように思える。
ひとりの少女に出会い、魂を揺さぶられるほどの感動に胸を熱くし、
初めて自分のそれまでの生き方に疑問を抱いた。
何一つ後悔などないつもりだった。
だが少女はまだ誰をも知ることのない乙女のしなやかな肢体で
舞台の度にその純粋な魂、何に穢されてもいない清浄な、
しかし驚くべき情熱をして余すところなくその生き様を生き生きと舞台に描き出した。
最初の観劇の衝撃。感動をどう伝えてよいか判らぬまま、花を贈った。
その日から、ただ一つの瞳、ただ一つの魂に、我知らず惹かれていったのだと思う。






異性だけではなく、人として、己れ以外の他人を愛する、ということ。
まして異性との色恋など。
自分には全く無縁であり無益だと疑わなかった。
だが。
知らずに魅せられ続けた少女の無垢な純一な情熱に
いつしかこころ惹かれその存在が次第に大きくなり
思いもかけぬ感情に揺れ動かされることを知った。





言葉がある。
言葉は己れの裡から出て自分を見つめている。
まだなお心の中にある、もう一つの言葉を見つめている。





それが愛、だと気づいた時は酷く狼狽した。
人として誰かを愛するということ。
己れ以外の魂を求めてやまないということ。
まだ愛の何たるかを知らなかった頃、ただ懼れと無闇な高ぶりを持て余すだけだった。
魂を得たいという欲求はたいていの場合挫折する。
そしてその痛みによって初めて、愛が認識されるのではないだろうか。
人がその内面の孤独に相対するものを外界に見いだそうとすることを「愛する」というのだとすれば、それは単に自己中心な自己満足に過ぎないだろう。
愛することの本質からは、それはかけ離れた無意味な無為に過ぎない。
しかしその頃はまだそうと知ることはなかった。


その少女だけを恋い、かけがえなく愛おしく思うこと。
想いを常に秘め、素知らぬふりをし、自らを傷つけ、
あろうことか少女をも手ひどく傷つけた。
かくも愚かしく、人は誰も、愛の名のもとに傷つけ合うものなのか。


惑乱、焦燥、怯懦、戦慄。
不合理と混乱。狂気と夢。
独善、傲岸、残酷、無知。


胸焦がし、数々の障壁を前にして自らの無力に絶望すること。
その苦しさ。
どれほどの自己欺瞞を無駄に費やそうと、一度求めることを知った後はただ苦しかった。








しかし今はもういい。
全ての道程は、この実りのための学びであったのだと、
今は肯定できる。
愛し愛されることの全き幸福に満たされた今は。
いまこの時。
朝日さす甲板で、きみの告白を聞いた。
きみの眼差し
きみの科白の音韻
きみの掌の慎ましい暖かさ。
どうして認めずにいられようか。
きみの前にこの心は平伏す。





愛しい者よ、愛するきみ。
祝せられた夜、初めてこの唇を寄せてきみの耳元に囁いたきみの名は
言葉に尽くせぬ甘美な響きで胸を一際熱くした。
乙女の羞じらいと怖れに震えていたきみ。
自分に許された能う限りの愛しさが、この心から溢れてとどめようがなかった。
きみは覚えているだろうか。
目覚めた朝、朝日のあたる窓がどれほど輝かしかったかを。


きみの長い髪をこの指で梳いて、柔らかな頬にそっとくちづけた。
まどろむきみは、まだ夢の中。
腕を回して抱き直した華奢な肩。
これからはもう何も躊躇うことなく、ふたり、こうしてこの朝日さす窓を眺めることだろう。
死が我々を分かつまで。
いや、たとえ肉体は滅んでも、きみに誓いきみに捧げたこの愛は終わることがないだろう。
愛するきみよ、きみのためだけに
愛は十全に潔癖に愛でありたい。
愛を為すということは、高い、ことなのだ。
きみとともに歩んだ日々が、それを教えてくれた。


愛している。
愛している。
いつまでも。
きみが決してこの腕からすり抜けないように、
この愛撫から決して逃れられないように、
きみを女にしてやろう。
そのための忍耐ならば喜んで何事にも耐えてみせよう。
この腕の中で
きみを夜ごと花開く唯一人の女にしてやる。
覚悟しておくがいい。


きみの微笑み
きみの明るい笑い声
きみの瞳に映る何のひとつも見逃すまい。





足音が聞こえる。
今夜はきみのほうが遅かったな。
久しぶりに懐かしい呼び名で呼んでみる。

ドアが開いた。


「やあ、ちびちゃん。」










終わり





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あとがき

2007年1月下旬、サキさんのサイトオープンにあたり何かお祝いを、
とリクエストを伺いましたところ、なんでもいいので「セクシーなシャチョー」を、ということでした。
リクにお応えできたのは冒頭2段落だけかもしれませんね、スミマセン。
あえて「おれ」という一人称を全て省いて言葉を置き換えどれほど情況・心情描写が書けるか、
は、ちょっとした楽しいお遊びでした。



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