written by ノリアキラ様
「ほう。君、ブランデーを呑んだことがないのか」 彼が隣にいるマヤを意外な心地で見つめたのは、けして、彼女が東西の酒を飲んでまわっている飲み助だからというわけではない。 自分の喉には普通にコレまで何度も無造作に通っていった飲み物を、ただの一度も呑んだことがないという人間が、存外に近くにいたことへの素朴な発見から来るものだ。 マヤは両手の上に顎を乗せ、彼の手の中にあるブランデーグラスを眺めている。 「うん。いつもビールだけだから。でなきゃ、カクテル」 外は雨がふっているようだが、ホテルの地下にあるこのバーは、地上とは薄い膜で遮られた心地よい別世界だ。 甘い酔い心地に、音に聞こえた無粋者であるはずの彼も、さすがに上機嫌にならざるを得ない。 マヤの誕生日。 さすがの彼も、この日ばかりは何ヶ月も前からリークして、たとえ自社株が大暴落しようとも社には赴かないと不屈の決意でもって死守した休暇である。 マヤ………北島マヤ。 彼が長い長い呆れるほど長い片思いのすえ、ようやく手に入れた、大切な恋人。それが、彼女だ。 女優で、しかも天才である。 現在はその肩書きの上に、彼の婚約者という、目の眩みそうな、なんともまばゆいおまけがくっついた。 まぎれもなく自分がそれをくっつけた張本人である彼は………なんと彼女より十一も年上なのだ! いま、考えても、どうしてこの恋が成就したのだか、我が事ながら、納得ゆかない………いまだに時々不安になって、そのおまけが剥がれぬかとそわそわ、いらいらしてしまうのだが。 そのそわそわが募ったあまり、彼女を自分の屋敷へ住まわせて、婚前同居という状況にまで持ち込んでいるというから、困ったものだ。 とまれ、うるさ型の養父やら、乳母やら、メイドやらがうじゃうじゃといる屋敷のなかでは、とても甘い生活といえたようなものでもないが。 大都芸能社長。大都グループ次期総帥。速水真澄といえば泣く子も口を押さえて布団に隠れる仕事の鬼で知られたはずなのだが、これまた、呆れた惚れようだと、自分で自分に溜息をつかぬではない。 が、二人で外出できるとなると、自覚はなくてもテンションが自然とあがってしまうのはどうしようもなかった。 加えて、最近、些細な事が原因で喧嘩をしたところということもある。 仲直りしたてという状況は追い風だ。 朝から彼女をあちらへこちらへと連れ廻し、服に時計、靴に指輪と、正直なところ彼女でなく自分の欲求を満たすことが目的のプレゼントは彼女の手ではとうてい持ち帰らぬ有様。 彼の贈り物の嵐に窒息ししそうになっているマヤの様は、思いがけず、彼に、脊椎がびりびりいうような快感を感じさせた。悪い遊びを1つ覚えた気分だったが、それをまたこらえつ、普通の顔をしておらなければならないところがオトナのつらいところである。 誰の横やりも入らぬ楽しい食事の後、そのままホテルのバーに滑り込んだ。 バーの止まり木に腰掛けると、やはりまだ幼さが香るようなマヤの初々しい肩口が目立ち、また、愛おしさを覚えた。 「確かに君はもともと酒はあまり強くないようだからな」 いろいろなことを思い返しながら彼が呟くのに、マヤが頷く。 「お酒って、長く飲んでいるうちに美味しくなってくるんでしょ」 どこか、ぽぅッとした表情で、マヤは彼のブランデーから目を離さない。 「いや、うまいうまくないで飲むものでもないかもしれん」 つぶやいて、彼は首をかしげた。 「ためしに一度、飲んでみるかね」 うっかりそんな申し出をしてしまったのは、やはり、少しばかり浮かれていたせいかもしれない。 マヤは一瞬考える気配をみせたが、すぐに手を伸ばしてきた。 一挙一同がどこかはすっぱで、投げ出すような感じだが、別に機嫌が悪いのではないだろう。どうも、食事のときに飲んだワインがまだ、残っているようなのだが、彼もさしたる心配はせずに、彼女に自分のグラスを渡し、そのまま、マヤを見守った。 ………が、次の瞬間、マヤが急に大きくぐいとそれを煽ったから、声も出せずに目を引き剥く。 彼らの気配を横で感じていたバーテンも、ギョッとしたように彼女を見守っている。 数秒のち、マヤは派手な音をたてて、グラスをカウンターに戻した。 「君。酔ってるのか」 大丈夫かと聞くつもりが、つい本心の方が漏れてしまう。 が、マヤは気にしたふうもない。 というか、気に出来なかったようである。 「うぅん」 右、左! という感じで、彼女は明るく頭を左右に振るった。 だが、次にはその勢いを自分で受け止めきれなかったようで、不意に目を回した。体がぐらりとかしいだかと思うや、高いカウンターチェアから転がりおちる。 慌てて腕を伸ばして、間一髪、細い体を抱きとめた。 さすがにバーテンが驚いた顔のまま、彼の方に飛んでくる。 「………勘定をたのむ」 彼は自分の腕の南下を見下ろして、しばらく絶句していたが、その後、細い溜息とともに呟いた。 ひゅうひゅうと、浅い寝息をたてて、マヤはくったりと首を彼の胸にもたせかけていた。 ☆★☆ おりしも、おもての雨は本降りだ。 マヤをこのまま連れて帰るのは大手間だと判断した彼は、そのままホテルに部屋を取ることにした。 痩せても枯れても業界トップの大都芸能社長。 しかも自分一人であるならともかく、今日は彼女も一緒なのである・ ………無論、部屋はスイートに。 いや、別にへんな下心など、断じてない! 彼は年に見合わず、わりに律儀なたちだから(あくまでマヤに関してだけ、だが)一応、彼女の体を求めるのは、キチンと式をあげてからと、そう思っている。 実は最近した喧嘩というのも、彼がそうは思ってもなかなか体的に我慢がきなくなりそうで、ついついそっけなく接していたものが、誤解され、彼女に屋敷から飛びされてしまったというような顛末。 今日の彼女の誕生日は、彼にとってはその仲直りの意味も兼ねていたから、一日何でも言うことをきくと、屋敷を出際に、マヤに申し出ていたりする。 ちょっと驚いたような、照れくさげな、でも嬉しい気持ちを抑えきれず、微笑んで彼を見上げたマヤの表情に、笑顔にもこれほどの多彩さがあるものかと、なかば感嘆に近い思いを抱きながら見つめ返し、また、惚れ直しているのだから救いようがない。 水城や聖に伝えてやろうとしても、どうせ馬鹿にされてしまうだろうが、マヤといると、そういった発見がボロボロボロボロと彼の前に転がってきて、まるで彼は生まれてからこのかた、ずっと、自分の手で顔を覆って、何も見ずにきたのではないかという気分にさえさせられるのだ。 この感動を誰かと分かち合えぬかと思ってつい、口を滑らせてしまい、その都度、ごちそうさまと言わぬばかりの視線をくらって後悔する。連中だってそう恋慣れているわけでもなさそうなくせにと思うと、黙って羨ましがる度量をみせられないものかと、少し癪に触らぬでもない。 雨に濡れる窓のしたの景色を見る。 大きな窓を滑る水滴が、まるで万華鏡のように無数に同じ夜景を移していて、思わぬ美しさに目を細める。 普段はそのようなことに気がついたりはしないのだけれど、大きなベッドに横たわるマヤの甘ったるい呼吸を耳にしているだけで、すべてがそんなふうに景色を変えてしまうのだ。 窓に更に額を寄せて、自分の息が窓を曇らせることに、ふと、顔を顰めた。 酒臭い。 風呂に入ろうと窓から離れ………だが、ちらりとベッドへ目をやって、まっすぐに風呂場に向かわず、彼はマヤへ歩み寄った。 「マヤ。風呂に入るが、君はどうする?先に入るか?」 マヤはしばらく寝言のようなものをうにゃうにゃ唱えていたが、彼が何度かしつこく聞くと、 「うん」 重そうな瞼をあげ、ろれつのまわらぬ声で、頷いた。 が、そのすぐあとから、またもや浅い寝息だ。 真澄は顔をしかめる。 「うん、と言ってもな」 と、寝返るようにむずかって、マヤは幼い子どものように彼に手を伸ばした。 「も、あるけない……連れてってくれなきゃ」 彼は目を剥いて彼女を見下ろした。 普段なら、彼女が絶対にこんなことをいうはずがなかったからだ。 どうやら彼女はほんとうにしたたか、酔っぱらっているらしい。 だいたい、もとが酒に弱い。そして、酔うと陽気になるたちだ。 だが、それがわかっているのに、その舌っ足らずな物言いが、彼を鼻白ませた。確かにくったりと横になった彼女はとても起きあがれそうにない。 なに、脱衣所まで運ぶだけだ。 ここでは二人きりだし、誰に遠慮することも、照れることもないではないか。 意を決して、彼はマヤを抱き上げようとして、着ているスーツのボタンを彼女が手でひねくっているのに怪訝な顔をした。 マヤはもたもた悪戦苦闘していたが、その手を急に止め、彼をお願いの目で見上げてくる。 「ね。脱がして」 呼吸が止まった。洒落でなく、本当にだ。たっぷり三秒、心音も止まった気がする。 「な、にを、馬鹿なことを」 「だってボタン、外れないんだもん!」 ばたばと足でベッドを叩いて駄々をこねる彼女を、困り切った顔で、彼は見下ろす………深く深く、何かをこらえるように目を伏せる。 放っておけば、彼女はまたすぐ寝入ってしまうに違いない。 そして、明日の朝になれば、自分が何を言ったのかも覚えていなければ、どんな有様になったのかも、記憶にないのだ。 だが………それでも。 目の前の華奢な体。無防備な脚の線が、彼の胸を文字通り激しく揺さぶった。 屋敷の中では有り得ぬシュチエーションだ。 きゅうきゅうと心臓を引き絞る、激しい誘惑。酔いどれた頭にはあまりにも刺激が強すぎるというものだ。 どうせもう、婚約もしているのだし。一緒に住んでも、いるのだし。 なにより、未来の妻を、ただ、脱がして、風呂に連れて行くだけのことなのだから! 「眠るなよ」 照れ隠しのように言いながら、彼はマヤのスーツのボタンを上から1つづつ、外していった。 スーツは淡いブルーだ。その下から、柔らかく上気した肌を透かせて、白いシャツが覗いている。 マヤはあどけない様で、無防備に彼に体をまかせている。呼吸も、もしかしたらもう眠っているのではないかと思わされるくらい、規則正しく、たが、少し、早い。 胸のあたりの上のボタンに触れて、彼は少し緊張した。 これがしらふだったら、絶対に顔をツメでひっかかれるくらいではすまないだろうがな。そんなことを考える。 なんだか、妙に妖しい気分だ。 シャツだけの姿になったが、その下の下着のレースがうっらとうつっているのがどうしても目についてしまう。 真澄は苦い顔をして手をとめ、先にスカートを片づけてしまうことにした。 「こら。少しは君も手伝わないか」 細い腰の下に手をあて、後ろにあるホックを外し、ファスナーをおろそうとする。 が、体重を彼にまかせっきりだから、手が体に挟まれそうだ。 「ん、」 が、彼の言葉に、マヤが両足をベッドについて、軽く腰を浮かせたから、彼は今度こそ激しくどきっとしていた。 なんだかひどく淫らに見えたのだ。 別にしなをつくられたわけでもなんでもないのに、彼は細い腰から脚へ、上着と同じ薄いブルーのスカートをくぐらせる。 たぶんシャツにうっすら見えているものと、これもお揃いなのだろう、似たレースとあしらった下着が、ダークブラウンのストッキングの下に、まるで良くできたレリーフか何かのように現れた。 それを見て、変なところで彼は唾を大きく飲み込んでいた。 浅い酔いなどふっとんでしまった感じだ。 自分の無骨な指で触れてもいいものもかと恐れながら、シャツの下に忍ばせ、ストッキングの腰の部分に手をかける。 絹のような薄いその組織片は、彼の指に吸い付くように感じられた。 そうっとストッキングをおろしてゆく。 華奢な腰をくぐらせ、無防備に膝をあわせて、マヤは彼に脱がされるままだ。 ふくらはぎを過ぎて、白いくるぶしが覗く。 ほんのり彼女の温かみをおびたままのストッキングは儚い。 どのように片づけて良いのかわからず、かといって放置するのはためらわれて、彼はそれを自分のスーツのポケットに押し込んでいた。 そっと再び手を伸ばして、彼女のシャツに手をかける。 小さなボタンをこまごまとたぐるのはなんとも指先にもどかしく、いっそ一気に引き剥いてやりたくなる。 マヤはまだ浅い、眠たげな息を繰り返している。 彼はどうにも切ない気分になってきて、ちょっと気持ちを落ち着かせるように、彼女から目を離し、深く息をついて瞼をおろし、気を取り直して、彼女に向き直った。 間違いなく、彼女はいま酔っぱらっていて、もうどうしようもなく正体がないのだ。 どいということのないくちづけを交わそうとするだけで、真っ赤になってしまう彼女が、こんな風に脱がされて、平気でいられるわけなどない。 だが、ボタンが外れていくごとに顕れる練乳色の肌。 妙に真剣そのものな顔になっている自分の姿を、いつ、目を醒ました彼女に見られるかと思うと、焦りにも似た気恥ずかしさがあって、彼は薄く頬を赤らめてさえいた。 むらむらとしてきてしまうのは男のサガだ。しょうがない。 ただ、脱がせるだけとことさら淡泊を装い、その襟元を開いて見せるけれど、淡く青いブラジャーの下に盛り上がる胸に、息が思わず乱れてしまう。 目を細めて、手に彼女のシャツのはじを握ったまま、唇を歪めた。 風呂に入れるつもりで脱がせたのに、肉体の切迫がひどく高まって、それに戸惑いを覚える。 毎晩こらえて、こらえられていたから、大丈夫だと思っていたのに、今まで感じたことのないほど強く、彼女を汚してしまいたい衝動に揺さぶられる。 自分がこれほどまでにただの男だったとは、思いがけない感じだ。 彼は理性と本能の限界点を探るように、そっと、体をかがめ、細心の注意を払って彼女を起こさぬように、さくらんぼのような唇をついばみ、ついばみ、そして、さらに深くくちづける。 片手で彼女の腹から腰を滑り、そのまま薄い下着の腰に触れる。 片手で優しい胸のまろみを包み込むと、マヤはぴくんっ、ぴくんっ、と腰を跳ね上げ、身悶えした。 「お風呂」 マヤがくちづけから逃げて吐息の中から彼にそう訴えるのに、自分のやっていることに、ハッと正気に戻ってしまった。 苦い顔で見下ろせば、マヤは彼を信じ切った顔で、どうして風呂に連れて行ってもらえず、かわりにくちづけられたのか、不思議そうな顔だ。 それがまたたまらないほどあどけない表情だったから、真澄はそれだけで眩暈がしそうになる。 いったん喉の奥へ熱い物を飲み込み、そののち、彼は注ぎ込むようにして、彼女に囁いていた。 「このまま風呂で続きをしようか?」 きゅうッと彼女が赤くなった。 さすがに酔っていても、不意に彼の意図するところを悟ったのだろう。 恥ずかしそうに身をよじり、眉をひそめ、しかし、ほてる頬そのままに、柔らかく瞼をあげて彼を見上げた。 真澄は自分で言いだしたくせに、自分の中の温度計が一気に最高峰へ登りつめるのを感じる。 「いや。君が眠いなら……もちろん、無理にとは言わないが」 マヤが彼の首にそっと腕をからめた。 「連れていって、くれる?」 頬に、熱い頬が寄せられたから、彼は思わず大きくひとつ、息をついてしまう。 「う……む」 ちょっとでも呼吸をすると、甘い彼女の肌の薫りが一杯に鼻孔をふたぐ。 大事な人形でも抱くように腕に抱え上げ、青い下着姿の彼女を浴室へと運ぶ。 脱衣所は、さすがにスィート、二人一緒に入ってもまだ余裕が十分にある。自分も服を脱ごうと彼女を大理石の洗面台の上に下ろすと、彼は今度は自分のシャツのボタンを外し始める。 風呂に入る前に起こしてやればいいかと思うが、鏡と身をよせあった無防備な下着姿の彼女が、ひどく色っぽいような気がして、彼はガラでもなく頬を赤くして、慌てて目を逸らしていた。 そういえば、彼女が案外、女らしい体つきではないか。 思っていたより遙かに胸も大きく、腰はくびれて柔らかい曲線を描き、華奢に伸びた脚に続いている。 彼は自分も服を脱ぎ終えて、ゆっくりと洗面台の上の彼女を振り返った。 くったり垂れた脚……その小さな指先ひとつひとつが、今はほんのりピンク色に火照っている。 胸にそっと腕をまわすようにして、ブラジャーの背中のホックをはじいた。 肩からひもを愛撫するように降ろし、華奢な下着を彼女が座る洗面台の反対側に放ると、次に腰を覆う、より儚い絹地に手をかける。 「ン……」 マヤが小さく声をあげて、彼の肩に身を寄せた。 熱い肌が彼の皮膚を焼く。 彼女の肌と自分の腕の対比を見て、彼はその白さに目を驚かされる。 陶磁器のような、優しい白。純粋で、尖りのない、包み込むような白い肌。 する、と下着を剥ぐと、腰から太股までの誘惑のまろみに何の違和感もなく手のひらを滑らせることが出来る。 彼は掌に残った薄い布を、やはり洗面の反対側において、彼女を再び抱き上げた。 風呂場に脚を踏み入れ、彼は空っぽの浴槽にハッとした。 それは、そうだ。 先に水をはっておかねば、勝手に風呂など沸くわけがない。 そんな簡単なことに気付いていなかった自分に愕然として立ちつくす。いつまでも動かない彼に、マヤがいぶかしんで、どうしたの?と首を傾け、真澄の視線の先にある空っぽの浴槽を見て、大きな目を見開き、それから数度、瞼を開いたり、閉じたりした。 「お風呂。お水、いれなきゃ」 ぽつりと言ったマヤの声が、なんとなくひどく間抜けに思えて、 「……あぁ」 彼は返事の声が、どうも笑ってしまうのを、我ながらこれまた平和な風に感じていた。 彼の声のゆるみが彼女にも伝わったのか、軽く噴きだして彼の頬に額を寄せ、マヤはくすくす笑い出す。 少しだけでも眠ったからだろう、ちょっと酔いが醒めてきたらしい。 「いいや。入りながら、お湯、いれちゃおう」 彼も笑いをかみ殺しながらだが、ちょっと驚いたように彼女を見る。 「入りながらか?」 「ウン」 マヤがさらにくすくす笑い出す。 細かいタイルでモザイクの描かれたこの風呂場にこだまする彼女の笑い声を、安らいだ気持ちで聞きながら、彼は空っぽの浴槽に彼女を降ろす。 「つめたい」 小さく笑い声をあげる彼女に、 「暖める」 彼は湯船の温度に目を走らせ、蛇口をひねりながら、くちづけた。 マヤの肩の上に湯の注ぎ口は、湯船に埋め込まれた形であったらしい。 あまり熱くない湯が、彼女の体を伝って湯船の中を満たし始める。 彼女の体を伝う湯は、彼女の腰を抱く彼の腕をも濡らす。彼を見つめるマヤの視線に促されるように彼も湯船に体を入れた。二人並んで入れるだけの大きさはさすがにない。彼はマヤを自分の膝のうえに斜めに抱き、その頬を覆い、後ろから彼女にくちづけた。湯は見る間にたまって、彼らのみぞおちあたりまで満たし始めている。 だが、彼は、くりかえし絡めるマヤの舌の、甘い酒の味にもう一度、酔い心地だ。風呂に入るという本来の目的などもう忘れてしまっている。 困ったものだ。 「……君はやっぱりあまり飲まないほうがいい」 彼が唇を離してから、じっくり考えたように言うと、意外にもマヤは憮然とした顔になった。 「どうして?弱いから?」 率直に聞かれて、ありのままに応えるのもどうかと思われたので、ちょっとたしなめるように彼女を覗き込む。 「オレとだからいいが、他の男と飲んで倒れたら大変だぞ」 マヤが彼を見上げて、少し哀しげな顔をしたから、真澄は首を傾げた。 そんなに落胆するほど、酒が好きなようには見えないのだが。 「何回、誕生日が来ても、いつまでたっても、あなたとの年の差が縮まンないのは、本当にあたりまえなのかなぁ?」 ふわと、目を細め、マヤはホゥと頼りない吐息をついた。 彼女はいつも、彼の考えもつかないようなことをいう。 体の切迫はいささか切実で、できればこのまま共に湯船に入り、彼女のあちこちを探り始めたかった彼だったが、それでも目を丸くしてしまった。 マヤは彼の顔を見て、ちょっと苦笑いのような顔になる。 「もっとオトナになって、あなたの隣にいて、あなたが他の人にもっと自慢できるような奥さんになれないかなぁ」 透き通った薄い茶色の瞳。 彼は目を細めて、彼女を見つめた。うっすらと上気した肌。彼をまっすぐに見つめる瞳。 どうしてだろう、誰の目に映るときにも、この瞳ほどに、自分が自分として映ることはない。そのことに、彼はいつも浅い驚きさえ感じるのだ。 ときには鏡を見たときでさえ。 彼を、彼としてそのままに映すのは、この、瞳だ。 「きみはそのままでいい」 彼は彼女の眉に唇を触れさせ、そのまま、呟いた。 「ン、」 「君は……ずっとそのままでいてくれ」 望みはつい、祈りのような響きを帯びる。 あまりに幸せな時間だから。 もしかしたら、明日、世界は滅んでしまう運命ではないのかとさえ思えて。そんな馬鹿げた不安も、どこか笑うことがでいないで噛みしめさえしてしまう。 愛おしいと思う。それは、彼女のすべてだ。 その魂のありようから、指先の形まで、奥深いものから、それに追随して生まれてくるものすべて。 それらのもの、すべてが愛おしい。 「マヤ?」 が、体の下にある彼女から、先ほどまでとはちょっと違う沈黙がかえってきたので、真澄は戸惑ったように彼女を見下ろしなおした。 そしてそこで大きく目を見開き、愕然とした顔になる。 おそらくは湯を浴び、おもいのほか心地よく暖められたせいなのだろうが…… 彼の腕に頬を預け、ほっとりと淡く色づく瞼をおとし、彼女は安らかな寝息をたてていた。 微睡みというものではない。 すっかり熟睡しているようである。 彼とこんな恰好でともに湯船につかっているというのに。 確かに酒のせいもあるのであろうが、よくも、まぁ。 呆れるというよりもはや……いや、言葉もない。 また、こうなってしまった彼女を起こしてまであれこれできるような自分でないことは、それこそ呪わしいほどの気持ちであるが、わかってしまっている。 だが、しかし、いくらなんでもこれは……… 真澄は絶望的な気分で、食わされたあまりに大きなおあずけに、やるせなく額を覆い、天井を仰いで、誰へともない暗い痛恨の唸り声をあげずにはいられなかった。 終わり |
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